快晴だと否応なく気温も上昇するので、少し雲が残っていればと思っていたが、前日の雨が嘘のようなピーカンだった。
 暑さは感じない身体だから平気だろうと思われがちだが、あまりの高温だと人形の品質が劣化するらしいのだ。パーツ代も馬鹿にならない。
 とはいえ、今日行く場所を考えると、うってつけの天気ではある。
 
 弟は朝早くから野球部の練習に行く。家にいると、嫌でも母親と顔を合わせることになるので、大抵、母が起きるより前に、僕も家を出る。今日も朝の八時には家を出ようと思っていたのだが。

「廉」
 玄関で靴を履いていると、背後から母親に呼び止められた。
「どこに行くの?」
「……図書館だよ」
「そう、気を付けてね」
 僕は扉を閉めて、図書館とは真逆の方向へ歩き始める。
 
 鳥のさえずりと、時折吹く風で木々が静かに揺れる音が心地よい。
 食事を摂らなくなってから、二人との会話は明確に減り、必要最低限の会話しかしないようになった。弟はさておき、母には申し訳ないと思いつつも、今更何を話したら良いのかも分からず、気まずい思いをしたくないという気持ちが強かった。
 
 集合場所の公園に到着したのは、集合時間よりも三十分くらい早かった。
 適当にぶらぶら歩いていると、テニスボールが落ちているのを見つけた。
 軽くストレッチをした後、壁に向かって歩き、壁に足の踵をつけ、垂直に十八歩と少し歩いたところで、壁に向き直る。かつて何度も繰り返した、一連の流れだ。
 天を見上げ、ふーっと息を吐き、僕は振りかぶってボールを投げた。

 しかし、ボールは壁の遥か手前で落下した。
「……ダメか」
 人形では本来の運動能力を再現することは、まだ難しいとされている。だから、まともにボールが飛ばないのは当たり前の話なのだが、僕は自分が少し落胆しているのを自覚する。
 
 ボールを投げるのをやめた僕は、近くのベンチに座り、ぼーっと空を見上げた。
 こんなふうな休日を過ごすのも、久しぶりな気がする。野球をやめてからというもの、膨大な時間を持て余しており、だいたいふらふらと外出しては、物思いに耽っていた。とはいえ、それは特にすることがないからそうしていただけで、そんな時に頭に浮かんで来ることなんて、碌なものじゃない。 
 
「おまたせ」 
 背後からの声に振り返ると、舞が立っていた。
「早いな。まだ待ち合わせの二十分前なのに」
「楽しみで早起きしちゃったからね。廉こそ、いつ来たの?」
「舞が来る十分くらい前かな」
「やっぱり、野球に未練があるんじゃない?」
 僕が怪訝な顔で彼女を見ると、僕の投球フォームを真似していた。
「見てたのか」
「へへ」
「……別に未練があるわけじゃない。たまたまボールが落ちてたから、舞が来るまでの暇つぶしで投げていただけだよ」
「だとしても、野球が嫌いになったわけじゃないんだね」
「……」
 否定は、できなかった。
 僕は黙ったまま、ボールを元の場所に戻し、「行くよ」と彼女を促した。

 考えた結果、小学生の時に過ごしていた場所を回ることにした。
 実は、雫に断られた後、電話で修一も誘ってみたのだが、雫と同じように断られてしまった。
 曰く、せっかくのデートを邪魔するような真似はできないのだそうだ。
「というか、舞が目覚めたこと、お前も知ってたんだろ? なんで教えてくれなかったんだよ」
「え? 舞に口止めされてたから」
 あっけらかんとした口調で、「まぁ、楽しんで来いよ」と送り出されてしまった。
 全く余計な気遣いだ。むしろ気遣えていないとまで言うべきか。
 
 公園を出てからしばらくは、田園風景が広がっている。青い稲で一面が埋め尽くされる光景は壮観で、これを見られるのは田舎の素晴らしいところだと言う人もいるけれど、そこに住んでいる人たちからすれば、ただの見慣れた景色に過ぎない。
「なんか、こうやって君と二人で散歩するのも、久しぶり過ぎて緊張するよ」
「そう? 私にとっては、ついこの間のことのように感じるけど」
「そもそも、意識を失ってる時って、どんな感覚なんだ?」
 舞は顎に手を当てて眉間にしわを寄せる。
「んー、説明するのは難しいんだけど……。まぁ、寝てるような感じなのかなぁ」
「へぇ」
「ていうか、なんでそんなよそよそしい感じなのよ」
 舞はそう言って、僕の方に身体を寄せる。

