塚本新一は体育の授業中にもかかわらず、ある男に目を釘付けにされていた。
バスケットボールを持った彼は、素人とは思えないドリブルでコートを駆け回り、鮮やかなフェイントで敵をかわし、適切なタイミングでパスを出し、美しいフォームから生まれるシュートでネットを揺らしていた。バスケ部に所属している新一から見ても、完璧なプレーだった。
新一の視線の先にいるのは、旭幸之輔である。
彼はこの学校では名前を知らない人間はいないほどの有名人だが、他人に合わせることを嫌い、とっつきにくい雰囲気を出しているうえ、女子人気が極めて高いものだからやっかむ男も少なからず存在していた。
だが新一は、そんな彼らとは異なる感情を抱いていた。どうやって生きていれば幸之輔のように妥協を知らない人生を送れるのだろうかと、憧憬と嫉妬、好意と関心を抱いて幸之輔を観察していた。
「うーわ、また旭が格好つけて本気で授業受けてるよ。ダッセ!」
幸之輔をやっかむ側の男たちが、ヘラヘラとコート内を話しながら歩いている。反論して面倒なことになるのが嫌だった新一は、適当に相槌を打った。
幸之輔がシュートを決めた瞬間、試合終了のブザーが鳴った。
体育後の授業は現国だった。担当教師が定年間際の穏やかな好々爺ということもあり、彼が朗読する芥川龍之介の『羅生門』は、クラスメイトを深い眠りに落とそうとしている呪文のように聞こえた。
新一は目を擦りながら、教科書に載っている『羅生門』の内容を目で追った。
仕事を首になった下人が金も住む場所もなく、犯罪に手を染めるしかないのだろうかと頭を抱えているとき、死体から衣服の追いはぎをしている老婆と出会う。
下人は老婆を咎めようとしたが、生きていくためには仕方がないと口にする老婆の言い分に納得し、最終的に彼は老婆から追いはぎをすることは罪ではないと解釈し、夜の町に溶け込んでいく。大雑把に言えば、こんな物語だった。
教師の声が穏やかなせいで物語も平穏なものに聞こえるが、殺伐とした内容だと思った。
一通り読んだところでついに眠気の限界が来た新一は、頬杖をついて夢の世界に誘われていった。
目覚めのきっかけは、ひとりの女子の声だった。
「新一、さっきの授業寝てたでしょ? ダメだよ? ただでさえ国語の成績良くないんだから、せめて授業態度で評価を稼がないと! 中学校のときから授業態度でカバーしてきたのに、高校入って油断しているんじゃないの?」
重たい瞼を擦って顔を上げると、童顔の割に大人っぽい声を持つクラス委員長・川谷あかりの姿があった。
「……だってさあ、さっきの授業は特別眠かったんだよ。起きていたのって、あかりと旭くんくらいじゃないの?」
「人と比べてどうするの? 自分がどう過ごすかが大事でしょう?」
「はいはい、わかってますよー」
新一とあかりは、中学校一年生から同じクラスという仲である。説教くさいあかりを鬱陶しいと思うこともあるけれど、真面目で優しくしっかり者で、お人よしで困っている人を放って置けない彼女に、新一は普通以上の好意を抱いていた。
「それにしても……この学校のクラス委員って、とても仕事が多いのね。わたしには荷が重かったみたい。旭くんに力を貸してほしかったんだけど、断られちゃって」
そして、これはあくまで新一の予想だが、おそらくあかりは幸之輔に恋をしている。新一は悔しいという気持ちと、仕方がないという気持ちの両方を抱えていた。
「旭くんって、旭出版の跡取り息子でしょ? クラス委員なんてやっている暇なんてないくらい忙しいんだと思うよ」
「そうよね、住む世界が違うわ。あ、ねえ、旭くんって妹がいるの知ってた? わたしの弟と同じ学年でね、今は中学二年生なんだけど」
「ふーん。旭くんに似ていたら、妹さんはさぞかし可愛いんだろうね」
「そりゃあもう、とんでもなく可愛くて、どこにいても人目を惹くアイドル状態だったらしいわよ。でもね、噂だと今は、」
そのとき予鈴が鳴って、あかりは言いかけた言葉を飲み込んでいた。
「……今日のホームルームでは、金曜日にやる球技大会の実行委員を決めるわよ。いくらおざなりのイベントだからって、大会は今週末なのに実行委員を決めるのが今日とか、急すぎるわよね。飾りみたいな役だけど、もし良かったら新一、立候補してよね。いつもなかなか決まらなくて時間かかるんだから」
