あの日から、毎晩悪夢を見続けているような気がする。確証が無いのは、起きた時には、いつも夢の内容を忘れてしまっているからだ。ただ、いつもシャツが大量の汗を吸っていて気持ちが悪く、目の下には涙が流れた痕があり、ひどく疲れているのだ。最悪な寝覚めに慣れることは無く、疲れが取れない毎日に心身は確かに蝕まれつつあったが、私は自身の不調に見て見ぬふりをする。
ごく普通の両親の元で生まれ、惜しみなく愛情を注がれて幸せに過ごすはずだった私の人生がそうでなくなったのは、他ならぬ私自身のせいだ。
生まれた時から、感情を表現することが苦手だった。眠くてもお腹が空いても、泣くことがない私に、両親はさぞ困惑したことだろうと思う。
二人は病院などに相談に行くたびに、育て方を間違えたのかもしれない、私たちの愛情が足りないのかもしれないと、私への接し方を試行錯誤し続けた。それでも、私が変わることはなく、彼らは心身をすり減らしていった。
最初に根を上げたのは母だった。あの子が何を考えているのか分からない。どう接していいのか、もう分からないと、母が父に話すのを扉越しに聞くことが増え始めた。
誰かのために何かをしてもしなくても、反応が何も変わらないのなら、やらなくてもいいという思考になることは、自然なことだと思う。
やがて家事が徐々に雑になり、苛立ちが目に見えるようになってきてから、父が家のこともやるようになった。
その時、父は初めて私に尋ねた。
「雫は、私たちに、どうしてほしい?」
困惑した。両親からの愛情は十分すぎるほどに伝わっていたし、既に満たされていたから。だから、うまく答えることができなかった。父は、母のことは気にしなくていいと笑っていたが、失望させたのは明らかで、限界が近いのが見てとれるほどには、やつれていた。
私は焦った。どうすれば彼らを満足させることができるだろうか。私は彼らの子供として、どういう態度を取ればいいのか。必死に考え、彼らが望んでいるのは、笑ったり泣いたり、感情を発散させる子供なんだということを理解するのに、そう時間はかからなかった。
それから、私は、がむしゃらに感情を表現しようと奮闘した。そもそも普通の人がどういう時に笑い、怒り、泣くのか、まるで分らなかった私は、両親を観察し、人がどういう時に笑うのか、どういう時に怒るのか、どういう時に泣くのかを学んだ。表情の作り方を鏡で必死に練習し、お茶の間で披露した。愛情を伝えることが大事だと思い、両親に大好きであるとこまめに告げた。
急に変わった私に、両親は当初困惑していた様子だったが、やがて嬉しそうに、新しい私を受け入れた。
母の体調も良くなり、以前と同じくらい家事ができるようになった。そのおかげで、父の顔色も目に見えて良くなった。
これでいい。私は、やっと彼らの望む、普通の子どもになれたのだ。そんな矢先だった。
私は倒れて、病院に運ばれた。
「原因は、なんでしょうか」
母が医師に尋ねる。
やめて。
お願いだから、言わないで。
「ストレスの可能性が高いですね。何か心当たりはございませんか?」
医者は淡々と、両親にそう問いかけた。
病院は最初に虐待に気づく場所でもある。彼らにしてみれば、子供を守るための質問だったのかもしれない。
「雫。無理をしていたの?」
そう尋ねる母の目からは、すでにボロボロと涙が溢れ始めていた。
「違う。無理なんてしてない」
咄嗟に否定した。だが、私の訴えも虚しく、母は私を縋り付くように抱きしめ、「ごめんね。雫、ごめんねぇ」とすすり泣いた。父も泣いていた。
どうして、上手くいかないんだろう。
私は、自分が失敗したことを理解した。そして、この程度の演技にも耐えられない自分の身体を呪った。
それからは、どれだけ上手く演技をしても無駄だった。表情を作れば作るほど、私が無理をしているのではないかと心配するようになった。
自分が今までうまく表情が作れなかった理由について、そういう病気なのではないかと説明した。感情が表情に出にくいことに、ずっと悩んできたのだと話すと、両親は、私に深く同情した。今まで辛かったねと言って。
私は、両親を騙しているようで気分はあまり良くなかった。確かに、それが原因である可能性も否定はできないだろう。しかし、感情が表情に出にくいことを、少なくとも私は病気だとは思っていない。
両親にとって、『よくわからない病気』が全ての原因であるという解答は、救いだったのかもしれない。
そんな人間が、外でうまくやれるはずもなく。幼稚園でも、予想通り私は孤立した。だが、予想通りでないこともあった。子ども達は、親と子の関係ではなく、対等であるということだ。つまり、気に入らないという理由で、私は気の強い子たちの反感を買うこととなってしまった。彼らは時々、私に対し、無関心を貫くのではなく、排斥しようと躍起になった。
子供の頃のあだ名は、『人形』だった。何を考えているのか分からず、気持ち悪いからという理由だと、誰かから聞いた。
さんざん人から言われてきた言葉だ。
結局、友達が一人もできることなく、私は小学生になった。
小学生になったところで、基本的にこれまでと何も変わることは無かった。だが、明確に変わったことが一つあった。それは、勉強や読書が、正しいこととして大人に評価されることになったということだ。
幼稚園の時、ひらがなを丁寧に書けば、先生に褒められた。もっとも、あの時は勉強ができることより、元気に遊びまわらないことを心配されていたが。小学生でも最初は同じような扱いだったが、学年が上がるにつれ、それは一つのキャラクターとして確立されていった。
将来を考えている、がり勉。図らずとも、私はその地位を獲得した。
勉強さえしていれば、少なくとも大人たちは、とやかく言わない。
とはいえ、相変わらず私の周りには友達はおらず、陰口を言われることもあったし、時には暴力を振るわれることもあったが。
転機が訪れたのは、小学五年の時だ。私は、蓮井廉という男の子と同じクラスになった。
印象の薄い男の子だった。クラスで目立っているわけでもなく、自己紹介で野球をやっていると言っているのを聞いて、少し驚いた。
ろくに会話もしたことがなかった彼が、突然私に話しかけてきたのは、梅雨が明けてからのことだった。
「鏡野ってさ、何か習い事とかやってるの?」
「……やってないけど」
「暇なんだったら、野球やらない? 人数足りないんだよ」
何でも、体力測定のソフトボール投げで、私が良い記録を出したことを聞いたらしい。
私は、スポーツの類を面白いと思ったことが無かったので、純粋に聞き返した。
「野球の何が面白いの?」
「はぁ?」
それからというもの、何のスイッチが入ったのか、廉は事あるごとに、私に対して野球というスポーツの面白さを力説し始めた。私はそのたびに、それは野球じゃなくても味わうことのできる高揚感であると説明し、野球でなければならない必要性について、彼に説明を求めた。
大抵の子は、この時点で『めんどくさい奴だから関わらないでおこう』と距離を置くのだが、彼は違った。投げ出すことなく、不器用ながらも、少ない語彙力で、どうにか私に野球の面白さを伝えようと努力していた。
廉と関わることで、私のクラスでの立場に変化が生じ始めた。教室で野球についての問答を始めると、またいつものが始まったと、周囲が面白がり始めたのだ。やがて話のテーマは野球だけにとどまらなくなり、男子は、女子はという話になり始め、ついに男子は廉の擁護をし、女子はなんと私の擁護をし始めたのだ。クラス内で男子対女子の構図が出来上がってしまったことで、困り果てていた女性の担任の新任教師には、本当に申し訳ないという気持ちしかない。
でも、私はそのおかげで、他の女子と打ち解けることが出来た。がり勉としての立場は変わらなかったが、時々、勉強を教えてほしいと頼まれることがあったり、なぜか恋バナに参加させられたりすることもあった。
廉は、他の人に接する態度と、まったく同じ態度で私に接した。
困惑した。どうして、皆と同じように接してくれるのか。
一度、彼に直接聞いたことがある。すると、彼はぶっきらぼうにこう答えた。
「僕、野球以外に興味ないから」
私は可笑しくなって、笑ってしまった。
六年生になり、クラス替えがあった。廉とはクラスが離れてしまったが、同じクラスの女の子がいて、私はもう一人になることは無かった。また、野球に興味は無かったが、恩返しの意味で、私は少年団に加入することにした。それを両親に告げた時の、ポカンとした二人の顔は、今でも忘れられない。
廉は、あれだけ言い合いをしていたにもかかわらず、私が少年団に加入したことを誰より喜んだ。
地元の少年団に加入して、一人だけ女の子がいた。白鷺舞という子だった。
驚いたのが、身長も低いのに、彼女はチームの中でもかなり野球が上手い方だった。そして、その子は私と同じクラスの子だった。
元気で可愛い女の子で、私とは正反対の苦手なタイプだと思っていたのに、舞は私に積極的に話しかけてきた。前のクラスでも、自分から私に関わろうとする子はいなかったのに。
何を考えているのか分からなくて、私が気持ち悪くないのかという質問に、彼女はこう答えた。
「そう? 私は、雫が考えていることが、なんとなくわかるけどな。それに、やっと女の子のチームメイトが出来たんだもん。絶対離すもんか!」
他の人が言えば、皮肉にしか聞こえないような言葉でも、彼女が本心からそう言っていることが、不思議と理解できた。
彼女は、よく笑い、よく怒り、よく泣いた。彼女が笑うと私も楽しくなり、彼女が泣くと私も悲しくなった。彼女の最たるは、周囲の人間への影響力だった。私を含め、周囲の人間は、彼女のその魅力に惹きつけられていたと思う。
私が出来なかったことだ。その姿に、私が憧れを抱くまで、そう時間はかからなかった。
休日は、舞に誘われて、外に遊びに行くようになった。元々勉強は好きでやっているわけじゃなかったし、舞との予定を優先するようになった。
ショッピングもお祭りも彼女といると、私も楽しい気分になった。
舞は、奥手な私をいろんなところに連れて行ってくれた。
ひそかに中学受験を考えていたらしい母は残念そうにしていたが、それでも友達が出来たことを一番喜んでいたのも母だった。遠出をする時は、父が車を出してくれた。
廉は、本当に野球一筋だった。少年団の練習があるのは土日だけだったが、平日の放課後も、彼と仲の良い片桐修一という男の子と一緒に、グラウンドで野球の練習をしているのをよく見かけた。
「雫はさ、廉のことが好きなの?」
いつか、舞と二人で出かけている時、彼女にそう尋ねられた。
「どうして、そんなことを聞くの?」
「練習の時とか、よく見てるから」
それを言われて、私は恥ずかしくなった。無意識のことだろう。舞に言われるまで、気づいていなかった。
そして、私は初めて廉に対する自分の気持ちについて考えた。
自分を助けてくれた恩人。
それに、たぶん、廉も舞のことを……。
「……私にとっては、恩人。そして、今は友達。それだけだよ」
私は、舞にそう答えた。
つまるところ、私が廉のことをどう思っていようが、関係ないのだ。仮に好きだと伝えたところで、彼の気持ちが自分に向くことなどあり得ないのだから。
何より、私は、舞の邪魔はしたくなかった。
「本当に?」
「うん」
なかった事にしよう。大丈夫。私はそういうの、得意だから。
舞と廉がそんな感じだったので、学校では、舞と仲の良い私と、廉と仲の良い修一を含めた四人で一緒にいることが多かった。練習帰りとかは、廉の弟の翔くんを含めた五人になることもあった。
修一は、最初は軽薄そうな印象だったが、話してみると、悪い人ではなかった。
ある日、学校の課題で将来の夢について考えてくる宿題が出された。学校からの帰り道、いつもの四人で帰っているときに、舞は将来の夢の話をみんなに聞いていた。
「将来の夢、何にした?」
このくらいの年齢になると、仮面ライダーになりたいなどと言いだす子はいなくなり、皆警察官や医者など、具体的な職業を挙げるようになっていた。
「決まってるだろ。プロ野球選手だよ」
廉はプロ野球選手になることが、現実的な未来であると信じきっているようだった。
「修一は?」
「まあ、親父の会社だろうなー」
「雫は?」
「私も、まだ」
いつかは考えなきゃいけないことなんだろうと思っていた。
何かにならなきゃいけない。
何かになるってことは、今の自分じゃなくなるということだ。
「私は、今が楽しいよ。これがずっと続くだけでいいんだけどな」
「そっかー」
「舞はまだ悩んでるの?」
「うーん」
「別に、ここで決めたものに、ならなければいけないわけじゃ無いんだからさ。テキトーに学校の先生になりたいとか言って誤魔化せばいいじゃん」
壮大な話に成りかけたところを、修一が目の前にある宿題の乗り切り方に引き戻したところで、この話は終わりであるように思われた。
「まぁ、そうなんだけどさ」
舞はすっきりしない表情で、空の遠くの方を見つめていた。
その次の休日、舞の部屋で遊んでいる時、真面目な顔をして舞は私に聞いた。
「誰にも言わないって、約束できる?」
私が頷くと、舞は机の引き出しから、大量のスケッチブックを取り出した。
「中、見てみて」
