「位置について。よーい……!」
陸上部の女子マネージャー・小川陽路がスタートの合図を切ると、大和田朱音は軽やかな足捌きで素早く風を切り、百メートルの線の中で存在感のある走りを見せつけた。
しかしこのペースでは、タイムは伸びていないだろう。朱音がゴールラインを割ったのと同時に、陽路はストップボタンを押した。
「十三・二秒! まだ伸びるよ!」
息を切らす朱音に告げると、彼女は悔しそうに頷き、表情を曇らせた。
全国でも有数のスプリンターである朱音だが、あと三週間で始まるインターハイを前にタイムが伸び悩んでいた。
こういうとき、下手に朱音に励ましの声をかけるのは、彼女のプライドに触って逆効果だということを陽路は知っていた。適度な距離を置きつつ、遠すぎない場所から応援する。今までそうしてきて悪い結果になったことはない。
陸上部に所属する陽路はマネージャーとして部員を支えているが、陽路自身が元々短距離走の選手だったこともあり、トレーニングの内容や選手が抱える悩みなどは人並み以上に理解できているつもりだ。
朱音の走りを見ていたコーチの指導を横目に見ながら、
「はい、次行くよー!」
陽路は次の選手のタイムを計るため、ストップウォッチをリセットした。
七月の練習は暑さが厳しい。特に、陽路や朱音は学業よりも部活動を優先するスポーツ科に在籍しているため、午後の早い時間からずっと外で練習している。
マネージャーの陽路ですらヘトヘトなのだ。朱音たち選手の疲労を考えると、頭が下がる思いである。十九時を過ぎ、やっと一日の練習が終わった。
『各種目全国制覇!』と書かれた目標が壁に貼られている女子陸上部の部室で、制服に着替えた陽路がポニーテールを結び直していると、朱音が叫んだ。
「あっつーい! ねえ陽路、アイス食べて帰ろー! 『ガツンとみかん』食べたい!」
陽路は選手が抱える悩みについて理解しているつもりだと前述したが、特に、今隣で叫んでいる親友の朱音のことについては、性格から癖までなんでもわかっている自信がある。
朱音とは小学校から一緒で、同じ時期に陸上をはじめ、短距離選手として互いに切磋琢磨してきた仲だった。
「買い食いはやめておいたら? 試合近いんだから、体重気にしないと」
選手たちに頭が下がるといっても、律するところは律すると決めている。朱音もわかっているのか、陽路の言葉に反論はせず「ちぇー」と頬を膨らませた。
部室を出て校門を出ると突然、朱音が黄色い声をあげた。
「きゃー! 見て! 旭くんだ! うわ、格好いい! こんな時間まで学校に残っているって珍しいなー! あ、そっか。進学科は今日模試があるからか! とにかく姿が見られてラッキー!」
朱音の視線の先を追うと、帰宅途中の旭幸之輔の姿を見つけた。
長身で眉目秀麗、成績優秀かつ社長の息子という、少女漫画のヒーローのような存在である幸之輔の名は二年生の陽路たちの間でも有名で、ファンクラブまであると聞いている。彼のファンである朱音はすっかり上機嫌で、目を輝かせていた。
「……っていうか朱音、前よりも旭くんに対する熱が上がってる気がするんだけど?」
「旭くんのファンクラブに入ったら、ますます好きになっちゃったんだよね!」
「え!? あの噂の!? ……マジか、ついに朱音まで、あの濃い集団の仲間入りを果たしてしまったか……ねえ、ファンクラブってどんなことするの?」
「えっとね、写真部が盗撮した写真を入手できたり、ファンクラブ内で手に入れた新情報を共有して、彼のことをいち早く知れたり……いろいろメリットがあるよ!」
「ちょ、それ、ファンクラブっていうか集団ストーカーじゃん! 本人が嫌がってるなら、やめた方がいいんじゃないの?」
「もー、わかってないなあ陽路は! 旭くんはねえ、小さい頃から注目を集めてきたスターなんだから、うちらみたいな有象無象の連中には意識を払ってないの! だからファンクラブのメンバーは誰も、注意されたことも声をかけられたこともないよ!」
「……自分で言ってて、悲しくならない?」
なぜか誇らしげな朱音に呆れた感情をわかりやすく伝えるために、陽路は大きな溜息を吐いた。
