夏休みになった。部活もバイトもやっておらず、遊ぶ相手もいない僕にとっては、退屈な日々が続いていた。
その日の夕方、一本の電話の音が家に鳴り響いた。いつもは母が電話をとるのだが、その日は仕事に出ており、また、弟も部活の練習に行っていて、家には僕以外誰もいなかった。
部屋で本を読んでいた僕は、いつも通り無視をするつもりでいた。だが、電話の音は切れずに鳴り続けた。
いい加減諦めろよと、思いかけた矢先、留守番電話に切り替わった。
『もしもし』
世界が、静止した。
その留守電の声を聞いた瞬間、僕の手は反射的に受話器を取っていた。
時間が経っているのだ。確かに、声は以前とは少し違っていた。だが、ずっと待ち望んでいたはずの声の主を、僕は直感的に理解した。
「舞……なのか?」
震える声で、電話の主に尋ねる。声が聞こえるまでの時間が、とても長く感じられた。
『うん。声変わったね、廉』
ここにあるはずの無い心臓の鼓動が、ドクンと、聞こえたような気がした。
何を言えばいいのか、分からない。言葉が何も出てこない。
『もしもし? 聴こえてる?』
「あ、ああ、聴こえてる。……ごめん、びっくりしてさ」
『何それ』
クスクスと笑う声が聴こえる。耳元がくすぐったくて、胸が締め付けられる。
「意識が、戻ったのか」
『うん。それでさ、暇だったら今から会わない?』
僕は、二つ返事で彼女の申し出を承諾した。
『じゃあ四時に、昔よく遊んだ公園で』
電話が切れた。
どれくらいの時間か分からないくらい、僕は受話器を持ったままその場に立ち尽くしていた。
舞が意識を取り戻したという事実が、信じられない。最近よく見る変な夢の中なんじゃないか。
どんな顔をして会えばいいんだろう。何を話せばいいんだろう。
時計を見ると、約束の四時まで一時間を切っていた。僕は整理できていないぐちゃぐちゃの頭のまま、服を着替え始めた。
約束の時間の三十分前には、僕は公園を訪れていた。近くのベンチにでも座って待とうかと、腰かける場所を探していると、すでに先客がいた。
あの頃とは、体格が違っているが、同年代の女の子にしては、身長は低い。
肩より少し長いくらいのセミロングの黒髪。童顔に長いまつげ、そして、まるで作り物のように美しい線対称の顔のパーツは、幼い頃と同じだった。
「あ、廉!」
その声は、先ほど電話で聞いた声と同じものだった。
彼女に駆け寄ろうとするが、足が動かない。
「どうしたの? 固まっちゃって」
「……なんか、未だに現実感がないっていうか」
待ち望んでいたことのはずなのに、現実が脳のキャパシティを超えていて、上手く喜べない。
「……本当に、回復したんだな。舞」
「うん。まだ万全ってわけじゃないんだけどさ」
「そうか……よかった。よかったよ、本当によかった」
その瞬間、全身から力が抜けて、僕は膝から崩れ落ちた。
「ちょっと、大丈夫?」
膝が笑って立つことが出来ない。
いつか、こんな日が来てくれることを、ずっと夢見てきた。舞が目を覚ます日を、僕は誰より待ち望んでいたんだ。
「僕は……もう君が目を覚まさないんじゃ無いかと……」
舞は「えへへ」と照れたように笑う。
「私にとっては、つい昨日のことのようなんだけどね」
少し遠くの方を見つめながら、舞は呟く。
その言葉で、僕はあの祭りの日のことを鮮明に思い出す。
そうだ、言わなければいけない。
僕は、ぐっと拳を握りしめ、顔を上げた。
「舞」
「ん?」
僕は、深々と頭を下げ、言った。
「本当に、ごめん。あの日、待ち合わせに行ったとき、僕は—」
「謝らなくていいよ。廉は悪くないから」
彼女は僕の言葉を遮り、笑顔でそう言った。
たったその言葉で。あの日から、僕の中にあった胸のつかえが、ゆるやかに解けて無くなっていく。
「……そうだ。いったい、いつ目が覚めたんだ?」
「んー、一か月くらい前かな」
「一か月⁉ どうして、目が覚めてすぐに連絡してくれなかったんだよ」