スケッチブックを開くと、鉛筆で描かれた絵が所狭しと敷き詰められていた。別のスケッチブックには、漫画が描かれていた。
「漫画?」
「うん。廉にも言ってないんだ。知っているのは、雫だけ」
えへへ、と舞は恥ずかしそうに笑った。
「羨ましかったんだ。夢を聞かれて、躊躇なくプロ野球選手だと答えられる廉がさ」
しばらくして、夏休みになった。
舞と二人でプールに遊びに行った日。
照れたように顔を背けながら、舞は言った。
「花火大会さ、二人で行かないかって、廉に誘われた」
「え」
少し、胸が痛んだ。
でも、予想していたことだ。
「どう思う?」
「いいんじゃない? 二人で行ってきなよ。私は修一と行くからさ」
「……うん」
そして、運命の日。
私は、修一と一緒に花火大会に行くことになっていた。
会場に行く途中、路地を歩いていると、廉が自分の家に向かって走っているのが見えた。
声をかけようと思ったが、廉は私に気づかずに走り去ってしまった。
そして、もう少し歩いたところで、今度は舞に出会った。
舞は私に気づき、不安そうな顔で声をかけた。
「あ、雫! 廉を見なかった? 浴衣の着付けで遅くなって、待ち合わせの時間に遅れちゃったの。急いで来たんだけど……」
胸が高鳴る。その高鳴りを隠すかのように、私は。
「……ううん、見なかった。会場の方に行ったんじゃない?」
そう答えた。
「あいつら、イチャイチャしてんのかなー。なんか複雑な気分」
二人で売店を巡りながら、花火が上がるのを待っていた時、不意に修一がそんなことを口にした。
「修一も、舞が好きだったの?」
「いやぁ、そういうわけじゃない。ただ、この四人の関係が心地よかったからさ。二人が付き合ったら、今までと同じってわけにはいかないだろ。それはなんか嫌だなと思って」
「修一でもそう思うんだ。なんか意外。他にも友達多いのに」
「ひでぇな。お前、俺をどんなやつだと思ってたんだよ」
「人たらし。気遣いお化け」
「……ハハ」
修一は肯定も否定もせず、乾いた笑いを浮かべた。
「私はこの仲間しかいないから。修一よりそれは切実な懸念事項なんだけど」
「じゃあ、僕たちもいっそ付き合うか?」
修一はいつもと何ら変わらない、ヘラへラした調子でそう言った。
私は、どういう顔をしていたんだろう。冗談だとは分かっていたけれど、上手い返しが思いつかず、ただじっと彼の顔を見つめていた。
しばらく、無言の時間が流れた。数秒だったか、あるいは数十秒だったのか、どれくらいの間、沈黙が続いたのか、今となってはもう覚えていないけれど。
不意に彼が「冗談だよ、冗談」といって、別の話をし始めた。
「……ねぇ」
「ん?」
「舞から、何か聞いたの?」
「何のこと?」
修一の表情からは何も読み取れなかった。
「……いや、何でもない」
それからは、何の話をしていたのか、よく覚えていない。
花火が終わり、修一と別れて家に帰ると、母が血相を変えて出迎えた。
「舞ちゃんが、事故に遭ったって……」
血の気が引いた。
私は母の制止を振り切って、家を飛び出した。
無我夢中で病院に向かって走った。
「なんでよ……」
舞に放った言葉が、脳裏で繰り返される。
舞は集中治療室にいた。舞の両親と、呆然と立ち尽くす廉の姿があった。その表情を見て、私は、舞の容体が良くないことを理解した。その後、私は私を追ってきた母に無理やり家へと連行された。
翌日、舞と廉は学校に来なかった。
舞は意識が無い状態であることが、担任の先生の口から告げられた。
舞の家族は、専門の病院へ舞を入院させるために、この町を出ていくことになった。
その日から、廉が笑うことは無くなった。必要最低限のこと以外喋らず、塞ぎ込むようになった。また、給食の時間に嘔吐するようになった。
最初の頃は皆心配していたけれど、しだいに誰も彼に近寄らなくなっていった。私や修一は、どうにかしてあげたいと思い、彼の側に居続けた。けれど、実際にはなにもすることができなかった。
しばらくして、廉は学校にも少年団の活動にも来なくなった。修一と一緒に、何度も彼の家を訪れたが、彼が部屋から出てくることは無かった。
「ごめんね、いつも来てくれてるのに」
そう私たちに言ってくれる廉のお母さんは、本当に辛そうだった。
「俺たちの言葉は、もうあいつには届かないんだろうな」
もう何度目になるか分からない廉の家からの帰り道、修一はぽつりとそう呟いた。私は否定したくても、できなかった。
「廉、来たよ」
廉の部屋の前に座り込む。
彼からの応答は無いが、私は「ここにいるから」とだけ言って、扉の前で座り続けた。
「帰ってくれ。……誰にも、会いたくない」
二時間くらい経って、部屋の中から廉の声が聞こえた。ずっと誰とも喋ってなかったのか、彼の声は掠れていた。
「分かった。また来るから」
その後も、私は度々廉の家を訪れて、同じことを繰り返した。時折、彼の声を聴けるだけで、嬉しかった。
また、弟の翔くんは変わらず学校にも少年団にも来ていたので、彼に家での廉の様子について聞くことが多かった。
「廉、どんな感じ?」
「どうもこうも無いよ。相変わらず部屋からは出てこないし。最近じゃ、ドアの前に飯置いといても、あんまり手が付けられない状態で戻ってきたりするって、母さんが心配してる」
彼は呆れたように言う。
「お風呂とか、あとトイレは?」
「風呂は平日の日中に入ってるみたいだな。僕も母さんもいないから。トイレはたまに出てきてすれ違うけど、なんか髪もぼさぼさで、表情も虚ろで廃人みたいになってるし、話すことは無いな。母さんはすれ違ったら、なんか一言二言喋ってるけど、すぐに部屋に戻っちゃうから」
「そっか……」
「うちさ、父親がいないでしょ? こういう時さ、無理やりにでも部屋から引っ張り出したりできるのって、父親だと思うんだよ。母さんは、どうしていいか分からないって感じだし。その母さんも、パートで忙しそうだからさ。無理やりにでも病院連れてった方がいいのかもな」
状況は何一つ好転することなく、私たちは卒業式を迎えた。
卒業式の日も、廉は学校に来ることは無かった。
私は、修一と二人で廉の家に卒業証書を持って行った。
出迎えた廉のお母さんは、随分とやつれてしまっているようだった。
「本当に、今までありがとう。でも、もう中学生になるんだし、無理して来なくていいから」
彼の母は、深々と頭を下げた。
「そんな、無理なんかしてないです。僕たちは、廉に会いたくて、来たくて来てるんですから」
「中学生になったら、部活とかあるでしょう。勉強だって、難しくなるだろうし。廉のことは、時間をかけて解決していく問題だと思ってるから。これまでもそうだけど、これから先の中学生、高校生っていう時間は、本当に濃くて楽しくて、あっという間に終わってしまう、大切な時間なのよ」
「でも……」
「あの子に会いに来てくれるのは本当に嬉しいけれど、それであなたたちの人生を変えてしまうわけにはいかないの。どうか、分かってちょうだい」
私たちは、言い返すことができなかった。
「あの子がまた外に出られるようになった時、またあの子と友達でいてくれるだけで、こんなに嬉しいことはないわ」
その日の帰り道、修一は不意に「雫」と私を呼び止めた。
「何?」
「……中学に入ったら、俺は野球部に入ろうと思ってる」
修一は、少し言いづらそうに、目を逸らしながら言った。
「平日も、放課後は練習があるし、休日も試合の日が多くなる。試合がなくても練習になると思う」
それはつまり、これまでのように廉の家にくるのは、難しくなるということだ。
「うん。そうだろうなって思ってた」
「……ごめん」
「謝ることじゃない。さっき、廉のお母さんも言っていたでしょう」
「俺だって廉が心配で、廉に会いたくて来てたんだから。これからだって、本当は……」
「大丈夫だから」
「雫はこれからも、通うつもりか」
「うん」
「……そうか」
その問いには、本当にそれでいいのかというニュアンスが含まれていたと思う。でも、彼が私にそれを問いかけることはなかった。
案の定、廉のお母さんには質問責めにされた。
「雫ちゃんは、何か入りたい部活とか、ないの?」
「特にありません」
「案外、やってみたら楽しいってこともあるわよ。文化系の部活とか、いいんじゃない?」
「でも……」
「平日だけ活動しているような、緩い部活とかだったら、休日はうちに来られるでしょ? せっかくなんだし、何かやってみたら? 合わなかったら、辞めればいいだけよ」
廉のお母さんは、私を心配して言っているのだろう。私が受け入れない限り、同じような話が今後も繰り返される気がする。
「……考えてみます」
テキトーな部活に加入したことにすればいいかとも思ったが、廉が部屋から出てこないので、彼の家に行くとお母さんと話すことが多いことを考えると、普段の会話からボロが出る可能性が高い。
仕方なく、私はなるべく活動が少ない部活に入部することにした。
その点で、現在部員が四人しかおらず、廃部を避けるため、幽霊部員でもいいからと新入部員を募集していた演劇部は、都合が良かった。名前を貸すが、ほとんど休日は参加できないという私の申し出を、演劇部の部長は快く受け入れてくれた。
両親や周囲の人を安心させる演技をしてきたことが、こんなところで活かされるとは思ってもみなかったが、部長は「才能あるよ」と私を手放しで賞賛した。
「君は、キャラクターを分析するのに長けていると思う。その人物がどんな場面でどんなことを思い、考えるかを、君は細かい部分まで想像することができているように思える」
台本を読み、自分が演じる人物の背景を理解する。そして、その背景から、この場面でどうしてその行動を選択したのかを想像する。私は、どんなキャラクターであっても、その設定が明確であればあるほど、上手く演じることができた。私は、演劇にのめり込んでいった。
やがて廉の家に行ってチャイムを押しても、玄関の戸を開けてすらくれなくなった。従って、廉のお母さんが仕事のある日以外は、家に入ることができなくなり、部活動に顔を出す回数が増えていった。
舞のお見舞いは、距離的に長期休みでないと難しいので、夏休みと冬休み、そして春休みと、年に三回くらいの頻度で行っていた。
部屋には真っ白なベッドが一つだけ置かれており、目を閉じた舞が横たわっている。
私はベッドの脇に置いてある椅子に座って、横たわる彼女に声をかける。
「ごめんね」
私の言葉に、彼女は反応しない。
いつものことだ。そのことを気に留めず、もう何度目か分からない同じ言葉を、それでも私は彼女に向かって一方的に投げかけ続けていた。
彼女は、ただ眠っているように見えた。次の瞬間にでも、目を開けて、「おはよう」と私に声をかけてくれるのではないか。そんな想像を、これまでに何百回、何千回と繰り返してきた。
しかし、その期待とは裏腹に、彼女が目を開けることは無かった。
現実は、どこまでも非情だと思う。気持ちの整理なんてさておいて、時間は止まることなく進んでいくのだから。
日が落ちると、私は椅子から立ち上がり、病室の戸を開ける。
口に出してしまえば、それが現実になってしまいそうな別れの言葉を喉の奥で押しつぶし、何も言わずに私は彼女の病室を後にするのだが。
「雫さん」
何度目の来訪のことだったか、覚えていない。
その日は、帰り際に舞のお母さんとすれ違った。
「いつも、こんな遠いところまで、ありがとうね」
「……いえ、好きで来ているだけですから。では、失礼しま—」
「待って」
そのまま帰ろうとしたところを、彼女に呼び止められ、私は足を止める。
「ねぇ。この子、どんな状態だと思う?」
「え?」
舞のお母さんは、怖いくらいに無表情のまま、堰を切ったように喋り出した。
「お医者さんが言っていたの。ここまで生きていること自体、すごいことなんだって。でも、仮にこんな状態でも意識があるとして、身体を動かすこともできず、意思疎通を図ることもできない。これほど辛いことって、無いんじゃないかしら。このまま、この状態にしておくことは、この子のためになるの?」
「……どう返答していいか、分かりません」
私がそう返答すると、彼女は申し訳なさそうな顔で、頭を下げた。
「……そうよね。ごめんなさい。あなたくらいにしか、こんな話をできなくて」
親と同じくらいの人が、私のような子供に、頭を下げて茶化さずに謝ることが、とても奇妙なことのように思われた。
舞のお父さんとは、そういう話をしないのだろうか。
ごめんなさい。
彼女の言葉が、脳で再生される。
まるで、悪いことをして叱られている子供みたいだと、素直にそう思った。
「失礼します」
なぜか無性に腹が立って、私は病室を後にした。
去り際に、彼女が呟く声が聴こえた。
「いつまでこんな日が続くんだろうって、そう思うのは……悪いことなのかな」
中学三年のある日、翔くんから電話があった。
「廉が倒れた」
私が急いで病院に向かうと、廉は病室のベッドで点滴を受けながら眠っていた。彼のお母さんも、横で寝ていた。
「栄養失調だってさ。飯、ほとんど食ってなかったみたい」
翔くんは、泣きながら私たちに頭を下げた。
「ごめん、僕、居ても立っても居られなくて。誰に連絡していいのかも分からなくて……」
「良いんだよ。私たちは、今でも廉の友だちだから」
私はそう言って、翔くんを抱きしめた。
