「……い、廉。おいってば」

 聞き覚えのある男の声で、僕は現実に引き戻された。
 ゆっくりと目を開けると、目の前に、同じクラスで幼馴染の片桐修一が、呆れた顔をして立っていた。
 短髪で長身、いかにも運動部というような引き締まった体躯は、目の前に立たれるとそれなりに威圧感がある。
 涙でぼやけた視界で周囲を見渡すと、日の光が差し込み、教室の床板を照らしていた。教室には、僕と修一しか残っている人はいなかった。

「もう授業終わってるぞ」
 そう言われて、自分の机の上を見ると、英語の教科書が開いたままの状態で置かれていた。
「大丈夫か?」
「……ああ。なんか、うたた寝していたみたいだ。大丈夫」
「目を開けたまま寝るなんて、器用なやつだな」
 そう言いながら、修一は、僕の一つ前の席に座る。

「ところでさ、部活行かね?」
 修一の突拍子も無いその言葉に、僕は呆れて言い返す。
「なんで、入部もしていないのに部活に行かなきゃいけないんだよ」
「そりゃ、お前……野球が好きだからだろ」
「理由になってない。それに、どのみち勉強するから無理」
「お前、そんなこと言って、どうせ勉強なんてしてないだろ」
「してるから。そういうお前こそ、どうなんだよ。部活が忙しいからって、全然勉強の時間が取れていないんじゃないか?」
「大丈夫だって。俺は追い込み型だから。来年の夏に部活引退してから本気でやれば大丈夫さ」
 自信満々に、そう言ってのけるこの男を、内心羨ましいと思う。根拠のない自信なんて、今までで一度だって持てた試しがない。  

「じゃあ、明日は?」
「行けない。委員会があるから」
 修一は「あー、本の整理ね」と呟き、チラッと鏡野雫の机に目をやる。
「そういえば、雫と二人でいるときって、どんな話をするんだ?」
「別に。ただ黙って作業してるだけだよ」
「……まぁ、クラスでも、ろくに喋らないからな。あいつも、なんていうか、もう少しハキハキしていれば、可愛げがあると思うんだけどな」
「ハキハキって……」
 想像しようとしたが、無理だ。イメージが湧かない。
「そりゃあ、可愛い子には明るく元気であってほしいと思うのが、男心ってもんだろうさ。お前もそう思うだろ?」
「……どうなんだろうな」
「何だよ。お前はそう思わないのか?」
 濁した返事が気に食わないのか、修一は質問を重ねる。
「ずっと幼馴染でやってきたんだ。今更だよ」
「ふーん。……あ、やべ、そろそろ行くわ。じゃあな」
 僕の回答に満足したようには見えなかったが、修一は時計を見た後、慌てて立ち上がり、グローブなどが入った大きな鞄を持って、教室を出て行った。
 彼の背中を見送った後、しばらくして僕も鞄を持って立ち上がった。



 学校を出た後、僕はいつものように近くの駅へ向かって歩く。修一と無駄話をしていたせいで時間を食ってしまったと思ったが、幸いまだ日は沈む前だった。夏が近づくにつれて、日照時間が長くなってきているのを感じる。
 
 この辺りの地域の様相は、『田舎の街』という言い方をすれば、知っている人には納得してもらえると思っている。というのも、県下で栄えているのは、この学校のある都市部周辺くらいだけだからだ。この学校に在籍する生徒は、山と田んぼで囲まれたような場所にある自宅から、電車でこの学校に通うか、あるいは学校の近くで一人暮らしをするかの選択をすることになる。

 駅に着くと、下りの電車はすでに停車していた。僕はその電車に乗り込み、いつもの座席に腰掛けた。四両編成のこの電車は、座れないなんてことがまず無い。
 電車が動き出してからは、現実逃避でもするかのように、ぼーっと窓からの景色を眺める。見慣れた景色を見ても、何を感じるということも無い。この時間はいつも憂鬱なのだ。
 
 やがて、電車は自宅の最寄り駅に停車するが、そのまま自宅へは向かわず、僕は別の道へと歩き始める。病院へと向かうためだ。
 
 病院に到着し、エントランスホールを抜け、受付に向かう。
「五〇一号室の蓮井廉です。定期検診で来ました」
「カードのご提示をお願いします」
 鞄の中から身分証のカードを取り出し、業務的な微笑を浮かべる受付の女性に提示する。
「ありがとうございます。病室の方でお待ちください」
 エレベーターで五階へと上がり、病室へと向かった。扉を開けると、広い部屋にベッドが一つだけ置かれている。


 そこに横たわるのは、自分と全く同じ姿の人間だ。


 ベッドの脇に置かれている椅子に腰かけ、本を読んで時間を潰していると、しばらくして、病室のドアが開く音がした。顔を上げて入り口の方を見ると、担当医の淀川先生が扉の前に立っていた。
 先生は僕の姿を確認すると、ニコっと笑いかけて口を開いた。

「やぁ、遅くなってごめんね」
「……どうも」
「別の患者さんに時間を取られてしまってね。それじゃあ、早速検査を始めようか」
 先生はそう言って、別の椅子に腰掛け、僕と向かい合う形になる。
「いつものように、五感の確認から始めよう」
 
 視力と聴力の検査は、よく健康診断でやるものと同じで、輪っかの穴を指差すものと、ヘッドフォンから音が聴こえたらボタンを押すというシンプルな検査だ。違うのは、触覚の確認があること。これもシンプルなもので、触られているという感覚があるかどうか、チェックする。
 ちなみに嗅覚と味覚は確認しない。人形では、この二つは再現できないからだ。