「ちょ、ちょっと、近いって」
 慌てる僕の様子を見て、彼女は嬉しそうににやける。
「ねぇ、なんでよ」
「なんていうか、緊張するんだよ」
「緊張?」
「……正直、こうやって話をすることは、もうできないんじゃないかと思っていたし」
 その言葉に、舞は笑顔で僕の顔を覗き込む。
「嬉しい?」
「……そんな当たり前のこと、聞くなよ」
 気恥ずかしさから、そっぽを向きながら答えると、舞は楽しそうに「ふふっ」と笑った。
 彼女のそんな表情を見ると、僕まで内心嬉しくなる。

 田んぼと畑の道を通り過ぎ、しばらく道なりを行くと、河川敷が見えてきた。
「あんまり、変わってないね」
「田舎なんて、そんなもんだろう。期待してたなら残念だったな。ほら、あそこのグラウンド」
 河川敷沿いのグラウンドを指さす。
「あそこでよく野球の練習や試合をやってただろ。覚えてる?」
「うん。それは覚えてる」
 そう言って、彼女はグラウンドの方へ降りて行った。
 遠くの方の空で、横に雲が広がっていた。その雲の隙間から、後光のように太陽の光が差している。
「休憩中、よく水切りとかやって遊んでたよな」
 僕が投げた石は、そのままポチャンと水に沈む。石が落ちた場所から波紋が広がっていく。
「相変わらず下手だね」
「うるさい、人形のせいだよ。舞も投げてみなよ」
 その様子を見た後、今度は舞が石を投げる。石は僕の石より少し遠くに、跳ねずに落ちる。
「あれ、前は上手かったのに」
「久しぶりだしねー。やっぱブランクあるよ」
 舞はあっけらかんとした様子で言った。
「少し休憩しよう」
「そうだね」
 ふーっと息を吐いて、彼女はその場に座り込んだ。

「ほら」
 僕は近くの自動販売機でミネラルウォーターを購入し、彼女へ渡した。
「ありがと」
 彼女は受け取ったが、すぐに水を飲もうとはしなかった。
「体調は、本当に大丈夫なのか」
 少し心配になって問いかけたが、彼女は元気そうに頷く。
「うん、問題ないよ。心配してくれて、ありがとうね」
 太陽が雲に隠れているおかげで、日照りよりは大分楽だろうが、それでも気温は高い。
「きつくなったら言ってくれよ」
「分かった」
「ここは大丈夫みたいだな。じゃあ次の場所だ」
「うん」

 僕たちは、川に沿って歩く。
「それにしても、目覚めてから一か月で、よくここまで回復したよな」
「リハビリ頑張ったからね。廉こそ、『人形』使ってるんだよね。あれって、動かせるようになるまで、結構練習が必要なんでしょう? どのくらい時間がかかったの?」
「大体、二、三か月くらいかな」
 自分が初めて人形を動かせるようになった時、大して感動しなかったのを覚えている。それより、もうこれ以上、もどかしい思いをせずに済むのだという安堵の方が大きかった。
「よく投げ出さずに続けられたね」
「他にやることが無かったからな。何の感情も抱かずに、義務感だけで続けていた」
 だから、何とも思わなかった。
 サンプルこそ少ないが、それでも初めて人形を動かせるようになるまでの日数の平均値は算出されている。
 早い人間で、大体三日で、手のひらを閉じたり開いたりくらいのことはできるようになる。このケースは、最初の日にどこかしら動かせるようになることが多く、起き上がって一人で歩けるようになるまで、大体一ヶ月といったところだ。
 遅い人間だと、手のひらが一週間くらいかかる。また、その後、何度も苦戦するため、起き上がって歩けるようになるまで早くて二ヶ月、場合によっては三ヶ月以上の時間を要する。

