「……以上が、俺が知る全てだ。夏以降、お前と会っていた舞は、雫が操作していたその人形だ」

 修一はそう言って、僕が抱えてきた、ベッドの横に倒れている白鷺舞の人形を指差した。
 舞の目は虚で、何もない場所を一点に見つめたまま動かなかった。

 理解が追いついていない。信じたくない。
 だが、目の前で語る修一の言葉が、嘘偽りのない真実であることは、頭より先に心が理解してしまった。



 遊園地で舞に電話をかけてきたのは、修一だった。電話に出た僕は、修一に舞が倒れた旨を伝えると、「今から言う住所まで、舞を運んでほしい。事情は全て話すから」と言われたので、タクシーを捕まえて彼女を乗せた。
案内された場所は、マンションの一室だった。

 必要最低限のものだけが置いてある、殺風景な部屋だった。奥にベッドが置いてあり、そこに横たわっているのは、痩せ細っているが、紛れもない、雫だった。

 修一は、約束通り、僕に事情を話した。
 話を聞いた後、めまいがして、僕はベッドに座り込み、頭を抱えた。

「……なんで……」
「謝って済まされることじゃないのは分かってる。それでも、雫は——」 
「少し……一人にしてくれないか」
 口から出てきた言葉には、驚くほど覇気がなく、自分でも怒っているのかどうか、それすら分からなかった。

「……分かった。ただ、一つだけ、お願いがある」
 そう言うと、修一は床に膝をつき、土下座をして言った。

「舞の死がショックなのは分かる。でも、どうか、どうか自暴自棄にだけはならないで欲しい。それが、雫の願いであり、そんな人形を使ってまで廉を騙した理由でもある。雫は……お前が、舞の死に耐えられないんじゃないかと思ったんだ」
 僕は、雫の方を見る。

「……雫は、どういう状態なんだ」
「お前にも、身に覚えがあるだろう。離人症だよ」
 修一はポケットから一枚の名刺を差し出した。

 その名刺には、『琴平人形店』と書かれていた。
「雫の人形を作った人形師だ。お前との電話が終わった後、俺は、彼女の指示通り、機械の接続を切った。通常、それで元に戻るらしいが、雫は目を覚まさなかった。彼女曰く、寝ているのに近い状態らしい。突発的に意識が無くなるのは、離人症が進行している証拠なのだそうだ。いずれ目を覚ますだろうが、意識は元の身体に戻っていても、雫自身が自分の身体で起き上がることを拒否していれば、人形を使っている状態でしか覚醒状態を維持できなくなっている可能性があるって」
 修一は言葉を続ける。

「ここは、雫が一人暮らしをしている部屋だよ。鍵は、スペアキーを使った。雫が人形を使い始めると知った時、廉に黙っている条件として、彼女から借りていたものだ。何かあった時、それが無いとどうしようもないからな。そしたら、案の定だよ」
「それで、僕たちはどうすればいいんだよ」
「どうすればって?」
「だから! どうすれば舞と雫は——」

 そこまで言って、僕はハッと我に返った。

 どうすれば? 
 どうすればも、何もないだろう。
 だって、舞は、もう……。

「……雫は、とりあえず大丈夫だ。意識は元の身体に戻っているから。今後については……」
 修一はもう、それ以上は何も言わなかった。



『こんにちは、退院以来だね』
 僕は、雫の部屋を出て、淀川先生に電話をかけた。
『その後、調子はどう?』
「僕は、特に問題ないです。ただ、雫が……」

 僕は、事情を全て先生に話した。
 話し終えたところで、先生は深いため息をついた。
『機械のスイッチを切っているなら、意識自体は元の身体に戻っているはずだ。ただ、その彼女は離人症が悪化した結果、おそらくは無意識に元の身体で活動することを拒否している。早い話が、人形に対する精神的な依存だね。実を言うと、君も夏頃、その状態になりかけていたんだよ』
「僕は、どうすればいいんですか」

『するべきは、難しいことでも何でもない。とりあえず、早急にその人形を使うの止めさせることだ。君にも、分かっているはずだよ。問題なのは、彼女の心の方かな。通常の精神状態でやろうと思えることではないからね。そこを何とかしないと、根本的な解決にはならないだろう。離人症がそこまで進行しているのなら、元の身体に戻り、普通の生活を送れるようになるために、彼女は君以上に苦労することになる。もっとも、話を聞く限り、その子は元の身体に戻りたいとは思っていないようだけれどね。ちゃんと病院に連れていくべきだが、それを促すのは君ではなく、彼女のご両親の役目だ。間違っても、君が何かやろうとはしないこと』

