幸之輔と一緒に歩いていると、他人の視線が大量に集まってくる。普段は自分もこの視線の一部なのだと思うと、なんだか幸之輔に申し訳ない気持ちになった。
歩くのが速い幸之輔は、新一に合わせようなんて気はさらさらないらしい。のんびり歩くことが好きな新一は、幸之輔に歩幅を合わせるのに必死だった。
十字路で信号が赤になったのを見計らって、新一は呼吸を整えて話しかけた。
「あ、旭くんはどうしてこの学校を選んだの?」
洛央高等学校も全国的に有名といえども、学力的にまだまだ上の学校は存在する。幸之輔の学力ならば、どこにでも進学できるはずだ。
「好意を寄せる人がいるんだ」
「……ええ!? 旭くん好きな人いるの!? だ、誰?」
「そんな個人情報、簡単に教えるわけがないだろう」
「じゃあ、ヒントだけでも!」
「……仕方ないな。スーツのよく似合う、俺より年上の髭を生やした人だ」
髭、という単語で予想外な方向にかなり限定された。
「……え? ま、まさか理事長とか? あはは、そんなわけないよね……?」
「俺は君を見くびっていたようだな。鋭い勘を持っているじゃないか、感服する」
「え、嘘!? 信じられ……いや、こ、こういうのは個人の自由だしね、うん。い、いいんじゃないかな。年上の人って落ち着きがあっていいよね。俺も教師ものとか好きだし!」
多様性の時代だ。人には人それぞれの愛の形があると目の当たりにした新一は、自身の動揺を隠しながら幸之輔の気持ちに寄り添うことを最優先した。
「冗談だ。叔父がこの学校の理事長でね。顔を立てる形で入学したんだ」
「……あ、そ、そうなんだ! う、うわ、俺、なんだか驚いて変なこと言っちゃったよ! 忘れて!」
「ああ……教師ものが好きってことか? 安心しろ、元々他人の性癖など爪の垢程も興味はないし、俺の好みでもないからすぐに忘れるだろう」
「……それ、言う必要ある? 忘れるって言ってくれるだけで良かったのに」
新一が苦笑いしていると、整った顔立ちをしたひとりの少女が息を切らしてやってきた。
「あ、旭くん! これ、わたしのIDです! よかったらメッセージください!」
「申し訳ないが、受け取れない」
一刀両断とは、まさにこのことだ。少女は大きな瞳を一瞬にして潤ませて、その場を走り去って行った。心配した新一が少女の動向を目で追うと、少女は角で待っていた友達らしき女子たちに抱き締められ、慰められていた。
かわいそうだなと思っていると、いつの間にか幸之輔は先を歩いていたから新一は急いで後を追いかけた。
「旭くん、いいの? 女の子、ちょっとかわいそうじゃない?」
「何がだ? 連絡先を貰ったところで俺からメッセージなんて送ることはないし、期待させる方が無慈悲だと思うが」
淡々と言い切る幸之輔の言葉に、新一は目から鱗が落ちた。
「……そっか、そんなこと考えもしなかったよ……すごいなあ旭くんは。勉強もスポーツもできるし、モテるしさ。羨ましいよ。俺なんかとは住む世界が違うっていうか」
何気なく口にすると、幸之輔は立ち止まって新一を見つめた。
「そうやって自分と俺を比較して、何が楽しいんだ?」
新一は言葉に詰まった。馬鹿にされているというよりも、幸之輔が心底不思議そうにしていることに戸惑ったからだ。
「た、楽しいとかじゃなくて……その、褒められて謙遜するのは世界でも日本人だけって聞いたことがあって、旭くんもそうなのかなって、つい試してみたくなったんだ、ごめん」
真っ直ぐに見据えてくる幸之輔から目を逸らしてしまった。言い訳じみていることに、自分でも嫌気が差した。
「ならいい。俺は自分に自信のない男を嫌悪しているからな」
試したという、咄嗟に発した失礼な言い訳は幸之輔の気に障ることはなかったようだが、彼の言葉は新一の胸に突き刺さった。
「……自分に自信のない男は、どうして嫌いなの?」
「自分を誇ることもできない男に存在価値はないだろう。そんな男が大切にしている女を守れると思うのか?」
