「余裕だな」
 昼休み、僕は修一と一緒に屋上で昼食を食べている時、彼は不意に言った。
「何が?」
「さっき、寝てただろ」
 三限目の時間、自習用の試験対策プリントを、早々に解くことを諦めた僕は、机に突っ伏して寝ていた。
「まあ、そんなに難しくなかったからな」
 母の作った弁当のおかずを口に運びながら、僕は平然と嘘をつく。人形の姿で食べても、栄養にならないし、後で捨てるだけだからお金と食材が勿体無いと説明したのだが、母は『人形だってバレたくないでしょう。だったら、形だけでも食事をしているふりをしておかなきゃ』と言って、毎日弁当を作って渡してくる。
「お前、ちゃんと勉強してんのな」
「それ以外にやることもないしな」

 僕はそう言って空を仰ぐ。水をたっぷりと含んだ筆で、パレットに薄く伸ばしたような水色の上を、ふわふわした大きな雲がゆっくりと流れていく。
 嘘をつくことに罪悪感を覚えなくなったのは、いつからだろうか。元気で、勉強ができて、運動が好きで、友達がたくさんいて、ちゃんと現実を生きている。そういう人間社会で望ましいとされる振る舞いから離れれば離れるほど、周囲の人間は心配そうな顔をした。
 だから、僕なんかを心配してくれる優しい人たちを、無闇に不安にさせるものではないと思い、嘘を重ねてきた。

「部活の方はどうなんだよ」
 とはいえ、やはり気持ちの良いものではないため、僕は、話題を変えるためならやむなしと、聞きたくもない野球の話を自ら切り出す。
「雫から聞いたけど、勝ったらしいじゃないか」
「よくぞ聞いてくれた。今年は、マジで県大会勝てるかもしれないぞ。なんたって、最強のピッチャーが入って来てくれたからな」
 修一は、ボールを投げるモーションを見せる。その最強のピッチャーというのが、誰のことを指しているのか、僕は理解していた。
「そう嫌な顔をするなよ。そうだ、今度の試合、観に来いよ。次が大一番なんだ。相手は南高」
 そう言って、どこからともなくメモ帳とペンを取り出し、何やら書きつけて千切った紙を僕に突き出した。
「翔には言わないでおくからさ。絶対来いよな」と言って、修一は戻って行った。
 メモには試合の場所と時間が書いてあった。僕はメモをビリビリに破いて、手を広げた。風が吹いて、千切れた紙が舞い上がって飛んでいった。


 七月にしては珍しく、猛暑日と表現するのに相応しい気温であるにもかかわらず、週末の球場の観客席は、それなりの人で埋まっていた。
 それほど注目度の高い試合だということだろう。県大会三回戦。ただ、注目されているのは、うちの高校ではない。優勝候補の一角である相手の方だ。
 スコアボードを見ると、まだ四回裏だが、既に0―3でうちの高校が負けている。
 マウンドに立つ翔は、試合はまだ中盤であるにもかかわらず、既に肩で息をしている。制球は定まらず、精細を欠いているように見えた。完全にガス欠だ。
 大会のスコア表を見る。これまでの試合は、どれも失点を最小限に抑えての辛勝。恐らく、この大会、ほとんどの試合を弟が投げているのだろう。
 
 翔は、顔に垂れる汗を、ユニフォームの袖で拭う。そして、振りかぶってボールを投げた。
 ボールは鋭く落ち、打者のバットをすり抜け、キャッチャーミットに収まった。
 しばらく見ないうちに、あんなボールを投げられるようになっていたのか。

 何とかアウトに持ち込んで、攻守が変わる。だが、うちの打線は三者凡退で、十分と経たないうちに、また相手の攻撃へと変わる。
 せめて翔が休む時間くらい作ってやれればと思うが、それが出来ないほどに実力差がある。

 僕は何を観たかったんだろう。かつて自分が憧れた場所に立っている弟を、純粋に応援したかったのか。それとも、観客の前で無様に負けて地に這いつくばる弟をみて、ざまあみろと笑いたかったのだろうか。
 観に行かないということは、気にしているということだ。弟と野球で張り合うことはもうしないと決めたはずだ。弟の試合を手放しで応援できるかどうか、それを確かめたかったのか。

 投手としてマウンドに立つ翔と観客席からそれを眺める僕。
 あのまま野球を続けていたら、僕もあのグラウンドに立っていたのかもしれない。自分がかつてあの場所に立っていたのが、遥か昔の出来事のように感じられる。あれだけ夢中になっていたものに対して、こんなにも、心中穏やかでいられることが、自分でも不思議だった。
 
