「おかえりお母さん」
「あら、珍しいわねーメグミがお出迎えなんて。勘がいいのかしら?」
笑いながら母がメグミに手渡したのは、紙袋だった。中を覗くと、白い四角い箱が入っている。
「……ねえこれ、もしかしてケーキ?」
「メグミ、本当に鋭いわね! そうよ、ダンさんが花屋の隣に新しく出来た店が美味しいっていうもんだから食べたくなっちゃって。安かったからホールで買って来ちゃった!」
メグミの背筋にぞくぞくとした刺激が走った。魔法の万年筆だなんて馬鹿げた物だと思っていたけれど、どうやらこれは本物のようだ。
すっかり万年筆の力を信じ込んだメグミは、自分の好きなように万年筆を走らせるようになった。
食べたいものを書き、嫌いなものを避け、欲望の思うままに書きなぐった。学校のルールも少しいじって、クラス全員で昼食を摂り、休み時間も皆で話す制度を作った。
たとえ何もしなくても、自分が空気になっていても、メグミにとって誰かがそばにいる環境は嬉しかった。自分はずっと寂しかったのだと自覚した。
以前より学校が楽しくなった。魔法の力で思うがまま世の中を操る罪悪感も、人との触れ合いに飢えていたメグミの欲望には抗えなかった。
そんな理想の毎日を送っていたメグミの心に影が落ちたのは、突然だった。
近頃気分が晴れやかだったメグミは、普段は家で引きこもりがちな休日に外出し、買い物や散歩を楽しんだ。喉が渇いて立ち寄った喫茶店で本を読んでいると、華やかな格好をした自分と同い年くらいの三人の女の子が入店してきた。
メグミの位置から仕切りを挟んだ四人席に座った彼女たちは、シャーリーとその友達だった。
今までのメグミなら、自分から話しかけるようなことはしない。しかし今日の自分なら話しかけることができるかもしれないと思った。
勇気を振り絞って、読んでいた文庫本に栞を挟んだ、そのときだった。
「最近、メグミって雰囲気変わったよね」
シャーリーたちの会話が耳に入った。
「だよねー。学校の方針が変わったからかね? なんか、前より明るくなった気がする」
「……でもさ、だからといって、付き合い方を変えるのは無理があるよねー。だってあの子、口悪いじゃん?」
頭から水をかけられたような気分だった。
結局、メグミがやったことは自己満足で、人の心までは変えることができなかったことを思い知った。
休日も遊んでくれるよう、万年筆で願いを書けば良かったのか?
そこまでしなければ、わたしは友人を作れないのか?
馬鹿馬鹿しい。失望に焼かれる思いを胸に、メグミは静かに店を出て行った。
「メグミ! これ、シャーリーから預かって来たの。開けてみて!」
姉は帰って来るなり、リビングで本を読んでいたメグミに一枚の封筒を手渡した。
どこか嬉しそうな姉を横目に封を切ると、中にはバースデーパーティーの招待状が入っていた。
「ねっ? バースデーパーティーに誘うくらいだもん! シャーリーはメグミのこと嫌いなんかじゃないでしょ? パーティーは一緒に行こうね! わたしがメグミのドレス選んであげる! 最近はオレンジが流行してるのよ!」
「行かないわ。お姉ちゃんひとりで行って」
姉が嬉しそうに見えたのは、封筒の中身を知っていたからであろう。メグミの返事が予想外だったのか、姉は動揺しているように見えた。
「せっかく誘ってもらったのよ? 一緒に行こう? 楽しい夜になると思うの!」
「そうやって、優しさを押しつけるのはやめてよ。はっきり言って迷惑。シャーリーはわたしを好きで誘ったわけじゃなくて、招待客はひとりでも多い方が箔がつくから誘っただけよ」
姉は悲しそうな瞳で、メグミを見つめた。
「……ねえメグミ、どうしてそうやって人を疑うことからはじめるの?」
そのとき、メグミの頭の中で何かが弾ける音がして、体中の血が沸騰するのを感じた。
「お姉ちゃんに、何がわかるっていうのよ! なんでもできて、誰にでも優しくて、いつも皆に愛されて、何もかもを持っているお姉ちゃんにそんなこと言われたら、わたしがどれだけ惨めな気持ちになるか、どうしてわからないの!?」