僕は驚いて、思わず大きな声で反応した。
彼女は少し困ったような、申し訳なさそうな顔をして言った。
「やっぱり、ちゃんと回復してから会いたいなと思って。起きてすぐは、少し記憶が混乱していたの」
「記憶?」
「うん。今も少し、記憶が曖昧なところがあるし、思い出せないことがいくつかあるの」
そう言って、舞は、僕の方へ向き直る。
「こっちからも、質問していい?」
「あ、ああ。いいよ。何でも聞いてくれ」
「雫に聞いたんだけど……『人形』っていうのを使ってるって」
先に雫と会っていたのかと、僕は少し嫉妬する。
「……まあ、そうだよ」
「それって、やっぱり私が原因だよね」
僕は、咄嗟に「違う!」と否定する。
「……君は、悪くないよ。なんていうか、僕の自業自得みたいなもんだ」
「でも……」
「さっき、僕の謝罪を遮っただろ。お互い様さ。それより、ほら、退院したのなら、退院祝いをやろう。修一と、雫も呼んでさ」
この会話は続けたくない。
僕は、無理やり話を逸らそうとした。
「うーん、気持ちはありがたいけど、遠慮しとく。修一も廉も、野球部の活動で忙しいでしょ?」
ぐっ、と言葉に詰まる。
「いや……僕は–––」
「どうしたの?」
「野球部には……入ってない。野球は、辞めたんだ」
自分の口から出てくる声は、とても弱弱しい。
「どうして? あれだけ一生懸命やっていたのに。少年団の練習が休みの日でも、グラウンドに行って自主的に練習までしていたじゃない」
少し悲しそうな表情でそう言う彼女を見て、僕はより一層後ろめたい気持ちになった。
「……別に大した理由なんてないよ。どんなに頑張ったって、プロになって飯食えるわけじゃないしな。将来を考えた時、こうやって勉強に時間を使う方が賢いだろうなと思っただけさ」
作り笑いで誤魔化しながら、彼女にそう告げる。
「ていうか、入院してた病院って、確かだいぶ遠い場所だったはずだろ。どうやってここに来たんだ? それに、病院から出て大丈夫なのか?」
「うん。というか、回復してきたから、退院したの。さっき、記憶が曖昧って言ったでしょ?記憶を呼び起こす鍵はこっちにあると思うから、またこっちに戻ってきたの。今はおばあちゃんの家に泊めてもらってる。あ、でも、そろそろ戻らないと」
「そうなのか。じゃあ、送るよ」
「大丈夫よ。あ、ちょっと待って」
そう言って、彼女は携帯電話を取り出して見せた。
「私の携帯番号。何かあったら、連絡して。じゃあ、またね」
舞は踵を返して帰ろうとした。
「あ、ちょっと待った!」
「何?」
何を言うか決めないまま、彼女を呼び止めてしまった。
「えっと……ほら、記憶が一部欠けてるって言ってただろ。なら、今度の日曜、昔一緒に過ごした場所を巡らないか? 何か、思い出せるかもしれないだろ?」
「……そうね。うん、じゃあ、また来週ね」
彼女は、そう言い残して、走り去っていってしまった。
僕は、呆然と彼女の後姿を見送りながら、起きた時のショックで絶望してしまわないように、また意識が飛んで変な夢を見ているだけかもしれないと、何度も自分に言い聞かせていた。
舞と別れた後、ふらふらとした足取りで立ち寄っていたのは、病院だった。
気づくと、僕はベッドに横たわる、ガリガリに痩せ細った自分の姿を見つめていた。
これだけ時間が経過しても、意識が覚醒しないところを見ると、どうやらこれは現実のことらしかった。
嬉しいはずなのに、どこか焦りにも似たもどかしさが、胸の内に広がっていく。
舞が意識を取り戻すことを、僕はずっと望み続けていたはずだった。しかし、彼女が意識を失ってから一年、二年と月日が経過していくとともに、それは実現することの叶わない望みなのでは無いかと少しずつ思い始めていた。
防衛本能というやつだろうか。期待して絶望するくらいなら、鼻から何も期待しない方がいいという。
だが、彼女は目を覚ました。第三者の目から見て、僕はもう、同情される対象じゃない。