ショックだった。廉が倒れたことより、自分に対して。演劇にのめり込んで、いつの間にか廉のことを忘れる時間が増えていた。
私は、部活に行かなくなった。
病院に入院したことで、廉は部屋に閉じこもることが出来なくなった。そのおかげで、病院へ行けば、彼と久しぶりに顔を突き合わせることが出来た。私は廉のお見舞いということで、時折、病院に通い始めた。修一は、野球部の活動があるからなかなか来られなかったが、それでも、月に一度は顔を見せた。
廃人という翔くんの言葉が、的確な表現であったことを思い知る。まるで生気が感じられず、自分で生きていこうとする気力も欠けているように見えた。
廉は私の方を見て、力無く言った。
「なんて言ったらいいか……。心配かけて、本当にごめん……」
私はいろいろな言葉を彼に投げかけた。
「このままじゃいけないことは、僕も分かってる。でも、身体が思うように動かないんだ。あの日、ヘアピンを取りに帰らなければ……祭りに誘わなければって、そんなことばかりが頭を巡るんだよ……」
「落ち着いて、廉」
私は、廉の手を握る。
廉は泣きそうな顔で、私の方を見る。
「大丈夫。舞はきっと、意識を取り戻すよ」
これでいい。
いつか、舞が目を覚ませば、きっと彼はまた、自分の足で立ち上がれるはずだ。
私はそう信じていた。
だが、現実は、そんな綺麗な物語にはなってくれなかった。
高校一年の冬。夕食を食べている時、舞のお母さんから急に電話がかかってきた。
「もしもし。……あ、こんばんは、お久しぶりですー。はいー。……えっ––––」
徐々に低くなっていく母の声のトーンを少し離れた場所で聞きながら、私は只事でないことを感じ取っていた。
「そんな……。ええ、雫も……。……ごめんなさい、少し……」
「どうしたの」
母の鼻水を啜る音が聞こえ、私は母の元へ向かった。
母は泣いていた。そして言った。
「舞ちゃんが……舞ちゃんがね。……亡くなったんだって」
「……え」
「雫さんとは、本当に仲良くさせてもらったし、お見舞いにも来てくれていたからって、舞ちゃんのお母さんが」
ショックで頭が真っ白になった。何を言えばいいのか、分からなかった。
どれだけの時間が経過したのだろうか。気づくと、電話が終わっていて、母が私を抱きしめていた。
実感が無いせいか、涙は出なかった。
母が部屋に戻った後、私は無意識にリダイヤルのボタンを押していた。
「もしもし」
「……雫さん。ごめんな——」
「蓮井くんには、もう伝えましたか?」
私の口をついて出てきたのは、恐ろしいほどに、冷静な声だった。
「い、いえ、まだ言ってないけれど……。どこまで伝えた方がいいのかなと思って。あなたと舞はよく一緒にいたけれど……」
そうか。この人は舞と廉の関係を知らない。ただの小学校の時の同級生だと思っている。
「彼には伝えないでください」
「え?」
「今の状態の彼に伝えるのは、非常に危険なんです。私からタイミングを見て伝えますから」
「でも……」
「今も彼は、病院にいます。下手をすると、自殺でもしかねないくらい、追い詰められているんです。お願いします」
私は必死に頼み込んだ。
尋常じゃない私の声の調子から何かをくみ取ったのか、舞のお母さんは私の願いを聞き入れた。
翌日、私は新幹線で舞のいる地方に向かった。
『蓮井君に渡してほしいものがある』
そう、舞のお母さんは言った。
舞が亡くなったのは、一か月前で、葬儀は身内で済ませたと言っていた。
「遠いところを、本当にありがとうございます」
舞のお母さんは、ペコリと頭を下げる。
彼女は、前に会った時よりも明らかにやつれていた。まともに寝られていないのか、目の下に隈ができている。声は穏やかなものだったが、冷静でいようと努めていることは、容易に想像できた。
案内された場所には、『白鷺舞』と名前が刻まれた墓があった。
私は、ようやく実感した。
ああ、私の友人は、本当に死んだんだ。
涙は出なかった。
どうして、今日まで生き続けたのだろう。現実的な話、心臓が動き続けたからという理由に他ならないわけだが、それでも、思わずにはいられなかった。
やり残したことだらけだっただろう。生きていれば、彼女は望むものが手に入れられただろうに。
「舞は、どんな最期だったのですか」
「結局、目が覚めることはなくて……。そのまま、眠るように」
舞のお母さんは、目を伏せたまま、そう答えた。
フラッシュバックするのは、最後に会った浴衣を着た舞の姿だ。
結局、舞の意識はあったのだろうか。もしあったとしたなら、舞はベッドに横になりながら、何を思っていたのだろうか。
「蓮井くんに渡したかったものがあるの」
舞のお母さんはそう言って、くしゃくしゃになった一枚の紙を私に差し出した。
「あの子のポケットから出て来たの。くしゃくしゃになっちゃったんだけど……。ほら、一番上のところに、廉へって書いてあるでしょう? あなたから、タイミングを見て蓮井くんに渡してくれるかしら」
「分かりました」
「私はもう……疲れちゃったわ」
彼女はそう言って、虚ろな目で空を見上げた。
その心中を完全に理解することは、私にはできなかった。
帰宅した私は、修一の携帯に電話を掛けた。
私は、修一に舞が息を引き取ったことを伝えた。
『……正直、まだ信じられないんだけど』
「廉には、絶対に言わないで」
修一が息を吞んだことが、電話越しに分かる。
『それは……俺も真っ先に心配したことだけど……』
「舞のお母さんには、廉のお母さんには言わないでって、口止めしたから。私からタイミングをみて伝えますって。だから、私たちが言わなければ、すぐには廉にはバレない」
『口止めって……いずれバレることだぞ』
「どうしてよ!」
『落ち着けって。廉だって回復したら、いずれ舞のお見舞いに行こうとするんじゃないか?』
修一のその言葉で、自分の身体から血の気が引いたのを自覚する。
どうする。
どうすればいい。
「違う病院に移ったというのは?」
『いや、ダメだ。じゃあ、どこの病院にって話になる。さすがに舞の両親も、聞かれたら言わざるを得ないだろ』
舞が死んだと知ったらどうなる。今度こそ、生きる気力を無くしてしまうかもしれない。
嫌だ。それだけは何としても避けなければいけない。
廉が病院へ行ったら、もう隠しきれない。でも、病院に行く廉を止める、合理的な理由が無い。
いずれはバレることだ。なら、せめて、彼の精神が安定してから。彼が立ち直って、自分の足で歩けるようになるまで……。
そこまで考えて、私は一つの可能性に思い当たった。
確か、廉が医者から……。
「人形……」
『え?』
「……とにかく、廉にはまだ黙っておいて」
私はそう言って、電話を切った。
私は、人形について徹底的に調べた。
そして人形師と呼ばれる、人形を製作している人たちの存在を知った。
個人でやっているところで、かつ融通の効きそうな人物を探し、私は琴平人形店を見つけた。
私は、山のふもとにある一軒家を訪れた。
「すみません」
呼び鈴はどうやらついていないようだったので、私は入口のドアをノックし、声をかけるが、返事は無い。
もしかして、と思い戸を横に引くと、カラカラと動いた。
「お邪魔します……」
恐る恐る、扉を開けると、目に入ってきた光景に、私は思わず息を呑んだ。
そこには、所狭しと人形が並んでいた。老若男女問わず、手のひらサイズの小さなものから、等身大のものまで、様々な種類の人形があった。
そして、人形に囲まれた部屋の真ん中に、作業着を着た一人の女の人が座っていた。
透き通るような白い肌に、漆黒を思わせる、塗りつぶしたような黒髪。
鳶色のはっきりとした目に、感情が消え失せたような無表情。
周囲の人形より、動いている彼女がどの人形よりも作り物めいていた。
「あ、あの……あなたが人形師なんですか?」
「そうですよ」
突然、彼女の足元にあった銀髪碧眼の小さな人形が喋り始めた。
作業着を着た女の人は、その小さな人形を胸に抱え、じっと私の方を見つめている。
「琴平華月と申します。以後、お見知り置きを」
小さな人形ではなく、作業着を着た美人の子がペコリと頭を下げる。
「あ、はい……はじめまして」
私の視線が泳いでいるのに気づいたのか、小さな人形は言った。
「ちなみに、店主は私です。この子は助手で、身体を動かせない私に代わって、人形を作ってもらっています」
「そうなんですね……」
「それで、依頼ですか。私のところまで直接依頼に来るということは、何か特殊な事情がおありなんでしょうか。あるいは、オーダーメイドですか?」
私は、深呼吸をしてから、はっきりと言った。
「容姿の違う人形を作ってほしいんです」
空気が変わったのが、私にも分かった。しばらくの沈黙の後、小さな人形は口を開いて言った。
「どういう事情があるんです?」
「……」
「言いたくないですか。基本的に、本人と違う姿の人形を作ることはできないんだけどね。自己との乖離がより顕著に見られるから。あとは、犯罪の防止とか、色々ね。合理的な説明が無ければ、作ることはできません。ここまで来るくらいだから、そんなことは既に知っていると思ってましたが」
「ええ、知っています」
「にもかかわらず、直接私のところまで頼みに来るほど、あなたはその人形を欲している。その理由を教えてくれませんか」
誤魔化しは効かない。そもそも、普通の理由なら認められることは無いのだ。
ならばと、私はこれまでのことを、ありのままに話した。
琴平華月は、口をはさむことなく、黙って私の話を聞いていた。
「……以上が、私が別の容姿の人形を欲している理由です」
彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「その人が、人形の姿のあなたに好意を抱けば抱くほど、あなたは苦しむことになりますよ。姿の違う人形を自分自身であると錯覚させることは、かなり難しい。自分の身体に戻るたび、あなたは夢から覚める。自分自身の本当の姿を、ありのままの姿を愛してほしいという欲求が首をもたげる。あなたはそれに耐えられますか」
「……構いません」
私は想像する。廉の舞に向けられる目を。
頬を熱い涙が伝っていくのがわかる。
「ちなみに、人形ってどれくらいの値段なんですか」
「三百万円」
唇を噛む。予想はしていたことだが、やはり高い。
「言っておきますが、これでも譲歩している方なのですよ。制作費用と労力を考えたら、これくらいは最低でも取らないと、割に合わないので」
「分かってます。なんとかします」
小さな人形はため息を吐く。
「一つ条件を飲んでくれるなら、タダでも良いですよ」
「……条件?」
「ええ、条件です」
迷うことはなかった。頭を下げてお願いする。
「何の条件でも受け入れます。どうか、お願いします」
「……それほど、その人が大切なのですね」
その言葉には、どこか憐れみに似た感情が含まれているように感じられた。
「しかし。愛する人より、愛してくれる人と結ばれる方が、個人的には幸せだと思いますがね」
「え?」
彼女は、窓の外を見つめながら、ポツリとつぶやいた。
「気にしないでください。ただの独り言です。それで、どんな姿の人形がお望みですか?」
震える手で、私は自分のポケットに手を入れる。
もう、後戻りはできない。
私は、人形師に、舞の映った写真を差し出した。二人で休日に出かけた時に撮った写真だった。
「彼女が私と同い年くらいになった姿を、人形にしてほしいんです」
「なかなか無茶を言いますね。でも、まあいいでしょう」
「それで、もう一つ、お願いが……」
舞の入院していた病院は、遠方にあり、そう簡単には通えない。だが、廉がいつリハビリを開始して、外出できるようになるか分からない。あるいは、彼も人形をつかうことになるかもしれない。一度、舞のお母さんに拒否されたとはいえ、外出できるようになれば、再び彼が舞の病院にお見舞いに行こうとする可能性は、どうしたって否定し切れない。
それまでに、何とかしなくてはいけない。
「なるべく、早く作ってほしいんです」
「なるほど。でしたら、そこにある作りかけの人形を使うのはどうでしょう」
彼女は部屋の隅に置いてある人形を指差す。
「背丈とか、体格は比較的近いと思います。顔のパーツを変えるとか、細かい部分を微調整すれば、その女性を再現することはできるでしょう」
「助かります。何から何まで……」
「気にしないでください」
私は人形を使うための準備として、一人暮らしをすることにした。
親にバレたら、止められるに決まっているからだ。幸い、私が通っているのは進学校で、通学の時間を減らして勉強に打ち込みたいからと、一人暮らしをするための理由は整っており、同級生でも同じ理由で一人暮らしをしている子がいたことから、親を説得するのはそれほど難しいことではなかった。
「よお、久しぶり」
その日、私は、廉のお見舞いに行った帰りで、駅のホームで電車を待っていた。
振り返ると、修一が立っていた。
「久しぶりって……学校で会ってるじゃない」
「ここ最近、まともに話してなかっただろ」
「……今日、部活じゃないの」
「休んできた」
「珍しいね。こっちに顔を出すなんて」
「そうでもないさ。そんなに頻繁にではないけど、廉が倒れてからは僕もちょくちょくお見舞いに行ってるよ」
「そう。私は終わったから、先に帰るけど」
