夏休みが終わって、また学校が始まった。と言っても、夏休み期間中も夏期講習で定期的に登校していたし、ほとんど家で本を読んでいるか、リハビリをしていただけだから、夏休みという感じはあまりしなかったが。

 立ち上がれるようになってからは、リハビリテーションセンターで、本格的に立って歩くための練習をするようになった。
「こんにちは」
「あら、噂の舞ちゃん? こんにちは」
 たまたま点滴を換えに来ていた看護師さんが、嬉しそうに反応する。
 噂になってるのかよ。

 舞には、気が散るから、見ているのはやめてくれと言うつもりだったが、僕がリハビリを始めると、何も喋らなくなった。ただ黙って、僕が立ちあがろうとして失敗する姿を見続けた。
「もっと有意義な休日の過ごし方があるだろう。こんな無様な姿を見続けて、楽しいか?」
「廉が諦めずにやろうとする姿は、見ていて気分がいいよ」
 真剣な顔でそう答える彼女を見て、僕は何も言えなくなった。

「たまには、気分転換も必要でしょ。蓮井くん、少し外に出てきたら? 彼女ちゃんが見ていてくれるなら安心だし」
「任せてください!」
「いや、彼女じゃないだろ。ちゃんと否定しろ」
「えー」

 看護師さんが出て行った後、車椅子に乗った僕を、彼女が押してくれて、僕たちは病院の外に出た。
 病院の敷地内の公園をゆっくりと回りながら、何の脈絡もなく、舞は僕に問いかけた。
「大丈夫?」
「何が?」
「根詰めすぎなんじゃない? ここのところ、毎日リハビリやってるでしょう」
「まぁ、そうだけど」
「昔からそうだったもんね。一つのことに夢中になると、周りが見えなくなるというか」
「そうだったか?」
「そうだったよ。もう暗くなってボールも見えないのに、いつまでも練習してたり」
 舞は、懐かしそうに言う。
「野球はなぁ。まぁ、それだけ一生懸命だったってことだ」
「野球だけじゃないよ。休み時間に本読んでて、授業始まったのに気づかずそのまま読み続けて、先生に何回も怒られてたじゃない」
「よくそんなこと覚えてるな」
 僕が感心すると、彼女は笑って言った。
「まぁ、私にとってはついこの間の出来事みたいな感じだからさ」
 その言葉で、僕は舞がつい二ヶ月ほど前に目を覚ましたばかりであることを思い出した。

「……そうだな。そうだった」
「ちょっと、しんみりしないでよー。あ、そうだ。今日はもう一人、お客さんがいるよ」
「お客さん?」
 彼女の指差す先をみると、ベンチ座った修一の姿があった。
「よっ、廉」
「修一! 部活はいいのか?」
「今日は休みなんだ。これからリハビリなんだろ? 付き合うぜ」

 二人の見物人がいる中、リハビリテーションセンターで、歩く練習を行う。
「ほらほら、そんなもんかー? 根性が足りないんじゃないか、根性がー」
 修一は具体的なアドバイスをするわけでもなく、ただ野次を飛ばしている。
「あいつ……」
「修一なりの応援だと思うよ」
 舞は苦笑しながら、僕の身体を支えてくれる。

 両足で身体を支えるのが難しく、何度も倒れる。何なら、先に受け身のコツの方を掴めてきたような気がする。
 僕は再び、手すりに掴まり、前に進もうと試みる。 
 片方の足を上にあげたら、今にも膝から崩れ落ちそうだ。

 恐れるな。そう自分へ言い聞かせ、僕は片足を地面から離す。
 一秒ほど静止した後、僕は前に倒れた。
 膝が擦り剥けて、血が出ていた。
「大丈夫⁉︎」
 舞が心配そうに駆け寄ってくる。

 膝を擦り剥けば、痛い。当たり前の事実なのに、込み上げてくるものがあった。 
 僕は、今自分の身体で、生きているんだ。

「まだやれそう?」
「……うん、大丈夫」
 汗が流れ落ちる。
 僕は首に巻いたタオルで口元を拭い、リハビリを再開する。
 手をマットに突っ張り、腰を浮かせる。足を自分の身体の下に持ってきて、つま先でマットを掴む。手を離し、膝を伸ばして立とうとするが、バランスを崩し、横へ倒れる。 

 何度も、何度も繰り返したが、上手く立てなかった。
「少し、休憩しよう」
 先生の一言で、僕は倒れ込む。 
「こんなはずじゃないと思ってたかい?」
「まぁ、はい。筋肉が衰えているということを、頭では理解していたはずなんですけど。ここまでとは思っていませんでした」
 こればかりは、今までみたいに、遊びながらというわけにはいかない。