 僕は、黙ったまま、足元を見つめる。内心で思っていることを、悟られないように。
『蓮井くん』
 不意に先生に名前を呼ばれ、僕は反射的に顔を上げた。
『……一つだけ。それをやる前に彼女と話がしたいなら、機械のスイッチは入れたままにしておきなさい』
 その口調は、これまでの医者としての言動ではなく、この人自身の言葉のように思えた。
「……僕は、何を言えばいいんでしょうか」
 しばらく、沈黙が流れた後、先生は言った。

『正解は誰にも分からないよ。それでも強いて言えることがあるとしたら、彼女が自分自身として生きていきたいと、思わせることじゃないかな』



 雫の部屋を出た俺が向かったのは、琴平人形店だった。
「すみません」
 僕は入口のドアをノックし、声をかけるが返事は無く、戸を横に引くと、カラカラと動いた。

 部屋には、大量の人形が置かれていて、奥の方で女の子が作業をしていた。その横に、小さな人形が置いてあるのが見えた。
 僕は修一の言葉を思い出していた。
『雫曰く、本人は何も喋らないそうだ。小さな人形がいて、その人形が喋るんだと』
「お邪魔します」

 僕は、小さな人形に向かって話しかけた。
「琴平華月さん、ですか」
 作業着を着た女の子は、ゆっくりとこちらを向いて、足元の小さな人形を胸に抱えた。
「こっちに話しかけたってことは、私を知っているということですよね」
 小さな人形の口が開き、喋り始めた。

「あ、いえ……。あなたに会った人から、あなたのことを聞いていたんです。僕がここに来るのは初めてです」
「ああ、なるほど」
 作業着の女の子はうんうんと頷く。
「とはいえ、私はあなたのことを知っているんですけどね。あなたの人形を作ったの、私ですし」
「え?」
「この業界では、病院と専属契約を結ぶことが、食いっぱぐれないコツですから。だから、あなたの身体のことならほくろの位置まで知り尽くしていますよ」
 ぞくりと全身に鳥肌が走ったような気がした。

「……僕が今日来たのは、人形の製作でもメンテナンスでもない。鏡野雫という依頼人のことを、覚えていますか」
「ええ」
「僕、雫の友人で……彼女の人形を作ったのがあなたであると」
 その時、僕は女の子の視線に気づいた。僕のことをじっと見つめている。

「ああ、そうですか。君が……」
「どういう意味です?」
「……いえ、何でもないです。それより、雫さんは今どんな状態ですか?」
 僕は、雫が目覚めないことを話した。

 小さな人形は、動揺したようには見えず、そうですかと小さく呟いた。
「予想していたんですか」
「まあ、遅かれ早かれ、そうなるだろうと思っていました」
「それでも、人形を作ったんですか」
「私を責めるのはお門違いでしょう。それを望んだのは雫さん自身。私は、それを叶えてあげただけなのですから」
 詭弁だ。だが、そんな話をいくらしても仕方ない。

「それで? あなたは何をしたいんですか?」
「決まっているでしょう。雫を助けるんですよ」
「彼女は、それを望んでいるのですか?」

 当たり前だと答えるつもりだったのに、言葉が出てこなかった。

 雫は、助かろうと思っているのか。僕が助けることを、雫は望んでいるのか。
 僕は、雫のことをどれだけ理解できていただろうか。

 何も言えずにいると、不意に琴平華月が動き、部屋の隅の方で何かを探し始めた。そして、『それ』を僕に差し出した。
 僕は、それが何をするためのものなのか、すぐに理解した。
 小さな人形は少し笑って答えた。

「あなたが決めることだ。何をするのか、あるいは何をしないのか」



「スイッチを、入れたままに?」
 先生から聞いた話を共有するため、僕は雫の部屋で修一と話をしていた。
「ああ。それが、淀川先生の指示だ。雫が起きた時、人形を動かせる状態にしておかないと、話をすることすらできないらしい」
「分かったよ」