あかりに協力したい気持ちはあるが、気の弱い新一には立候補できる度胸はない。去っていく彼女の背中に、心の中で謝った。
同じクラスというだけで彼とは接点などまるでなかったはずなのだが、人生とはわからないものである。
「普通こういうのって、男女一名ずつ選出するものだよね」
「女子はチアリーディングをやる伝統なのだから、仕方ないだろう」
あかりが危惧した通り、先のホームルームにて行われた球技大会の実行委員決めは、立候補者が現れなかったことから難航した。仕方なくクジ引きで決めた結果、新一は幸之輔とふたりで実行委員をやることになったのだ。
新一にとって幸之輔と話すことは、どうにも落ち着かず緊張する。それでもせっかくの機会だからと、さっきから新一は懸命に話しかけているのだった。
「あ、旭くんって、放課後いつもすぐに帰っちゃうよね! やっぱり、会社が忙しかったりするの?」
「……まあ、多少手伝ってはいるが、学生のうちは学業を優先させろと言ってある。俺が早く帰るのは、用もないのに学校に残るのが時間の無駄に思えて苦痛だからだ」
幸之輔の返事は事務的で、上辺だけの対人関係を築こうとしていることが窺えた。もう少し話をしてみたかったけれど、さっさと仕事を済ませるしかないなと新一は諦めることにした。
「所属している部活に出場はできないから、塚本はバスケ以外から選ぶことになるな。君は肩が強いから、ソフトボールかサッカーだったらソフトの方を勧める」
幸之輔があまりにも自然に言うので、新一は思わず聞き流すところだった。
「……え? 旭くん、俺がバスケ部だってこと知ってたの?」
名前すら知られていないと思っていたのに。
「俺はこの学校の関係者なら全員の顔と名前、特徴くらいは記憶している。特に君は、進学科にもかかわらず部活動に所属している珍しい男だからな」
「あはは、体を動かすのが好きなだけなんだけど、確かに珍しいかもね。二年の秋には辞めて、受験勉強に専念するって親とは約束しているけどね」
ふたりの通う私立洛央高等学校は都内でも有名な中高一貫校であり、学科は大学進学を目標とし、毎年旧帝大をはじめとする有名大学へ数多くの合格者を出している進学科と、様々な部活で全国にその名を轟かせる、スポーツ強豪校として有名なスポーツ科に分かれている。
新一と幸之輔が在籍するのは進学科である。進学科の生徒は部活に入らないことが慣例になっているなか、新一はバスケ部に所属していた。進学科の生徒は補習が多く、スポーツ科に比べて練習時間が圧倒的に少ないうえ、土日に模試があれば模試を優先しなければならないため、レギュラーになれることはない。
だが新一はバスケットボールが好きという理由だけで、勉強と部活をなんとか両立させているのだった。
……それにしても。入学してまだ一ヶ月も経っていないというのに、幸之輔の記憶力には感心させられる。こういった些細なところで、新一は幸之輔との違いを思い知るのだった。
「じゃあ俺はソフトに出るから、旭くんはバスケに出てよ。そうすれば、タイムテーブル上交互に動けるもんね。あとは、クラスの皆の出場競技を割り振ればいいだけかな」
「ああ。参加希望競技については、事前にアンケートをとっているから楽に決まるだろう」
球技大会の打ち合わせはスムーズに終わり、十八時過ぎにはクラス全体の出場競技をまとめることができた。
「次回のホームルームで発表しよう。進行は俺、書記は君でいこうか」
「うん、わかった」
「では、俺はこれで失礼する」
書類の角を整えて、幸之輔は立ち上がった。
「あ、ちょ、ちょっと待って!」
幸之輔が早く帰りたがっていたことは察していたはずなのに、どうして引き止めてしまったのだろうか。引っ込みがつかなくなった新一は、「まだ何かあるのか」という幸之輔の言葉に自身の疑問を解決する暇もなく、
「い、一緒に帰ろう!」
しどろもどろになりながら大胆な言葉を発していた。自分自身で驚きつつも、今更撤回するのも不自然だ。半ばヤケクソ気味に笑いながら返事を待っていると、
「……まあ、いいか」