「自分のペースで、少しずつ動かせるようになっていったらいいじゃない。誰も急かす人はいないわよ」
「自分の意志の弱さは、自分が一番よく分かっているからな。決意がぶれてしまわないうちに歩けるようにならないと、また投げ出してしまうかもしれないだろ」
「廉が小学生の時にやってきたことよ。あの時だって、投げられない球を、何度も練習して、ようやく投げられるようになったでしょう? それと同じことだと思うよ。廉は投げ出さない」
 彼女の信頼を、裏切りたくないという思いが、自分の中に芽生える。
「今日はこのくらいにしておこう」
 君が見てくれるから、また立ちあがろうと、努力しようと思えるんだ。



 センターでの立ち上がる練習が終わった後、修一に車椅子を押してもらいながら三人で一緒に病院の近くの公園へ訪れた。
「もう夏も終わりだねー」
 舞がぽつりと呟く。
「日が落ちるのも早くなったよね。少し前まで、六時くらいだとまだ明るかったのに」
「そうだな」
 何かに打ち込んでいる時の時間の経過は、驚くほど早く感じる。

「身体の調子はどう?」
「情けない話だけど、少し歩くと疲れるし、一日通しで自分の身体で生活できるようになるには、もう少し時間がかかりそうだな」
「筋力とか体力は、元に戻すには時間がかかるだろうし、仕方ないでしょ。意識の方は?」
「ああ、そっちの方は、もうほとんど無くなった。だるさに関しては、まだ少し身体が重いと感じるけど、それも筋力不足が原因な部分もあるからな。そのうち無くなると思ってるよ」
「この調子でいけば、年内には、元の身体に戻れるんじゃないか?」
 修一が僕に尋ねる。
「どうだろうな。まだ最後の難関が残ってるし」
「最後の難関?」
「食事だよ。元々僕が人形を使うようになったのも、それが原因なんだし」
「元の身体に戻れただけで、相当な進歩だと思うよ。無理に食事までできるようになる必要はないんじゃない?」
 舞は、小首を傾げながら、そんな気遣うようなことを言う。
「らしくないな」
 僕がそう言うと、彼女は拗ねたような表情を見せて言った。
「別に無理をしてまで戻れとまで言った覚えはありませんけど」
 それを、素直に可愛らしいと思ってしまう。

「……感謝してるよ、舞」
 口をついて出てきたその言葉を聞いて、彼女は笑う。
「どしたの、急に」
「いや、別に……」
「感謝する必要なんて無いよ。廉は、自分の力でそこまで回復したんだから。私はただ横で見てただけだし」
「それでも、舞が背中を押してくれなければ、僕は今も人形のままだったよ。そもそもの話、君が意識を取り戻してくれなかったら、もう元の身体に戻れず、廃人のようになっていたかもしれない」
「お礼を言うのはまだ早いでしょ? ほら、いくよ」

 そう言って、舞は車椅子を止め、照れたのを隠すかのように慌てた様子で持ってきた野球のボールを修一に向かって投げる。だが、彼女の投げたボールは力無く、修一のいる場所の遥か手前で落下した。
「ありゃ、私もまだ筋力がちゃんと戻ってないみたい。もう少し近くでやろうよ」
「分かったよ」
「あの頃は、もっとちゃんとした球投げられたんだけどなー」
 舞は転がったボールを拾い、アンダースローでこっちに向かって投げた。僕は左手でキャッチしようとするが、うまく掴むことができず、ボールは地面に落下する。
「キャッチの練習もしないと。試合でエラーしちゃうよ?」
「まぁまぁ、まずは立って歩けるようになってからだろ。物事には順序ってもんがある」
 修一はそう言って、僕の落としたボールを拾い、舞に向かって投げる。だが、ボールは、すっぽ抜けて舞の頭を飛び越えて、明後日の方向へ飛んでいった。

「もー、ちゃんと投げてよー」  
舞はそう言いながら、ボールを取りにいく。 
「廉、一つ聞きたいんだけど」
 声が届かないところまで舞が離れてから、修一は真面目な顔でそう言った。
「何?」
「お前、舞に告った?」
「……え?」
「だから。舞に好きだって言ったのかって」
 修一のその言葉を、僕は慌てて否定する。
「急になんだよ。告ってないけど」
「なんでだよ。ずっと好きだったんだろ」
「いや……」
 僕は考える。彼女のことをどう思っているのか。
 わざと思考から遠ざけていたことだったのに、指摘されると意識せざるを得なくなる。

 もし、あの日舞と一緒に花火大会に行けていたとしたら。
 あの時、僕は舞に好きだと告げるつもりだった。

 あれから、数年の月日が経った。自分の中にある舞への想いは、もう言語化するのが難しいほど、複雑なものになっている。あの日、家に置いてきたプレゼントを、取りに帰ってしまってしまったことへの罪悪感。そして、舞が生きていてくれたことへの安堵。