「……旭くんって、意外にフェミニストなんだね。女の子に囲まれても鬱陶しそうな顔をしているから、女嫌いなのかと思ってたよ」
「石ころの中に宝石が混ざっていることもあるだろう。俺はそんな希少な女を見逃すような、阿呆な男ではないからな」
気障な台詞がよく似合う高校生だなと、つくづく思う。
「具体的には、どういう子がタイプなの?」
「上品な雰囲気を持った巨乳だな」
予想以上の直球な回答に、新一は思わず笑ってしまった。
もう間もなく駅に着こうとする頃、大通りから一本逸れた道を歩いていたときに、知った顔と遭遇した。
「旭くん、あれ、同じクラスの笹井じゃないかな?」
髪を茶色に染めて制服を着崩し、いつも服装検査でひっかかる笹井は、優等生ばかりのクラスの中では不良に位置づけされている男だった。
声も態度も大きい笹井を新一は好ましく思っていなかったが、彼は現在、地元のヤンキーとして有名な石田に暴力を振るわれているようだ。
「ああ、確かに笹井だな」
「殴っている方は、西中出身の石田先輩だよ。あの人と同じ中学だった友達が言うには、授業中に廊下を自転車で走っていたとか、煙草と暴力でしょっちゅう補導されていたとか、いろんな伝説を学校に残していったらしいよ」
「世の中にはおそろしく馬鹿な人間がいたものだな」
石田は容赦なく笹井をいたぶっていた。正直、怖くて見てみぬ振りをしたかったが、関わりたくないと思う反面、中途半端な正義感が新一の足を止めていた。
「笹井のこと、た、助けに行った方がいいと思わない……?」
新一は情けなくも、自分ひとりで割って入る度胸がなかったため幸之輔に相談してみた。幸之輔は面倒くさそうな顔をしたが、
「……そうだな。我が校の生徒が関わる暴力事件が表沙汰になるのは、避けたいところだ。叔父の面子もある」
そう言って、笹井と石田の元に近づいていった。新一の心臓は早鐘を打っていたが、幸之輔と一緒なら大丈夫だろうと根拠のない自信があったので慌てて後を追いかけた。
「そこの君。ずいぶんと頭が悪そうだが、暴力は憎しみしか生まないという言葉を知っているか?」
幸之輔が素で言っているのかわざと煽っているのかは不明だったが、新一は一瞬で肝を冷やした。
「ああ? うっせえな! てめえもボコられたいのか、ああん?」
石田は笹井を殴る手を止め、幸之輔に凄んでみせた。
「君の言葉遣いは目に余るな。例えるなら、そう……晩餐会にジーンズを穿いて来るような恥ずかしさだ」
「はあ? 訳わかんねえこと言ってんじゃねえよ!」
石田の拳の行き先が幸之輔に代わったようだ。彼は笹井を掴んでいた手を離し、幸之輔に近づいてきた。石田は目を逸らさない幸之輔に腹が立ったのか、至近距離でボディーブローをかまそうと右手を引いた。
思わず目を瞑ってしまった新一だったが、石田の「いてえ!」と言う声で反射的に目を開いた。
――新一が見たのは、幸之輔が石田の拳を左手で受け止め、そのまま握り潰すかのように押さえ込んでいる姿だった。
「痛え! 痛てえって!」
石田は痛みに堪えられないのか、何度も同じ言葉を繰り返した。
「痛えって言ってんだろ! 離せ!」
「わかった」
手を離した幸之輔に、石田はこめかみに青筋を立てて襲い掛かってきた。しかし、先の攻防ですでに力の優劣はわかっていたことだ。幸之輔は石田の攻撃を一度もまともに食らうことなく受け流し、膝蹴り一発で石田に尻餅をつかせた。
それからの反撃は一方的だった。幸之輔は石田が笹井にしていたように、容赦も加減もなく石田の頬を殴打した。見るからに喧嘩慣れしてそうな体格のいい男が成す術もなく殴られている様を、笹井と新一は呆然と見ていることしかできなかった。
幸之輔と一緒になんとかしようという考え自体が、思い上がりだった。何もしていない自分の格好悪さに新一は目を背けたくなったが、
「……あ、旭くん、も、もういいんじゃないかな?」