 しばらく歩いて行くと、僕たちの母校が見えてきた。
 五年ぶりの小学校は、外観だけで言えば、依然とさほど変わっていないように見えた。
「小学校での記憶は?」
「んー、どうだろ。行事とかは覚えてるかな。あと、四人で遊んでいたこととかは、割と覚えてるかも」
「少なくとも、事故の影響はあまり受けていなさそうだな。僕も実際、五年前の記憶なんて、細かいところまでは覚えているわけじゃないし」
 そう言いながら、僕は自分の記憶を掘り起こそうと模索する。実を言うと、比較的思い出せることが多いことに気づいたが、それは引き籠っていた中学時代の思い出が無さすぎることの裏返しであるということであり、そのことに言及したくなかった。

「僕も卒業以来なんだよな」
「そうなの?」
「だって、来る用事もないしさ」
「野球の少年団に顔を出したりしなかったの?」
「修一は、そういうことをやっていたみたいだけどな。じゃあ、中に入ろう」
「え、入れるの?」
「夏休みだし、先生以外誰もいないだろ。それに、許可も取ったから、大丈夫」
 門から入って、校庭をぶらぶらと歩いていると、ここで走り回っていた日々の記憶が、一気に呼び起こされる。
「休み時間遊んでた時のこととか、覚えてる?」
「うん。鬼ごっことか、よくやって遊んでいたよね」
 僕たちがよくやっていたのは、鬼ごっこというか、かくれんぼに近い遊びだ。校庭は広く、小山や校舎裏、あるいはプール裏など、隠れる場所がたくさんある。
 
 しかし、よくこんな三十分しかない休み時間で、外に出て走り回って遊ぼうと思えたな。当時のバイタリティーに感服する。
 あの頃は、漠然と、自分がいつまでも小学生のままなのではないかと思っていた。一日は色濃く毎日が楽しいことの連続で、あっという間だが、一年が経過しても学年が上がるだけで、また小学生として次の年度が始まる。当たり前のように、皆で明日を迎えられると、そう信じていた。
 
 校庭を一回りした後、昇降口から校舎に入った。廊下を歩いて、自分たちが過ごした教室を巡って歩いていると、六年の時の教室の真ん中に、女の子がポツンと一人で座っているのが見えた。
 おかしいな。誰もいないはずなのに。
 僕はその女の子の方へ歩き、隣の席に腰掛けた。
 彼女は僕に気づくと、黒板の上の方を指差した。差された方を見ると、針は一時を差している。
 次の瞬間、彼女は、パァ、と笑顔の花を咲かせて、走って教室から出て行った。
「ちょ、ちょっと!」
 僕も教室を出て、下駄箱がある昇降口へと向かった。

 校内は、シンと静まり返っている。誰もいない学校なんて、少し恐ろしい場所のような気もする。所々、日差しが入って明るいのが、返って不気味な感じだ。
 そんなことを思いながら歩き続けると、昇降口が見えてきた。
 名前の書かれていない空の下駄箱が並んでいた。これでは、自分の下駄箱がどれか分からない。
その時、一つだけ上履きが置かれた下駄箱を見つけた。そこだけ、白鷺舞と名前が書かれていた。どうやら、既に校庭へ出たらしい。
 五十音順なので、彼女の少し後の方を探すと、自分の名前が書かれた下駄箱があり、スニーカーが入っていた。
 スニーカーに履き替え、外に出る。空は雲一つない、いい天気だった。
 校庭に出たが、案の定、彼女は見える範囲にはいなかった。
 どういうことなのだろう。彼女はどこへ行ったのだろうか。
 その時、僕は、彼女が時計を指差した意味を理解した。
「そうか。お昼休みだ」
 もしかして、かくれんぼのつもりなのだろうか。
 それならば、と、僕は自分が小学生の時、一番よく使っていた、小山の方へ向かうが、そこに彼女はいなかった。
 続いて、校舎の裏側を探しに向かうだが、校舎裏にも、彼女はいない。そろそろ、最初に隠れた場所から、僕の様子を伺うために、移動しているかもしれない。案外、もう一度小山に行けば、見つかるかも。いや、でもここからならプール裏の方が近い。最初からプール裏にいて動いていなかった場合、大幅なタイムロスになる。
 見つからなかったら、どうなるんだろう。漠然と、不安な気持ちになる。別にここでの結果が、何かに結びつくわけでもないだろうに。
 じっとしていても仕方ないと、プール裏へ向かったが、またしても彼女はいなかった。
「どこに隠れたんだ……」
 途方に暮れた僕は、過去に彼女とやったかくれんぼの時のことを思い出していた。
 何度もやったかくれんぼ。その中で、どうしても見つからなかったとき、確か……。
「あ」
 確か、あの日もこんな感じの雲一つ無い、いい天気の日だった。
 一つの可能性に思い当たった僕は、踵を返した。