 多分、僕は舞が生きていてくれただけで、もう満足なのだろう。それ以上のことを望むことで、何かを変えてしまうことで、今が無くなってしまうことを、きっと僕は恐れている。

「舞は……今の僕にとっては、恩人だよ。それ以外の何でもない」
 目を背けているのは、気持ちに気づくのが怖いからだ。
 言語化してしまえば、逃げられなくなる。
「あいつ、かわいそー」
「何でだよ」
「普通、好きでもない奴のために、毎日病院に来るかっての」
 やれやれといった表情で、修一は続ける。

「それか、他に好きなやつでもいんの?」
「……そういうわけじゃない」
「じゃあ、早く告白しろって。ためらう理由は無いだろ」
「なんなんだよ。お前、おかしいぞ。なんでそんなに急かすんだよ」
 すると、急に修一の顔が何かに驚いたような、ハッとした表情に変わった。
「……いや……大した意味は——」
「れーん! いくよー!」
 その時、ちょうど舞が戻ってきて、この話は強制的に打ち切りになった。
 その後も、修一は、それ以上告白の話に言及しようとはしなかった。 



 その日、僕が病院を出たのは、夜の八時を過ぎた頃だった。扉を開けて、薄暗い街灯の下に解き放たれる。日中は、日が出ていればまだ暖かいと感じるが、夜はもうすっかり気温が下がって、季節が変わったことを思い知らされる。
 夜の世界は、特別な趣がある。人も車もほとんど通らない大通り沿いの歩道を歩いていると、ありきたりな表現かもしれないが、世界に自分一人しかいないような気分になる。

 元の身体で歩けるようになった僕は、今日、自分の身体で家に帰ることを決めた。完全に戻るのはまだ先だろうが、なるべく本体の方で過ごす時間を長くした方がいいということだったので、少しずつこっちの身体でいる時間を増やしていくことになった。
 病院を出てしばらく自宅に向かって歩いていると、意外なことに雫が立っているのを見つけた。

「あれ、雫?」
 少し離れた場所から呼びかけるが、なぜか反応が無い。
「雫ってば。無視するなよ」
 近づいて、彼女の肩をポンとたたくと、勢いよく跳ねのけられ、振り返った雫と目が合った。
 彼女は、驚いた表情を見せた後、「……ごめんなさい」と顔を伏せて俯いた。

「あ、いや、こっちこそ驚かせてごめん。どうしたんだよ、こんな時間に」
「いえ……今日廉が自分の身体で家に帰るって聞いていたから。淀川先生に付き添いを頼まれて」
 あの医者、また雫に教えたのか。
「それは……何というか、悪かったな」
「別に、大丈夫」

 そういえば、雫とまともに話すのは、夏休みの本の整理をした日以来だった。暗いので街灯の光で判断するしかなかったが、その時より少し頬がこけているように見えた。
「少し、痩せたか?」
「そう?」
 僕がそう問いかけると、彼女は少し意外そうな顔をした。自覚が無いのだろうか。
「……ダイエット、してるから」
「元々痩せてるんだから、そんなことしない方がいいんじゃないのか?」
 そう言うと、雫はじっとこちらを見つめてから「変わったね、廉」と言った。
「え?」
「なんて言うか、余裕が出てきた感じがする。今まで、周囲の人間の変化なんて、気づいてなかったでしょう」

 言われてみれば、今まで自分以外の誰かのことを気にかけることなんて無かった。自分のことで精一杯だったから。
 今まで俯いて話をしていたのが、最近は人の顔を見ながら話をするようになってきたような気がする。

「今日は、何をしてたの」
「文字を書く練習だな。繊細な作業が、まだ難しくてな。小学生みたいな字で笑えてくるよ」
「そう。久しぶりに元の身体で歩く夜はどう?」
「なんだか、新鮮な感じだ。人形でも、感覚はある、でも、自分の体で感じるものの方が、色濃く感じる気がする」
「……現時点で電子情報が伝えられるものには、限界がある。もう少し先の未来なら、あるいは伝えられる情報の量がもっと増えていくかもしれないけれど」
「そうなれば、自分が今人形を動かしているのか、自分の身体を動かしているのか、本当に分からなくなりそうだな」
「離人症患者は、間違いなくもっと増えるでしょうね」
 雫はポツリとそう呟く。

 舞と過ごす時間が多くなる中で、ふと、雫との時間は、どこか安心することに気づいた。雫には既に最高にかっこ悪いところを見られており、今更自分を格好よく見せようと思わないから、自然体でいられるというのが大きいのかもしれない。

「この前の花火大会は、どうだったの?」
「前に四人で行った時のことは、覚えてるみたいだったぞ。事故のことは、あんまり覚えてないんだとさ」
「そうじゃなくて、楽しかった?」
「え? ああ、まぁな。……花火も、綺麗だったよ」
「そっか」
 そう呟く彼女は、心なしか、微笑んでいるようにも見えた。