人が傷つけられている姿というのは、たとえ相手が不良でも自分に関係がなくても、これ以上は見ていられなかった。
「なんだ、助けに行けと言ったりやめろと言ったり、難しい男だな」
「ほ、ほら、あんまり手を出すと、今度は旭くんが警察に行くことになっちゃうよ」
「……それもそうだな。ああ、やめておこう」
幸之輔の殴打から解放された石田は、人形のように力なく地面に崩れ落ちた。放心状態のようだが、それも当然だろう。
新一から見ても、幸之輔からは容赦が感じられなかったのだ。弾がなくなるまで乱射を続ける壊れた銃のような怖さが彼にはあった。十分前まで石田を怖いと思っていた自分が嘘のようだ。今は幸之輔の方が、遥かに恐ろしい。
「あ、旭、お前なんなんだよ……怖えよ……」
へたり込んでいた笹井が声を震わせた。
「護身術を嗜むのは男として当然のことだと思うがね。さて、笹井。被害者として君はこの男を然るべき場所に訴える権利があるわけだが、どうしたいんだ? 俺としては、病院に行くことは勧めるが、警察に行くのは控えてくれると助かるが」
「し、知らねえよ。石田さんに報復されても、俺は無関係だからな!」
笹井はその場から逃げるように走り去っていった。助けてもらったくせになんだその態度はと、新一は笹井に対して怒りと軽蔑の念を抱いた。
「……だ、そうだ。石田よ、笹井は俺たちと無関係らしいから、今後は手を出さないようにしたまえ。それより君は、普段からこういった行動を繰り返しているのか? 俺の行動範囲であまり目立つような真似をされると、いささか困ってしまうのだが」
「も、もうしねえよ! だから見逃してくれ!」
石田は完全に幸之輔に恐怖しているようだった。
「こういった行動に走る、君の行動原理は興味深い。なぜ若い時分から暴力を繰り返す? その行動には意味や利益があるのか?」
「……お、お前には関係ねえだろ!」
「大丈夫、もう君に手は出さない。だから教えてほしい。ああ、勘違いしないでくれ、これはお願いではなく命令だ」
石田はアルコール中毒の父親とふたり暮らしで、よく父親に暴力を振るわれていたという噂は聞いたことがあるが……そういった環境が影響しているのだろうか。
石田は幸之輔を睨みつけたが、顔色を変えずに見下ろしてくる幸之輔に屈したのか、小さい声で語り始めた。
「……俺はろくでなし親父に育てられた。酒ばっか飲んでる奴でよ、顔を合わせるたびに何かしら理由をつけてボコられてきた。冗談じゃねえよ。まあ、中学入ってからはやり返してたけどな。……金はなくても親父は働かねえし、家には借金取りはくるし、最悪だった。だからよ、中学出たらすぐに家を出た。……でも、先輩や彼女の家を転々として生活していた俺は、なかなか定職に就けなかった」
胸の内を吐露する石田の言葉を、幸之輔は黙って聞いていた。
「仕事にも就けねえ、かといってクソ親父は頼れるわけもねえ。生活に困った俺は、とりあえず他人から金を巻き上げることでしのいだ。初めは抵抗があったぜ? 嘘じゃねえぞ? でもよ、一回やってしまえば、二回も三回も同じだった。パチンコで勝てば、その金を元手に増やせる話だしな。負けたら……まあ、そのときはまた巻き上げるしかねえんだけどよ」
石田が幸之輔しか見ていないことをいいことに、新一は顔を顰めた。
「金を奪うのはよくねえって、そんな常識くれえ俺だって知ってるっつの。でも俺がひとりで生活していくためには、しょうがなかったんだよ」
「そうか」
「でも聞いてくれよ! 死んだお袋はよく『やられたらやり返せ』って言ってたんだ。俺、お袋の言うことだけは、守ろうって決めてんだ。だからよ、俺は俺と同じようなクズとか、いきがった奴からしか金は巻き上げてねえ! 悪いことはしてねえと思わねえか? な? もういいだろ? 俺を解放してくれ!」
新一は石田の言い分をふざけたものだと思ったが、
「……なるほど、理屈は通っているな。では君の望むように見逃すことにしよう。だがうちの学校の生徒に手を出すのはやめろ。警察沙汰にしたくないのでね」