「ねえ、陽路も一緒にファンクラブに入ろうよ!」
「今の話を聞いた後で、入るわけないでしょ? それに彼、モテ過ぎて調子に乗っているだろうし、遊んでそうだから、わたしはちょっと苦手かな。他人に対してすごく冷たいって噂も聞くしさ。やっぱ、男は優しいスポーツマンがいい」
「陽路は昔っからそう言ってるよね。ま、わたしとしてはライバルが減って嬉しいけど!」
朱音とは陸上だけでなく勉強も同じくらいの出来であったため、友人でありライバルという表現が一番しっくりくる関係だ。
ただ、趣味や好みの音楽ですら似通った傾向だというのに、ふたりは好きな男のタイプだけは異なっていた。そもそも、朱音が幸之輔を好きになったきっかけが一目惚れだということも、堅実で真面目な恋愛を好む陽路には理解し難いことだった。
対等を前提として培われてきたふたりの関係が微妙に変わりはじめたのは、今年の春休みに陽路が膝前十字靭帯を切ってしまってからである。
選手として復帰するまでに、手術とリハビリで約八ヶ月はかかると宣告された陽路は、選手としてやっていくことを諦めた。
リハビリが苦痛だからという理由ではなかった。復帰したところで、選手としてやっていける自信がなかったわけでもない。
陽路が引退した理由はただ一つ。ライバルである朱音との差を埋めることはできないと判断したためである。陽路にとって、努力をしても朱音に追いつけないという事実を突きつけられるのは、何よりも怖いことだったのだ。
そんな陽路の心境など露知らず、今日も能天気な親友は陽路に無邪気な笑顔を見せる。
「夏休みに入ったら、ますます旭くんの顔を見られなくなっちゃうなー。一回、告白してみようかなあー」
「うーん。顔も知られていないようじゃ、まず無理だと思うよ? それよりもインターハイ前の練習、集中してよね!」
「あーもう、少しは試合のこと忘れて、乙女の会話させてくれたっていいじゃん!」
鞄をぶつけてくる朱音から身を守りつつ、陽路は笑った。
ふたりの日焼けした肌を、夏の湿っぽい風が撫でていった。
陸上部の女子マネージャー・小川陽路がスタートの合図を切ると、大和田朱音は軽やかな足捌きで素早く風を切り、百メートルの線の中で存在感のある走りを見せつけた。
しかしこのペースでは、タイムは伸びていないだろう。朱音がゴールラインを割ったのと同時に、陽路はストップボタンを押した。
「十三・二秒! まだ伸びるよ!」
息を切らす朱音に告げると、彼女は悔しそうに頷き、表情を曇らせた。
全国でも有数のスプリンターである朱音だが、あと三週間で始まるインターハイを前にタイムが伸び悩んでいた。
こういうとき、下手に朱音に励ましの声をかけるのは、彼女のプライドに触って逆効果だということを陽路は知っていた。適度な距離を置きつつ、遠すぎない場所から応援する。今までそうしてきて悪い結果になったことはない。
陸上部に所属する陽路はマネージャーとして部員を支えているが、陽路自身が元々短距離走の選手だったこともあり、トレーニングの内容や選手が抱える悩みなどは人並み以上に理解できているつもりだ。
朱音の走りを見ていたコーチの指導を横目に見ながら、
「はい、次行くよー!」
陽路は次の選手のタイムを計るため、ストップウォッチをリセットした。
七月の練習は暑さが厳しい。特に、陽路や朱音は学業よりも部活動を優先するスポーツ科に在籍しているため、午後の早い時間からずっと外で練習している。
マネージャーの陽路ですらヘトヘトなのだ。朱音たち選手の疲労を考えると、頭が下がる思いである。十九時を過ぎ、やっと一日の練習が終わった。
『各種目全国制覇!』と書かれた目標が壁に貼られている女子陸上部の部室で、制服に着替えた陽路がポニーテールを結び直していると、朱音が叫んだ。
「あっつーい! ねえ陽路、アイス食べて帰ろー! 『ガツンとみかん』食べたい!」
陽路は選手が抱える悩みについて理解しているつもりだと前述したが、特に、今隣で叫んでいる親友の朱音のことについては、性格から癖までなんでもわかっている自信がある。