 修一は、機械のスイッチを入れる。だが、相変わらず雫は寝たままだ。
 舞の人形も、動く気配は無い。

「彼女の両親には?」
「……まだ、言ってない。雫が絶対に言うなと言ったから」
「そうか。もう少し、言わないでおいてくれるか」
「……分かった」

 修一は、見てわかるほどには憔悴しきっていた。
「雫は、お前のことをずっと心配していたよ。舞のことを知った時、今度こそ自殺でもしちゃうんじゃないかって」
「……」
「なぁ、廉。もう、嘘でもいいからさ。雫に好きだって、一緒に居ようって言ってやってくれないか」
 僕は、修一の言葉を疑った。こいつは、冗談で、そんなことを言うやつではない。

「あいつにとって、お前は替えが効かない存在なんだよ。ただ好きってわけじゃない。雫はお前のことを、自分を救ってくれた恩人だって、そう言っていた。きっと、愛情とか感謝とか、色んな感情があるんだと思う」
 修一は言葉を続ける。
「お前が舞のことを好きだったのは知ってる。でも、舞はもうこの世にはいない。だったら、雫がお前の横に立つことを、受け入れてくれてもいいんじゃないか。雫は悪い奴じゃないよ。どうしようもなく不器用で、お前のことを想い続けているだけなんだ。自分自身がどうなっても構わないと思うほどに。僕たちがやったことを、許してくれとは言わない。でも、せめてあいつの気持ちだけは、汲んでやってくれないかな」
「お前、ふざけんのも大概に——」
 だが、次の言葉は出てこなかった。

 修一は、泣いていた。彼が泣いている姿を、僕はこれまで、一度も見たことは無かった。
「俺が出来るのは、お願いだけだ」

 彼はそう言って、雫の部屋から出ていった。
 

 
 僕は、母に修一の家に泊まると言い、雫の病室で寝泊まりすることにした。
 彼女が、いつ目が覚めるか分からないから、雫から目を離すわけにはいかない。

「……痩せてたの、ダイエットじゃなかったんだな」
 雫は、まだ目を閉じたまま、眠っている。

 無言のまま時間だけが過ぎ、時計の針は、まもなく十九時を示そうとしていた。
目が冴えて、眠れなかった。座椅子に腰掛けたまま、じっと彼女の顔を見つめていると、脳裏に舞の笑顔がフラッシュバックする。

 本当に、僕は気づいていなかったのだろうか。
 海に行ったとき、彼女の腕の傷が無かったこと。言葉遣いや情緒が安定しなかったこと。四人で過ごした記憶はあっても、二人で過ごした時の記憶が無いこと。彼女が何も食べていなかったこと。
 そしてあの日、僕の家で、抱きしめてくれた彼女の心音が、聞こえなかったこと。

 自分が人形を使っているのだ。その可能性に思い至るための条件は、揃っていたはずだ。
 それなのに。

「……馬鹿だな、僕は」
 言葉を発した後の静寂が、より一層自分を虚しくさせる。

 たぶん、僕はその可能性を意図的に排除していた。
 今になっても、なおこの人形のことを舞であると思い込みたがる自分がいる。

「なぁ、教えてくれよ」
 僕は、目を閉じたままの雫に声をかける。
「君は、僕にどう思って欲しかったんだ?」

 返答は無い。
 舞の事故があってから、雫は本当に僕のことを気にかけてくれていた。引き籠っている時は、僕が部屋から出ようともしないのに、何度も家に足を運んでくれたし、入院してからは何度もお見舞いに来てくれた。そして、今回のことだ。

 友人として。幼馴染として。その言葉で括れるほど、軽い行動ではないことを、僕は理解していたと思う。

 ふと、雫が舞を見ていた時の目が、脳裏を過った。
 すると突然、僕は強烈な睡魔に襲われた。目を開けていることができず、僕はそのまま意識を失った。




「……大丈夫? 廉?」
 目を開けると、正面に僕の顔を心配そうに見つめる女性の顔があった。

「おいおい、まだ潰れるほど飲んでないだろ。そんなに酒弱かったっけ?」
 女の左には、シャツにネクタイで、顔を赤らめた男が座っている。

「……ここは?」
 僕が呟くと、男は腹を抱えて笑い出した。
「しっかりしてくれよぉ。お前らが結婚するっつーからわざわざ来たんだぞ? 主役が開始一時間でダウンしてどうすんだよ。舞もなんとか言ってやれよ」
「もう、修一! 廉、大丈夫? お水頼もうか?」
「おーおー、惚気ですか。彼女居ない僕への当てつけかー?」