幸之輔は一瞬怪訝な顔を見せたが、そう言って頷いた。
バスケットボールを持った彼は、素人とは思えないドリブルでコートを駆け回り、鮮やかなフェイントで敵をかわし、適切なタイミングでパスを出し、美しいフォームから生まれるシュートでネットを揺らしていた。バスケ部に所属している新一から見ても、完璧なプレーだった。
新一の視線の先にいるのは、旭幸之輔である。
彼はこの学校では名前を知らない人間はいないほどの有名人だが、他人に合わせることを嫌い、とっつきにくい雰囲気を出しているうえ、女子人気が極めて高いものだからやっかむ男も少なからず存在していた。
だが新一は、そんな彼らとは異なる感情を抱いていた。どうやって生きていれば幸之輔のように妥協を知らない人生を送れるのだろうかと、憧憬と嫉妬、好意と関心を抱いて幸之輔を観察していた。
「うーわ、また旭が格好つけて本気で授業受けてるよ。ダッセ!」
幸之輔をやっかむ側の男たちが、ヘラヘラとコート内を話しながら歩いている。反論して面倒なことになるのが嫌だった新一は、適当に相槌を打った。
幸之輔がシュートを決めた瞬間、試合終了のブザーが鳴った。
体育後の授業は現国だった。担当教師が定年間際の穏やかな好々爺ということもあり、彼が朗読する芥川龍之介の『羅生門』は、クラスメイトを深い眠りに落とそうとしている呪文のように聞こえた。
新一は目を擦りながら、教科書に載っている『羅生門』の内容を目で追った。
仕事を首になった下人が金も住む場所もなく、犯罪に手を染めるしかないのだろうかと頭を抱えているとき、死体から衣服の追いはぎをしている老婆と出会う。
下人は老婆を咎めようとしたが、生きていくためには仕方がないと口にする老婆の言い分に納得し、最終的に彼は老婆から追いはぎをすることは罪ではないと解釈し、夜の町に溶け込んでいく。大雑把に言えば、こんな物語だった。
教師の声が穏やかなせいで物語も平穏なものに聞こえるが、殺伐とした内容だと思った。
一通り読んだところでついに眠気の限界が来た新一は、頬杖をついて夢の世界に誘われていった。
目覚めのきっかけは、ひとりの女子の声だった。
「新一、さっきの授業寝てたでしょ? ダメだよ? ただでさえ国語の成績良くないんだから、せめて授業態度で評価を稼がないと! 中学校のときから授業態度でカバーしてきたのに、高校入って油断しているんじゃないの?」
重たい瞼を擦って顔を上げると、童顔の割に大人っぽい声を持つクラス委員長・川谷あかりの姿があった。
「……だってさあ、さっきの授業は特別眠かったんだよ。起きていたのって、あかりと旭くんくらいじゃないの?」
「人と比べてどうするの? 自分がどう過ごすかが大事でしょう?」
「はいはい、わかってますよー」
新一とあかりは、中学校一年生から同じクラスという仲である。説教くさいあかりを鬱陶しいと思うこともあるけれど、真面目で優しくしっかり者で、お人よしで困っている人を放って置けない彼女に、新一は普通以上の好意を抱いていた。
「それにしても……この学校のクラス委員って、とても仕事が多いのね。わたしには荷が重かったみたい。旭くんに力を貸してほしかったんだけど、断られちゃって」
そして、これはあくまで新一の予想だが、おそらくあかりは幸之輔に恋をしている。新一は悔しいという気持ちと、仕方がないという気持ちの両方を抱えていた。
「旭くんって、旭出版の跡取り息子でしょ? クラス委員なんてやっている暇なんてないくらい忙しいんだと思うよ」
「そうよね、住む世界が違うわ。あ、ねえ、旭くんって妹がいるの知ってた? わたしの弟と同じ学年でね、今は中学二年生なんだけど」
「ふーん。旭くんに似ていたら、妹さんはさぞかし可愛いんだろうね」
「そりゃあもう、とんでもなく可愛くて、どこにいても人目を惹くアイドル状態だったらしいわよ。でもね、噂だと今は、」
そのとき予鈴が鳴って、あかりは言いかけた言葉を飲み込んでいた。
「……今日のホームルームでは、金曜日にやる球技大会の実行委員を決めるわよ。いくらおざなりのイベントだからって、大会は今週末なのに実行委員を決めるのが今日とか、急すぎるわよね。飾りみたいな役だけど、もし良かったら新一、立候補してよね。いつもなかなか決まらなくて時間かかるんだから」