 そんな話をしていると、自宅に到着した。
「じゃあ、私はこれで」
「ああ、ほんと、わざわざありがとな」
 雫は踵を返し、帰ろうとした。
「……雫」
 僕が彼女の名前を呼ぶと、彼女は足を止めて振り返った。
「何?」

 なぜ、彼女を呼び止めたのだろう。
 自分でも、その理由が分からなくて、続きの言葉が出てこなかった。

「……いや、何でもない。……気をつけてな」
「うん。またね」
 彼女は、再び前を向いて歩き出した。

 雫を見送って、僕は自宅の玄関の戸へと向きなおる。
 おそらく、母は家に帰ってきているのだろう。
 自分の家に入るのに、かつてこれほど緊張したことは無かった。
「ただいま」
 扉を開けると、既に母が待ち構えていた。
「おかえり。リハビリ。大変だったでしょう」
「知ってたの?」
「当たり前でしょう。淀川先生がちゃんと教えてくれたわよ。あなたは来て欲しくないと思ってるだろうから、行かなかったけど」
 母がそう言った後、沈黙が流れた。

 僕は、何か言わなくてはならないと思った。いろんな感情が渦巻き、伝えるべき言葉も定まらないまま、僕は口を開いて何かを言おうとした。しかし、母は「いいから」とそれを遮って言った。
「手、洗ってきなさい。夕飯、あなたの分もあるから」

 胸の内から、温かい何かがじんわりと広がっていく。
 緊張がほぐれていくのが、手に取るようにわかる。
 僕はなんだか気恥ずかしくなり、一度脱いだ靴をもう一度履いて言った。

「翔は?」
「さっき帰ってきて、すぐに出て行ったけど。走ってるか、そこのグラウンドにでもいるんじゃない?」
「ちょっと、行ってくる」
「そう。遅くならないようにね」
「……母さん」
「何?」

 伝えるべきは、きっと謝罪なのだと思う。だが、それを言うのは憚られたので、別の言葉を選んだ。
「行ってきます」
 母の方は見なかったから、どんな表情をしているのかは分からなかった。
「はい。行ってらっしゃい」
 でも、送り出してくれたその言葉を聞いて、僕はようやく母の期待に応えることができたことを確信した。



 翔は、照明の光で照らされたグラウンドで、壁に向かってボールを投げていた。

 何度か投げた後、ボールが僕の足元に転がってきた。
 僕は、ボールを拾って、翔に向かって投げ返した。ボールは地面に着くことなく、翔のミットに収まる。翔は、驚いた顔をして言った。
「……人形、やめたんだな」
「まあね」  
 人形を使えば、まともにボールが投げられなくなることを、弟に説明したことはない。恐らく、調べてくれたのだろう。 

 お互い、黙ってキャッチボールをする。
「いい球、投げるようになったな」
「兄貴がサボってる間、僕は練習していたから」
「知ってるよ。見てたからな」

 昔は僕の後をひょこひょことついて来ていた小さな子供だったのに。育ち盛りにちゃんとしたものを食べた弟は、しっかりとアスリートの身体になっている。

「こないだの大会、惜しかったな。修一が、お前に謝っといてくれって言ってたよ。交代させてあげられなくてごめんって」
「あれは、こっちが投げさせてくれって言ったんだよ。片桐さんが謝る必要なんてない」
「お前、修一のこと片桐さんって呼んでるのか?」
 僕が少し笑いながら聞くと、翔はムッとした顔で「先輩なんだから、当たり前だろ」と言った。

 小学生の頃は呼び捨てで呼んでいたのに。
 そうだよな、部活だものな。
 僕たちは、キャッチボールをしながら、他愛もない話を続けた。
 まともに話すのは数年ぶりなのに、まるであの頃と同じように、口からするすると言葉が出てきた。あれだけ話すのが怖かったはずなのに。

 二人の間にあったと思っていた分厚い壁は、少し押せば瓦解する、とても脆いものだったのだ。

「また野球やるのか?」
 翔は、少しためらいながら、問いかけた。

「この身体じゃあ、戦力にはならないよ。でも、リハビリを続けて、いつかまたちゃんとボールが投げられるようになったら、戻るかもな」
「……そうか」
「一つ聞きたいんだけどさ。お前は、元々野球が好きな訳じゃなかったよな」
 甲子園に出場する夢も、プロ野球選手になる夢も、僕が引っ張るように付き合わせて、それで勝手にいなくなった。
「気にしなくていいよ。今はちゃんと、僕の夢になったから」
 ごめんな、とは、恥ずかしくて言えなかったけれど。そんな気持ちを込めながら、僕はボールを投げ続けた。