「とはいえ、反対の列車が来るまで、あと二十分はかかるだろ。少し付き合えよ」
修一は、構内の自動販売機でホットココアを二つ買い、一本を私に差し出す。
「何か、話があるんでしょ。でなければ、あなたが私を引き止めることなんてないものね」
「そうでもないぞ。まぁ、今日はその通りだけど。それで、廉の様子は、どうだった?」
「……いつも通りよ」
「舞が死んだことは?」
「伝えるわけがないでしょう。どんな行動に出るか、分かったものじゃない」
「だから、舞の人形を作ろうなんて思ったのか?」
私は、驚いて修一の顔を見る。
「なんか企んでるとは思っていたけどな。まさか、そんなぶっ飛んだことだとは思わなかったけど」
「……なんで」
「尾行してたんだ。あの家に入っていくお前をな」
私は、あの時の小さな人形の言葉を思い出していた。
「そんなこと、やっていいと思ってるの」
「それはこっちのセリフだ」
「このままだと、廉は舞の死に気づいてしまう。それを防ぐには、舞が退院して生きているという事実を作るしかない」
「……本気で言ってんのか、それ」
「本気よ」
私は即座に返答する。
「それが廉のためになると、本気で思ってるのか。いずれバレることなんだぞ。舞の人形を演じるお前と過ごしてぬか喜びさせて、実は死んでましたと分かった時の廉の気持ちを、お前は考えたのか」
修一は淡々と諭すように私に語り掛ける。
「それでも、今廉が真実を知って、二度と立ち直れなくなるよりいいでしょう」
「二度とって……そんな」
「大袈裟じゃない」
私の言葉に、修一は黙り込む。
「廉をこの世に繋ぎ止めているのは、もう舞がいつか目覚めるかもしれないという可能性だけなの。廉は、それだけを希望に生きているのよ。修一だってわかってるでしょう。舞が死んだとわかったら、今度こそ、助からないかもしれない。修一には関係ないでしょう。もう放っておいてよ」
「関係あるよ。俺は雫と廉の友達だ。間違ったことをしようとしているなら、それを止めるのが友達だろ」
「舞が生き返れば、きっと大丈夫。そうなれば、廉はもう絶望する理由がない」
ごめんね、修一。
私はもはや、修一の話を聞いていなかった。
ぞっとするほど、冷たい声だった。
「……自分が何を言ってるのか、分かってるのか」
「修一さ、自分のこと、頭いいって思ってるでしょう。普段はヘラヘラしてるけど、いざとなったら賢いって感じのさ」
自分の口から出てくる声のあまりの卑屈さに驚く。自分がこれほど感情を表現できるようになるとは思わなかった。
「何もせずに傍観していただけの人間がよく言うよ。修一はそうやって、関係ないところで正しいとか間違っているとか、言い続けていればいい。私にとって、自分がやっていることが正しいか間違ってるかなんて、もはやどうでもいいの」
綺麗なままでいたいとか、そんな思いはとうに捨てた。
たった一つ。それだけを求めて進み続ける。
「私は、廉が死ななければ、それでいい」
「……俺には、分からないよ」
「修一には、たぶん理解できないよ」
自分以外の誰かになりたいなんて、彼は思ったことないだろうから。
それから約二週間後。琴平華月は本当に私の部屋に人形とそれを使うための機材を持ってきた。
「これがあなたの人形です」
それを見た瞬間、私の心は震えた。
ああ、舞だ。
そこにあったのは、自分が憧れた、彼女の姿そのものだった。
「どうしました?」
琴平華月の言葉で、私は、ハッと我に返った。
「いえ……自分で依頼しておいて言うのもなんなんですけど、どうしてそこまでしてくれるんですか。お金だって、満足に払えていないのに」
「不安ですか?」
「はい。正直言って」
「興味があるのですよ。別の容姿の人形を使った人間が、どんな反応を示すのか。それに……まあ、言ってもいいでしょう。なんなら、そのデータだけで元は十分取れるのです然るべき機関に売ればね」
「でも、これって公には認められないことなんですよね。そんな非公式なデータを欲しがるところってあるんですか」
「非公式だからこそ、価値があるのですよ。禁止されている実験を行った人がいるとしましょう。公的には、その人を処分するだろうね。だが、実験データはどうするでしょう? まさか、研究者たちが捨てるとでも? 今後の研究に生かすに決まっているでしょう?」
「……なるほど」
「とはいえ、私は誰かに売るなんて馬鹿な真似はしないですが。自分の研究に利用させてもらいます」
ようやく腑に落ちた。彼女がどうして協力的だったのか。
「どうしますか。やめてもいいですよ」
「構いません。データでも何でも、好きなだけ持っていってください」
「そうこなくてはね」
小さな人形は、ニヤリと笑った。彼女を選んだ私の判断は、どうやら正しかったらしい。
人形を使うためのトレーニングは相当苦労した。それでも、廉が再び前を向いて生きることができるきっかけになるという一心で、死ぬ気で取り組んだ。
やがて、私がある程度、舞の人形を使えるようになってきた頃、廉も人形を使うためのトレーニングを始め出した。そして、夏休み前から学校に来るようになった。
本の整理が終わって、廉と一緒に帰った日。
「前に、人形が使えるようになったら、舞のところに行くって、言ってたよね」
私は、廉に舞のことを切り出した。
「……ああ」
「今度の夏休み。行くの?」
「そのつもりでいるけど」
「……そう」
もはや、一刻の猶予も無い。
「……なんだよ、それ。本当に舞そっくりじゃねぇか」
自室に来た修一は、悲しそうな顔をして言った。
「まだ文句があるの」
「今更何か言うつもりはねーよ。けど、廉が人形から立ち直るって、具体的に何をするつもりなんだ? 今までこれだけ時間をかけても、廉は立ち直れなかったわけだろ」
「分からない。でも、私が舞の姿でサポートすれば、きっとうまくいくはず」
そう。私が舞を完璧に演じれば、全て上手くいくはずなのだ。
鏡で舞の姿を見る。本当に可愛く、綺麗に作られている。
口角が上がってしまっている。嬉しさが、いつからこんなに表情に出るようになってしまったんだろう。
そして、私はこの人形を使って、初めて廉に会った。
「よかった……本当によかった……」
そう言って、泣きそうな顔で喜ぶ彼を見て、胸が苦しくなった。
「廉はどんな様子だった」
最初に廉に会った翌日、修一は私に尋ねた。
「信じられないって顔だったよ」
「そりゃそうだろうな」
真面目な顔をして修一は言う。
「後悔、してるか」
「してない」
私は、きっぱりと言った。
「もう、後戻りはできないぞ」
「……分かってる」
それにしても、廉が昔一緒に過ごした場所を巡ると言い出したのは、想定外だった。舞の姿で廉のサポートをできればと思ってのことだったが、やはり、記憶が一部欠けているという説明はまずかったかもしれない。とにかく、人形であるとバレないようにしなければ。
それからは、雫の姿で学校へ行き、外で廉に会いに行くときは舞の姿になるという日々を繰り返した。
案の定、廉は舞の姿をした私に、少しずつ違和感を抱き始めた。
違う。違う。違う。
舞はこんなんじゃない。もっと綺麗で、もっと可愛くて、もっと美しい。
何度も舞の写真を見て、表情を、振る舞いを、言葉遣いを死ぬ気で作り直した。
挫けそうになるたび、鏡でこの人形の姿を眺めた。
私は、自分ではないこの身体で、初めて自分を美しいと思えた。
いつの間にか、廉と会う時は舞として会うことが多くなっていった。
同じ言葉でも、雫の姿で言うのと舞の姿で言うのとでは、伝わり方が異なることを知った。
やがて、廉は自分の身体に戻るためにリハビリを始めた。
全ては順調に進んでいるかのように思われた。
だが。
「少し、痩せたか?」
廉が退院した日の夜、彼は私を見てそう言った。
「……ダイエット、してるから」
ほんの少しでも、この人形が自分自身の身体であると錯覚したかった。そうすれば、廉から好意を持たれているのが自分だと思うことができたかもしれない。
でも、彼が好きなのは『白鷺舞』だった。私が舞を意図的に演じようとすればするほど、彼は嬉しそうな顔をした。
自分の姿のままだったら、廉が舞に向けていたような目を自分に向けることは、天地がひっくり返ってもありえない。可能性はゼロだ。
それならば。
たとえ人形であっても、一瞬でも、その目を私に向けてくれる可能性があるというのなら。
「……く。雫」
ハッと我に返ると、母が心配そうな顔で座っていった。
「大丈夫? ぼんやりしてたみたいだけど……」
その日は、母がたまには顔を見せろと何度も言うので、実家に帰っていた。
「……うん、大丈夫。ちょっと勉強で疲れてただけだから」
「ご飯ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ。大丈夫だから」
気づくと、私は廉の病室にいた。
私は、廉のそばに行き、椅子に腰掛ける。
そして、彼の手をそっと握る。ほんのり暖かいと、感じるはずはないのに、私の人形の手は告げる。
本当は、自分の身体で彼に触れたい。
彼のそばにいたい。
今、ベッドに横たわる私自身の目から、涙は流れているのだろうか。
心当たりはあった。私は、琴平華月の元へ訪れていた。
「思ったより、早かったですね」
一通りの検査が終わったあと、琴平華月は言った。
「あなたの想像しているとおり、それはおそらく離人症の症状です」
「でも、人形を使い始めて、まだそんなに時間は経っていないはずなのに……」
「個人差はあるでしょうけど、あなたの場合は異なる容姿の人形を使っている点が、強く影響している可能性が高いです」
「そんな……」
「大事なことは、感情に流されず、目の前の事実を受け入れることですよ。そうしなければ、打てる対策も打てなくなります。現実として、あなたは離人症になっています。まずはそれを受け入れてください。あなたの目的は、自分が離人症になっていることを認めないことではないでしょう?」
「……どうすれば、いいんですか」
「これ以上進行させない、あるいは進行を緩やかにする方法ならあります。自分と人形を混同させないことです。人形を使用している時は、自分とは関係のない別の何かを操作しているという意識を持ち続けること」
家のチャイムが鳴り、私は我に帰った。インターフォンを覗くと、修一の姿があった。
「何の用」
私がドアを開けると、修一は私の両肩を掴む。
「お前、離人症になってるだろ」
「何のこと」
「とぼけんなよ。知らないとでも思ったのか。意識を失いすぎだ」
肩を掴む手に力が入る。
「痛い」
「しっかりしろよ。こっち見ろ」
「離して」
修一は、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「……中止だ」
「何、言ってんの」
「自分自身の身体を傷つけてまで、やることじゃない。お前だって、本当は分かってるんだろう? ここが限界だ」
「勝手に私の限界を決めないで」
「これ以上続けるなら、雫の両親に話をする」
「修一はさ、何がしたいの? 私の邪魔をするのが、そんなに楽しい?」
「俺は……」
修一はそう言いかけて、口を噤む。
「もう今更、手遅れだよ。廉はもう舞を見てしまっている」
「自分じゃなくなってもいいのか? お前は、自分の想像した舞という人間に縛られ続けることになるんだぞ。どうして、そこまで廉に固執するんだよ」
「それは……」
「お前は、自分が廉に好かれたいだけなんじゃないのか」
「……は?」
「離人症を発症する要因だよ。これでも、少し調べたんだ。確か、自分と人形の区別がつかなくなることだっただろ。どうして区別がつかなくなったのか、考えなかったのか」
「関係ない。別に同じ容姿の人形だろうと、発症する病気なんだから」
修一の言葉を、とっさに否定する。
彼の助けになりたいという気持ちは、嘘じゃない。
嘘じゃない、はずだ。
「言っておくけど、その道は地獄にしか繋がっていないぞ。廉がどれだけその人形に好意を抱こうが、それはお前じゃない。ただの人形だ。廉も辛い思いをするだろう。自分が好意を抱いた相手が、実は存在しないただの人形だなんて」
「ばらすつもりなんてない。廉が一人で、自分の身体で歩けるようになっても」
「……雫」
「舞は、死なせない」
「でも、このまま離人症が進行すれば、外で意識を失うことが増える。廉は間違いなく気づくぞ。どうするつもりだ」
「廉の前から消える」
「消える?」
「転勤で海外に引っ越したことにでもすればいい。距離が出来れば、自然と疎遠になれるだろうから」
「……お前はそれでいいのか」
「かまわない」
気づくと、私は自分の部屋に一人だった。
ふと、アルバムを手に取る。
野球の試合で疲れた後、帰りの車の後部座席で、私と舞が寝ている写真だった。この写真を見ながら、「こうやって寝ていると、姉妹みたいで可愛いわね」と、母が笑っていたのを思い出す。
写真の上に、水滴が落ちる。
何としても、あなたは、死なせない。
廉の中で、あなたを死なせるわけにはいかない。
ベッドに戻り、接続を切る。
大嫌いな自分に戻る。
限界が近いことは分かっている。離人症の症状は確実に進行している。自分の身体に戻ると、意識を維持することが難しくなってきている。
それでも、あと少しだけ。
私の名前は、呼ばなくていいから。