朱音とは小学校から一緒で、同じ時期に陸上をはじめ、短距離選手として互いに切磋琢磨してきた仲だった。
「買い食いはやめておいたら? 試合近いんだから、体重気にしないと」
選手たちに頭が下がるといっても、律するところは律すると決めている。朱音もわかっているのか、陽路の言葉に反論はせず「ちぇー」と頬を膨らませた。
部室を出て校門を出ると突然、朱音が黄色い声をあげた。
「きゃー! 見て! 旭くんだ! うわ、格好いい! こんな時間まで学校に残っているって珍しいなー! あ、そっか。進学科は今日模試があるからか! とにかく姿が見られてラッキー!」
朱音の視線の先を追うと、帰宅途中の旭幸之輔の姿を見つけた。
長身で眉目秀麗、成績優秀かつ社長の息子という、少女漫画のヒーローのような存在である幸之輔の名は二年生の陽路たちの間でも有名で、ファンクラブまであると聞いている。彼のファンである朱音はすっかり上機嫌で、目を輝かせていた。
「……っていうか朱音、前よりも旭くんに対する熱が上がってる気がするんだけど?」
「旭くんのファンクラブに入ったら、ますます好きになっちゃったんだよね!」
「え!? あの噂の!? ……マジか、ついに朱音まで、あの濃い集団の仲間入りを果たしてしまったか……ねえ、ファンクラブってどんなことするの?」
「えっとね、写真部が盗撮した写真を入手できたり、ファンクラブ内で手に入れた新情報を共有して、彼のことをいち早く知れたり……いろいろメリットがあるよ!」
「ちょ、それ、ファンクラブっていうか集団ストーカーじゃん! 本人が嫌がってるなら、やめた方がいいんじゃないの?」
「もー、わかってないなあ陽路は! 旭くんはねえ、小さい頃から注目を集めてきたスターなんだから、うちらみたいな有象無象の連中には意識を払ってないの! だからファンクラブのメンバーは誰も、注意されたことも声をかけられたこともないよ!」
「……自分で言ってて、悲しくならない?」
なぜか誇らしげな朱音に呆れた感情をわかりやすく伝えるために、陽路は大きな溜息を吐いた。
「ねえ、陽路も一緒にファンクラブに入ろうよ!」
「今の話を聞いた後で、入るわけないでしょ? それに彼、モテ過ぎて調子に乗っているだろうし、遊んでそうだから、わたしはちょっと苦手かな。他人に対してすごく冷たいって噂も聞くしさ。やっぱ、男は優しいスポーツマンがいい」
「陽路は昔っからそう言ってるよね。ま、わたしとしてはライバルが減って嬉しいけど!」
朱音とは陸上だけでなく勉強も同じくらいの出来であったため、友人でありライバルという表現が一番しっくりくる関係だ。
ただ、趣味や好みの音楽ですら似通った傾向だというのに、ふたりは好きな男のタイプだけは異なっていた。そもそも、朱音が幸之輔を好きになったきっかけが一目惚れだということも、堅実で真面目な恋愛を好む陽路には理解し難いことだった。
対等を前提として培われてきたふたりの関係が微妙に変わりはじめたのは、今年の春休みに陽路が膝前十字靭帯を切ってしまってからである。
選手として復帰するまでに、手術とリハビリで約八ヶ月はかかると宣告された陽路は、選手としてやっていくことを諦めた。
リハビリが苦痛だからという理由ではなかった。復帰したところで、選手としてやっていける自信がなかったわけでもない。
陽路が引退した理由はただ一つ。ライバルである朱音との差を埋めることはできないと判断したためである。陽路にとって、努力をしても朱音に追いつけないという事実を突きつけられるのは、何よりも怖いことだったのだ。
そんな陽路の心境など露知らず、今日も能天気な親友は陽路に無邪気な笑顔を見せる。
「夏休みに入ったら、ますます旭くんの顔を見られなくなっちゃうなー。一回、告白してみようかなあー」
「うーん。顔も知られていないようじゃ、まず無理だと思うよ? それよりもインターハイ前の練習、集中してよね!」
「あーもう、少しは試合のこと忘れて、乙女の会話させてくれたっていいじゃん!」
鞄をぶつけてくる朱音から身を守りつつ、陽路は笑った。
ふたりの日焼けした肌を、夏の湿っぽい風が撫でていった。