「やっぱり、ここだったか」
 最初に僕が立っていた教室。そこに戻ると、彼女は平然とした顔で机に腰掛けていた。
「あの時も、同じことをしていただろう。校外に出ていたらどうしようかとは思ったけど」
 そう言うと、彼女はふふっと笑う。
 僕は、改めて二人以外は誰もいない教室を見渡す。後ろの壁には各人の荷物を入れるロッカーがあり、その上の壁には、クラス全員の習字の紙が飾られている。
 その時、急に景色が揺らぎ始め、僕は思わず座り込んだ。どこからともなく現れた闇が、周囲を、そして彼女を包み込んでいく。
 いやだ。この場所から、離れたくない。
 薄れゆく意識の中で、最後に彼女が何か、言っていたように見えた–––––。



「……ん! ……廉!」
「え……」
 目の前には、舞が心配そうな顔でのぞき込んでいた。
「あれ……。僕、確か……小学校行って、校庭に出て……それから——」
「教室に入ってから、急にぼーっとし始めたの。救急車呼ぼうか迷ったわよ」
 僕は、自分の手をのぞき込む。
「ごめん。なにか、夢を、見ていた」
「夢?」
 さっき見た夢が、脳内で鮮明に再生される。
 舞が目を覚ましてからは、この手の夢を見ることは無くなると思っていたのに。
 
 あれは、確かに小学生の時の舞だった。
 意識が戻る直前、彼女は何を言っていたんだろう。
 
 
 
 寂れた団地が並んでいる。その隙間から堤防が見え、そしてその堤防の向こうには、海が広がっている。
「おぉー! 海―!」
 舞は叫びながら、海に向かって走っていった。
「転ぶなよー」
 僕はそう言って、苦笑する。
「ひゃー! 冷たい!」
 舞は服が濡れることなんてお構いなしに、波で遊んでいる。
 小学校から、徒歩十分くらいで来ることができる海岸。当時は、学校が終わると、その足でこの海に遊びに来たものだ。
 服を砂だらけにして家に帰り、母に怒られたのも、今となっては懐かしい思い出だ。
 靴を脱ぎ、波打ち際に沿って裸足で歩いていると、海岸の砂がやけに足に馴染む気がして、僕は何だか歓迎されているような気分になった。
「鳥になりたいなー」
 舞は広大な海を見つめて言う。
「鳥になったら、泳げないぞ」
「じゃあいいや」
 いいんかい。
「ねぇ、団地に入ってみようよ」
 彼女は団地の方を指さしながら、言った。
「確かあそこ、今は立ち入り禁止だったはずだけど」
「大丈夫よ。それに、高いところから見た方が、沈んでゆく夕日が綺麗に見えるでしょ」
 そう言って、舞は自然と僕の手を引いた。
 あの頃も、こうやって舞に手を引かれていた。彼女にとっては、何気ない行為だったのかもしれない。その手にどれだけ僕が救われていたか、恐らく彼女は知らないだろう。
 その手を強く握り返す勇気は、僕にはなかった。

 日が傾いてきたころ、僕たちは団地にたどり着いた。
 その団地は、確かある会社の社宅だったはずだ。かつて舞が住んでおり、僕もよくここで遊んでいた。ただ、彼女が意識を失ってからは、一度も来ていなかった。
 舞が引っ越した後、まもなくその会社が倒産した。団地は取り壊されているかもしれないと思ったが、そのままの状態で残されていることに、どこか安堵している自分がいる。
 