あかりに協力したい気持ちはあるが、気の弱い新一には立候補できる度胸はない。去っていく彼女の背中に、心の中で謝った。
同じクラスというだけで彼とは接点などまるでなかったはずなのだが、人生とはわからないものである。
「普通こういうのって、男女一名ずつ選出するものだよね」
「女子はチアリーディングをやる伝統なのだから、仕方ないだろう」
あかりが危惧した通り、先のホームルームにて行われた球技大会の実行委員決めは、立候補者が現れなかったことから難航した。仕方なくクジ引きで決めた結果、新一は幸之輔とふたりで実行委員をやることになったのだ。
新一にとって幸之輔と話すことは、どうにも落ち着かず緊張する。それでもせっかくの機会だからと、さっきから新一は懸命に話しかけているのだった。
「あ、旭くんって、放課後いつもすぐに帰っちゃうよね! やっぱり、会社が忙しかったりするの?」
「……まあ、多少手伝ってはいるが、学生のうちは学業を優先させろと言ってある。俺が早く帰るのは、用もないのに学校に残るのが時間の無駄に思えて苦痛だからだ」
幸之輔の返事は事務的で、上辺だけの対人関係を築こうとしていることが窺えた。もう少し話をしてみたかったけれど、さっさと仕事を済ませるしかないなと新一は諦めることにした。
「所属している部活に出場はできないから、塚本はバスケ以外から選ぶことになるな。君は肩が強いから、ソフトボールかサッカーだったらソフトの方を勧める」
幸之輔があまりにも自然に言うので、新一は思わず聞き流すところだった。
「……え? 旭くん、俺がバスケ部だってこと知ってたの?」
名前すら知られていないと思っていたのに。
「俺はこの学校の関係者なら全員の顔と名前、特徴くらいは記憶している。特に君は、進学科にもかかわらず部活動に所属している珍しい男だからな」
「あはは、体を動かすのが好きなだけなんだけど、確かに珍しいかもね。二年の秋には辞めて、受験勉強に専念するって親とは約束しているけどね」
ふたりの通う私立洛央高等学校は都内でも有名な中高一貫校であり、学科は大学進学を目標とし、毎年旧帝大をはじめとする有名大学へ数多くの合格者を出している進学科と、様々な部活で全国にその名を轟かせる、スポーツ強豪校として有名なスポーツ科に分かれている。
新一と幸之輔が在籍するのは進学科である。進学科の生徒は部活に入らないことが慣例になっているなか、新一はバスケ部に所属していた。進学科の生徒は補習が多く、スポーツ科に比べて練習時間が圧倒的に少ないうえ、土日に模試があれば模試を優先しなければならないため、レギュラーになれることはない。
だが新一はバスケットボールが好きという理由だけで、勉強と部活をなんとか両立させているのだった。
……それにしても。入学してまだ一ヶ月も経っていないというのに、幸之輔の記憶力には感心させられる。こういった些細なところで、新一は幸之輔との違いを思い知るのだった。
「じゃあ俺はソフトに出るから、旭くんはバスケに出てよ。そうすれば、タイムテーブル上交互に動けるもんね。あとは、クラスの皆の出場競技を割り振ればいいだけかな」
「ああ。参加希望競技については、事前にアンケートをとっているから楽に決まるだろう」
球技大会の打ち合わせはスムーズに終わり、十八時過ぎにはクラス全体の出場競技をまとめることができた。
「次回のホームルームで発表しよう。進行は俺、書記は君でいこうか」
「うん、わかった」
「では、俺はこれで失礼する」
書類の角を整えて、幸之輔は立ち上がった。
「あ、ちょ、ちょっと待って!」
幸之輔が早く帰りたがっていたことは察していたはずなのに、どうして引き止めてしまったのだろうか。引っ込みがつかなくなった新一は、「まだ何かあるのか」という幸之輔の言葉に自身の疑問を解決する暇もなく、
「い、一緒に帰ろう!」
しどろもどろになりながら大胆な言葉を発していた。自分自身で驚きつつも、今更撤回するのも不自然だ。半ばヤケクソ気味に笑いながら返事を待っていると、
「……まあ、いいか」
幸之輔は一瞬怪訝な顔を見せたが、そう言って頷いた。