◇

 夏休み直前、毎年七月の体育の授業は水泳になる。

 水着を着なくてはならない恥ずかしさから、水泳の授業を嫌がる女子はとても多い。そんな中、陽路は水泳の授業を楽しみにしている珍しい生徒だった。

 準備運動で全身の筋肉をしっかりと伸ばし、水面に飛び込んだ。今日は五十メートルを泳ぐテストだ。足を動かし、手で水を掻き分け、前へ、前へと進む。

 もう陸上では得ることのできない、他者を追い抜く感覚や、呼吸機能の限界へと挑む感覚。陽路はそれらを夢中で味わいながら、真っ直ぐにゴールを目指した。

 ゴールしてゴーグルを取った陽路に、女子たちから歓声が沸いた。

「陽路、速ーい!」

「めっちゃ格好良かったよ!」

 水泳に限らず、スポーツ科という運動神経の塊が多いクラス内でも、陽路の運動神経は群を抜いていた。さすがに水泳部には勝てないが、他のどの生徒よりも速い記録をたたき出した陽路をクラスメイトたちが取り囲んだ。

「すごいね! 陽路、水泳部に入ればいいのに!」

「泳ぐのは好きなんだけどね。ほら、わたし靭帯やっちゃってるから」

 右膝を指差した陽路に、彼女たちは残念そうな目を向けた。

「あ、そっか……そうだよね、ごめん。でも本当すごかったよ!」

「いやー、うん、陽路は本当すごいよね! もし陸上も続けていたら、わたしなんて比較にならないくらい差がついたと思うよ」

 太陽の下で背伸びをしていた朱音がやって来て、陽路の肩に手を回した。背丈も同じ位のふたりは、視線の高さもちょうど合っている。

「もう、何言ってるのよ! もしもの話はなしだって、前から言ってるでしょ?」

 陽路は諭すように言って朱音の頬をつねった。朱音は昔から「もしも」の話をすることが多かったが、ここ最近スランプに陥ってからその兆候は顕著であった。

「それより皆さん、陽路って良いおっぱいをしていると思いませぬか? 我がクラスにおいてこの形、この大きさは逸材ですぞ」

「……何よその喋り方。ていうか、スポーツ選手は胸がない方が有利じゃない?」

「うわー! 聞きましたか皆の衆! 強者は常に、持たざる者の気持ちなぞわからんのですよ!」

「わ!? 馬鹿! ちょっと、やめなさい!」

 両胸を掴んで揉んでくる朱音の手を引っぺがして、さっきよりも強く頬をつねると朱音はおちゃらけた顔をし、それを見たクラスメイトたちは声を出して笑った。

「こら、そこの女子たち! 自分の番が終わったからといって、遊んでいるんじゃない!」

 教師の叱責に「はあーい」と軽い返事をして、クラスメイトたちは口を噤んだ。

 陽路が朱音から手を離したときに見た彼女の表情にはどこか陰があり、いつもの明るい朱音のものではなかったことが、少し気になった。

          ◇

「……ない! わたしの指輪が、なくなってる!」

 授業を終えた陽路たちが濡れた髪の毛をタオルで拭きながら教室へ戻ると、クラスメイトの島村里香が青い顔をして叫んでいた。

 里香はソフトボール部の活発な少女で、良くいえばリーダーシップがあり、悪くいえば目立ちたがりな性格をしている。彼女の声にクラス中がざわめく中、輪の中心にいる里香に陽路は話しかけた。

「どんな指輪がなくなったの?」

「ブルームの、細いシルバーの指輪……わたしがいつもチェーンつけて、首から下げていたやつ、見たことあるでしょ? ……どうしよう! 彼氏に貰ったやつなんだよね」

 里香はひどく動揺していて、周りにいる女子たちは皆同情し「かわいそう」「盗んだやつは許せない」などと口にしていた。

 騒ぎは続いたが予鈴が鳴ったため、陽路たちは一旦席に着いた。

 里香が唯一ネックレスを外す水泳の時間を狙うなんて、犯人は絶対に彼女と近しい人物だ。里香の心境を考えればかわいそうだけれど、犯人を特定するのは容易だろう。

 事態を重く捉えなかった陽路は、気持ちを切り替えて授業に集中しなければと考えながら、机の中から教科書を取り出した。

          ◇

 部活動を終え、部室で制服に着替えているときのことだった。

「朱音ー、悪いけど制汗剤貸してくれない? 教室に忘れてきちゃったみたい」

「はいよー。ちょっと待っててー」

 上半身にブラジャーだけを纏った朱音が鞄を漁ったとき、陽路は彼女の鞄の中で何かが光ったのを見た。

「……ねえ、朱音。それ、指輪だよね?」

 疑心、いや、確信を持って陽路は口にした。

 目がいい陽路は、朱音の鞄の中にチェーンのついた、小さなリングを見てしまったのだ。

「こ、これは……その、たまたま廊下で拾って……」

 しどろもどろになった朱音が、何度も瞬きをした。嘘を吐くとき、朱音の瞬きが増えることを陽路は知っていた。

 陽路は朱音に近づき、有無を言わさず彼女の鞄から指輪をひったくった。

「嘘を吐くのはやめて! これ、里香の指輪でしょ!? どうして盗ったりしたのよ!?」

 朱音は黙って下を向いていた。何も言わない朱音に対して、陽路の怒りはますます大きくなっていく。

「なんでこんな馬鹿なことしたのよ! 人の物を盗るなんて、信じられない!」

「……だって、しょうがないじゃない! ストレスが溜まってしょうがなかったんだもん! 周りはタイムタイムって、呪文のように繰り返すし! あんただってそうだよ陽路!」

