放課後、部活の時間がやってきた。

 自分と話していれば朱音にも疑いがかかってしまうと思った陽路は、早めに教室を出て陸上部の部室で彼女を待った。

「朱音!」

 暗い顔をして部室までやって来た朱音に陽路が話しかけると、彼女は脅えた表情を見せた。

「……わ、わたしが頼んだわけじゃないからね!」

 朱音の口から飛び出したのは、予想もしていなかった言葉だった。

「……え? 急に、何を言いだすのよ?」

「陽路はいつもそう! いつだって正しい! でも、わたしが庇ってって頼んだわけじゃない! ……あんたがあの場でわたしがやったって言ってくれれば! 正直に言ってくれれば! わたしには謹慎処分が出て、インターハイに出なくてもすんだのに!」

「朱音、まさか……!」

 ようやく言葉の意味を理解できた陽路だったが、それは立っていることが辛い程の衝撃だった。

「……朱音、試合に出るのが嫌だったの……?」

 陽路は言葉を振り絞り、彼女に問いかけた。

「そうだよ! だから、昨日言ったでしょ!? 勝負の世界から逃げ出した陽路には、わかんないんだよ!」

 陽路は言葉に詰まった。朱音の主張が絶対に間違っていると、言いきれる自信がなかったからだ。

 ただ、朱音を庇った行為だけは、彼女のためにやったと自信を持って言える。

「でも……わたしは、朱音のためを思って、」

「それが嫌なんだよ! どうしてわかってくれないの!? 陽路のそういう正義感、わたしには辛いんだよ!」

 朱音は泣きながら部室を飛び出していった。朱音の言っていることはひどく理不尽で、感情的で、第三者から見れば百パーセント朱音が悪いと言える内容だろうと思った。

 だが陽路はそんな朱音の行動を咎める余裕がない程、頭が真っ白になっていた。

 朱音のことならなんでもわかっていると思っていた。だけどそれは自分の思い上がりだった。彼女のためを思ってやったことが、彼女を傷つけていたなんて。

 ショックで動けず、呆然と部室に佇んでいた陽路だったが、

「ここにいたのか小川。ちょっと話があるんだが、いいか?」

 部室にやってきた陸上部顧問・佐々木の声で我に返った。

「……はい、なんでしょうか……?」

「先生は信じたくないが……お前が、クラスメイトの物を盗んだって話を耳にしてな。……その話、本当なのか?」

 庇われるのが辛いと泣いた朱音の顔が脳裏をちらついたが、ここで無実を主張しても、かえって事を大きくするだけだと思った。

 ――それに何より、朱音にはまだ走る権利を失って欲しくない。

「……はい。本当です」

 佐々木はゆっくりと瞬きをした後、静かに息を吐いた。

「……そうか、残念だ。担任の先生とも、もしお前が本当に犯人ならどうするかと、処分を相談しておいた。……小川、お前を一週間の部活動謹慎処分にする」

 覚悟はできていたつもりだったが、今まで優等生として生きてきた陽路にとって、謹慎処分はとても大きな罪に感じられた。

「……そんな……」

「前から先生、言っているよな? 部活動で力を発揮できる人間は、学校生活もしっかりしているものだって。本来スポーツ科の人間が部活動謹慎処分になれば停学コースなんだが、思えば、マネージャーに転向してからお前の心のケアをしてこなかった先生にも落ち度がある。悩みがあるなら今、思う存分話しなさい。そして今日から一週間ゆっくり休んで、また元気なお前の姿を先生に見せてほしい」

 その後、佐々木に犯行の動機や犯行日の詳細などいろいろと訊かれた気がしたけれど、内容は全く頭に入ってこなかったし、何を話したのかも覚えていない。

ただ、自分はやり方を間違えたのだと、それだけを実感していた。

          ◇

 陽路はすっかり居場所を失った。

 教室では白い目で見られ、部活動は謹慎をくらってしまった。佐々木からは帰宅を命じられたが、家に帰れば母親から部活はどうしたのか訊かれることはわかりきっている。とてもじゃないが、説明なんかしたくない。

 陽路は時間を潰すため、学校と自宅の真ん中にある馴染みのない駅で降車し、駅前にある喫茶店に入りイヤホンで音楽を聴いて、雑音が耳に入らないように努めた。

 明日からどうすればいいのだろうか。考えなくてはならないことはたくさんあるのに考えたくなくて、馴染みのあるお気に入りの曲に耳をすませて気を紛らわそうとした。

 自分の世界に入りこんでいると、イヤホンからある曲が流れてきた。

 レッドホットの代表曲『BEST FRIEND』だ。陽路も朱音も、今流行りの女性アーティストの同タイトル曲よりも、自分が生まれる前から存在する、このフォークソングが好きだった。