 どうやらここは居酒屋のようだった。
「お前……修一?」
「おう! 片桐修一、二十七歳独身、可愛い彼女募集中でーす!」
「あんたは開始一時間で悪酔いしすぎ」
「舞……か?」
 僕は半信半疑ながら、問いかける。

「うん、そうだけど。どうしちゃったの? 修一が言うように、本当にもう酔っちゃった?」
 少し困ったように笑う彼女は、とても綺麗だった。薄く化粧をしていて、どこか垢抜けたようにも見えた。
だが、舞の特徴は、そのまま残されていた。
 
「職場に可愛い子とか、いないの?」
 ぼーっとしていると、いつの間にか、話題は修一の彼女のことになっていた。
「いないわけじゃないけど、可愛ければいいってわけでもないしなぁ。それに、別れた時のことを考えると、職場の人間は気が引けるし……」
「まぁ、そうね」
「あの頃は、皆そんなこと考えてなかったよな。同じクラスでもカップルいたし。どうしてあんなに彼女が欲しかったんだろう。今思えば、自分たちで助長してたよな。社会人になって、周囲の人間のプライベートが見えなくなって、会話の時の言葉も選ぶようになる。気を使うようになって、生活基盤が出来上がってしまえば、別にそこまで必要なものとも思えないんだよな」
 修一はそう言って、ビールを一気に飲み干す。

「しかし、あれだけ野球に真剣に打ち込んでいたのに、結局全員野球とは関係のない仕事をしてるよな」
「何よ、急に」
「あの時間、もし別のことをしていたとしたら、今とは違う人生があったのかもしれないと思ってさ」
「でも、仮にそうだったら、今こうして皆で集まることもなかったんじゃない?」
「確かに、それもそうだ」
「あの頃が懐かしいなぁ。お酒なんてなくても楽しかったよね」
「皆でって……雫は?」
 二人はポカンとした顔をした。

「雫? 誰だよ、それ」
「そうだよ。私たち、いつも三人で一緒だったじゃない」
「え?」
「おいおい、まさか、このタイミングで浮気のカミングアウトなんて……そんなわけないよな、廉?」
「……」
 舞は下を向いて俯いてしまった。

「いや、冗談を言っただけだぞ、俺は」
 修一が慌てて弁解する。
「ち、違うよ、そういうのじゃない」
「発言が完全にやったやつのそれだな。まあ、結婚さえしちまえばこっちのもんだよ、舞」
「うん、そうだね」
「うんって、舞までそんな……、違うんだって」
「まあまあ、その辺のことは家で二人でやってくんな。しかし、こりゃタクシー頼んだ方がよさそうだな」
「修一も乗ってく?」
「いや、俺はこの後寄ってくとこあるから、電車で帰るわ」
「分かった。気を付けてね」
「おうよ。じゃあな、廉。今日ずっと変だったぞ。舞と幸せにな」
「あ、ああ」

 二人になって、気まずくなった僕は、舞も帰ってくれないかなと期待しつつ、話しかける。
「舞の家は、どの辺なんだ?」
 問いかけると、彼女は少し困ったように苦笑し、言った。
「本当に、どうしちゃったの? 私たち、結構前から一緒に住んでいるじゃない」
 仕方なく、僕は舞と一緒に到着したタクシーに乗り込んだ。二十分ほどで、タクシーはマンションの前で停車する。
 この間、終始無言だった。

「よいしょっと」
 自宅へ帰ると、彼女は、靴を脱いで、綺麗に並べた。
「どーする? もう寝ちゃう? 明日休みだけど」
「……いや、少しシャワーを浴びてくるよ」
 このままでは、頭がおかしくなりそうだ。
「そ。じゃあ私もシャワー浴びようかな」
「あ、なら先にどうぞ」
 すると、舞はこちらをジトっと睨んで言った。

「何それー。一緒に入るつもりだったのに。いいもん、じゃあ先に着替えて寝てるから」 

 シャワーのお湯を浴びながら、考える。
 この夢は、何なのだろう。今までに見たどの夢とも違っている。
 そして、どうして雫がいないのか。

 ぴしゃん、と、水の滴り落ちる音が、浴室に響く。
 鏡に映る自分は、少し顔つきが違う。髭が少し生えていて、顔の輪郭も細くなっている。
「廉、着替え持っていってないでしょう。ここ置いとくからね?」
「ああ、ありがとう」