人形を使い続ける理由が、無い。
その時、不意に、コンコンと扉をノックする音が聴こえた。「どうぞ」と言うと、扉が開いた。
立っていたのは、雫だった。
「……雫か」
「うん。入ってもいい?」
僕は何も言わなかった。無言を是認と解釈したのか、雫は恐る恐るという感じで部屋に入り、側にあった椅子にちょこんと腰掛けた。
この間のことがあったので、僕は何を言ったらいいのか分からず、暫く無言の時間が流れた。
一人の時は何も思わなかったのに、自分の身体をただ見つめるという行為が、急に恥ずかしいことのように思えてくる。
「廉のお母さんから、まだ廉が帰ってきてないんだけど、知らないかって」
「わざわざ、君に電話したのか。迷惑かけたな」
「あんまり、心配かけちゃダメだよ」
「分かってるよ」
よかった。この間のことで、雫がまだ怒っているんじゃないかと思っていたが、そういうわけでもなさそうだ。普通に会話することができて、僕はホッとしていた。
それにしても、まだ七時も回ってないのに、家に帰ってこないことを心配されるって。僕は小学生か。
少し気持ちが楽になって、僕は今日初めて雫をまともに見た。
また白のTシャツに、今度は黒のスキニー。
「……前にも思ったけど、もう少しおしゃれな格好でもしたら?」
「私には、合わないから」
「そんなの、着てみなければ分からないだろ」
「分かるよ」
「……何ていうか、僕が言いたいのは、そういうことではなくてだな」
端的な返答しかしない彼女に少し苛立ちながら、僕は続ける。
「僕のことなんて放っておいてさ、一度きりしかない青春を謳歌したらどうだってこと。同級生たちは、遊びに行ったり、部活やったり、バイトやったり、まぁ、勉強も青春の一ページと言えるかもしれないけど……とにかく、そういうことに時間を使うべきだ」
「それ、廉にも言えることだと思う」
「僕は……しょうがないだろ、こんな状態だし。雫は元気なんだから、僕に付き合う必要なんてない」
「私は、自分がしたいことをしているだけ。廉が言ったようなことを、別にそういうことをしたいとは思わない」
「あーそう」
相変わらず、感情の読めない表情を見せる奴だ。
「少し付き合って」
「わかったよ」
雫に連れられて向かった先は、休憩室だった。他には誰もおらず、しんと静まり返っている。
雫は、ソファに腰掛けた。長話をしたい気分ではなかったが、僕だけ立っているのもなんとなく違和感があると感じ、彼女に向かい合う形で腰掛け、話を切り出した。
「この間は、悪かったよ。ごめん」
「何が?」
「轢かれそうになった時、助けてくれただろ」
雫は思い出したように頷き、「別にいい。大したことじゃない」と表情を変えずにそう言
った。僕は少しほっとした。
だが、それとは別にもう一つ、雫に聞くことがある。
「舞が目を覚ましたこと、知ってたんだな。どうして、言ってくれなかったんだ?」
彼女は少し逡巡したのち、答えた。
「……廉にはまだ黙っておいてって、本人に言われたから」
「ふーん」
それでも、教えてくれたっていいのにと思っていると、雫はこくりと頷き言葉を続ける。
「舞が目を覚まして、廉は何を思ったの?」
「何をって……そりゃ嬉しかったよ。あとは、まぁ、ホッとしたかな。本当のこと言うと、もう二度と、目を醒さないんじゃないかと思っていたから」
それは、舞が意識を取り戻す以前は、口にすることを避けていた言葉だった。
「さっき、病室で、何してたの」
雫は問いかける。
「自分の姿を見ていただけだよ」
僕の返答が気に入らないのか、彼女は、何も言わず、じっと僕の方を見つめている。
僕は少しため息をついて、言った。
「分からなくなったんだよ。今更、どんな顔をして舞と接すればいいのか。舞が昏睡状態になったことで、僕は自分を責め続けてきた。その罪の重さに押し潰されそうだった。あいつが奇跡的に目覚めたからといって、僕の罪が消えるわけじゃない」
