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 幸之輔に言われた言葉が、頭から離れなかった。

 新一は帰宅してからすぐにパソコンを立ち上げ、芥川龍之介で検索をかけてみて再び愕然とした。

 幸之輔の言っていた通り、今まで新一が知っていた『羅生門』の内容は存在せず、幸之輔が書き換えた内容が世の中に認識されていたからだ。あのマンションだけで鑑賞可能な手品ではなかったことが、確実に証明されていた。

 新一はベッドに移動し、目を瞑った。非現実的な一日に疲れたのはもちろんだが、心の奥底から湧き上がってくる、黒い感情に苦しめられていたからだ。

 新一は幸之輔に腹を立てていた。クラスメイトと仲良くなりたいと思って、何が悪いというのか。どうして、同い年の人間にあんなことを言われなければならないのか。何様のつもりなのだろう。幸之輔の悪口を言っていたクラスメイトたちの気持ちが、今ならよくわかる。彼を嫌わないままでは、自分の存在を肯定できないのだ。

 そうだ、信じてもらえないかもしれないけれど、幸之輔が勝手に小説の内容を改変したことを世間にバラしてみてはどうだろう。幸之輔が言うには、新一が知っている元の『羅生門』の物語は、あの場にいた三人以外に知る人間はいないと言っていたが、世の中にひとりくらいは覚えている人がいるかもしれない。

 もしそんな人を見つけられたら、幸之輔は世間を悪い方向に騒がせたうえに、著作権を侵害したことで最悪犯罪者となる。

 それは会社を経営する旭家にとって、大ダメージだろう。インターネットが全世界に浸透している現在だからこそ、やってみる価値はあるのではないか。

 俺みたいな一般市民が幸之輔を陥れるのは緊張するし、罪悪感だってあるけれど、多才で環境にも恵まれている彼がいかに調子に乗っているのか、一度懲らしめてみるのも彼のためなのかもしれない。

 新一は今日も目が冴えて眠れそうになかった。昨日と違うのは、好奇心でわくわくしていた昨日に対し、今夜は考えれば考えるほどに胸のうちがどろどろとした、不快な気持ちになっていくことだった。

 新一はベッドから起き上がり、再びパソコンの前に向かった。

          ◇

 翌日、新一は幸之輔と一言も言葉を交わさなかった。

 いつも通りに授業を受け、いつも通りに部活に行き、いつも通りひとりで歩く下校時に、その事件は起こった。

「……てめえ、この前あいつと一緒にいた男だな?」

 寝不足で終日ぼんやりとしていた新一の背筋が、一瞬にして凍った。石田と遭遇してしまったのだ。

 幸之輔にやられた際には尻尾巻いて逃げていった石田は、今は偉そうに新一を睨みつけながら近づいてきた。

「てめえが喧嘩も知らねえ坊ちゃんだとしてもよお、関係ねえぞ。あいつにやられた分は、てめえで憂さ晴らししてやるからな!」

『羅生門』の内容を変えたことによって、石田へ与えた影響はどうやら悪い方へ向かったらしい。自分を正当化する理由を失った石田は、凶暴さに磨きをかけているようだった。

 このまま殴られるのは確定している。暴力とは無縁の人生だった新一は、恐怖で体が震えてしまっていた。

 ……だけど。

「……石田さん。そんなことを続けていたら、あんたも親父さんと同じような男になってしまうよ」

 幸之輔が書いた『羅生門』の老婆のように、自分が辛い立場にいても、人に影響を与える人間になりたいと思った。石田をなんとか改心させたいと思ったのだ。

 石田を挑発した新一は当然、殴られた。尻から転んだ新一は、予定調和の攻撃と予想以上の痛みに一瞬、頭が真っ白になった。

「何を偉そうなこと言ってんだ? てめえなんざ、あの気色悪い男の金魚の糞みたいなモンだろうが! ああ?」

「……そうだよ。だから俺は、旭くんに距離を置かれた。俺の中にあった弱さを、彼は見抜いていたんだ。……だけどそれは、昨日までの話だ」

 新一は立ち上がり、自分から石田に近づいた。幸之輔に言われる前だったら、石田とは絶対に目を合わせず、かかわらず、遠巻きに見ていただろう。

「自分が傷ついたからって怨むとか、やられたらやり返すっていう考えは嫌なんだ! 俺はこの身を賭して、あんたを説得するつもりだ! 殴りたいなら殴れよ! あんたがむなしさを悟るまで、実験対象になってやるからさ!」

 勢いよく啖呵を切った新一は、直後に腹に蹴りをくらった。胃の中のものが逆流して口から出る惨めさを味わいながらも、新一は決して石田への説教をやめなかった。顔が腫れ口の中が切れても、石田から目を逸らさなかった。