 風呂から出て寝室に行くと、舞は寝間着に着替えて、二つあるベッドのうち、片方に腰かけていた。
「あがったよ。入るか?」
「ううん、今日はもう寝る。明日の朝に入ろうかな」
「そうか」
 僕は、舞の隣に腰掛けた。

「昔、母さんが言ってたんだ。雫を見習えって。みんな靴を放り出したままだけど、あいつだけはいつも綺麗に並べてたからさ」
 部屋を見渡してから、続ける。
「舞の部屋にしては、綺麗すぎるかなって」
 舞は、表情を変えず、こちらを真っ直ぐに見つめている。
「雫、なんだろ」
 僕がそう言った瞬間、景色が歪み、視界は暗闇に包まれた。
     

  

 目を開けると、辺りはまだ暗く、真夜中のようだった。
「おはよう、廉」
「……雫」
 舞の人形は起き上がり、ベッドに腰掛けていた。どうやら、目を覚ましたらしい。

 外から、パラパラと雨粒が屋根に当たる音が聴こえてくる。
「あんなに喋る奴だったんだな」
 何を言おうかと考えるより先に、自然に口から言葉が出てきたことに、僕自身、少し驚いていた。

「普段の君とあまりに違いすぎるから、舞の正体が雫だと言われても、すぐには信じられなかったよ」
「……」
「どんな気分だったんだ? 自分とは別の誰かを演じるというのは」
 雫は黙ったまま、目を合わせない。何も無いところを見つめている。
 しばらくして、彼女は口を開いて言った。

「ずっと、変な夢を見ていた気がする」
「変な夢?」
「未来の夢。大人になった私たちが、お酒を飲んでるの」
「でもそこに雫の姿は無い、だろ?」
 僕の言葉に反応し、ようやく雫は僕の方を見た。

 夢に見た未来が雫の望んだ状況であるとするなら、一つの答えが浮かび上がる。
 彼女は、自分がいない世界を望んだのではないか。
 僕は、真っ直ぐに、雫の目を見つめ返す。

「……私、廉の前で意識を失ったのね。この部屋にいるってことは……説明したのは修一ね」
 雫の声は、驚くほど静かなものだった。舞の姿だが、雫といつも話しているときに感じる、独特の間による緊張感が再現されることに、違和感を感じる。

「怒ってないの?」
 僕が次の言葉を探していると、続けて彼女は問いかけた。

「怒ってるに決まってるだろ。こんな状態でさえなければ、喚き散らしていただろうさ」
「まあ、そうだよね。許してなんて、言えない。それだけのことをした自負はある」
「でも、僕の為、だったんだろう」
「……どうだったんでしょうね」
 雫は顔を上げて天井を見つめながら、ぽつりと呟く。

「私は、自分が嫌いで、舞みたいになりたいって思ってきた。案外、廉のことは建前に過ぎなかったのかもしれない」
「えらく素直に喋るんだな」
「こんなところまで見られて、今更隠し事もないでしょう」
 嘲るような口調で、彼女は言う。
 そして、舞の姿のまま僕の方に向き直り、真っ直ぐ僕の目を見て、問いかけた。

「何をしに来たの」
 彼女のその口調で、ごまかすことは許されないと、僕は直感する。
「君と、もう一度、話がしたかった」
「もういないよ」
「……え?」
「廉が話したいと願ったのは、白鷺舞でしょう?」

 強気の姿勢の裏に、不安げに揺らぐ彼女の心情が透けて見える。
 僕が見たことのない舞の姿が、そこにあった。

「彼女はもういない。あなたが魔法を解いたせいで。ここにいるのは、鏡野雫という、ただの人間」
 そう言って、雫は自分の身体を指差す。

「……正直、君のことが少し怖いよ。やろうと思って、できることでもないだろ。その原動力というか……根底にあるものは、いったい何なんだ?」
 彼女は少し考える素振りを見せた後、淡々とした口調で言った。
「……罪悪感かな」
「罪悪感?」
「疑問に思わなかった? どうしてあの日、舞は『廉が会場にいる』と思ったのか」
「あの日、僕は舞に渡そうと思っていたヘアピンを忘れて–––」
「取りに帰った。そうでしょう」
 その言葉に、僕は動揺を隠せなかった。雫は続けて言う。

「普通、まだ来てないと思うはずじゃない?」
 どうして、雫がそのことを知っている?