「でも……」
「分かってる。僕が自分を責めることを、あいつは望んでいない。立ち直るタイミングは、ここなんだ。ここを逃せば、多分ズルズルいってしまう」
そう。舞に対して申し訳ないという気持ちがあるなら、僕は今すぐ起き上がるべきなのだ。
何をするべきで、何をするべきでないのか。頭の中では、いつだって結論が先に出ている。
「でも、正直な話、心の準備が出来てなかったんだ。目覚める見込みがないって言われていて、僅かな希望が捨てられない僕は、それでも諦めかけていた。自分で自分のコントロールができなくなる感覚が、恐ろしいんだよ。人間の身体を使うのをやめた時、僕の中はぐちゃぐちゃだった。自分を傷つけたくて仕方なく、食事をすれば吐き、頭の中は後悔で埋め尽くされ、日常会話すらままならない。外に出るのが怖い。誰かと話をするのが怖い。人形を使っていると、そんな気持ちが薄れてくるんだ。自分の身体に戻ることで、そんな状態にまた戻ったらと思うと、怖くて仕方がない」
それは、僕がずっと胸の内に抱えていた、正直な想いだった。
自信を失った。逃げた自分を、僕は受け入れることができなかった。
雫は何も言わず黙ったままだ。
会話が止まると、雨が窓を叩く音がはっきりと聞こえる。その音を聞きながら、僕は昂った熱が引いていくのを感じていた。
よく考えてみれば、彼女が心配してくれた時は、「雫には関係ない」とか言っておいて、自分が吐き出したいときは何かフォローの言葉が欲しいなんて、あまりにも虫が良すぎるんじゃないだろうか。
「そ、そういえば、来週の日曜、舞と昔過ごした場所を巡ろうってことになったんだけどさ。雫も一緒に来ないか?」
恥ずかしくなった僕は、自分の世界に入っていたのを誤魔化すように、話題を変えた。
僕の提案に、彼女は首を横に振った。
「……遠慮しとく。その日は用事があるから」
「そっか」
断られたのが少し意外だったので、僕はそれとなく雫の表情を窺った。
彼女はいつもと変わらない表情で少し俯いていただけだった。
その日の夕方、一本の電話の音が家に鳴り響いた。いつもは母が電話をとるのだが、その日は仕事に出ており、また、弟も部活の練習に行っていて、家には僕以外誰もいなかった。
部屋で本を読んでいた僕は、いつも通り無視をするつもりでいた。だが、電話の音は切れずに鳴り続けた。
いい加減諦めろよと、思いかけた矢先、留守番電話に切り替わった。
『もしもし』
世界が、静止した。
その留守電の声を聞いた瞬間、僕の手は反射的に受話器を取っていた。
時間が経っているのだ。確かに、声は以前とは少し違っていた。だが、ずっと待ち望んでいたはずの声の主を、僕は直感的に理解した。
「舞……なのか?」
震える声で、電話の主に尋ねる。声が聞こえるまでの時間が、とても長く感じられた。
『うん。声変わったね、廉』
ここにあるはずの無い心臓の鼓動が、ドクンと、聞こえたような気がした。
何を言えばいいのか、分からない。言葉が何も出てこない。
『もしもし? 聴こえてる?』
「あ、ああ、聴こえてる。……ごめん、びっくりしてさ」
『何それ』
クスクスと笑う声が聴こえる。耳元がくすぐったくて、胸が締め付けられる。
「意識が、戻ったのか」
『うん。それでさ、暇だったら今から会わない?』
僕は、二つ返事で彼女の申し出を承諾した。
『じゃあ四時に、昔よく遊んだ公園で』
電話が切れた。
どれくらいの時間か分からないくらい、僕は受話器を持ったままその場に立ち尽くしていた。
舞が意識を取り戻したという事実が、信じられない。最近よく見る変な夢の中なんじゃないか。
どんな顔をして会えばいいんだろう。何を話せばいいんだろう。
時計を見ると、約束の四時まで一時間を切っていた。僕は整理できていないぐちゃぐちゃの頭のまま、服を着替え始めた。
約束の時間の三十分前には、僕は公園を訪れていた。近くのベンチにでも座って待とうかと、腰かける場所を探していると、すでに先客がいた。