 僕たちは、五階建ての団地に入った。
「懐かしいな。よくここで鬼ごっことかして遊んでたよな」
「うん、それは覚えてる」
 階段を上り、踊り場から海を眺めると、どことなく地球が丸いのが分かる気がする。
「あ、あそこの灯台があるところ。二人で一緒に遊んでた時、あそこのテトラポットで舞が転んで大泣きしたこと、覚えてる?」
「……そんなこと、あったっけ」
「あれ、それは覚えてないのか。その時、確か腕に傷が出来ちゃってさ」
 僕は舞の手をとり、腕を見てみた。
 だが、傷の痕は見当たらなかった。
「たぶん、もう何年も前の傷だから、自然と消えちゃったんだよ」
「そうなのかな」
 痕が残るような傷だと思っていたのだが、思い過ごしだったのだろうか。 

「それよりさ……廉は元の身体には戻らないの?」
 その質問を、含み無く、純粋な疑問として投げかけられるのは、彼女だけだろう。
 修一も雫も、親さえも。その質問を僕にしてきたことは、一度もなかった。
「もしかしたらさ、僕は君が意識を失っていなかったとしても、こうやって自分の殻に閉じこもっていたのかもしれないと思うんだよ。多分、辛いことに対する耐性がないんだ。一番可能性があるのは、やっぱり翔の台頭かな。自分の弟が自分より優れた才能を持っているってことは、僕にとって受け入れられない事実だったと思う。あのまま全力で野球に取り組み続けて、いつか抜かれる日が来たら、僕はその事実から目を背けることに必死になっていただろうと思うよ」
 瞼の裏には、南高相手に果敢にボールを投げていた翔の姿が焼き付いている。
「君が意識を取り戻したことで、僕は不貞腐れている大義名分を失ったわけだ。でも、怖いんだよ。元の身体に戻るのが」
「怖い?」
「あの頃は、まるで自分が自分じゃないみたいだった。支離滅裂で、自暴自棄で、何を食べても吐き散らす。自分を傷つけたいという欲求が抑えられない」
 自分の身体に戻ることで、そんな自分に戻ってしまうかもしれない。そう思わずにはいられない。
「焦る必要は無い。でも、私は、廉に元の体に戻ってほしいと思うよ」
 舞は少しの沈黙の後、真剣な表情で言った。
「大袈裟な決意なんて、必要ないんだよ。試しにちょっと戻ってみようかなーとか、そのくらい気楽な心持ちでさ」
「簡単にそう思えたら、苦労しないんだけどな」
 その場では、そうやって、誤魔化すことしかできなかった。

 それから、僕と舞は、黙って海に沈みゆく夕日を眺め続けた。
 あの頃も、同じようにこの場所から夕日を眺めていたことを思い出す。歳を重ねて、背格好が変わった僕たちと違って、月日を経ても、あの夕日は何も変わっておらず、あの時と同じ景色を見せてくれる。胸にじんわりと温かいものが広がっていった。
 不思議だ。人形を使うようになってから、心を動かされることは無いと思っていたのに。
 彼女といると、様々な感情が生み出され、伝達される。
 ふと、さっき見た夢が、脳内で鮮明に再生された。あれは、間違いなく、小学生の舞の姿だった。意識が戻る直前、幼い姿をした舞は、何を言っていたんだろう。
 
 その時、舞の髪に砂がついているのに気づいた。
僕は手を伸ばし、砂を払おうとした。だが、しばらく逡巡した後にその手を引っ込めた。そして、代わりに自動販売機で買って、結局舞が飲まなかった水を口に含んだ。人形の中にたまるだけなので、後で捨てなきゃなと思いつつ、胸につかえる、まだ形になっていない『何か』を流し込んだ。
 
 流石に疲れたのか、舞は帰り道でほとんど喋らなかった。
 最寄り駅まで来たところで、僕は彼女に尋ねた。
「本当に、ここでいいのか?」
「うん、迎えは呼んであるから。早く帰らないと、お父さんと鉢合わせしちゃうよ?」
 舞はいたずらっ子のような笑みを浮かべる。
 彼女のお父さんとは、あまり話したことが無い。外見はいかにも昔ながらの寡黙で厳しい父親という感じで、一人娘である舞にも厳しいのだという話を、舞が小学生の時に愚痴を言っているのを聞いたことがある。
「それは……確かに少し嫌だな」
「女の子の友達と遊んでることになってるからね」
「よし。帰ろう」
 いそいそと身支度を整える僕を見て、舞はクスクスと笑う。
「じゃあ、また」
「うん。またね」