「私は、廉が走って家に帰るところを見ていた。待ち合わせ場所がそこであることは舞に聞いて知っていたから」
「……そんな」
「舞は私に、『廉と会わなかった?』と聞いた。私が廉の家の方から歩いてきたのを見て。浴衣の着付けで遅くなって、待ち合わせの時間に遅れちゃったからって。私は、『知らない。会場の方に行ったんじゃない?』と答えた」
「あの時、あなたがまだ会場に行っていなかったことを、私は知っていた。でも、舞にそれを聞かれた時、私は知らないふりをしたの。それで、舞は、廉がもう祭りの会場に行ったんだと思ったんでしょうね」

「……どうして」
 僕は動揺を隠すことができないでいた。
 これ以上、聞きたくない。ここから、逃げ出してしまいたい。

「それを聞いた舞は、信号機のない横断歩道を渡ってしまった。でも、あなたにそれを言うことはできなかった。それを言えば、あなたは私を軽蔑し、嫌われてしまうことが怖かった。あなたに対する気持ちを、私は言語化することを恐れた。でも一方で、あなたが舞に告白するのを避けたかった。今思うと、馬鹿な話ね。そもそも私は、あなたの眼中にすら入っていなかったのだから。」
「……」
「あなたが給食をぶちまけているのを、私は後ろの方の席で遠巻きに見ていた。あなたが苦しむなか、私は身体になんの異変も起こらなかった。私の方が罪悪感を抱いていなければならないはずなのに。あの日から、何度も夢に見た。舞が車に轢かれる夢。私が舞を突き飛ばす時もあった。地獄だった。毎日が。こんなことになるなら、こんな思いをするくらいなら、あの時、舞に本当のことを言えばよかったと、激しく後悔した。また、ある時には舞を恨みさえした。舞が車に轢かれなければ、私はこんなふうに苦しむことはなかったのに。そんなことを思った日は、自分を殺したくなった」

 突然、雫は立ち上がり、僕の手を掴んだ。

「今、私がどういう状態か、分かる?」
「……離人症、だろ」
「そう。私は、舞としてなら、この世界で生きていけるの」
 彼女は、嬉しそうに続ける。

「廉の意思は私の中で重要な意味を持つ。あなたが、舞を選んでくれれば、私は舞としてこの後の人生を生きられる。もちろん、舞はもう死んでいるから、公としては、私は鏡野雫として、生きていくことになる。でも、二人でいるときは、舞って呼んでくれていいから」
「……何を、言ってんだ」
 言葉が理解できないわけではなかった。
 冗談で言っていて欲しかった。

「完全な白鷺舞を再現するのは不可能だと思う。事故に遭わなかった舞が、今どんな人間になっているはずだったかは、実際には分からない。でも、中身は変わらないでしょう。私はずっと、舞のそばで舞のことを見てきた。舞がどんな時に笑い、どんな時に怒り、どんな時に泣くのかを、私は彼女の横で見てきた。だから、近いレベルで再現することはできると思う。記憶が無くなったという設定にしたのは、あなたと二人でいるときの舞の姿を知りたかったから。最初に比べると、違和感は無くなっていったでしょう?」
「……舞が死んだことを、僕はもう知っている。君がどれだけ舞を再現しようとしたところで、君を舞だとは思わないよ」
「そんなことない。人形の技術は確実に進歩している。いずれ味覚や嗅覚、消化器官や臓器なんかも、再現できるようになって、人形は人間に近づいていく。私は、白鷺舞になるための努力を惜しむつもりはない」
「……雫」
「舞になることを、私自身が望んでいる。だって、私はずっと、舞に憧れていたのだから。舞になりきれなかった成れの果てが、雫なんだよ。あなたが雫を選んだら、雫はこれから先もずっと、自分のせいで舞が死んでしまったと、自分を責め続けることになる。罪の意識から解放されるときは訪れない。自分を肯定することが出来ず、存在意義を認められず、生きていくことになる」
 雫は、舞の手で、僕の両手を包み込む。

「ね? 廉が雫を助ける必要なんて、無いんだよ」
 彼女は口角を上げて、無邪気そうな笑みを浮かべる。
 自分のことを名前で呼ぶ彼女を、僕はどんな表情で見つめているのだろう。