あの頃とは、体格が違っているが、同年代の女の子にしては、身長は低い。
肩より少し長いくらいのセミロングの黒髪。童顔に長いまつげ、そして、まるで作り物のように美しい線対称の顔のパーツは、幼い頃と同じだった。
「あ、廉!」
その声は、先ほど電話で聞いた声と同じものだった。
彼女に駆け寄ろうとするが、足が動かない。
「どうしたの? 固まっちゃって」
「……なんか、未だに現実感がないっていうか」
待ち望んでいたことのはずなのに、現実が脳のキャパシティを超えていて、上手く喜べない。
「……本当に、回復したんだな。舞」
「うん。まだ万全ってわけじゃないんだけどさ」
「そうか……よかった。よかったよ、本当によかった」
その瞬間、全身から力が抜けて、僕は膝から崩れ落ちた。
「ちょっと、大丈夫?」
膝が笑って立つことが出来ない。
いつか、こんな日が来てくれることを、ずっと夢見てきた。舞が目を覚ます日を、僕は誰より待ち望んでいたんだ。
「僕は……もう君が目を覚まさないんじゃ無いかと……」
舞は「えへへ」と照れたように笑う。
「私にとっては、つい昨日のことのようなんだけどね」
少し遠くの方を見つめながら、舞は呟く。
その言葉で、僕はあの祭りの日のことを鮮明に思い出す。
そうだ、言わなければいけない。
僕は、ぐっと拳を握りしめ、顔を上げた。
「舞」
「ん?」
僕は、深々と頭を下げ、言った。
「本当に、ごめん。あの日、待ち合わせに行ったとき、僕は—」
「謝らなくていいよ。廉は悪くないから」
彼女は僕の言葉を遮り、笑顔でそう言った。
たったその言葉で。あの日から、僕の中にあった胸のつかえが、ゆるやかに解けて無くなっていく。
「……そうだ。いったい、いつ目が覚めたんだ?」
「んー、一か月くらい前かな」
「一か月⁉ どうして、目が覚めてすぐに連絡してくれなかったんだよ」
僕は驚いて、思わず大きな声で反応した。
彼女は少し困ったような、申し訳なさそうな顔をして言った。
「やっぱり、ちゃんと回復してから会いたいなと思って。起きてすぐは、少し記憶が混乱していたの」
「記憶?」
「うん。今も少し、記憶が曖昧なところがあるし、思い出せないことがいくつかあるの」
そう言って、舞は、僕の方へ向き直る。
「こっちからも、質問していい?」
「あ、ああ。いいよ。何でも聞いてくれ」
「雫に聞いたんだけど……『人形』っていうのを使ってるって」
先に雫と会っていたのかと、僕は少し嫉妬する。
「……まあ、そうだよ」
「それって、やっぱり私が原因だよね」
僕は、咄嗟に「違う!」と否定する。
「……君は、悪くないよ。なんていうか、僕の自業自得みたいなもんだ」
「でも……」
「さっき、僕の謝罪を遮っただろ。お互い様さ。それより、ほら、退院したのなら、退院祝いをやろう。修一と、雫も呼んでさ」
この会話は続けたくない。
僕は、無理やり話を逸らそうとした。
「うーん、気持ちはありがたいけど、遠慮しとく。修一も廉も、野球部の活動で忙しいでしょ?」
ぐっ、と言葉に詰まる。
「いや……僕は–––」
「どうしたの?」
「野球部には……入ってない。野球は、辞めたんだ」
自分の口から出てくる声は、とても弱弱しい。
「どうして? あれだけ一生懸命やっていたのに。少年団の練習が休みの日でも、グラウンドに行って自主的に練習までしていたじゃない」
少し悲しそうな表情でそう言う彼女を見て、僕はより一層後ろめたい気持ちになった。
「……別に大した理由なんてないよ。どんなに頑張ったって、プロになって飯食えるわけじゃないしな。将来を考えた時、こうやって勉強に時間を使う方が賢いだろうなと思っただけさ」
作り笑いで誤魔化しながら、彼女にそう告げる。
「ていうか、入院してた病院って、確かだいぶ遠い場所だったはずだろ。どうやってここに来たんだ? それに、病院から出て大丈夫なのか?」