「じゃあ次に動作確認だ。手のひらを」
 僕は先生の前に両手を手のひらの上に向けた状態で差し出し、閉じたり開いたりを繰り返す。
「オーケー。次に指を一本ずつ曲げて」
 小指から順に曲げていく。
「右手を上に挙げて。次に左手を」
「靴下を脱いで。足の指を動かして」
「立ち上がって。屈伸してみて」
「そこを歩いて」
「よし、じゃあ最後に腕相撲だ」
 そう言って、先生は机に右肘をついて、ファイティングポーズをとる。
「……毎回思うんですけど、この最後の腕ずもうって意味あるんですか? どのみち人形じゃ、自分の身体の運動能力を再現することは難しいんでしょう」
「あるよ。それでも、今現在、君の力がどれだけ人形に伝達できているか、確かめる必要がある」
 渋々、僕も机に右肘をついて、先生の手を握る。
「じゃあいくよ。よーい、ファイ!」
 よく分からない掛け声を合図に、僕は右手に力を込めた。一瞬、先生の手を押し込むが、すぐに押し返され、僕の右手の甲が机についた。
「蓮井くん、本気でやってるかい?」
「やってますよ。先生が強いだけでしょ」
「私はむしろ、腕相撲は弱い方なんだけれどね。新人の看護婦さんにもよく負けるよ」
「……そうやって、若い女の人の手を合法的に握るんですね」
「そ、そういう言い方は、誤解を招くから止めてほしいな」
 先生が引きつった笑みを浮かべるのを見て、僕は少しスッとした気分になった。

 
 一通りの検査が終わった後で、淀川先生は僕に尋ねた。
「ところで蓮井くん。最近の体調で、何かおかしいと思ったことは無い?」
「……特に無いですけど」
「本当に? そんなはずは無いんだけどなぁ」
 声の調子は変わらず、おどけたようだが、先生は、おそらく確信を持って言っていると感じた。
 動作確認は特に問題なかったはずだ。腕相撲だって、いつも負けている。
 問題があったとすれば、五感の方か。
 隠しても無駄だと悟った僕は、素直に話すことにする。

「たまにうたた寝っていうか、意識が途切れることがあります。でも、それくらいですよ」
「それを『くらい』で済ませてしまうところが、君の良くないところだよ、蓮井君」
 先生はため息をつく。
「前にも言ったと思うけれど、人形を使い続けることは、まるで人形の身体を自分自身の身体であるかのように錯覚してしまうというリスクを伴う。その状態に慣れすぎると、そのうち、現実感が薄れ、夢の中にいるような感覚になることがある。『離人症』と呼ばれるものだ。定期的に自分の身体に戻れるなら、それだけで予防策になるけれど、それができないなら、今自分は人形を使っているという事実を、意識し続ける必要がある」
「……はい」
「気をつけないと。離人症が進行すればするほど、元の自分に戻りにくくなっていくよ」
 分かってるよ。そう何度も言われなくとも。
 その言葉を口には出さず、僕は、ベッドに横たわる自分の姿を見た。自分の身体であるはずなのに、そこに横たわっているのは、およそ自分とは何の関係の無い、赤の他人の身体であるかのように感じられた。


 人形システムとは、専用の機械を用いて、自分の意識をあらかじめ製作した人形へと移動させ、その人形を自分の身体のように動かすことができるという、数年前より実用化された技術だ。現代において、人形は人間と見分けることは難しいほど精巧に作ることができる。
 専ら医療目的で使用されるもので、身体が不自由な人から導入が始まり、やがて精神的な疾患で、自分の身体で生きていくのが難しいと思われる人など、その対象は広がって来ている。 
 しかし、普及率はそれほど高くはない。人形を使うことの身体的、そして心理的な副作用やリスクについて、不透明な点が多いからだ。
 そのリスクの一つが、『離人症』だ。離人症自体は、別に人形を使わなくても発症する病気だが、人形を使った人が、この症状を引き起こしたという例が、いくつか確認されている。因果関係については、明確な答えはまだ出されていない。



「……ただいま」
 病院を出て家に帰り、ガラガラと玄関の戸を開けた。そのまま二階にある自分の部屋へ向かおうとすると、階段から一つ歳下の弟の翔が下りてくるのが見えた。
 
 翔は、こちらを一瞥するが、僕が目を逸らすと、何も言わずに明かりのついているリビングの方へと歩いて行った。翔の背中を見送った後、僕は階段を上り、自分の部屋に入って鍵を閉め、ベッドに倒れ込んだ。
 
 もう長いこと経口で食事を摂っていない。病院のベッドで寝ている本体の方が、点滴で栄養を摂取しているため、食事を取る必要がないのだ。美味しいものを食べることが生き甲斐だという人は、この状態になれば鬱にでもなってしまうだろう。また、人形の舌で味覚を再現することは、どうやら難しいらしい。食事が楽しめるようになるには、もう少し時間がかかるだろうと、淀川先生は言っていた。
 
 カーテンの隙間から月の光が差し込み、部屋を優しく照らしている。電気はつけていないが、部屋の中は鮮明に見える。

 何となく自分の部屋を見渡すと、小学生の時に所属していた野球チームで取った、賞状やメダルが飾られているのが目に入った。棚の上に飾ってある写真は、翔と一緒に試合に出て、試合に勝った時に母が撮った写真だ。肩を組んで、二人で笑っている。 
 思い出は、過去のままで止まっている。

 泣きたくなるような惨状だが、あいにく人形が涙を流すことはない。
 
 修一にあれだけ偉そうに言っておきながら、勉強のやる気なんてこれっぽっちも湧き起こらず、僕はカーテンを閉め、扉の下の隙間から差し込む光に背を向けるように横になり、目を閉じた。