今まで持ち続けていた劣等感、鬱憤を晴らすかのように、メグミは一方的で理不尽な暴言を止めることができなかった。
「もうわたしに口出ししないで! お姉ちゃんなんか、いなくなればいいのに!」
メグミはそう言って部屋に逃げ込んだ。姉が部屋まで追いかけて来ることに怯えたが、姉が姿を見せることはなかった。
理不尽にも、そのことがますますメグミの怒りに火をつけた。どうして追いかけて来てくれないのだという思いが、彼女の冷静な判断力を奪っていったのだ。
気がつけば、メグミは万年筆を手にとっていた。
《お姉ちゃんなんか、いなくなっちゃえばいい》
ほぼ無意識のうちに書いた言葉の暴力性に目が覚めたときには、もう遅かった。
青ざめたメグミが急いでリビングに戻ると、そこにはもう姉はいなかったのだ。
暖炉の横に置いてあった家族写真に、姉は写っていなかった。
姉の愛用していたマグカップも、高かったと自慢していた銀のスプーンも、趣味であるお菓子作りに使っていた道具も、何もかもがなくなっていた。
メグミは心臓の爆音を聞きながら、姉の部屋の扉を叩いた。返事はない。目眩がして足が震えた。
もう答えはわかっている。それでも、信じたくなかった。
ゆっくりとドアノブを回して部屋に入ると、そこは姉の部屋ではなく、ただの物置でしかなかった。
――落ち着け、落ち着くんだ、わたし。
確かに、姉の存在は消えてしまった。魔法の万年筆を使ったメグミが、彼女を消してしまったと考えて間違いないだろう。
だが復活させることもできるはずなのだ。メグミは日記帳を開き、最新の日記の後にこう続けようとした。
《というのは、もちろん嘘に決まっている。お姉ちゃんは今日も笑顔で、元気よくわたしに話しかけてくる》
しかし、それは叶わなかった。
万年筆のインクが掠れて、初めの《という》までしか書くことができなかったからである。
「嘘……嫌! どうして! どうして!?」
自分が書いた言葉を二重線で消そうと試みても、再びインクが出てくることはなかった。
――ただし、インクを替えることはできませんのでご注意を。
お婆さんの言葉が頭の中に蘇る。メグミは取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
呆然としているメグミを見て、帰宅した母は驚きの声をあげた。
「どうしたのよメグミ!? 顔色が悪いわよ?」
「ねえお母さん……わたしに、お姉ちゃんはいる?」
答えはわかっているが、訊かずにはいられなかった。
「何言っているのよ。メグミはわたしの、たったひとりの大切な娘でしょう?」
母の答えは案の定のものだったが、母が優しくメグミの髪を撫でたとき、メグミがつけていたイヤリングが音を立てた。
その音を聞いたメグミは、絶望の中に一寸の光を見出した気がした。
慌てて外へ飛び出し、祈るような気持ちを抱えて全力で走った。
石畳の上を駆けると、イヤリングは激しく金属音を鳴らしながら揺れた。行き先は当然、万年筆をくれたお婆さんの露店である。直接お婆さんに会って、何か姉を蘇らせる方法はないか相談したかった。
しかし現実は非情で、もうあの場所に露店は存在せず、お婆さんに会うこともなかった。
「……ごめんなさい……ごめんなさい、お姉ちゃん……!」
メグミの希望がすべて絶たれた瞬間、彼女はもう存在しない姉に届かない謝罪を繰り返しながら、泣き崩れた。
それからのメグミは、着物をきっかけに誰かが姉を思い出してくれるかもしれないという一縷の望みを持って、姉が好んで着ていた着物を着るようになった。
東洋人のハーフであることを嫌がっていたメグミの変化に、母やクラスメイトたちは驚いていたが、姉のことを思い出す人は誰ひとりとしていなかった。
誰も知らない姉の存在をその胸に抱きつつ、メグミの後悔と贖罪の日々はこれからも続いていくのだった。