「うん。というか、回復してきたから、退院したの。さっき、記憶が曖昧って言ったでしょ?記憶を呼び起こす鍵はこっちにあると思うから、またこっちに戻ってきたの。今はおばあちゃんの家に泊めてもらってる。あ、でも、そろそろ戻らないと」
「そうなのか。じゃあ、送るよ」
「大丈夫よ。あ、ちょっと待って」
そう言って、彼女は携帯電話を取り出して見せた。
「私の携帯番号。何かあったら、連絡して。じゃあ、またね」
舞は踵を返して帰ろうとした。
「あ、ちょっと待った!」
「何?」
何を言うか決めないまま、彼女を呼び止めてしまった。
「えっと……ほら、記憶が一部欠けてるって言ってただろ。なら、今度の日曜、昔一緒に過ごした場所を巡らないか? 何か、思い出せるかもしれないだろ?」
「……そうね。うん、じゃあ、また来週ね」
彼女は、そう言い残して、走り去っていってしまった。
僕は、呆然と彼女の後姿を見送りながら、起きた時のショックで絶望してしまわないように、また意識が飛んで変な夢を見ているだけかもしれないと、何度も自分に言い聞かせていた。
舞と別れた後、ふらふらとした足取りで立ち寄っていたのは、病院だった。
気づくと、僕はベッドに横たわる、ガリガリに痩せ細った自分の姿を見つめていた。
これだけ時間が経過しても、意識が覚醒しないところを見ると、どうやらこれは現実のことらしかった。
嬉しいはずなのに、どこか焦りにも似たもどかしさが、胸の内に広がっていく。
舞が意識を取り戻すことを、僕はずっと望み続けていたはずだった。しかし、彼女が意識を失ってから一年、二年と月日が経過していくとともに、それは実現することの叶わない望みなのでは無いかと少しずつ思い始めていた。
防衛本能というやつだろうか。期待して絶望するくらいなら、鼻から何も期待しない方がいいという。
だが、彼女は目を覚ました。第三者の目から見て、僕はもう、同情される対象じゃない。
人形を使い続ける理由が、無い。
その時、不意に、コンコンと扉をノックする音が聴こえた。「どうぞ」と言うと、扉が開いた。
立っていたのは、雫だった。
「……雫か」
「うん。入ってもいい?」
僕は何も言わなかった。無言を是認と解釈したのか、雫は恐る恐るという感じで部屋に入り、側にあった椅子にちょこんと腰掛けた。
この間のことがあったので、僕は何を言ったらいいのか分からず、暫く無言の時間が流れた。
一人の時は何も思わなかったのに、自分の身体をただ見つめるという行為が、急に恥ずかしいことのように思えてくる。
「廉のお母さんから、まだ廉が帰ってきてないんだけど、知らないかって」
「わざわざ、君に電話したのか。迷惑かけたな」
「あんまり、心配かけちゃダメだよ」
「分かってるよ」
よかった。この間のことで、雫がまだ怒っているんじゃないかと思っていたが、そういうわけでもなさそうだ。普通に会話することができて、僕はホッとしていた。
それにしても、まだ七時も回ってないのに、家に帰ってこないことを心配されるって。僕は小学生か。
少し気持ちが楽になって、僕は今日初めて雫をまともに見た。
また白のTシャツに、今度は黒のスキニー。
「……前にも思ったけど、もう少しおしゃれな格好でもしたら?」
「私には、合わないから」
「そんなの、着てみなければ分からないだろ」
「分かるよ」
「……何ていうか、僕が言いたいのは、そういうことではなくてだな」
端的な返答しかしない彼女に少し苛立ちながら、僕は続ける。
「僕のことなんて放っておいてさ、一度きりしかない青春を謳歌したらどうだってこと。同級生たちは、遊びに行ったり、部活やったり、バイトやったり、まぁ、勉強も青春の一ページと言えるかもしれないけど……とにかく、そういうことに時間を使うべきだ」
「それ、廉にも言えることだと思う」
「僕は……しょうがないだろ、こんな状態だし。雫は元気なんだから、僕に付き合う必要なんてない」