幸之輔は納得したように頷き、ハンカチで拳を拭いた。本当に解放されるとは思わなかったのか石田は一瞬だけ戸惑いの表情を見せたが、すぐにヘラヘラといけ好かない笑みを浮かべながら服をはたいて去って行った。
去り際に石田は幸之輔と新一の顔を交互に睨みつけていた。
「……旭くん! どうして石田を許したんだよ!? 俺は……警察に連れて行くべきだったと思う。あいつはまた同じことを繰り返すよ。今度は君や俺にまで、手を出してくる可能性もある」
報復の可能性を感じた新一は、石田の姿が見えなくなってからようやく抗議の声をあげた。
「まあ落ち着きたまえ。少し、試してみたいことがあるんだよ」
幸之輔は再び駅に向かって歩き出した。
「『悪人には何をしてもいい』『やられたらやり返す』『それ相応の報いを受ける』。これらの考えは昔からあってね。……塚本は気にならないか? もし現代まで影響を及ぼすこの考えが、とある過去の物語を少しだけ改変することで、どう影響を及ぼすのか」
「……俺には、旭くんの言っていることがわからないよ」
新一は正直に口にした。
「そうか。わからないならばそれでいい」
改札を通ると、幸之輔は一番ホームに歩を進めていった。どうやら彼とは反対方向の電車らしいが、見捨てられた気がして無性に悔しかった新一は幸之輔についていった。
ここで別れてしまえば、もう幸之輔と話ができなくなる気がしたから。
「俺、旭くんみたいに頭は良くないけど、旭くんの考えていることを知りたいとは思うんだ。……ここまできたんだ、ちゃんと教えてよ!」
轟音と共に、電車がホームに入ってきた。電車が連れてきた強い風が、幸之輔の栗色の癖毛を靡かせた。
「……理解したい気持ちがあるのなら、明日の二十時に、現国の教科書を持って伸子町駅に来るといい。その後、君の頭をさらに悩ませる事態に遭遇するとは思うがね」
幸之輔の近くにいた女性は彼に視線を送り、恍惚とした表情で見ていた。
観衆の見守る中で幸之輔はそう言い残し、電車に乗り込んで行ってしまった。
歩くのが速い幸之輔は、新一に合わせようなんて気はさらさらないらしい。のんびり歩くことが好きな新一は、幸之輔に歩幅を合わせるのに必死だった。
十字路で信号が赤になったのを見計らって、新一は呼吸を整えて話しかけた。
「あ、旭くんはどうしてこの学校を選んだの?」
洛央高等学校も全国的に有名といえども、学力的にまだまだ上の学校は存在する。幸之輔の学力ならば、どこにでも進学できるはずだ。
「好意を寄せる人がいるんだ」
「……ええ!? 旭くん好きな人いるの!? だ、誰?」
「そんな個人情報、簡単に教えるわけがないだろう」
「じゃあ、ヒントだけでも!」
「……仕方ないな。スーツのよく似合う、俺より年上の髭を生やした人だ」
髭、という単語で予想外な方向にかなり限定された。
「……え? ま、まさか理事長とか? あはは、そんなわけないよね……?」
「俺は君を見くびっていたようだな。鋭い勘を持っているじゃないか、感服する」
「え、嘘!? 信じられ……いや、こ、こういうのは個人の自由だしね、うん。い、いいんじゃないかな。年上の人って落ち着きがあっていいよね。俺も教師ものとか好きだし!」
多様性の時代だ。人には人それぞれの愛の形があると目の当たりにした新一は、自身の動揺を隠しながら幸之輔の気持ちに寄り添うことを最優先した。
「冗談だ。叔父がこの学校の理事長でね。顔を立てる形で入学したんだ」
「……あ、そ、そうなんだ! う、うわ、俺、なんだか驚いて変なこと言っちゃったよ! 忘れて!」
「ああ……教師ものが好きってことか? 安心しろ、元々他人の性癖など爪の垢程も興味はないし、俺の好みでもないからすぐに忘れるだろう」
「……それ、言う必要ある? 忘れるって言ってくれるだけで良かったのに」
新一が苦笑いしていると、整った顔立ちをしたひとりの少女が息を切らしてやってきた。
