山の木々は、少しずつ色づき始めていた。どこへ行っても聞こえていた蝉の鳴き声は、すっかりと鳴りを潜め、いつの間にか赤トンボが我が物顔で宙を舞い始めたのを見て、僕は季節の移り変わりを意識する。

「まあ、人形なら温度調節なんて必要ないんだけどな。本体は病院のベッドでぬくぬくだし」
「こういう時は、素直に羨ましいと感じるよ」
 修一はぶるぶる震えながら、恨めしそうな顔をこちらに向ける。

 秋にしては、少し冷え込む日だった。半袖でも問題は無いのだが、一応怪しまれないように、周囲に合わせて衣替えをするようにしている。

「でも、元の身体にも、そろそろ慣れてきただろ。完全に戻るのは、いつ頃になりそうなんだ?」
「さぁね。少なくとも、春になってからかな」
 せっかくなら暖かくなってからがいい。

「……廉はリハビリやる気がないみたいだって、舞に言っとくからな」
「勘弁してくれ」
 そんなことを言えば、舞がどんな表情をするか、手に取るように分かった。ちょっと見てみたい気もしたが、きっと、修一の言葉を真に受けた彼女に責められる、僕のメンタルがもたない。

「今日も、病院に行くのか?」
「うん。最近は、用事があるとき以外は基本リハビリしてるから」
「無理はするなよ」
「分かってるさ」



 その日、いつものように自分の病室へ行くと、淀川先生が待っていた。
「やあ、蓮井くん」
「どうしたんです?」
「いや、リハビリもそろそろ次の段階に移行しようかと思ってね。食事に挑戦してみないか?」
「……はぁ」
「そんなに嫌そうな顔をしなくても。普通は喜ぶものなんだけどね。君の場合は、事情が事情だけに仕方ないのかもしれないけれど」
 僕の表情を見て、先生は苦笑する。
「まあ、やりたくなったらでいいよ。人間の身体に戻れるようになっただけで、大きな進歩だし」
「いえ、やります」
 日常生活を元の身体で送れるようになるためには、食事は避けて通れない道だ。
「ここは病院だからね。安心して吐いていい」
 たまらず、僕は近くのビニール袋を手に取り、今食べたものを胃液と共に吐き戻した。
 数年ぶりに味わう嘔吐感。予想以上に不快だった。
「やっぱり、まだ早かったかな。今日はもうやめにしておこう」
「……いいえ。もう少し、やります」
 結局、この日は、水以外のものは全て吐き出してしまった。
 
「廉の家に行きたいんだけど」
 病院で嘔吐した日の翌日、舞は突然そんなことを言い出した。
「え?」
「食事の練習やってるんでしょ。私が料理してあげようかなって」
 舞の提案を僕は全力で拒否する。
「悪いけど、本当にやめてくれ」
 彼女の少し悲しそうな表情を見て、胸が痛くなる。
「食べられる気がしないんだよ。いくら君だって、自分が作った料理を目の前で吐かれたら辛いだろ。僕だって、君の悲しむ顔を見るのは辛い。どっちにとっても、メリットはないよ」
「メリットはあるじゃない。食べられるものがあるかもしれない。試さないことには、分からないでしょ? もちろん、食事を食べるのが怖いなら、無理にとは言わないけど。どうする?」
 舞は、真剣な表情で僕のことを見つめる。
 僕は、ため息をついて言った。
「……せめて、親がいないときにしてくれ」
 舞は、嬉しそうに微笑んだ。
 

「お邪魔しまーす」
 この日なら、母の帰りが遅いし、弟も部活でいないという日を指定すると、舞は喜んで僕の家を訪れた。 
「やっぱりやめよう。君だって、自分が作ったものを吐かれたら傷つくだろう」
「大丈夫よ。そんな生半可な覚悟で押しかけ女房やってるわけじゃないので」
「押しかけ女房って……」 
「まあ、大人しく部屋で待ってなさい」
 食べる前から、心なしか気分が悪い。
「ジャーン。お粥です」
 舞は、湯気が立ち上る美味しそうな卵粥を、台所から運んできた。
 食べなきゃいけない。そう思うだけで、心拍数が上がる。手足に汗が滲み、身体の先のほから血の気が引いていくのが分かる。
 食べたら吐くという、確信がある。
「吐いても大丈夫。ゆっくり食べてみて」
 スプーンを口の中に入れ、前歯と上唇で上に乗ったお粥を口の中に残し、スプーンを引き抜く。お粥を咀嚼し、少しだけ飲み込むと、案の定、たちまち胃液が込み上げて、近くに置いておいたビニール袋に吐き出した。
 自分が作った料理を目の前で吐かれたのだ。彼女に対する罪悪感で、胸が張り裂けそうになる。
 顔を見るのが怖くて、頭を上げることができない。
 その時、背中に優しい手の感触があった。
 彼女は、嘔吐く僕の背中をさすった。

「大丈夫」
 少し落ち着いた僕は、またスプーンを手に取り、お粥を口に運ぶ。
 口の中の胃液の臭いで、むせ返りそうになる。

「……どうして、こんなにしてくれるんだよ」
 そういう聞き方しかできないのは、卑怯で情けないと自分でも思う。
「前からずっと聞きたかったんだよ。普通そこまでしないって」
 舞は、しばらく黙り込んだ後、ポツリと言った。

「廉が何も食べられなくなったのは、私のせいだから」
「君が悪いわけじゃない。なんでこうなったのか、よく分からないんだ」
 舞のことがきっかけなのは事実だが、正直なところ、なぜ吐き戻してしまうのか、自分でもよく分かっていないのだ。
「自分に罰を科したんじゃないのかな」
 舞は、少し哀しそうに微笑んで、続ける。

「私も修一も雫も、廉に苦しんでほしいなんて思っている人はいないよ。それでも自分が許せないというなら、許さなくてもいい。ただ、許さないことと、普通の幸せを放棄することは違う。私に対して申し訳ないと思う気持ちがあるなら、あなたは、自分の罪を忘れずに、幸せになりなさい。それが私の望みだから」
 頬を、熱い水が伝うのが分かった。それを、隠したくないと思ったのは、彼女に対する甘えだろうか。
 舞は、僕に近づき、抱きしめてくれた。
 ドクン、ドクン、と聞こえる鼓動は、彼女ではなく僕の心臓の音だった。

「これって、とても対等な関係とは言えないだろ。僕が享受してばっかりだ」
「そう思うのなら、これから返してくれれば……」
 そこまで言って、舞は不意に言葉を止めた。
「どうした?」
「……ううん、なんでもない」
 彼女は笑って答えた。
 
 お粥のあとも、ゼリー、いちご、すりおろしたリンゴ、うどん、などなど……。 
 色々なものを試した。その結果、分かったことは、水に近いものは、少しなら食べることができるということだった。

 僕は舞に謝罪したが、舞は全然落ち込んだ様子を見せず、「謝らなくていいよ。むしろ、食べられるものが分かってよかったじゃない」と労ってくれた。
 ちなみに、あとで淀川先生には、「そんなに急にやるものじゃないよ」としっかり怒られてしまった。