「私は、自分がしたいことをしているだけ。廉が言ったようなことを、別にそういうことをしたいとは思わない」
「あーそう」
相変わらず、感情の読めない表情を見せる奴だ。
「少し付き合って」
「わかったよ」
雫に連れられて向かった先は、休憩室だった。他には誰もおらず、しんと静まり返っている。
雫は、ソファに腰掛けた。長話をしたい気分ではなかったが、僕だけ立っているのもなんとなく違和感があると感じ、彼女に向かい合う形で腰掛け、話を切り出した。
「この間は、悪かったよ。ごめん」
「何が?」
「轢かれそうになった時、助けてくれただろ」
雫は思い出したように頷き、「別にいい。大したことじゃない」と表情を変えずにそう言
った。僕は少しほっとした。
だが、それとは別にもう一つ、雫に聞くことがある。
「舞が目を覚ましたこと、知ってたんだな。どうして、言ってくれなかったんだ?」
彼女は少し逡巡したのち、答えた。
「……廉にはまだ黙っておいてって、本人に言われたから」
「ふーん」
それでも、教えてくれたっていいのにと思っていると、雫はこくりと頷き言葉を続ける。
「舞が目を覚まして、廉は何を思ったの?」
「何をって……そりゃ嬉しかったよ。あとは、まぁ、ホッとしたかな。本当のこと言うと、もう二度と、目を醒さないんじゃないかと思っていたから」
それは、舞が意識を取り戻す以前は、口にすることを避けていた言葉だった。
「さっき、病室で、何してたの」
雫は問いかける。
「自分の姿を見ていただけだよ」
僕の返答が気に入らないのか、彼女は、何も言わず、じっと僕の方を見つめている。
僕は少しため息をついて、言った。
「分からなくなったんだよ。今更、どんな顔をして舞と接すればいいのか。舞が昏睡状態になったことで、僕は自分を責め続けてきた。その罪の重さに押し潰されそうだった。あいつが奇跡的に目覚めたからといって、僕の罪が消えるわけじゃない」
「でも……」
「分かってる。僕が自分を責めることを、あいつは望んでいない。立ち直るタイミングは、ここなんだ。ここを逃せば、多分ズルズルいってしまう」
そう。舞に対して申し訳ないという気持ちがあるなら、僕は今すぐ起き上がるべきなのだ。
何をするべきで、何をするべきでないのか。頭の中では、いつだって結論が先に出ている。
「でも、正直な話、心の準備が出来てなかったんだ。目覚める見込みがないって言われていて、僅かな希望が捨てられない僕は、それでも諦めかけていた。自分で自分のコントロールができなくなる感覚が、恐ろしいんだよ。人間の身体を使うのをやめた時、僕の中はぐちゃぐちゃだった。自分を傷つけたくて仕方なく、食事をすれば吐き、頭の中は後悔で埋め尽くされ、日常会話すらままならない。外に出るのが怖い。誰かと話をするのが怖い。人形を使っていると、そんな気持ちが薄れてくるんだ。自分の身体に戻ることで、そんな状態にまた戻ったらと思うと、怖くて仕方がない」
それは、僕がずっと胸の内に抱えていた、正直な想いだった。
自信を失った。逃げた自分を、僕は受け入れることができなかった。
雫は何も言わず黙ったままだ。
会話が止まると、雨が窓を叩く音がはっきりと聞こえる。その音を聞きながら、僕は昂った熱が引いていくのを感じていた。
よく考えてみれば、彼女が心配してくれた時は、「雫には関係ない」とか言っておいて、自分が吐き出したいときは何かフォローの言葉が欲しいなんて、あまりにも虫が良すぎるんじゃないだろうか。
「そ、そういえば、来週の日曜、舞と昔過ごした場所を巡ろうってことになったんだけどさ。雫も一緒に来ないか?」
恥ずかしくなった僕は、自分の世界に入っていたのを誤魔化すように、話題を変えた。
僕の提案に、彼女は首を横に振った。
「……遠慮しとく。その日は用事があるから」
「そっか」
断られたのが少し意外だったので、僕はそれとなく雫の表情を窺った。
彼女はいつもと変わらない表情で少し俯いていただけだった。