「あ、旭くん! これ、わたしのIDです! よかったらメッセージください!」
「申し訳ないが、受け取れない」
一刀両断とは、まさにこのことだ。少女は大きな瞳を一瞬にして潤ませて、その場を走り去って行った。心配した新一が少女の動向を目で追うと、少女は角で待っていた友達らしき女子たちに抱き締められ、慰められていた。
かわいそうだなと思っていると、いつの間にか幸之輔は先を歩いていたから新一は急いで後を追いかけた。
「旭くん、いいの? 女の子、ちょっとかわいそうじゃない?」
「何がだ? 連絡先を貰ったところで俺からメッセージなんて送ることはないし、期待させる方が無慈悲だと思うが」
淡々と言い切る幸之輔の言葉に、新一は目から鱗が落ちた。
「……そっか、そんなこと考えもしなかったよ……すごいなあ旭くんは。勉強もスポーツもできるし、モテるしさ。羨ましいよ。俺なんかとは住む世界が違うっていうか」
何気なく口にすると、幸之輔は立ち止まって新一を見つめた。
「そうやって自分と俺を比較して、何が楽しいんだ?」
新一は言葉に詰まった。馬鹿にされているというよりも、幸之輔が心底不思議そうにしていることに戸惑ったからだ。
「た、楽しいとかじゃなくて……その、褒められて謙遜するのは世界でも日本人だけって聞いたことがあって、旭くんもそうなのかなって、つい試してみたくなったんだ、ごめん」
真っ直ぐに見据えてくる幸之輔から目を逸らしてしまった。言い訳じみていることに、自分でも嫌気が差した。
「ならいい。俺は自分に自信のない男を嫌悪しているからな」
試したという、咄嗟に発した失礼な言い訳は幸之輔の気に障ることはなかったようだが、彼の言葉は新一の胸に突き刺さった。
「……自分に自信のない男は、どうして嫌いなの?」
「自分を誇ることもできない男に存在価値はないだろう。そんな男が大切にしている女を守れると思うのか?」
「……旭くんって、意外にフェミニストなんだね。女の子に囲まれても鬱陶しそうな顔をしているから、女嫌いなのかと思ってたよ」
「石ころの中に宝石が混ざっていることもあるだろう。俺はそんな希少な女を見逃すような、阿呆な男ではないからな」
気障な台詞がよく似合う高校生だなと、つくづく思う。
「具体的には、どういう子がタイプなの?」
「上品な雰囲気を持った巨乳だな」
予想以上の直球な回答に、新一は思わず笑ってしまった。
もう間もなく駅に着こうとする頃、大通りから一本逸れた道を歩いていたときに、知った顔と遭遇した。
「旭くん、あれ、同じクラスの笹井じゃないかな?」
髪を茶色に染めて制服を着崩し、いつも服装検査でひっかかる笹井は、優等生ばかりのクラスの中では不良に位置づけされている男だった。
声も態度も大きい笹井を新一は好ましく思っていなかったが、彼は現在、地元のヤンキーとして有名な石田に暴力を振るわれているようだ。
「ああ、確かに笹井だな」
「殴っている方は、西中出身の石田先輩だよ。あの人と同じ中学だった友達が言うには、授業中に廊下を自転車で走っていたとか、煙草と暴力でしょっちゅう補導されていたとか、いろんな伝説を学校に残していったらしいよ」
「世の中にはおそろしく馬鹿な人間がいたものだな」
石田は容赦なく笹井をいたぶっていた。正直、怖くて見てみぬ振りをしたかったが、関わりたくないと思う反面、中途半端な正義感が新一の足を止めていた。
「笹井のこと、た、助けに行った方がいいと思わない……?」
新一は情けなくも、自分ひとりで割って入る度胸がなかったため幸之輔に相談してみた。幸之輔は面倒くさそうな顔をしたが、
「……そうだな。我が校の生徒が関わる暴力事件が表沙汰になるのは、避けたいところだ。叔父の面子もある」
そう言って、笹井と石田の元に近づいていった。新一の心臓は早鐘を打っていたが、幸之輔と一緒なら大丈夫だろうと根拠のない自信があったので慌てて後を追いかけた。
「そこの君。ずいぶんと頭が悪そうだが、暴力は憎しみしか生まないという言葉を知っているか?」