願わくば、この時間が少しでも長く。
そして、あの日。
遊園地で廉が私を見たその瞬間、私の心は、喜びに打ち震えた。
廉が私に向けたその目は、かつて彼が舞に向けていたものと同じ目だった。
ごく普通の両親の元で生まれ、惜しみなく愛情を注がれて幸せに過ごすはずだった私の人生がそうでなくなったのは、他ならぬ私自身のせいだ。
生まれた時から、感情を表現することが苦手だった。眠くてもお腹が空いても、泣くことがない私に、両親はさぞ困惑したことだろうと思う。
二人は病院などに相談に行くたびに、育て方を間違えたのかもしれない、私たちの愛情が足りないのかもしれないと、私への接し方を試行錯誤し続けた。それでも、私が変わることはなく、彼らは心身をすり減らしていった。
最初に根を上げたのは母だった。あの子が何を考えているのか分からない。どう接していいのか、もう分からないと、母が父に話すのを扉越しに聞くことが増え始めた。
誰かのために何かをしてもしなくても、反応が何も変わらないのなら、やらなくてもいいという思考になることは、自然なことだと思う。
やがて家事が徐々に雑になり、苛立ちが目に見えるようになってきてから、父が家のこともやるようになった。
その時、父は初めて私に尋ねた。
「雫は、私たちに、どうしてほしい?」
困惑した。両親からの愛情は十分すぎるほどに伝わっていたし、既に満たされていたから。だから、うまく答えることができなかった。父は、母のことは気にしなくていいと笑っていたが、失望させたのは明らかで、限界が近いのが見てとれるほどには、やつれていた。
私は焦った。どうすれば彼らを満足させることができるだろうか。私は彼らの子供として、どういう態度を取ればいいのか。必死に考え、彼らが望んでいるのは、笑ったり泣いたり、感情を発散させる子供なんだということを理解するのに、そう時間はかからなかった。
それから、私は、がむしゃらに感情を表現しようと奮闘した。そもそも普通の人がどういう時に笑い、怒り、泣くのか、まるで分らなかった私は、両親を観察し、人がどういう時に笑うのか、どういう時に怒るのか、どういう時に泣くのかを学んだ。表情の作り方を鏡で必死に練習し、お茶の間で披露した。愛情を伝えることが大事だと思い、両親に大好きであるとこまめに告げた。
急に変わった私に、両親は当初困惑していた様子だったが、やがて嬉しそうに、新しい私を受け入れた。
母の体調も良くなり、以前と同じくらい家事ができるようになった。そのおかげで、父の顔色も目に見えて良くなった。
これでいい。私は、やっと彼らの望む、普通の子どもになれたのだ。そんな矢先だった。
私は倒れて、病院に運ばれた。
「原因は、なんでしょうか」
母が医師に尋ねる。
やめて。
お願いだから、言わないで。
「ストレスの可能性が高いですね。何か心当たりはございませんか?」
医者は淡々と、両親にそう問いかけた。
病院は最初に虐待に気づく場所でもある。彼らにしてみれば、子供を守るための質問だったのかもしれない。
「雫。無理をしていたの?」
そう尋ねる母の目からは、すでにボロボロと涙が溢れ始めていた。
「違う。無理なんてしてない」
咄嗟に否定した。だが、私の訴えも虚しく、母は私を縋り付くように抱きしめ、「ごめんね。雫、ごめんねぇ」とすすり泣いた。父も泣いていた。
どうして、上手くいかないんだろう。
私は、自分が失敗したことを理解した。そして、この程度の演技にも耐えられない自分の身体を呪った。
それからは、どれだけ上手く演技をしても無駄だった。表情を作れば作るほど、私が無理をしているのではないかと心配するようになった。
自分が今までうまく表情が作れなかった理由について、そういう病気なのではないかと説明した。感情が表情に出にくいことに、ずっと悩んできたのだと話すと、両親は、私に深く同情した。今まで辛かったねと言って。
私は、両親を騙しているようで気分はあまり良くなかった。確かに、それが原因である可能性も否定はできないだろう。しかし、感情が表情に出にくいことを、少なくとも私は病気だとは思っていない。
両親にとって、『よくわからない病気』が全ての原因であるという解答は、救いだったのかもしれない。
そんな人間が、外でうまくやれるはずもなく。幼稚園でも、予想通り私は孤立した。だが、予想通りでないこともあった。子ども達は、親と子の関係ではなく、対等であるということだ。つまり、気に入らないという理由で、私は気の強い子たちの反感を買うこととなってしまった。彼らは時々、私に対し、無関心を貫くのではなく、排斥しようと躍起になった。
子供の頃のあだ名は、『人形』だった。何を考えているのか分からず、気持ち悪いからという理由だと、誰かから聞いた。
さんざん人から言われてきた言葉だ。
結局、友達が一人もできることなく、私は小学生になった。
小学生になったところで、基本的にこれまでと何も変わることは無かった。だが、明確に変わったことが一つあった。それは、勉強や読書が、正しいこととして大人に評価されることになったということだ。
幼稚園の時、ひらがなを丁寧に書けば、先生に褒められた。もっとも、あの時は勉強ができることより、元気に遊びまわらないことを心配されていたが。小学生でも最初は同じような扱いだったが、学年が上がるにつれ、それは一つのキャラクターとして確立されていった。
将来を考えている、がり勉。図らずとも、私はその地位を獲得した。
勉強さえしていれば、少なくとも大人たちは、とやかく言わない。
とはいえ、相変わらず私の周りには友達はおらず、陰口を言われることもあったし、時には暴力を振るわれることもあったが。
転機が訪れたのは、小学五年の時だ。私は、蓮井廉という男の子と同じクラスになった。
印象の薄い男の子だった。クラスで目立っているわけでもなく、自己紹介で野球をやっていると言っているのを聞いて、少し驚いた。
ろくに会話もしたことがなかった彼が、突然私に話しかけてきたのは、梅雨が明けてからのことだった。
「鏡野ってさ、何か習い事とかやってるの?」
「……やってないけど」
「暇なんだったら、野球やらない? 人数足りないんだよ」
何でも、体力測定のソフトボール投げで、私が良い記録を出したことを聞いたらしい。
私は、スポーツの類を面白いと思ったことが無かったので、純粋に聞き返した。
「野球の何が面白いの?」
「はぁ?」
それからというもの、何のスイッチが入ったのか、廉は事あるごとに、私に対して野球というスポーツの面白さを力説し始めた。私はそのたびに、それは野球じゃなくても味わうことのできる高揚感であると説明し、野球でなければならない必要性について、彼に説明を求めた。
大抵の子は、この時点で『めんどくさい奴だから関わらないでおこう』と距離を置くのだが、彼は違った。投げ出すことなく、不器用ながらも、少ない語彙力で、どうにか私に野球の面白さを伝えようと努力していた。
廉と関わることで、私のクラスでの立場に変化が生じ始めた。教室で野球についての問答を始めると、またいつものが始まったと、周囲が面白がり始めたのだ。やがて話のテーマは野球だけにとどまらなくなり、男子は、女子はという話になり始め、ついに男子は廉の擁護をし、女子はなんと私の擁護をし始めたのだ。クラス内で男子対女子の構図が出来上がってしまったことで、困り果てていた女性の担任の新任教師には、本当に申し訳ないという気持ちしかない。
でも、私はそのおかげで、他の女子と打ち解けることが出来た。がり勉としての立場は変わらなかったが、時々、勉強を教えてほしいと頼まれることがあったり、なぜか恋バナに参加させられたりすることもあった。
廉は、他の人に接する態度と、まったく同じ態度で私に接した。
困惑した。どうして、皆と同じように接してくれるのか。
一度、彼に直接聞いたことがある。すると、彼はぶっきらぼうにこう答えた。
「僕、野球以外に興味ないから」
私は可笑しくなって、笑ってしまった。
六年生になり、クラス替えがあった。廉とはクラスが離れてしまったが、同じクラスの女の子がいて、私はもう一人になることは無かった。また、野球に興味は無かったが、恩返しの意味で、私は少年団に加入することにした。それを両親に告げた時の、ポカンとした二人の顔は、今でも忘れられない。
廉は、あれだけ言い合いをしていたにもかかわらず、私が少年団に加入したことを誰より喜んだ。
地元の少年団に加入して、一人だけ女の子がいた。白鷺舞という子だった。
驚いたのが、身長も低いのに、彼女はチームの中でもかなり野球が上手い方だった。そして、その子は私と同じクラスの子だった。
元気で可愛い女の子で、私とは正反対の苦手なタイプだと思っていたのに、舞は私に積極的に話しかけてきた。前のクラスでも、自分から私に関わろうとする子はいなかったのに。
何を考えているのか分からなくて、私が気持ち悪くないのかという質問に、彼女はこう答えた。
「そう? 私は、雫が考えていることが、なんとなくわかるけどな。それに、やっと女の子のチームメイトが出来たんだもん。絶対離すもんか!」
他の人が言えば、皮肉にしか聞こえないような言葉でも、彼女が本心からそう言っていることが、不思議と理解できた。
彼女は、よく笑い、よく怒り、よく泣いた。彼女が笑うと私も楽しくなり、彼女が泣くと私も悲しくなった。彼女の最たるは、周囲の人間への影響力だった。私を含め、周囲の人間は、彼女のその魅力に惹きつけられていたと思う。
私が出来なかったことだ。その姿に、私が憧れを抱くまで、そう時間はかからなかった。
休日は、舞に誘われて、外に遊びに行くようになった。元々勉強は好きでやっているわけじゃなかったし、舞との予定を優先するようになった。
ショッピングもお祭りも彼女といると、私も楽しい気分になった。
舞は、奥手な私をいろんなところに連れて行ってくれた。
ひそかに中学受験を考えていたらしい母は残念そうにしていたが、それでも友達が出来たことを一番喜んでいたのも母だった。遠出をする時は、父が車を出してくれた。
廉は、本当に野球一筋だった。少年団の練習があるのは土日だけだったが、平日の放課後も、彼と仲の良い片桐修一という男の子と一緒に、グラウンドで野球の練習をしているのをよく見かけた。
「雫はさ、廉のことが好きなの?」
いつか、舞と二人で出かけている時、彼女にそう尋ねられた。
「どうして、そんなことを聞くの?」
「練習の時とか、よく見てるから」
それを言われて、私は恥ずかしくなった。無意識のことだろう。舞に言われるまで、気づいていなかった。
そして、私は初めて廉に対する自分の気持ちについて考えた。
自分を助けてくれた恩人。
それに、たぶん、廉も舞のことを……。
「……私にとっては、恩人。そして、今は友達。それだけだよ」
私は、舞にそう答えた。
つまるところ、私が廉のことをどう思っていようが、関係ないのだ。仮に好きだと伝えたところで、彼の気持ちが自分に向くことなどあり得ないのだから。
何より、私は、舞の邪魔はしたくなかった。
「本当に?」
「うん」
なかった事にしよう。大丈夫。私はそういうの、得意だから。
舞と廉がそんな感じだったので、学校では、舞と仲の良い私と、廉と仲の良い修一を含めた四人で一緒にいることが多かった。練習帰りとかは、廉の弟の翔くんを含めた五人になることもあった。
修一は、最初は軽薄そうな印象だったが、話してみると、悪い人ではなかった。
ある日、学校の課題で将来の夢について考えてくる宿題が出された。学校からの帰り道、いつもの四人で帰っているときに、舞は将来の夢の話をみんなに聞いていた。
「将来の夢、何にした?」
このくらいの年齢になると、仮面ライダーになりたいなどと言いだす子はいなくなり、皆警察官や医者など、具体的な職業を挙げるようになっていた。
「決まってるだろ。プロ野球選手だよ」
廉はプロ野球選手になることが、現実的な未来であると信じきっているようだった。
「修一は?」
「まあ、親父の会社だろうなー」
「雫は?」
「私も、まだ」
いつかは考えなきゃいけないことなんだろうと思っていた。
何かにならなきゃいけない。
何かになるってことは、今の自分じゃなくなるということだ。
「私は、今が楽しいよ。これがずっと続くだけでいいんだけどな」
「そっかー」
「舞はまだ悩んでるの?」
「うーん」
「別に、ここで決めたものに、ならなければいけないわけじゃ無いんだからさ。テキトーに学校の先生になりたいとか言って誤魔化せばいいじゃん」
壮大な話に成りかけたところを、修一が目の前にある宿題の乗り切り方に引き戻したところで、この話は終わりであるように思われた。
「まぁ、そうなんだけどさ」
舞はすっきりしない表情で、空の遠くの方を見つめていた。
その次の休日、舞の部屋で遊んでいる時、真面目な顔をして舞は私に聞いた。
「誰にも言わないって、約束できる?」
私が頷くと、舞は机の引き出しから、大量のスケッチブックを取り出した。
「中、見てみて」
スケッチブックを開くと、鉛筆で描かれた絵が所狭しと敷き詰められていた。別のスケッチブックには、漫画が描かれていた。
「漫画?」
「うん。廉にも言ってないんだ。知っているのは、雫だけ」
えへへ、と舞は恥ずかしそうに笑った。