 朱音とはよくカラオケで一緒に歌ったし、陽路がまだ選手だった頃は、ふたりでイヤホンを半分こして試合前に聴いていた、思い出の曲だ。

 しかし今は、全く聴きたい気持ちにならなかった。ボタンを押して次の曲へとスキップしたとき、周りの客がある一点を集中して見ていることに気がついた。

 陽路が観衆の視線の先を追うと、そこには朱音の想い人、旭幸之輔がいた。

 思わずイヤホンを取って、周りの雑談に耳を傾けてみた。幸之輔は特に何か目立つ行動をしているわけではなく、ただ一人本を読みながらコーヒーを飲んでいるだけだった。

 それなのに周りの人間は、彼を見て「格好良い」とか「声かけてみようよ」などと騒いでいた。

 今この瞬間までは朱音に対して負の感情を抱いていなかった陽路だったが、幸之輔を見つけたことで無性に、朱音に復讐したいという気持ちがふつふつと湧き上がってきた。

 自身が受けた悲しみを他の感情に変換しないと、とてもじゃないが平静でいられなかったのだ。

 陽路は無意識のうちに、その感情を憎しみに変化させていた。朱音が好きな幸之輔と話をして一緒の時間を過ごせば、少しは朱音へのあてつけになるだろうと考えたのだ。

 真っ黒な気持ちを抱きながら、陽路は幸之輔の隣に座った。

「こんばんは。少し話をしてもいいかな?」

 周りの女たちの注目が、一斉に自分に集まってくるのを感じた。

「俺が飲み終わるまでなら、構わない」

「ありがとう。少しだけだから」

 噂以上に冷たい印象を幸之輔に抱きつつ、陽路は内心を悟られないように笑顔で隣に座った。

「それで、話とはなんだ? スポーツ科二年E組、陸上部の小川陽路」

「……え!? わたしの名前、知っていたの?」

「俺は学校の関係者なら全員、顔と名前、特徴くらいは記憶している」

 淡々とコーヒーを啜る幸之輔に目を丸くした。全校生徒と教師、併せて約千人弱を把握するのは容易なことではない。

「へえー! すごいね! 頭いいって噂は聞いていたけど、本当なのね!」

「そんなことはどうでもいい。話とはなんだ、と訊いている。特にないなら、俺は残りのコーヒーを飲み切って失礼させてもらう」

「わ、ちょ、ちょっと待って! えっと……あ! わたし、手品ができるの!」

 幸之輔を引き止めるために口から出た出まかせを何とか形にしようと、幸之輔の怪訝な表情が見守る中、陽路は中身を取り出されて空になったストローの袋にキャラメルマキアートを一滴垂らした。当然、袋はゆっくりと地味に伸びた。

「……あはは、ミミズ……なんちゃって……」

 苦し紛れにしても、酷いものを見せてしまった。どんな冷たい目で見られているだろうとおそるおそる幸之輔の顔を窺うと、予想に反して、彼は食い入るように紙のミミズを見ていた。

「……面白い! 身近なものでそんな発想が出てくるなんて、天才的だ! 君が考えたのか?」

「えっ、割と有名な遊びだと思っていたけど……」

「そうだったのか……! 父の指摘通り、やはり俺にはまだ遊び心が足りないようだな……」

 初めはからかわれているのかと思ったが、幸之輔はどうやら本気で感心しているようだった。

 予想外の反応に陽路は笑った。さっきまであんなに黒い気持ちを抱えていたのに、今のやり取りですっかり毒気を抜かれてしまっていた。

「実に勉強になったぞ、感謝する。では」

 幸之輔はカップを持って立ち上がろうとしていた。

「待って! こ、これは知ってる?」

 まだ幸之輔と話し足りない陽路は、慌ててポニーテールを留めていたシュシュを右手の人差し指と中指にかけ、握り拳を作り、幸之輔に見えない自分側で薬指と小指にもかけ、拳を開いた。

 シュシュは、人差し指と中指から薬指と小指へと瞬時に移動した。……さすがに、子ども騙しすぎただろうか?

「……二回も俺を驚かすとは、君はマジシャンとして本物のようだ。ぜひトリックを教えてほしい。一体どうやったんだ?」

 またしても幸之輔は子どものように目を輝かせていた。なんだか可愛らしくて、陽路は一瞬朱音のことを忘れて笑っていた。

「えっと……場所を変えてもいいかな? ここだと話辛くて……」

「そうか。ここだと明かせないトリックなのだな?」

「ち、違うの。そうじゃなくてちょっと、個人的な話を聞いてほしいな、って思って。……も、もちろん、さっきの手品も教えるから!」

 最初は、少し話せれば十分だと思っていた。目標は達成されたはずなのに、ここまでして彼を引き止める理由は自分でもよくわかっていなかった。

「ならば、早く話せる場所まで案内してくれ。時間は有限なのだからな」

「い、いいの?」

「おかしなことを言う。君が誘ったのだろう?」

 了承してくれると思わなかった陽路が慌てている様子を、幸之輔は不可解そうに見つめていた。