幸之輔が素で言っているのかわざと煽っているのかは不明だったが、新一は一瞬で肝を冷やした。
「ああ? うっせえな! てめえもボコられたいのか、ああん?」
石田は笹井を殴る手を止め、幸之輔に凄んでみせた。
「君の言葉遣いは目に余るな。例えるなら、そう……晩餐会にジーンズを穿いて来るような恥ずかしさだ」
「はあ? 訳わかんねえこと言ってんじゃねえよ!」
石田の拳の行き先が幸之輔に代わったようだ。彼は笹井を掴んでいた手を離し、幸之輔に近づいてきた。石田は目を逸らさない幸之輔に腹が立ったのか、至近距離でボディーブローをかまそうと右手を引いた。
思わず目を瞑ってしまった新一だったが、石田の「いてえ!」と言う声で反射的に目を開いた。
――新一が見たのは、幸之輔が石田の拳を左手で受け止め、そのまま握り潰すかのように押さえ込んでいる姿だった。
「痛え! 痛てえって!」
石田は痛みに堪えられないのか、何度も同じ言葉を繰り返した。
「痛えって言ってんだろ! 離せ!」
「わかった」
手を離した幸之輔に、石田はこめかみに青筋を立てて襲い掛かってきた。しかし、先の攻防ですでに力の優劣はわかっていたことだ。幸之輔は石田の攻撃を一度もまともに食らうことなく受け流し、膝蹴り一発で石田に尻餅をつかせた。
それからの反撃は一方的だった。幸之輔は石田が笹井にしていたように、容赦も加減もなく石田の頬を殴打した。見るからに喧嘩慣れしてそうな体格のいい男が成す術もなく殴られている様を、笹井と新一は呆然と見ていることしかできなかった。
幸之輔と一緒になんとかしようという考え自体が、思い上がりだった。何もしていない自分の格好悪さに新一は目を背けたくなったが、
「……あ、旭くん、も、もういいんじゃないかな?」
人が傷つけられている姿というのは、たとえ相手が不良でも自分に関係がなくても、これ以上は見ていられなかった。
「なんだ、助けに行けと言ったりやめろと言ったり、難しい男だな」
「ほ、ほら、あんまり手を出すと、今度は旭くんが警察に行くことになっちゃうよ」
「……それもそうだな。ああ、やめておこう」
幸之輔の殴打から解放された石田は、人形のように力なく地面に崩れ落ちた。放心状態のようだが、それも当然だろう。
新一から見ても、幸之輔からは容赦が感じられなかったのだ。弾がなくなるまで乱射を続ける壊れた銃のような怖さが彼にはあった。十分前まで石田を怖いと思っていた自分が嘘のようだ。今は幸之輔の方が、遥かに恐ろしい。
「あ、旭、お前なんなんだよ……怖えよ……」
へたり込んでいた笹井が声を震わせた。
「護身術を嗜むのは男として当然のことだと思うがね。さて、笹井。被害者として君はこの男を然るべき場所に訴える権利があるわけだが、どうしたいんだ? 俺としては、病院に行くことは勧めるが、警察に行くのは控えてくれると助かるが」
「し、知らねえよ。石田さんに報復されても、俺は無関係だからな!」
笹井はその場から逃げるように走り去っていった。助けてもらったくせになんだその態度はと、新一は笹井に対して怒りと軽蔑の念を抱いた。
「……だ、そうだ。石田よ、笹井は俺たちと無関係らしいから、今後は手を出さないようにしたまえ。それより君は、普段からこういった行動を繰り返しているのか? 俺の行動範囲であまり目立つような真似をされると、いささか困ってしまうのだが」
「も、もうしねえよ! だから見逃してくれ!」
石田は完全に幸之輔に恐怖しているようだった。
「こういった行動に走る、君の行動原理は興味深い。なぜ若い時分から暴力を繰り返す? その行動には意味や利益があるのか?」
「……お、お前には関係ねえだろ!」
「大丈夫、もう君に手は出さない。だから教えてほしい。ああ、勘違いしないでくれ、これはお願いではなく命令だ」
石田はアルコール中毒の父親とふたり暮らしで、よく父親に暴力を振るわれていたという噂は聞いたことがあるが……そういった環境が影響しているのだろうか。