「この世界に……君はいなくなるんだぞ」
「いなくていい。雫の役目は、最後に、廉を人間に戻すことが出来て、それだけで」
「ご両親は、どう思うんだ」
「きっと、悲しむでしょうね。それでも、新しい私を、彼らはきっと受け入れてくれる。私の演技を受け入れてくれた彼らなら」
 自分の中にある言葉のストックが、少なくなっていく。 
「あなたは自分の身体で歩けるようになった。あの時の罪が消える訳じゃ無いだろうけど、少なくとも私の気は楽になった。目的は果たしたし、心残りは無い」
 そして、雫はまっすぐに僕の目を見つめて、続けて言った。 

「あの遊園地に行ったとき、答えは出ていたはずでしょう?」
 あの時、僕が彼女に告げようとしていた言葉が、脳裏をよぎり、息が詰まる。
「それくらい分かるよ。あの時、廉は舞の姿をした私に、好きだって言おうとしていたでしょう。あの時、そう言ってくれれば、何もこんな状態にならなくてよかったのに––––」
 僕は雫の言葉を遮り、必死に、言葉をひねり出そうとする。

 何を言えばいいのだろう。
 僕は、雫にどうしてほしいのだろう。

 雫自身はそれを望んでいないのだ。助けるという表現も間違っている。
 それでも、舞が意識を失って、打ちひしがれていた僕を支えてくれたのは、雫だったはずだ。

「このままじゃいけないことは分かっていた。でも、もうどうすればいいか分からなかった。雫は、そんな僕の背中を押してくれた。いつかきっと、舞は意識を取り戻す。そのとき、廉がそんな状態だったら、きっと舞は悲しむと、僕を勇気づけてくれた」
 そして僕は、また外の世界を歩けるようになった。

「何度もうちに来て、ドアをノックしてくれた。僕が無視しても、何も言わず部屋の前にいてくれた。雫のおかげで、僕は一人じゃないって、思えたんだ」

 それは、本心からの言葉だったのか。あるいは、雫を助けたい一心で、創り上げた嘘だったのか。今となっては分からない。
「僕は、雫に生きていてほしいよ」
「……どうして、そんなことを言うの。もう、私は手遅れなんだよ。舞の人形を使ってしか生きられないのに」
 雫は、ため息をついて、俯いた。

「もういい。私は……」
 今しかない。そう思った僕は、ベッドに横たわる雫の本体に近づき、機械のスイッチを切った。すると、次の瞬間、舞の人形が膝から崩れ落ちた。
 すぐに雫の本体の方を見る。

「えっ……」
 雫は、自分の身体に戻っていた。その事実が信じられないという表情で、彼女は自分の掌を見つめていた。

 機械のスイッチを切っても雫が目を開けなかったのは、彼女自身が自分の身体で活動することを拒否していたから。逆に言えば、スイッチを切って意識が戻ったということは、彼女の中に自分自身として生きたいという感情が残っているということだ。
 僕は、琴平華月から受け取った『金槌』を、鞄から取り出す。

「……何、それ」
 雫を助けるために、何をしなければいけないか。
 先生の言うとおりだった。しなければいけないことは、誰が考えたって明白だ。

「やめて! 早くそれを渡して!」
 雫は、髪の毛を振り乱し発狂するが、離人症の影響で身体が思うように動かないのか、立ち上がることができずにいる。 

 僕は、舞の人形へ向き直った。

 膝から崩れ落ちた人形は、静かに横たわっている。
 舞の笑った顔、不貞腐れた顔、優しい顔。この人形と過ごした日々の思い出が呼び起こされる。

 ふと、自分の頬が冷たいことに気づいた。手で触ると、いつの間にか、自分の頬から雫が伝っているのが分かった。

 僕は、どうして泣いているのだろう。

 雫への同情か。あるいは怒りか。舞と会えなくなることが辛いのか。ようやく、舞が死んだのだという実感が湧いてきたのかもしれない。

 全ては作られた夢だった。僕はその夢から覚めたくなかった。それは事実だ。
 だが、最終的に僕が望んだことは、ただ雫に生きてほしいということだった。というより、もう誰も失いたくないという気持ちが強かっただけなのかもしれない。

「……さようなら」
 僕は、そう呟いてから、金槌を振り下ろした。

 その瞬間、舞の人形が、微笑んだような気がした。


 ガシャン、という音とともに、舞の人形の頭部は砕け散った。


「ぁ……ぁぁ…ああああああああぁァァァァァァァァァ‼」
 僕は、泣きながら舞に這い寄ろうとする雫を抱きしめた。


 二人しかいないその部屋には、いつまでも、彼女の悲痛な慟哭だけが響き続けた。