エイミーがいなくなってから、およそ二ヶ月が経とうとしていた。

 彼女がいなくなった後も、特に幸之輔の生活に目立った変化はなかった。

 代償を受けるエイミーが不在ゆえに物語の改変ができなくなったことを除けば、彼は彼の人生でやってきたやり方で、いつも通りの日々を送った。

 学業では常に学年一位の成績を修め、会社間の付き合いに積極的に参加しては将来のために顔を売った。嗜みの範囲で習っていた書道では全国的な賞を獲り、父の勧めで出場した柔道の大会で優勝した。

 寧々が早く元気になるように、自慢の兄だと誇れるようにと、幸之輔は今まで以上に成果を目に見える形に残す日々を送った。人並み以上の努力を見せ、目を見張る成果に繋げることこそが、無気力な寧々のやる気を引き出す薬になると思ったのだ。
だが実際には幸之輔の期待していたような効果はなく、むしろ寧々の症状は幸之輔の望みとは逆の方に向かっていった。

 寧々の精神状態は悪化した。

 他人に会うことを極端に嫌がるようになり、幼少の頃より続けてきた習い事にも一切顔を出さなくなった。週に一度通っていた病院ですら、山田先生を家に呼ぶことで家から出なくなったのだ。

 元々、嫡男である幸之輔には厳しく寧々には甘い父母は、寧々の弱さをすべて受け止め、彼女の好きにするよう認めた。結果、寧々の顔を見ることをできるのは、家庭教師、山田先生、両親、津田、幸之輔の六人だけとなり、寧々の世界は極めて小さく狭いものになった。

 今までは一日一回わずかではあるが寧々と話をする時間があり、幸之輔はその時間をとても大切に思っていた。

 しかしいつからか寧々は、幸之輔と顔を合わせることが嫌だと態度で示すようになった。それは寧々を大切に想い、寧々のために人一倍努力を重ねてきた幸之輔の心を抉るような悲しみだった。

 だが人の心を理解することに疎い幸之輔は、直接言われないのであれば問題ないだろうと寧々の心境を自分勝手に判断し、寧々への接触を止めなかった。

 結果、状況が悪化を辿るのは当然であり、日に日に表情を曇らせ目を合わせなくなる寧々に、幸之輔は頭を抱えた。

 ――寧々の病が快方に向かっていると思ったのは、俺の勘違いだったのか?

 幸之輔にしては珍しく弱気になった。だが立ち止まり嘆いている時間も、己の接し方を省みることもしなかった。人生で挫折をしたことがない幸之輔にとって、反省とは無駄な行為に思えてならなかったからだ。

 寧々を大切に想っていることをわかってもらうために、今日も幸之輔は寧々の部屋を訪れた。寧々は最近めっきり食も細くなり、色の白さも手伝って病弱な少女そのものに見えた。

「寧々、顔色が悪いぞ。どこか具合が悪いのか?」

 幸之輔が気にかけると、寧々は言いづらそうに視線を逸らした。

「……いえ。お兄様、その、お願いがあるのですが……」

「なんだ? なんでも言ってくれ」

 寧々の口からお願いなんて言葉が聞けるとは思っていなかった。幸之輔が前のめりになりながら寧々の顔を見つめていると、彼女の薄い唇がゆっくりと開いた。

「……お兄様のご活躍は、お父様やお母様からたくさん窺っております。そんなお兄様がわたしの部屋に来るのは、時間がもったいないと思うのです」

「いや、お前と話すのは俺にとって有益な時間だ。問題ない」

 幸之輔の言葉に、寧々は悲しそうに目を伏せた。

「…………どうして、わかってくれないのですか……!」

 寧々の本音は、喉元まで出かかっている。彼女の長い睫毛と表情を見て、エイミーの顔が頭を過ぎった。

「――それはつまり、もう部屋に来るなという拒絶を意味しているのか?」

 そしてエイミーなら、はっきりと口にするだろうと予想した。

 寧々は顔を上げ、黙ったまま幸之輔を見つめた。

 さすがに幸之輔でも、この沈黙は肯定と同義であることを悟った。

「……わかった」

 部屋を出る前に一度だけ寧々の方を見たが、彼女が幸之輔に顔を向けることはなかった。