石田は幸之輔を睨みつけたが、顔色を変えずに見下ろしてくる幸之輔に屈したのか、小さい声で語り始めた。
「……俺はろくでなし親父に育てられた。酒ばっか飲んでる奴でよ、顔を合わせるたびに何かしら理由をつけてボコられてきた。冗談じゃねえよ。まあ、中学入ってからはやり返してたけどな。……金はなくても親父は働かねえし、家には借金取りはくるし、最悪だった。だからよ、中学出たらすぐに家を出た。……でも、先輩や彼女の家を転々として生活していた俺は、なかなか定職に就けなかった」
胸の内を吐露する石田の言葉を、幸之輔は黙って聞いていた。
「仕事にも就けねえ、かといってクソ親父は頼れるわけもねえ。生活に困った俺は、とりあえず他人から金を巻き上げることでしのいだ。初めは抵抗があったぜ? 嘘じゃねえぞ? でもよ、一回やってしまえば、二回も三回も同じだった。パチンコで勝てば、その金を元手に増やせる話だしな。負けたら……まあ、そのときはまた巻き上げるしかねえんだけどよ」
石田が幸之輔しか見ていないことをいいことに、新一は顔を顰めた。
「金を奪うのはよくねえって、そんな常識くれえ俺だって知ってるっつの。でも俺がひとりで生活していくためには、しょうがなかったんだよ」
「そうか」
「でも聞いてくれよ! 死んだお袋はよく『やられたらやり返せ』って言ってたんだ。俺、お袋の言うことだけは、守ろうって決めてんだ。だからよ、俺は俺と同じようなクズとか、いきがった奴からしか金は巻き上げてねえ! 悪いことはしてねえと思わねえか? な? もういいだろ? 俺を解放してくれ!」
新一は石田の言い分をふざけたものだと思ったが、
「……なるほど、理屈は通っているな。では君の望むように見逃すことにしよう。だがうちの学校の生徒に手を出すのはやめろ。警察沙汰にしたくないのでね」
幸之輔は納得したように頷き、ハンカチで拳を拭いた。本当に解放されるとは思わなかったのか石田は一瞬だけ戸惑いの表情を見せたが、すぐにヘラヘラといけ好かない笑みを浮かべながら服をはたいて去って行った。
去り際に石田は幸之輔と新一の顔を交互に睨みつけていた。
「……旭くん! どうして石田を許したんだよ!? 俺は……警察に連れて行くべきだったと思う。あいつはまた同じことを繰り返すよ。今度は君や俺にまで、手を出してくる可能性もある」
報復の可能性を感じた新一は、石田の姿が見えなくなってからようやく抗議の声をあげた。
「まあ落ち着きたまえ。少し、試してみたいことがあるんだよ」
幸之輔は再び駅に向かって歩き出した。
「『悪人には何をしてもいい』『やられたらやり返す』『それ相応の報いを受ける』。これらの考えは昔からあってね。……塚本は気にならないか? もし現代まで影響を及ぼすこの考えが、とある過去の物語を少しだけ改変することで、どう影響を及ぼすのか」
「……俺には、旭くんの言っていることがわからないよ」
新一は正直に口にした。
「そうか。わからないならばそれでいい」
改札を通ると、幸之輔は一番ホームに歩を進めていった。どうやら彼とは反対方向の電車らしいが、見捨てられた気がして無性に悔しかった新一は幸之輔についていった。
ここで別れてしまえば、もう幸之輔と話ができなくなる気がしたから。
「俺、旭くんみたいに頭は良くないけど、旭くんの考えていることを知りたいとは思うんだ。……ここまできたんだ、ちゃんと教えてよ!」
轟音と共に、電車がホームに入ってきた。電車が連れてきた強い風が、幸之輔の栗色の癖毛を靡かせた。
「……理解したい気持ちがあるのなら、明日の二十時に、現国の教科書を持って伸子町駅に来るといい。その後、君の頭をさらに悩ませる事態に遭遇するとは思うがね」
幸之輔の近くにいた女性は彼に視線を送り、恍惚とした表情で見ていた。
観衆の見守る中で幸之輔はそう言い残し、電車に乗り込んで行ってしまった。