「あら、珍しいわねーメグミがお出迎えなんて。勘がいいのかしら?」
笑いながら母がメグミに手渡したのは、紙袋だった。中を覗くと、白い四角い箱が入っている。
「……ねえこれ、もしかしてケーキ?」
「メグミ、本当に鋭いわね! そうよ、ダンさんが花屋の隣に新しく出来た店が美味しいっていうもんだから食べたくなっちゃって。安かったからホールで買って来ちゃった!」
メグミの背筋にぞくぞくとした刺激が走った。魔法の万年筆だなんて馬鹿げた物だと思っていたけれど、どうやらこれは本物のようだ。
すっかり万年筆の力を信じ込んだメグミは、自分の好きなように万年筆を走らせるようになった。
食べたいものを書き、嫌いなものを避け、欲望の思うままに書きなぐった。学校のルールも少しいじって、クラス全員で昼食を摂り、休み時間も皆で話す制度を作った。
たとえ何もしなくても、自分が空気になっていても、メグミにとって誰かがそばにいる環境は嬉しかった。自分はずっと寂しかったのだと自覚した。
以前より学校が楽しくなった。魔法の力で思うがまま世の中を操る罪悪感も、人との触れ合いに飢えていたメグミの欲望には抗えなかった。
そんな理想の毎日を送っていたメグミの心に影が落ちたのは、突然だった。
近頃気分が晴れやかだったメグミは、普段は家で引きこもりがちな休日に外出し、買い物や散歩を楽しんだ。喉が渇いて立ち寄った喫茶店で本を読んでいると、華やかな格好をした自分と同い年くらいの三人の女の子が入店してきた。
メグミの位置から仕切りを挟んだ四人席に座った彼女たちは、シャーリーとその友達だった。
今までのメグミなら、自分から話しかけるようなことはしない。しかし今日の自分なら話しかけることができるかもしれないと思った。
勇気を振り絞って、読んでいた文庫本に栞を挟んだ、そのときだった。
「最近、メグミって雰囲気変わったよね」
シャーリーたちの会話が耳に入った。
「だよねー。学校の方針が変わったからかね? なんか、前より明るくなった気がする」
「……でもさ、だからといって、付き合い方を変えるのは無理があるよねー。だってあの子、口悪いじゃん?」
頭から水をかけられたような気分だった。
結局、メグミがやったことは自己満足で、人の心までは変えることができなかったことを思い知った。
休日も遊んでくれるよう、万年筆で願いを書けば良かったのか?
そこまでしなければ、わたしは友人を作れないのか?
馬鹿馬鹿しい。失望に焼かれる思いを胸に、メグミは静かに店を出て行った。
「メグミ! これ、シャーリーから預かって来たの。開けてみて!」
姉は帰って来るなり、リビングで本を読んでいたメグミに一枚の封筒を手渡した。
どこか嬉しそうな姉を横目に封を切ると、中にはバースデーパーティーの招待状が入っていた。
「ねっ? バースデーパーティーに誘うくらいだもん! シャーリーはメグミのこと嫌いなんかじゃないでしょ? パーティーは一緒に行こうね! わたしがメグミのドレス選んであげる! 最近はオレンジが流行してるのよ!」
「行かないわ。お姉ちゃんひとりで行って」
姉が嬉しそうに見えたのは、封筒の中身を知っていたからであろう。メグミの返事が予想外だったのか、姉は動揺しているように見えた。
「せっかく誘ってもらったのよ? 一緒に行こう? 楽しい夜になると思うの!」
「そうやって、優しさを押しつけるのはやめてよ。はっきり言って迷惑。シャーリーはわたしを好きで誘ったわけじゃなくて、招待客はひとりでも多い方が箔がつくから誘っただけよ」
姉は悲しそうな瞳で、メグミを見つめた。
「……ねえメグミ、どうしてそうやって人を疑うことからはじめるの?」
そのとき、メグミの頭の中で何かが弾ける音がして、体中の血が沸騰するのを感じた。
「お姉ちゃんに、何がわかるっていうのよ! なんでもできて、誰にでも優しくて、いつも皆に愛されて、何もかもを持っているお姉ちゃんにそんなこと言われたら、わたしがどれだけ惨めな気持ちになるか、どうしてわからないの!?」