 その姿はさながら、幸之輔が著した『羅生門』の、下人に拙い説得をした老婆のようだった。

          ◇

 騒ぎが大きくなり野次馬が増えてきた頃、新一は石田から解放された。

 石田がこの先どうなるのかはわからないけれど、やれることはやったつもりだ。自己満足かもしれないが、今はこれが新一の精一杯だ。全身は体験したことのない痛みに泣いているが、新一は晴れやかな気持ちで帰路についた。

「新一!? どうしたのその顔!?」

 家まで後少しというところで、近所だということが災いして、塾帰りのあかりと遭遇してしまった。

「あ、いや、うん……ちょっと寝不足でさ」

 昨夜はもやもやした気持ちを吹き飛ばそうと、新一は朝方までパソコンでオンラインゲームをしていた。代償は今日の授業中に嫌というほど受けている。くっきりと目の下で存在を主張する隈を消すために、今夜は早めにベッドに入ろうと決めていた。

「隈のことじゃないわよ! 顔の怪我のこと! 病院には行ったの!?」

 よりによって、一番見られたくない人に見られてしまった。適当に誤魔化そうと笑いながらあかりの横を通りすぎようとしたけれど、腕を掴まれて逃げられなかった。

「いや、本当に大したことないから」

「明らかに殴られた怪我じゃない!」

「もう、いいじゃん。あかりには関係ないよ」

 掴まれた腕を振り払って歩き出すと、制服の裾を引っ張られた。

「なによ……心配くらいさせてよ……! 関係ないとか言わないでよ……!」

 鼻声に驚いて振り向くと、あかりの瞳に涙が浮かんでいることに気がついた。

「な、なんで泣くの?」

「……普通気づくでしょ! 馬鹿!」

 脳味噌をこねくり回した結果、一つの希望的観測に行きついた。

 しかしそれは新一の思い上がりに過ぎない可能性の方が高く、にわかには信じられない気持ちだった。

「……え、嘘でしょ? 俺なんか、あかりに好かれる要素なんてないよ?」

「新一にはクラスの誰にも負けない、格好いいところがあるよ! ……進学科での勉強とバスケット部の両立なんて、普通ならできない。……わたしが惹かれた一番の理由は、好きなことならどんなにしんどい状況でも、一生懸命頑張るところだよ」

 至近距離で握られた手に、心臓の音が高鳴った。

 真面目そうなあかりにこんな積極的な部分があったなんて驚きだ。

「……と、とりあえず、家まで送るよ」

 一歩成長したつもりでも、恋愛面に関してはまだまだ初心者もいいところだ。

 ぎこちない動きであかりの手を握り返して、新一は彼女の歩幅に合わせて歩き出した。

          ◇

 今日は球技大会だ。一年A組には旭幸之輔という有名人がいるため、他クラスや他学年からの注目度が高い。生徒たちの関心の中心にいながらも、幸之輔は相変わらず飄々としていた。

 参加種目のバスケットボールに出る準備をしている幸之輔に、新一は話しかけた。

「おはよう、旭くん!」

「ああ、おはよう……って、ひどいなその顔。どうかしたのか?」

「あはは、ちょっとね。あのさ、俺、旭くんに言いたいことがあって」

 石田に殴られた顔の傷はすぐに引くようなものではなく、新一は両親に大きな心配をかけた。学校を休んで警察や病院に行くことを勧められたが、新一は通常通り登校した。

 球技大会に出たかったからではない。新一は今日学校に来て、どうしても幸之輔と話がしたかったのだ。

「……俺、実は格闘ゲームが得意なんだ。旭くんより上手いと思うよ」

「俺はやったことがない。格闘ゲームとは、柔道や空手といった格闘方法を各々選択し、それぞれの分野で戦うものなのか?」

「うーん、ちょっと違うかな。……それでさ、いつか君に『おい、帰りゲーセンでも寄って行こうぜ』って、言えるような男になるから」

「……よくわからないが、言いたいことはそれだけか?」

「うん、これだけ。それじゃあ、試合頑張ってね」

 不可解そうに首を捻る幸之輔に背を向けて、軽やかな気分の中で新一は歩き出した。


 一年A組対D組の、バスケの試合が始まった。幸之輔の姿を見るために、体育館に生徒たちが集中していた。幸之輔がボールを持つと、女子たちから黄色い歓声が沸いた。写真を撮る人も多く、まさに芸能人のような状態だった。

 幸之輔の活躍もあり、A組は点差をつけて勝利への道を歩みつつあったのだが、

「おい見ろよ、また旭が空気も読まねえことしてるぜ」

「こんな学校行事ごときで格好つけるとか、ないよなー!」

 こういうとき、卑屈な笑みを浮かべ幸之輔を馬鹿にする人物は必ずいるものだ。今までの新一なら、見て見ぬ振りをしていただろう。

 でも、今日は。

 新一は悪口を言っている集団に近づき、大きく息を吸った。