「羨ましかったんだ。夢を聞かれて、躊躇なくプロ野球選手だと答えられる廉がさ」
しばらくして、夏休みになった。
舞と二人でプールに遊びに行った日。
照れたように顔を背けながら、舞は言った。
「花火大会さ、二人で行かないかって、廉に誘われた」
「え」
少し、胸が痛んだ。
でも、予想していたことだ。
「どう思う?」
「いいんじゃない? 二人で行ってきなよ。私は修一と行くからさ」
「……うん」
そして、運命の日。
私は、修一と一緒に花火大会に行くことになっていた。
会場に行く途中、路地を歩いていると、廉が自分の家に向かって走っているのが見えた。
声をかけようと思ったが、廉は私に気づかずに走り去ってしまった。
そして、もう少し歩いたところで、今度は舞に出会った。
舞は私に気づき、不安そうな顔で声をかけた。
「あ、雫! 廉を見なかった? 浴衣の着付けで遅くなって、待ち合わせの時間に遅れちゃったの。急いで来たんだけど……」
胸が高鳴る。その高鳴りを隠すかのように、私は。
「……ううん、見なかった。会場の方に行ったんじゃない?」
そう答えた。
「あいつら、イチャイチャしてんのかなー。なんか複雑な気分」
二人で売店を巡りながら、花火が上がるのを待っていた時、不意に修一がそんなことを口にした。
「修一も、舞が好きだったの?」
「いやぁ、そういうわけじゃない。ただ、この四人の関係が心地よかったからさ。二人が付き合ったら、今までと同じってわけにはいかないだろ。それはなんか嫌だなと思って」
「修一でもそう思うんだ。なんか意外。他にも友達多いのに」
「ひでぇな。お前、俺をどんなやつだと思ってたんだよ」
「人たらし。気遣いお化け」
「……ハハ」
修一は肯定も否定もせず、乾いた笑いを浮かべた。
「私はこの仲間しかいないから。修一よりそれは切実な懸念事項なんだけど」
「じゃあ、僕たちもいっそ付き合うか?」
修一はいつもと何ら変わらない、ヘラへラした調子でそう言った。
私は、どういう顔をしていたんだろう。冗談だとは分かっていたけれど、上手い返しが思いつかず、ただじっと彼の顔を見つめていた。
しばらく、無言の時間が流れた。数秒だったか、あるいは数十秒だったのか、どれくらいの間、沈黙が続いたのか、今となってはもう覚えていないけれど。
不意に彼が「冗談だよ、冗談」といって、別の話をし始めた。
「……ねぇ」
「ん?」
「舞から、何か聞いたの?」
「何のこと?」
修一の表情からは何も読み取れなかった。
「……いや、何でもない」
それからは、何の話をしていたのか、よく覚えていない。
花火が終わり、修一と別れて家に帰ると、母が血相を変えて出迎えた。
「舞ちゃんが、事故に遭ったって……」
血の気が引いた。
私は母の制止を振り切って、家を飛び出した。
無我夢中で病院に向かって走った。
「なんでよ……」
舞に放った言葉が、脳裏で繰り返される。
舞は集中治療室にいた。舞の両親と、呆然と立ち尽くす廉の姿があった。その表情を見て、私は、舞の容体が良くないことを理解した。その後、私は私を追ってきた母に無理やり家へと連行された。
翌日、舞と廉は学校に来なかった。
舞は意識が無い状態であることが、担任の先生の口から告げられた。
舞の家族は、専門の病院へ舞を入院させるために、この町を出ていくことになった。
その日から、廉が笑うことは無くなった。必要最低限のこと以外喋らず、塞ぎ込むようになった。また、給食の時間に嘔吐するようになった。
最初の頃は皆心配していたけれど、しだいに誰も彼に近寄らなくなっていった。私や修一は、どうにかしてあげたいと思い、彼の側に居続けた。けれど、実際にはなにもすることができなかった。
しばらくして、廉は学校にも少年団の活動にも来なくなった。修一と一緒に、何度も彼の家を訪れたが、彼が部屋から出てくることは無かった。
「ごめんね、いつも来てくれてるのに」
そう私たちに言ってくれる廉のお母さんは、本当に辛そうだった。
「俺たちの言葉は、もうあいつには届かないんだろうな」
もう何度目になるか分からない廉の家からの帰り道、修一はぽつりとそう呟いた。私は否定したくても、できなかった。
「廉、来たよ」
廉の部屋の前に座り込む。
彼からの応答は無いが、私は「ここにいるから」とだけ言って、扉の前で座り続けた。
「帰ってくれ。……誰にも、会いたくない」
二時間くらい経って、部屋の中から廉の声が聞こえた。ずっと誰とも喋ってなかったのか、彼の声は掠れていた。
「分かった。また来るから」
その後も、私は度々廉の家を訪れて、同じことを繰り返した。時折、彼の声を聴けるだけで、嬉しかった。
また、弟の翔くんは変わらず学校にも少年団にも来ていたので、彼に家での廉の様子について聞くことが多かった。
「廉、どんな感じ?」
「どうもこうも無いよ。相変わらず部屋からは出てこないし。最近じゃ、ドアの前に飯置いといても、あんまり手が付けられない状態で戻ってきたりするって、母さんが心配してる」
彼は呆れたように言う。
「お風呂とか、あとトイレは?」
「風呂は平日の日中に入ってるみたいだな。僕も母さんもいないから。トイレはたまに出てきてすれ違うけど、なんか髪もぼさぼさで、表情も虚ろで廃人みたいになってるし、話すことは無いな。母さんはすれ違ったら、なんか一言二言喋ってるけど、すぐに部屋に戻っちゃうから」
「そっか……」
「うちさ、父親がいないでしょ? こういう時さ、無理やりにでも部屋から引っ張り出したりできるのって、父親だと思うんだよ。母さんは、どうしていいか分からないって感じだし。その母さんも、パートで忙しそうだからさ。無理やりにでも病院連れてった方がいいのかもな」
状況は何一つ好転することなく、私たちは卒業式を迎えた。
卒業式の日も、廉は学校に来ることは無かった。
私は、修一と二人で廉の家に卒業証書を持って行った。
出迎えた廉のお母さんは、随分とやつれてしまっているようだった。
「本当に、今までありがとう。でも、もう中学生になるんだし、無理して来なくていいから」
彼の母は、深々と頭を下げた。
「そんな、無理なんかしてないです。僕たちは、廉に会いたくて、来たくて来てるんですから」
「中学生になったら、部活とかあるでしょう。勉強だって、難しくなるだろうし。廉のことは、時間をかけて解決していく問題だと思ってるから。これまでもそうだけど、これから先の中学生、高校生っていう時間は、本当に濃くて楽しくて、あっという間に終わってしまう、大切な時間なのよ」
「でも……」
「あの子に会いに来てくれるのは本当に嬉しいけれど、それであなたたちの人生を変えてしまうわけにはいかないの。どうか、分かってちょうだい」
私たちは、言い返すことができなかった。
「あの子がまた外に出られるようになった時、またあの子と友達でいてくれるだけで、こんなに嬉しいことはないわ」
その日の帰り道、修一は不意に「雫」と私を呼び止めた。
「何?」
「……中学に入ったら、俺は野球部に入ろうと思ってる」
修一は、少し言いづらそうに、目を逸らしながら言った。
「平日も、放課後は練習があるし、休日も試合の日が多くなる。試合がなくても練習になると思う」
それはつまり、これまでのように廉の家にくるのは、難しくなるということだ。
「うん。そうだろうなって思ってた」
「……ごめん」
「謝ることじゃない。さっき、廉のお母さんも言っていたでしょう」
「俺だって廉が心配で、廉に会いたくて来てたんだから。これからだって、本当は……」
「大丈夫だから」
「雫はこれからも、通うつもりか」
「うん」
「……そうか」
その問いには、本当にそれでいいのかというニュアンスが含まれていたと思う。でも、彼が私にそれを問いかけることはなかった。
案の定、廉のお母さんには質問責めにされた。
「雫ちゃんは、何か入りたい部活とか、ないの?」
「特にありません」
「案外、やってみたら楽しいってこともあるわよ。文化系の部活とか、いいんじゃない?」
「でも……」
「平日だけ活動しているような、緩い部活とかだったら、休日はうちに来られるでしょ? せっかくなんだし、何かやってみたら? 合わなかったら、辞めればいいだけよ」
廉のお母さんは、私を心配して言っているのだろう。私が受け入れない限り、同じような話が今後も繰り返される気がする。
「……考えてみます」
テキトーな部活に加入したことにすればいいかとも思ったが、廉が部屋から出てこないので、彼の家に行くとお母さんと話すことが多いことを考えると、普段の会話からボロが出る可能性が高い。
仕方なく、私はなるべく活動が少ない部活に入部することにした。
その点で、現在部員が四人しかおらず、廃部を避けるため、幽霊部員でもいいからと新入部員を募集していた演劇部は、都合が良かった。名前を貸すが、ほとんど休日は参加できないという私の申し出を、演劇部の部長は快く受け入れてくれた。
両親や周囲の人を安心させる演技をしてきたことが、こんなところで活かされるとは思ってもみなかったが、部長は「才能あるよ」と私を手放しで賞賛した。
「君は、キャラクターを分析するのに長けていると思う。その人物がどんな場面でどんなことを思い、考えるかを、君は細かい部分まで想像することができているように思える」
台本を読み、自分が演じる人物の背景を理解する。そして、その背景から、この場面でどうしてその行動を選択したのかを想像する。私は、どんなキャラクターであっても、その設定が明確であればあるほど、上手く演じることができた。私は、演劇にのめり込んでいった。
やがて廉の家に行ってチャイムを押しても、玄関の戸を開けてすらくれなくなった。従って、廉のお母さんが仕事のある日以外は、家に入ることができなくなり、部活動に顔を出す回数が増えていった。
舞のお見舞いは、距離的に長期休みでないと難しいので、夏休みと冬休み、そして春休みと、年に三回くらいの頻度で行っていた。
部屋には真っ白なベッドが一つだけ置かれており、目を閉じた舞が横たわっている。
私はベッドの脇に置いてある椅子に座って、横たわる彼女に声をかける。
「ごめんね」
私の言葉に、彼女は反応しない。
いつものことだ。そのことを気に留めず、もう何度目か分からない同じ言葉を、それでも私は彼女に向かって一方的に投げかけ続けていた。
彼女は、ただ眠っているように見えた。次の瞬間にでも、目を開けて、「おはよう」と私に声をかけてくれるのではないか。そんな想像を、これまでに何百回、何千回と繰り返してきた。
しかし、その期待とは裏腹に、彼女が目を開けることは無かった。
現実は、どこまでも非情だと思う。気持ちの整理なんてさておいて、時間は止まることなく進んでいくのだから。
日が落ちると、私は椅子から立ち上がり、病室の戸を開ける。
口に出してしまえば、それが現実になってしまいそうな別れの言葉を喉の奥で押しつぶし、何も言わずに私は彼女の病室を後にするのだが。
「雫さん」
何度目の来訪のことだったか、覚えていない。
その日は、帰り際に舞のお母さんとすれ違った。
「いつも、こんな遠いところまで、ありがとうね」
「……いえ、好きで来ているだけですから。では、失礼しま—」
「待って」
そのまま帰ろうとしたところを、彼女に呼び止められ、私は足を止める。
「ねぇ。この子、どんな状態だと思う?」
「え?」
舞のお母さんは、怖いくらいに無表情のまま、堰を切ったように喋り出した。
「お医者さんが言っていたの。ここまで生きていること自体、すごいことなんだって。でも、仮にこんな状態でも意識があるとして、身体を動かすこともできず、意思疎通を図ることもできない。これほど辛いことって、無いんじゃないかしら。このまま、この状態にしておくことは、この子のためになるの?」
「……どう返答していいか、分かりません」
私がそう返答すると、彼女は申し訳なさそうな顔で、頭を下げた。
「……そうよね。ごめんなさい。あなたくらいにしか、こんな話をできなくて」
親と同じくらいの人が、私のような子供に、頭を下げて茶化さずに謝ることが、とても奇妙なことのように思われた。
舞のお父さんとは、そういう話をしないのだろうか。
ごめんなさい。
彼女の言葉が、脳で再生される。
まるで、悪いことをして叱られている子供みたいだと、素直にそう思った。
「失礼します」
なぜか無性に腹が立って、私は病室を後にした。
去り際に、彼女が呟く声が聴こえた。
「いつまでこんな日が続くんだろうって、そう思うのは……悪いことなのかな」
中学三年のある日、翔くんから電話があった。
「廉が倒れた」
私が急いで病院に向かうと、廉は病室のベッドで点滴を受けながら眠っていた。彼のお母さんも、横で寝ていた。
「栄養失調だってさ。飯、ほとんど食ってなかったみたい」
翔くんは、泣きながら私たちに頭を下げた。
「ごめん、僕、居ても立っても居られなくて。誰に連絡していいのかも分からなくて……」
「良いんだよ。私たちは、今でも廉の友だちだから」
私はそう言って、翔くんを抱きしめた。
ショックだった。廉が倒れたことより、自分に対して。演劇にのめり込んで、いつの間にか廉のことを忘れる時間が増えていた。
私は、部活に行かなくなった。