 やっと口を開いたかと思えば、ストレスが溜まっていたという理由を口にするだけで、反省の意も見せないなんて。朱音には子どもっぽいところもあるが、こんな呆れるような理屈をこねることはしなかったのにと、陽路は腹が立ってしょうがなかった。

「同じ陸上部の仲間として、記録に拘るのは当たり前でしょ?」

「陽路だって弱いくせに、大人ぶらないでよ! わたしはあんたがわたしとの勝負から逃げたってこと、ちゃんと知ってるんだから!」

 この一言は、陽路の頭に血を昇らせた。思わず手が出そうになったが、深呼吸をして必死に耐えた。

「……そうだね、わたしも弱いよ。でも、わたしの話はまた別の問題でしょう? とにかく、騒ぎが大きくなる前に里香に謝ろうよ。わたしも一緒に付き添ってあげるから」

 取り乱している友人の力になれるよう気丈に振舞った陽路の言葉に、朱音は眉間に皺を寄せて何かを言いかけた。それを言い訳だと推測した陽路は、有無を言わせない視線で朱音を見つめ、手を握った。

「ね? 朱音ならできるでしょ?」

「……わかった。明日、謝る……わたし一人でちゃんとやるから……」

 弱弱しくも小さく頷いた朱音を見て、自分の思いが伝わったのだと信じた陽路は、それ以上彼女を責めることはしなかった。

          ◇

 次の日、陽路は登校直後に違和感を覚えた。

「おはよー」

「……」

 下駄箱で会ったクラスメイトに無視された陽路は、首を傾げつつも、彼女の虫の居所が悪かったのだろうとそのときはあまり気にしなかった。

 だが教室に入った瞬間、自分が嫌な意味で注目されているのだという空気を察してしまった。

 陽路を見るクラスメイトたちの目が、心配そうなものだったり軽蔑したものだったりで、いつもとは明らかに異なっていたからだ。理由もわからず困惑したまま自席に着くと、里香がやってきた。

「……犯人はまだわからないんだけど、盗まれた指輪は見つかったわ」

 謝ってはいないようだが、朱音はちゃんと里香に指輪を返したようだ。

「そっか、見つかったんだ。良かったね、安心した」

 陽路がそう答えると、里香はあからさまに不快な表情を見せた。

「……あのさ、回りくどいのって嫌いだから、単刀直入に言うね。……陽路、あんたがわたしの指輪を盗んだって、本当なの?」

「……え? ……なんで?」

 頭の中が真っ白になった。わたしじゃないのに、どうして? 

 陽路が朱音の様子を窺うと、自席からこちらを盗み見るように見ていた彼女は、目が合うと即座に目を逸らした。

「ある人から、陽路が盗ったって話を聞いたの。で、実際はどうなの? あんたも疑われるの嫌だろうし、わたしとしても友達を疑いたくない。違うなら早く否定して」

「わ、わたしじゃ……」

 否定しようと口を動かしたとき、朱音のことが頭を過ぎった。

 試合前のストレス発散のためについ、衝動的にやってしまったという大きな罪。普通なら決して許されることではない。

 だが試合前のストレスは、かつて選手だった自分にもよくわかるものであった。

 努力しているのに伸びない記録との戦い。自分を追い詰める苦しさ。無責任な周りからの期待、重圧。思い描く未来と結果の剥離を想像して、張り裂けそうになる胸。

 朱音の行動は計画性があったものではなく、突発的にやってしまったことなのだろう。

 もし自分がここで本当は朱音が犯人なのだと告げてしまえば、朱音は部活動謹慎処分はおろか、下手すれば停学になるだろう。どちらにせよ、インターハイ出場は不可能になる。

 わたしは、朱音が反省しているって信じたい。

 ならば今、わたしが朱音の親友として出来ることは――

 陽路は深く息を吸った。

「……そうだよ。指輪を盗ったのは、わたし。……反省しているわ。本当に、ごめんなさい」

 注目が集まっていた中での陽路の発言は、教室中をざわつかせた。再び朱音の方を見ると、彼女は目を丸くして陽路を見ていた。

「マジで陽路がやったんだ……あんたはそんなことするようなやつじゃないって、思っていたのに。……見損なったよ」

 里香は軽蔑するように告げて、陽路の元を去って行った。陽路を心配そうな顔で見守っていた友人たちは悲しそうに目を逸らし、疑いの目で見ていた連中は陽路に聞こえるように悪口を言い出した。

 その日陽路に話しかけてくるクラスメイトはおらず、陽路は軽蔑の視線と陰口を聞きながら一日を過ごした。
辛いと思わなかったと言えば、勿論嘘になる。

 だが朱音がわかってくれるなら、朱音が陸上をまた頑張る気持ちになれるなら、それだけで十分自分の行動は報われると思った。