今まで持ち続けていた劣等感、鬱憤を晴らすかのように、メグミは一方的で理不尽な暴言を止めることができなかった。
「もうわたしに口出ししないで! お姉ちゃんなんか、いなくなればいいのに!」
メグミはそう言って部屋に逃げ込んだ。姉が部屋まで追いかけて来ることに怯えたが、姉が姿を見せることはなかった。
理不尽にも、そのことがますますメグミの怒りに火をつけた。どうして追いかけて来てくれないのだという思いが、彼女の冷静な判断力を奪っていったのだ。
気がつけば、メグミは万年筆を手にとっていた。
《お姉ちゃんなんか、いなくなっちゃえばいい》
ほぼ無意識のうちに書いた言葉の暴力性に目が覚めたときには、もう遅かった。
青ざめたメグミが急いでリビングに戻ると、そこにはもう姉はいなかったのだ。
暖炉の横に置いてあった家族写真に、姉は写っていなかった。
姉の愛用していたマグカップも、高かったと自慢していた銀のスプーンも、趣味であるお菓子作りに使っていた道具も、何もかもがなくなっていた。
メグミは心臓の爆音を聞きながら、姉の部屋の扉を叩いた。返事はない。目眩がして足が震えた。
もう答えはわかっている。それでも、信じたくなかった。
ゆっくりとドアノブを回して部屋に入ると、そこは姉の部屋ではなく、ただの物置でしかなかった。
――落ち着け、落ち着くんだ、わたし。
確かに、姉の存在は消えてしまった。魔法の万年筆を使ったメグミが、彼女を消してしまったと考えて間違いないだろう。
だが復活させることもできるはずなのだ。メグミは日記帳を開き、最新の日記の後にこう続けようとした。
《というのは、もちろん嘘に決まっている。お姉ちゃんは今日も笑顔で、元気よくわたしに話しかけてくる》
しかし、それは叶わなかった。
万年筆のインクが掠れて、初めの《という》までしか書くことができなかったからである。
「嘘……嫌! どうして! どうして!?」
自分が書いた言葉を二重線で消そうと試みても、再びインクが出てくることはなかった。
――ただし、インクを替えることはできませんのでご注意を。
お婆さんの言葉が頭の中に蘇る。メグミは取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
呆然としているメグミを見て、帰宅した母は驚きの声をあげた。
「どうしたのよメグミ!? 顔色が悪いわよ?」
「ねえお母さん……わたしに、お姉ちゃんはいる?」
答えはわかっているが、訊かずにはいられなかった。
「何言っているのよ。メグミはわたしの、たったひとりの大切な娘でしょう?」
母の答えは案の定のものだったが、母が優しくメグミの髪を撫でたとき、メグミがつけていたイヤリングが音を立てた。
その音を聞いたメグミは、絶望の中に一寸の光を見出した気がした。
慌てて外へ飛び出し、祈るような気持ちを抱えて全力で走った。
石畳の上を駆けると、イヤリングは激しく金属音を鳴らしながら揺れた。行き先は当然、万年筆をくれたお婆さんの露店である。直接お婆さんに会って、何か姉を蘇らせる方法はないか相談したかった。
しかし現実は非情で、もうあの場所に露店は存在せず、お婆さんに会うこともなかった。
「……ごめんなさい……ごめんなさい、お姉ちゃん……!」
メグミの希望がすべて絶たれた瞬間、彼女はもう存在しない姉に届かない謝罪を繰り返しながら、泣き崩れた。
それからのメグミは、着物をきっかけに誰かが姉を思い出してくれるかもしれないという一縷の望みを持って、姉が好んで着ていた着物を着るようになった。
東洋人のハーフであることを嫌がっていたメグミの変化に、母やクラスメイトたちは驚いていたが、姉のことを思い出す人は誰ひとりとしていなかった。
誰も知らない姉の存在をその胸に抱きつつ、メグミの後悔と贖罪の日々はこれからも続いていくのだった。