病院に入院したことで、廉は部屋に閉じこもることが出来なくなった。そのおかげで、病院へ行けば、彼と久しぶりに顔を突き合わせることが出来た。私は廉のお見舞いということで、時折、病院に通い始めた。修一は、野球部の活動があるからなかなか来られなかったが、それでも、月に一度は顔を見せた。
廃人という翔くんの言葉が、的確な表現であったことを思い知る。まるで生気が感じられず、自分で生きていこうとする気力も欠けているように見えた。
廉は私の方を見て、力無く言った。
「なんて言ったらいいか……。心配かけて、本当にごめん……」
私はいろいろな言葉を彼に投げかけた。
「このままじゃいけないことは、僕も分かってる。でも、身体が思うように動かないんだ。あの日、ヘアピンを取りに帰らなければ……祭りに誘わなければって、そんなことばかりが頭を巡るんだよ……」
「落ち着いて、廉」
私は、廉の手を握る。
廉は泣きそうな顔で、私の方を見る。
「大丈夫。舞はきっと、意識を取り戻すよ」
これでいい。
いつか、舞が目を覚ませば、きっと彼はまた、自分の足で立ち上がれるはずだ。
私はそう信じていた。
だが、現実は、そんな綺麗な物語にはなってくれなかった。
高校一年の冬。夕食を食べている時、舞のお母さんから急に電話がかかってきた。
「もしもし。……あ、こんばんは、お久しぶりですー。はいー。……えっ––––」
徐々に低くなっていく母の声のトーンを少し離れた場所で聞きながら、私は只事でないことを感じ取っていた。
「そんな……。ええ、雫も……。……ごめんなさい、少し……」
「どうしたの」
母の鼻水を啜る音が聞こえ、私は母の元へ向かった。
母は泣いていた。そして言った。
「舞ちゃんが……舞ちゃんがね。……亡くなったんだって」
「……え」
「雫さんとは、本当に仲良くさせてもらったし、お見舞いにも来てくれていたからって、舞ちゃんのお母さんが」
ショックで頭が真っ白になった。何を言えばいいのか、分からなかった。
どれだけの時間が経過したのだろうか。気づくと、電話が終わっていて、母が私を抱きしめていた。
実感が無いせいか、涙は出なかった。
母が部屋に戻った後、私は無意識にリダイヤルのボタンを押していた。
「もしもし」
「……雫さん。ごめんな——」
「蓮井くんには、もう伝えましたか?」
私の口をついて出てきたのは、恐ろしいほどに、冷静な声だった。
「い、いえ、まだ言ってないけれど……。どこまで伝えた方がいいのかなと思って。あなたと舞はよく一緒にいたけれど……」
そうか。この人は舞と廉の関係を知らない。ただの小学校の時の同級生だと思っている。
「彼には伝えないでください」
「え?」
「今の状態の彼に伝えるのは、非常に危険なんです。私からタイミングを見て伝えますから」
「でも……」
「今も彼は、病院にいます。下手をすると、自殺でもしかねないくらい、追い詰められているんです。お願いします」
私は必死に頼み込んだ。
尋常じゃない私の声の調子から何かをくみ取ったのか、舞のお母さんは私の願いを聞き入れた。
翌日、私は新幹線で舞のいる地方に向かった。
『蓮井君に渡してほしいものがある』
そう、舞のお母さんは言った。
舞が亡くなったのは、一か月前で、葬儀は身内で済ませたと言っていた。
「遠いところを、本当にありがとうございます」
舞のお母さんは、ペコリと頭を下げる。
彼女は、前に会った時よりも明らかにやつれていた。まともに寝られていないのか、目の下に隈ができている。声は穏やかなものだったが、冷静でいようと努めていることは、容易に想像できた。
案内された場所には、『白鷺舞』と名前が刻まれた墓があった。
私は、ようやく実感した。
ああ、私の友人は、本当に死んだんだ。
涙は出なかった。
どうして、今日まで生き続けたのだろう。現実的な話、心臓が動き続けたからという理由に他ならないわけだが、それでも、思わずにはいられなかった。
やり残したことだらけだっただろう。生きていれば、彼女は望むものが手に入れられただろうに。
「舞は、どんな最期だったのですか」
「結局、目が覚めることはなくて……。そのまま、眠るように」
舞のお母さんは、目を伏せたまま、そう答えた。
フラッシュバックするのは、最後に会った浴衣を着た舞の姿だ。
結局、舞の意識はあったのだろうか。もしあったとしたなら、舞はベッドに横になりながら、何を思っていたのだろうか。
「蓮井くんに渡したかったものがあるの」
舞のお母さんはそう言って、くしゃくしゃになった一枚の紙を私に差し出した。
「あの子のポケットから出て来たの。くしゃくしゃになっちゃったんだけど……。ほら、一番上のところに、廉へって書いてあるでしょう? あなたから、タイミングを見て蓮井くんに渡してくれるかしら」
「分かりました」
「私はもう……疲れちゃったわ」
彼女はそう言って、虚ろな目で空を見上げた。
その心中を完全に理解することは、私にはできなかった。
帰宅した私は、修一の携帯に電話を掛けた。
私は、修一に舞が息を引き取ったことを伝えた。
『……正直、まだ信じられないんだけど』
「廉には、絶対に言わないで」
修一が息を吞んだことが、電話越しに分かる。
『それは……俺も真っ先に心配したことだけど……』
「舞のお母さんには、廉のお母さんには言わないでって、口止めしたから。私からタイミングをみて伝えますって。だから、私たちが言わなければ、すぐには廉にはバレない」
『口止めって……いずれバレることだぞ』
「どうしてよ!」
『落ち着けって。廉だって回復したら、いずれ舞のお見舞いに行こうとするんじゃないか?』
修一のその言葉で、自分の身体から血の気が引いたのを自覚する。
どうする。
どうすればいい。
「違う病院に移ったというのは?」
『いや、ダメだ。じゃあ、どこの病院にって話になる。さすがに舞の両親も、聞かれたら言わざるを得ないだろ』
舞が死んだと知ったらどうなる。今度こそ、生きる気力を無くしてしまうかもしれない。
嫌だ。それだけは何としても避けなければいけない。
廉が病院へ行ったら、もう隠しきれない。でも、病院に行く廉を止める、合理的な理由が無い。
いずれはバレることだ。なら、せめて、彼の精神が安定してから。彼が立ち直って、自分の足で歩けるようになるまで……。
そこまで考えて、私は一つの可能性に思い当たった。
確か、廉が医者から……。
「人形……」
『え?』
「……とにかく、廉にはまだ黙っておいて」
私はそう言って、電話を切った。
私は、人形について徹底的に調べた。
そして人形師と呼ばれる、人形を製作している人たちの存在を知った。
個人でやっているところで、かつ融通の効きそうな人物を探し、私は琴平人形店を見つけた。
私は、山のふもとにある一軒家を訪れた。
「すみません」
呼び鈴はどうやらついていないようだったので、私は入口のドアをノックし、声をかけるが、返事は無い。
もしかして、と思い戸を横に引くと、カラカラと動いた。
「お邪魔します……」
恐る恐る、扉を開けると、目に入ってきた光景に、私は思わず息を呑んだ。
そこには、所狭しと人形が並んでいた。老若男女問わず、手のひらサイズの小さなものから、等身大のものまで、様々な種類の人形があった。
そして、人形に囲まれた部屋の真ん中に、作業着を着た一人の女の人が座っていた。
透き通るような白い肌に、漆黒を思わせる、塗りつぶしたような黒髪。
鳶色のはっきりとした目に、感情が消え失せたような無表情。
周囲の人形より、動いている彼女がどの人形よりも作り物めいていた。
「あ、あの……あなたが人形師なんですか?」
「そうですよ」
突然、彼女の足元にあった銀髪碧眼の小さな人形が喋り始めた。
作業着を着た女の人は、その小さな人形を胸に抱え、じっと私の方を見つめている。
「琴平華月と申します。以後、お見知り置きを」
小さな人形ではなく、作業着を着た美人の子がペコリと頭を下げる。
「あ、はい……はじめまして」
私の視線が泳いでいるのに気づいたのか、小さな人形は言った。
「ちなみに、店主は私です。この子は助手で、身体を動かせない私に代わって、人形を作ってもらっています」
「そうなんですね……」
「それで、依頼ですか。私のところまで直接依頼に来るということは、何か特殊な事情がおありなんでしょうか。あるいは、オーダーメイドですか?」
私は、深呼吸をしてから、はっきりと言った。
「容姿の違う人形を作ってほしいんです」
空気が変わったのが、私にも分かった。しばらくの沈黙の後、小さな人形は口を開いて言った。
「どういう事情があるんです?」
「……」
「言いたくないですか。基本的に、本人と違う姿の人形を作ることはできないんだけどね。自己との乖離がより顕著に見られるから。あとは、犯罪の防止とか、色々ね。合理的な説明が無ければ、作ることはできません。ここまで来るくらいだから、そんなことは既に知っていると思ってましたが」
「ええ、知っています」
「にもかかわらず、直接私のところまで頼みに来るほど、あなたはその人形を欲している。その理由を教えてくれませんか」
誤魔化しは効かない。そもそも、普通の理由なら認められることは無いのだ。
ならばと、私はこれまでのことを、ありのままに話した。
琴平華月は、口をはさむことなく、黙って私の話を聞いていた。
「……以上が、私が別の容姿の人形を欲している理由です」
彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「その人が、人形の姿のあなたに好意を抱けば抱くほど、あなたは苦しむことになりますよ。姿の違う人形を自分自身であると錯覚させることは、かなり難しい。自分の身体に戻るたび、あなたは夢から覚める。自分自身の本当の姿を、ありのままの姿を愛してほしいという欲求が首をもたげる。あなたはそれに耐えられますか」
「……構いません」
私は想像する。廉の舞に向けられる目を。
頬を熱い涙が伝っていくのがわかる。
「ちなみに、人形ってどれくらいの値段なんですか」
「三百万円」
唇を噛む。予想はしていたことだが、やはり高い。
「言っておきますが、これでも譲歩している方なのですよ。制作費用と労力を考えたら、これくらいは最低でも取らないと、割に合わないので」
「分かってます。なんとかします」
小さな人形はため息を吐く。
「一つ条件を飲んでくれるなら、タダでも良いですよ」
「……条件?」
「ええ、条件です」
迷うことはなかった。頭を下げてお願いする。
「何の条件でも受け入れます。どうか、お願いします」
「……それほど、その人が大切なのですね」
その言葉には、どこか憐れみに似た感情が含まれているように感じられた。
「しかし。愛する人より、愛してくれる人と結ばれる方が、個人的には幸せだと思いますがね」
「え?」
彼女は、窓の外を見つめながら、ポツリとつぶやいた。
「気にしないでください。ただの独り言です。それで、どんな姿の人形がお望みですか?」
震える手で、私は自分のポケットに手を入れる。
もう、後戻りはできない。
私は、人形師に、舞の映った写真を差し出した。二人で休日に出かけた時に撮った写真だった。
「彼女が私と同い年くらいになった姿を、人形にしてほしいんです」
「なかなか無茶を言いますね。でも、まあいいでしょう」
「それで、もう一つ、お願いが……」
舞の入院していた病院は、遠方にあり、そう簡単には通えない。だが、廉がいつリハビリを開始して、外出できるようになるか分からない。あるいは、彼も人形をつかうことになるかもしれない。一度、舞のお母さんに拒否されたとはいえ、外出できるようになれば、再び彼が舞の病院にお見舞いに行こうとする可能性は、どうしたって否定し切れない。
それまでに、何とかしなくてはいけない。
「なるべく、早く作ってほしいんです」
「なるほど。でしたら、そこにある作りかけの人形を使うのはどうでしょう」
彼女は部屋の隅に置いてある人形を指差す。
「背丈とか、体格は比較的近いと思います。顔のパーツを変えるとか、細かい部分を微調整すれば、その女性を再現することはできるでしょう」
「助かります。何から何まで……」
「気にしないでください」
私は人形を使うための準備として、一人暮らしをすることにした。
親にバレたら、止められるに決まっているからだ。幸い、私が通っているのは進学校で、通学の時間を減らして勉強に打ち込みたいからと、一人暮らしをするための理由は整っており、同級生でも同じ理由で一人暮らしをしている子がいたことから、親を説得するのはそれほど難しいことではなかった。
「よお、久しぶり」
その日、私は、廉のお見舞いに行った帰りで、駅のホームで電車を待っていた。
振り返ると、修一が立っていた。
「久しぶりって……学校で会ってるじゃない」
「ここ最近、まともに話してなかっただろ」
「……今日、部活じゃないの」
「休んできた」
「珍しいね。こっちに顔を出すなんて」
「そうでもないさ。そんなに頻繁にではないけど、廉が倒れてからは僕もちょくちょくお見舞いに行ってるよ」
「そう。私は終わったから、先に帰るけど」
「とはいえ、反対の列車が来るまで、あと二十分はかかるだろ。少し付き合えよ」
修一は、構内の自動販売機でホットココアを二つ買い、一本を私に差し出す。
