◇
「あきら。どう、したの?」
これまでずっと忙しくて顔を出せていなかった晃が二日連続で部屋を訪れたことに、亜矢子は疑問を抱いたようだった。
「そんなに驚かないでくれよ。来るのが遅くなってごめんな」
十九時半を回っている時計を見ながら、晃はベッドの横に置いてある丸椅子に腰掛けた。
「ちがう。ふく」
「ああ、私服だから? 俺さ、もう医者として亜矢子を見舞うのはやめようと思って。今月いっぱいで医者も辞めるし」
亜矢子が晃をじっと見据えた。表情筋が衰えている亜矢子にとって、これが精一杯の驚きの表情なのだろう。
「なんで? って顔をしているな。でも、先に俺の質問に答えてほしい。……亜矢子が旭くんの提案を蹴ったのは、自分の心の中に揺るぎない大切な物語があったからだ。……合っていたらこのまま俺を見つめて。間違っていたなら、目を逸らしてくれ」
ALS患者は運動能力が衰えても、眼球運動だけは低下しない。亜矢子は晃の目をじっと見つめていた。
「そっか。やっぱり、お前は強い女だよ」
晃は鞄の中からある物を取り出した。
「遅くなって、ごめんな」
晃が亜矢子の手の上に置いたのは、手のひらサイズの小さな四角い箱だった。
自由に指を動かすことのできない亜矢子の代わりに、晃はゆっくりとそれを開けた。
小さな箱に収められていたのは、細いリングの六本爪に、大きくて煌びやかなダイヤモンドが嵌められた指輪であった。
いろんな感情が込み上げて来たのか、亜矢子は言葉を発しないまま、晃に潤んだ瞳を向けた。
そんな彼女を心から愛しいと思った晃は、彼女の左手を取って、一生に一度の言葉を口にした。
「俺と、結婚してください」
結婚を考えなかったことはない。晃はもう随分前から亜矢子と結婚するのだと、常に意識していたつもりでいた。それなのにいざプロポーズとなると、緊張から心臓は早鐘を打ち、唇は乾いていた。
「……な、んで……」
「なんでって、俺が亜矢子のことを好きだからだよ。今まで使う暇もなかったからさ、金は結構貯まってるんだ。心配するな」
晃は自分の緊張を亜矢子に悟られないように、努めて落ち着いた素振りで接した。
今まで亜矢子に本音を言わせなかった不甲斐ない自分だけれども、一世一代の勝負どころくらいはしっかり決めたかった。亜矢子が安心してついて来られるように、堂々とした男振りを見せたかったのだ。
「そうじゃ、ないよ。わたしは、このさき、どんどん、あっかする。あきらの、て、にぎることも、できない」
亜矢子はたどたどしくも、晃に思いを伝えようと懸命に口を動かした。
「亜矢子が手を握れないなら、俺が握ればいい。亜矢子が声を出せないなら、俺が何度でも愛してるって言うよ。それじゃダメか?」
「おそいよ……もう、おそい、んだよ……」
亜矢子の頬を流れた涙は、彼女が手に持っていた指輪の箱の上に落ちた。
「……確かに、長い間待たせてしまった。でも、人生に遅すぎるってことはないんだ。だから、これからはずっと、ずっと、亜矢子のそばにいる」
亜矢子の随分と細くなってしまった左手の薬指に、晃の人生の中で最も高価で、購入に一番勇気が必要だったそれを、ゆっくりと通してやった。
亜矢子は自身の指の上に光る晃の愛を見て、ようやくプロポーズに頷いてくれた。
晃は亜矢子のことを、これからの人生をかけて大切にしようと誓った。
ダイヤモンドは病室の中でも煌びやかに輝いていて、どんなときでも軸のぶれない誇り高い亜矢子には、とてもよく似合うと思った。
「あきら。どう、したの?」
これまでずっと忙しくて顔を出せていなかった晃が二日連続で部屋を訪れたことに、亜矢子は疑問を抱いたようだった。
「そんなに驚かないでくれよ。来るのが遅くなってごめんな」
十九時半を回っている時計を見ながら、晃はベッドの横に置いてある丸椅子に腰掛けた。
「ちがう。ふく」
「ああ、私服だから? 俺さ、もう医者として亜矢子を見舞うのはやめようと思って。今月いっぱいで医者も辞めるし」
亜矢子が晃をじっと見据えた。表情筋が衰えている亜矢子にとって、これが精一杯の驚きの表情なのだろう。
「なんで? って顔をしているな。でも、先に俺の質問に答えてほしい。……亜矢子が旭くんの提案を蹴ったのは、自分の心の中に揺るぎない大切な物語があったからだ。……合っていたらこのまま俺を見つめて。間違っていたなら、目を逸らしてくれ」
ALS患者は運動能力が衰えても、眼球運動だけは低下しない。亜矢子は晃の目をじっと見つめていた。
「そっか。やっぱり、お前は強い女だよ」
晃は鞄の中からある物を取り出した。
「遅くなって、ごめんな」
晃が亜矢子の手の上に置いたのは、手のひらサイズの小さな四角い箱だった。
自由に指を動かすことのできない亜矢子の代わりに、晃はゆっくりとそれを開けた。
小さな箱に収められていたのは、細いリングの六本爪に、大きくて煌びやかなダイヤモンドが嵌められた指輪であった。
いろんな感情が込み上げて来たのか、亜矢子は言葉を発しないまま、晃に潤んだ瞳を向けた。
そんな彼女を心から愛しいと思った晃は、彼女の左手を取って、一生に一度の言葉を口にした。
「俺と、結婚してください」
結婚を考えなかったことはない。晃はもう随分前から亜矢子と結婚するのだと、常に意識していたつもりでいた。それなのにいざプロポーズとなると、緊張から心臓は早鐘を打ち、唇は乾いていた。
「……な、んで……」
「なんでって、俺が亜矢子のことを好きだからだよ。今まで使う暇もなかったからさ、金は結構貯まってるんだ。心配するな」
晃は自分の緊張を亜矢子に悟られないように、努めて落ち着いた素振りで接した。
今まで亜矢子に本音を言わせなかった不甲斐ない自分だけれども、一世一代の勝負どころくらいはしっかり決めたかった。亜矢子が安心してついて来られるように、堂々とした男振りを見せたかったのだ。
「そうじゃ、ないよ。わたしは、このさき、どんどん、あっかする。あきらの、て、にぎることも、できない」
亜矢子はたどたどしくも、晃に思いを伝えようと懸命に口を動かした。
「亜矢子が手を握れないなら、俺が握ればいい。亜矢子が声を出せないなら、俺が何度でも愛してるって言うよ。それじゃダメか?」
「おそいよ……もう、おそい、んだよ……」
亜矢子の頬を流れた涙は、彼女が手に持っていた指輪の箱の上に落ちた。
「……確かに、長い間待たせてしまった。でも、人生に遅すぎるってことはないんだ。だから、これからはずっと、ずっと、亜矢子のそばにいる」
亜矢子の随分と細くなってしまった左手の薬指に、晃の人生の中で最も高価で、購入に一番勇気が必要だったそれを、ゆっくりと通してやった。
亜矢子は自身の指の上に光る晃の愛を見て、ようやくプロポーズに頷いてくれた。
晃は亜矢子のことを、これからの人生をかけて大切にしようと誓った。
ダイヤモンドは病室の中でも煌びやかに輝いていて、どんなときでも軸のぶれない誇り高い亜矢子には、とてもよく似合うと思った。