 その時、キン、と、バットがボールの芯を捉えた音が響き、僕は我に返った。ボールは綺麗なアーチを描き、こっちに向かって伸びてくる。
 ボールがスタンドに入った瞬間、わっと球場が湧いた。
 僕は翔を見た。翔はボールを目で追ってか、こっちを見ていた。

 目があったような気がした。



「廉」
 球場からの帰り道、背後から聞き覚えのある女性の声がして、僕は振り返った。
 そこには、白シャツにジーパンというラフな姿の雫が立っていた。
「来てたんだな」
「うん」
 雫は、僕の横まで小走りで寄って来て、横に並ぶ。
「……試合、残念だったね」
「だから言っただろう。南高にはどうせ勝てないって」
「でも、修一も翔くんも、頑張ってた」
「そうだな」
「翔くん、泣いてたね」
「まぁ、悔しいだろうな。でも、あいつ単体で見れば、南高にも負けてなかったよ」
 弟を褒める言葉が、口からすんなりと出てくる。
 
 シャワシャワと鳴くセミの声が響く中を、僕たちはゆっくりと歩く。
「翔くんは、廉が人形であることについて、どう思ってるの」
「さあね。もうずいぶん、あいつとまともに話なんてしていない」
「それは、翔くんが廉を避けているということ?」
「どうなんだろうな。気づいたら、いつの間にか距離ができていたっていうか」
 むしろ避けているとしたら、僕の方なんだろう。
「なんか、寂しい」
「寂しくなんてないよ」
「本当に?」
 そう問う彼女の瞳には、揺らぎがない。
 そんな目で僕を見るなよ。こっちはいつだって、自分に自信が無いんだ。そんな目をされると、こっちが間違っているような気にさせられる。
 雫のこめかみから、汗が流れ落ちる。
 人形である僕は汗をかかない。かきたくてもかけない。

「スタンドから見て、何を思っていたの」
「別に何も。やっぱり、負けたなーってくらいだよ」
「悔しいって、思わなかった? 自分があそこにいるはずだったのにな、とか」
 僕はため息を吐き、「あのさ」と前置きをしてから続けて言う。

「雫が何を期待してるのか知らないけど、別にもう未練とか無いから。翔のことも、言うほど意識してるわけじゃないよ」
 そう言って、僕は話を打ち切った。
 雫は、黙り込んでしまった。
 
 思えば、弟との話は、野球ばかりだった。どうすればもっと速い球が投げられるか。どうバットを振れば、遠くまでボールを飛ばすことができるか。僕たちは、暇さえあればそんな話ばかりしていた。だから、僕が野球を辞め、野球の話をすることがなくなった、会話そのものが減っていくのは自然のことだった。それでも、まだその時は当たり障りの無い会話はしていた。
 明確に話をしなくなったのは––––。

「危ない!」
 彼女の声でハッと我に返った僕は、赤信号の横断歩道を渡ろうとしていた。グイッと後ろに引き倒された次の瞬間、僕がいた場所を車がクラクションを鳴らし通過していった。
「また、意識が飛んでたの」
「いや。ちょっと考え事をしていただけだ。助かったよ」
 僕は平然と彼女に礼を言う。
「……一つ聞いてもいい?」
 雫はそう尋ねる。相変わらずの無表情だったが、どこか怒っているように見えた。
「何?」
「なんで轢かれかけたのに、そんな冷静なの」
 その質問について、僕は深く考えることをせず、言葉を口から出した。
「まぁ、人形の身体だし、修理すれば直るから。実際、何回か壊して修理してもらってるし」
「人形だからって、絶対無事かどうかは分からない。万が一、意識が戻らなかったりしたら、どうするの」
「……まあ、その時はその時さ」
 
 パァン! と乾いた音が辺りに鳴り響いた。視界がぐらりと揺れる。彼女に頬をビンタされたことを理解するのに、数秒を要した。
 痛みは、感じない。痛いのが嫌で、痛覚は切ってあるから。
 雫は、悲しそうな顔をしていた。そして、くるりと背を向け、前を歩いて行った。僕はしばらくの間、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
 


「いやー。あとちょっとだったんだけどなぁ」
「言うほど惜しい試合でもなかっただろ。スコアだけ見れば0-7だし」
「点差ほど実力の差は無かったと思うぞ」
「どうだかな」
 試合に負けた日の翌日。部活動は休みになったらしく、僕は修一と一緒に下校していた。
「お前、観に来てくれたんだな」
 修一は振り返って僕の方を見ながら言った。
「行ってないぞ。結果だけ学校の奴が話してるのを聞いただけだ」
「嘘つけ。姉貴がお前のことを観客席で見つけたって言ってたぞ」
「……」