「何か、話があるんでしょ。でなければ、あなたが私を引き止めることなんてないものね」
「そうでもないぞ。まぁ、今日はその通りだけど。それで、廉の様子は、どうだった?」
「……いつも通りよ」
「舞が死んだことは?」
「伝えるわけがないでしょう。どんな行動に出るか、分かったものじゃない」
「だから、舞の人形を作ろうなんて思ったのか?」
私は、驚いて修一の顔を見る。
「なんか企んでるとは思っていたけどな。まさか、そんなぶっ飛んだことだとは思わなかったけど」
「……なんで」
「尾行してたんだ。あの家に入っていくお前をな」
私は、あの時の小さな人形の言葉を思い出していた。
「そんなこと、やっていいと思ってるの」
「それはこっちのセリフだ」
「このままだと、廉は舞の死に気づいてしまう。それを防ぐには、舞が退院して生きているという事実を作るしかない」
「……本気で言ってんのか、それ」
「本気よ」
私は即座に返答する。
「それが廉のためになると、本気で思ってるのか。いずれバレることなんだぞ。舞の人形を演じるお前と過ごしてぬか喜びさせて、実は死んでましたと分かった時の廉の気持ちを、お前は考えたのか」
修一は淡々と諭すように私に語り掛ける。
「それでも、今廉が真実を知って、二度と立ち直れなくなるよりいいでしょう」
「二度とって……そんな」
「大袈裟じゃない」
私の言葉に、修一は黙り込む。
「廉をこの世に繋ぎ止めているのは、もう舞がいつか目覚めるかもしれないという可能性だけなの。廉は、それだけを希望に生きているのよ。修一だってわかってるでしょう。舞が死んだとわかったら、今度こそ、助からないかもしれない。修一には関係ないでしょう。もう放っておいてよ」
「関係あるよ。俺は雫と廉の友達だ。間違ったことをしようとしているなら、それを止めるのが友達だろ」
「舞が生き返れば、きっと大丈夫。そうなれば、廉はもう絶望する理由がない」
ごめんね、修一。
私はもはや、修一の話を聞いていなかった。
ぞっとするほど、冷たい声だった。
「……自分が何を言ってるのか、分かってるのか」
「修一さ、自分のこと、頭いいって思ってるでしょう。普段はヘラヘラしてるけど、いざとなったら賢いって感じのさ」
自分の口から出てくる声のあまりの卑屈さに驚く。自分がこれほど感情を表現できるようになるとは思わなかった。
「何もせずに傍観していただけの人間がよく言うよ。修一はそうやって、関係ないところで正しいとか間違っているとか、言い続けていればいい。私にとって、自分がやっていることが正しいか間違ってるかなんて、もはやどうでもいいの」
綺麗なままでいたいとか、そんな思いはとうに捨てた。
たった一つ。それだけを求めて進み続ける。
「私は、廉が死ななければ、それでいい」
「……俺には、分からないよ」
「修一には、たぶん理解できないよ」
自分以外の誰かになりたいなんて、彼は思ったことないだろうから。
それから約二週間後。琴平華月は本当に私の部屋に人形とそれを使うための機材を持ってきた。
「これがあなたの人形です」
それを見た瞬間、私の心は震えた。
ああ、舞だ。
そこにあったのは、自分が憧れた、彼女の姿そのものだった。
「どうしました?」
琴平華月の言葉で、私は、ハッと我に返った。
「いえ……自分で依頼しておいて言うのもなんなんですけど、どうしてそこまでしてくれるんですか。お金だって、満足に払えていないのに」
「不安ですか?」
「はい。正直言って」
「興味があるのですよ。別の容姿の人形を使った人間が、どんな反応を示すのか。それに……まあ、言ってもいいでしょう。なんなら、そのデータだけで元は十分取れるのです然るべき機関に売ればね」
「でも、これって公には認められないことなんですよね。そんな非公式なデータを欲しがるところってあるんですか」
「非公式だからこそ、価値があるのですよ。禁止されている実験を行った人がいるとしましょう。公的には、その人を処分するだろうね。だが、実験データはどうするでしょう? まさか、研究者たちが捨てるとでも? 今後の研究に生かすに決まっているでしょう?」
「……なるほど」
「とはいえ、私は誰かに売るなんて馬鹿な真似はしないですが。自分の研究に利用させてもらいます」
ようやく腑に落ちた。彼女がどうして協力的だったのか。
「どうしますか。やめてもいいですよ」
「構いません。データでも何でも、好きなだけ持っていってください」
「そうこなくてはね」
小さな人形は、ニヤリと笑った。彼女を選んだ私の判断は、どうやら正しかったらしい。
人形を使うためのトレーニングは相当苦労した。それでも、廉が再び前を向いて生きることができるきっかけになるという一心で、死ぬ気で取り組んだ。
やがて、私がある程度、舞の人形を使えるようになってきた頃、廉も人形を使うためのトレーニングを始め出した。そして、夏休み前から学校に来るようになった。
本の整理が終わって、廉と一緒に帰った日。
「前に、人形が使えるようになったら、舞のところに行くって、言ってたよね」
私は、廉に舞のことを切り出した。
「……ああ」
「今度の夏休み。行くの?」
「そのつもりでいるけど」
「……そう」
もはや、一刻の猶予も無い。
「……なんだよ、それ。本当に舞そっくりじゃねぇか」
自室に来た修一は、悲しそうな顔をして言った。
「まだ文句があるの」
「今更何か言うつもりはねーよ。けど、廉が人形から立ち直るって、具体的に何をするつもりなんだ? 今までこれだけ時間をかけても、廉は立ち直れなかったわけだろ」
「分からない。でも、私が舞の姿でサポートすれば、きっとうまくいくはず」
そう。私が舞を完璧に演じれば、全て上手くいくはずなのだ。
鏡で舞の姿を見る。本当に可愛く、綺麗に作られている。
口角が上がってしまっている。嬉しさが、いつからこんなに表情に出るようになってしまったんだろう。
そして、私はこの人形を使って、初めて廉に会った。
「よかった……本当によかった……」
そう言って、泣きそうな顔で喜ぶ彼を見て、胸が苦しくなった。
「廉はどんな様子だった」
最初に廉に会った翌日、修一は私に尋ねた。
「信じられないって顔だったよ」
「そりゃそうだろうな」
真面目な顔をして修一は言う。
「後悔、してるか」
「してない」
私は、きっぱりと言った。
「もう、後戻りはできないぞ」
「……分かってる」
それにしても、廉が昔一緒に過ごした場所を巡ると言い出したのは、想定外だった。舞の姿で廉のサポートをできればと思ってのことだったが、やはり、記憶が一部欠けているという説明はまずかったかもしれない。とにかく、人形であるとバレないようにしなければ。
それからは、雫の姿で学校へ行き、外で廉に会いに行くときは舞の姿になるという日々を繰り返した。
案の定、廉は舞の姿をした私に、少しずつ違和感を抱き始めた。
違う。違う。違う。
舞はこんなんじゃない。もっと綺麗で、もっと可愛くて、もっと美しい。
何度も舞の写真を見て、表情を、振る舞いを、言葉遣いを死ぬ気で作り直した。
挫けそうになるたび、鏡でこの人形の姿を眺めた。
私は、自分ではないこの身体で、初めて自分を美しいと思えた。
いつの間にか、廉と会う時は舞として会うことが多くなっていった。
同じ言葉でも、雫の姿で言うのと舞の姿で言うのとでは、伝わり方が異なることを知った。
やがて、廉は自分の身体に戻るためにリハビリを始めた。
全ては順調に進んでいるかのように思われた。
だが。
「少し、痩せたか?」
廉が退院した日の夜、彼は私を見てそう言った。
「……ダイエット、してるから」
ほんの少しでも、この人形が自分自身の身体であると錯覚したかった。そうすれば、廉から好意を持たれているのが自分だと思うことができたかもしれない。
でも、彼が好きなのは『白鷺舞』だった。私が舞を意図的に演じようとすればするほど、彼は嬉しそうな顔をした。
自分の姿のままだったら、廉が舞に向けていたような目を自分に向けることは、天地がひっくり返ってもありえない。可能性はゼロだ。
それならば。
たとえ人形であっても、一瞬でも、その目を私に向けてくれる可能性があるというのなら。
「……く。雫」
ハッと我に返ると、母が心配そうな顔で座っていった。
「大丈夫? ぼんやりしてたみたいだけど……」
その日は、母がたまには顔を見せろと何度も言うので、実家に帰っていた。
「……うん、大丈夫。ちょっと勉強で疲れてただけだから」
「ご飯ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ。大丈夫だから」
気づくと、私は廉の病室にいた。
私は、廉のそばに行き、椅子に腰掛ける。
そして、彼の手をそっと握る。ほんのり暖かいと、感じるはずはないのに、私の人形の手は告げる。
本当は、自分の身体で彼に触れたい。
彼のそばにいたい。
今、ベッドに横たわる私自身の目から、涙は流れているのだろうか。
心当たりはあった。私は、琴平華月の元へ訪れていた。
「思ったより、早かったですね」
一通りの検査が終わったあと、琴平華月は言った。
「あなたの想像しているとおり、それはおそらく離人症の症状です」
「でも、人形を使い始めて、まだそんなに時間は経っていないはずなのに……」
「個人差はあるでしょうけど、あなたの場合は異なる容姿の人形を使っている点が、強く影響している可能性が高いです」
「そんな……」
「大事なことは、感情に流されず、目の前の事実を受け入れることですよ。そうしなければ、打てる対策も打てなくなります。現実として、あなたは離人症になっています。まずはそれを受け入れてください。あなたの目的は、自分が離人症になっていることを認めないことではないでしょう?」
「……どうすれば、いいんですか」
「これ以上進行させない、あるいは進行を緩やかにする方法ならあります。自分と人形を混同させないことです。人形を使用している時は、自分とは関係のない別の何かを操作しているという意識を持ち続けること」
家のチャイムが鳴り、私は我に帰った。インターフォンを覗くと、修一の姿があった。
「何の用」
私がドアを開けると、修一は私の両肩を掴む。
「お前、離人症になってるだろ」
「何のこと」
「とぼけんなよ。知らないとでも思ったのか。意識を失いすぎだ」
肩を掴む手に力が入る。
「痛い」
「しっかりしろよ。こっち見ろ」
「離して」
修一は、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「……中止だ」
「何、言ってんの」
「自分自身の身体を傷つけてまで、やることじゃない。お前だって、本当は分かってるんだろう? ここが限界だ」
「勝手に私の限界を決めないで」
「これ以上続けるなら、雫の両親に話をする」
「修一はさ、何がしたいの? 私の邪魔をするのが、そんなに楽しい?」
「俺は……」
修一はそう言いかけて、口を噤む。
「もう今更、手遅れだよ。廉はもう舞を見てしまっている」
「自分じゃなくなってもいいのか? お前は、自分の想像した舞という人間に縛られ続けることになるんだぞ。どうして、そこまで廉に固執するんだよ」
「それは……」
「お前は、自分が廉に好かれたいだけなんじゃないのか」
「……は?」
「離人症を発症する要因だよ。これでも、少し調べたんだ。確か、自分と人形の区別がつかなくなることだっただろ。どうして区別がつかなくなったのか、考えなかったのか」
「関係ない。別に同じ容姿の人形だろうと、発症する病気なんだから」
修一の言葉を、とっさに否定する。
彼の助けになりたいという気持ちは、嘘じゃない。
嘘じゃない、はずだ。
「言っておくけど、その道は地獄にしか繋がっていないぞ。廉がどれだけその人形に好意を抱こうが、それはお前じゃない。ただの人形だ。廉も辛い思いをするだろう。自分が好意を抱いた相手が、実は存在しないただの人形だなんて」
「ばらすつもりなんてない。廉が一人で、自分の身体で歩けるようになっても」
「……雫」
「舞は、死なせない」
「でも、このまま離人症が進行すれば、外で意識を失うことが増える。廉は間違いなく気づくぞ。どうするつもりだ」
「廉の前から消える」
「消える?」
「転勤で海外に引っ越したことにでもすればいい。距離が出来れば、自然と疎遠になれるだろうから」
「……お前はそれでいいのか」
「かまわない」
気づくと、私は自分の部屋に一人だった。
ふと、アルバムを手に取る。
野球の試合で疲れた後、帰りの車の後部座席で、私と舞が寝ている写真だった。この写真を見ながら、「こうやって寝ていると、姉妹みたいで可愛いわね」と、母が笑っていたのを思い出す。
写真の上に、水滴が落ちる。
何としても、あなたは、死なせない。
廉の中で、あなたを死なせるわけにはいかない。
ベッドに戻り、接続を切る。
大嫌いな自分に戻る。
限界が近いことは分かっている。離人症の症状は確実に進行している。自分の身体に戻ると、意識を維持することが難しくなってきている。
それでも、あと少しだけ。
私の名前は、呼ばなくていいから。
願わくば、この時間が少しでも長く。
そして、あの日。
遊園地で廉が私を見たその瞬間、私の心は、喜びに打ち震えた。
廉が私に向けたその目は、かつて彼が舞に向けていたものと同じ目だった。