 河川敷を二人並んで歩く。遠くの山の方で、ひぐらしが鳴いている音が聴こえる。
「お前の弟には、だいぶ無理させちゃったからな。申し訳ないって言っといてくれ」
「どうせ、投げさせてくれって、あいつが自分から言って聞かなかったんだろ。九回裏までぶっ通しで投げやがって」
「そうだとしてもさ。僕らが足を引っ張ったのは事実だから」
 彼は、何故かニヤニヤとした笑みを浮かべている。
「何だよ」
「やっぱり観に来てたんだな。ちなみに姉貴は、その日仕事で試合は観に来てない」
「……お前のそういうところ、マジで嫌い」
「そうか? 僕はお前のその素直なところが、結構好きだったりするんだけどな」 
 修一はそう言って笑った。
 その後に続ける会話が思いつかず、僕は修一から目を逸らす。
 
 あと何年かすれば、この時間がかけがえのないものだった、なんてことを思い、懐かしむようになるのだろうか。
 そんな考えが頭を巡り、バカバカしくなる。
 僕の身体は、今もベッドに横たわったままだろう。学生生活なんて、本当の意味で参加していないじゃないか。実体験なんて何一つない。
「お前がいれば、違ったかもな」
「冗談言うなよ。僕がいても、何も変わらなかっただろうさ」
 心の底からそう思う。
「俺さ、小学校でお前と会って、マジで驚いたんだぜ? 同年代で、こんな球投げられる奴がいるのかって」
「やめろよ。お前の方が上手かっただろう。それに、元々、素質は翔の方があったさ」
「まあ、確かにお前の弟の方が驚かされたというか、これは勝てないと思っちまったけどさ」
 修一は、口だけで笑う。
「なぁ。なんで、野球やめちまったんだ。あれだけ、プロになるんだって、必死に練習していたのに。野球が嫌いになった訳じゃないんだろ?」
「前に言っただろう。人間の状態の運動能力を維持できるほどには、人形はまだ優れた代物じゃないんだよ。激しい運動はできないんだ」
「それは聞いたけどさ。別に下手でも続けたらいいじゃないか。俺だって、無理に誘おうとしている訳じゃない。でも、お前はまだ野球に未練があるんじゃないかなって、そんな気がするんだ。もしその通りだったらさ、変に色々考えずにさ、素直にやってみてもいいんじゃないか? それでやっぱりダメだと思ったら、すぐに辞めてもいいし」
「……もう、いいんだよ。未練とかないし。続けたって、プロになれるわけでもない。なら、勉強とかに時間を充てる方が、よっぽど有意義だろ。別に、お前や翔が野球をやることを否定してるわけじゃないけどさ。僕は、もう辞めたんだ」
 僕がそう言うと、修一は少し落ち込んだ様子で「そうか」と呟いて、それ以上追求してくることは無かった。

「修一」
「なんだ?」
「目の前で僕が車に轢かれたら、どう思う?」
 唐突な質問に修一は、きょとんとした顔をして、答える。
「いきなり物騒な質問だな。そりゃビックリするだろ。控えめに言ってトラウマものだな」
「それは、相手が自分の知ってる人間だからか?」
「え? いや、ぶっちゃけ誰が相手でもそうだと思うけど」
 そのまま歩き続け、別れ道に差し掛かる。

「……え? お前、大丈夫なのか?」
「ああ、大丈夫だよ。轢かれかけたってだけだから。実際に轢かれたわけじゃない」
「轢かれかけただけって……」
「試合を見た後の帰り道だよ。ちょうど雫と一緒にいてさ。考え事をしてて、まぁ、雫が引っ張ってくれなかったら、トラックに轢かれてたんだけど。その時、雫にビンタされたんだ」
 修一は、意外そうな顔をする。
「ビンタ?」
「そう、ビンタ。『なんで轢かれかけたのに、そんな平然としてるんだ』って聞かれて、『まあ人形だから、最悪轢かれても直せるし』って答えたら、ビンタされた」
「あー、それはやっちまったな」
 修一はポリポリと頭を掻きながら、そう答えた。
「あいつが感情的に行動するところなんて、初めて見た気がする」
「まぁ、暴力はよくないが。でもお前それ、人形の身体に慣れてしまってるってことだぞ。普通、轢かれても大丈夫なんて、そんな精神状態になることはないだろ」
 少し強い口調で、修一は続ける。
「お前が自分の命を軽視して自暴自棄になって轢かれて、それで舞が喜ぶと思うか?」
「……ああ、分かってる」
「本当にわかってるんだろうな?」
 僕は何も言えなかった。修一は軽くため息を吐いて言った。
「今度、雫に謝っとけ」
 彼の言葉に、僕は素直に頷いた。