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 歩きながら晃が自動キーで車のロックを解除したとき、解除を告げて光るウインカーが人影を映し出した。背の高い影に近づき顔の見える位置で立ち止まると、その人影は口角を上げた。

「俺の勘は優秀ですね」
 
 幸之輔が晃の車の横に立っていた。近くにはエイミーの姿もあった。

「……旭くん? どうしてここに?」

「集中できず、仕事にならないであろう貴方は帰されると踏んでいましたので」

 ずいぶんと生意気なことを言ってくれるが、腹を立てる気力もなかった。

「寧々から相談を受けましてね……寧々の電話番号は、携帯に登録しましたか?」

「いや、まだだけど」

「では携帯電話を確認させてください。それと、寧々の電話番号が書かれた紙は回収させていただきます」

 幸之輔の目的を理解した。寧々から相談を受けた幸之輔は、晃が寧々に電話をかける前に晃と接触して、少しでも寧々との接点を減らしたかったのだろう。

 抵抗する気はなく、晃は素直に寧々の番号が書いてあるメモ用紙と携帯電話を幸之輔に手渡した。慣れた手つきで操作をして晃が番号を登録していないことを確認した幸之輔は、「ありがとうございました」と穏やかな笑みを浮かべて携帯電話を返してくれた。

「立ち入った話をするのなら、場所を変えた方がいいのではないでしょうか? 先生は仕事を代わってもらっている立場なのですから」

 ふたりのやり取りを静観していたエイミーが提案してきた。晃はエイミーの言葉というよりも、存在が気に障った。

「……俺がおかしくなっているって聞いて、面白がって来たのかい? 誘った旭くんも、ついてきたエイミーさんにも感心しないな」

 眉間に皺を寄せていると、幸之輔は不敵な笑みを浮かべた。

「俺の名誉のために言わせてもらいますが、俺はこいつに何も話していませんよ。ただ、立会人として居てもらわなくては困るのでね」

「わたしの名誉のため、とは言わないあたりが、貴方の自己中心的な性格の悪さを象徴していますね」

 やり合うふたりを咎めるつもりはないが、看過できない言葉を耳にして聞き返さずにはいられなかった。

「待ってくれ……立会人? 一体、何をするつもりなんだ?」

「その前に移動しましょうか。場所は、そうだな……行きつけの店があるので、先生、お手数ですが車を出してくださいませんか?」

 当然のように流した幸之輔に、晃は溜息を吐いた。

「……そこに行けば、俺の質問にも答えるんだな?」

「もちろんです。先生の相談事だってなんだって聞きますよ」

「軽く言ってくれるね……場所はどの辺なんだ?」

 晃は助手席に幸之輔、後部座席にエイミーを乗せて、街へと車を走らせた。



 幸之輔の行きつけだという店はイタリア料理を扱っている隠れ家的な一室で、客の入りは多くないものの味のある洒落た店だった。

「高価な店ではありませんが、常連客ばかりで俺の顔馴染みしかいないので煩わしさはないかと思います。エイミー、食べ物を適当にオーダーしておけ。先生、美味いワインがありますが召し上がりますか? 車は運転手を呼んでご自宅まで送るよう手配しますよ」

「……いや、いいよ。酒を飲む気分じゃない」

「そうですか。では適当に頼んでおきましょう」

 仕事を早退させてもらった分際で、俺は何をしているのだろうか。

 今日の失態と亜矢子の言葉が頭の中を駆け巡り苦しくなってきた晃は、運ばれてきた水を一気に飲み干した。

「さあ、先生。まずは寧々が心から心配する程、顔を真っ白にして憔悴していた貴方の心境を聞かせてください」
早く心中を吐露したかった晃は、テーブルに料理がくるより早く事の顛末を語り始めた。

 晃は自身の葛藤と後悔、亜矢子への想いを、支離滅裂になりながらも全部幸之輔に話した。幸之輔は相槌も打たずに無表情で聞いているだけで、決して聞き上手とはいえなかった。

 それでも、テーブルに簡単なメニューが並べられた頃には、晃は伝えることに夢中になっていた。口を止めることなどできなかった。

「まだ誰も見つけていない病気の療法を俺が見つけてみせるだなんて、ガキの思い上がりに過ぎなかったんだ! だったら勉強に費やす時間をもっと、もっと! 亜矢子と一緒にいる時間に充てれば良かったんだ! 俺はなぜ! あんな無駄な時間を!」

 すべてを話し終えたとき、晃は叫んでしまっていた。周りの人間が一斉に晃に注目したが、幸之輔が睨むと皆すぐに視線を逸らした。

「……ふむ。恋人を救えない貴方は目的を失った、ということですね? 呆然とした医師が現場に立っているのは迷惑ですから、医師としての仕事はきっぱりと辞めて別の人生を歩いてみては? 何も悪いことじゃない」

 幸之輔の適当にも聞こえる助言に、頭に血が上った。

「そんな簡単に言わないでくれよ! 俺には担当している患者さんだっているんだ! 自分勝手な理由で辞めるわけにはいかないんだよ!」

「道徳心が先生の決断の邪魔をするというのなら、貴方の決断を後押しする物語を俺が作ってみせましょう」

「……何を言っているんだ、君は。俺を慰めるための、都合のいい物語でも書いてくれるっていうのかい?」

 頭が良すぎるのか変わり者なのか晃には判断がつかないが、幸之輔の言っていることがどうにも理解できず、皮肉めいた口を利いてしまった。

「慰める? まさか。俺は自分の得になることしかしませんよ。従って、医師としての決意も誇りも揺らいだ貴方に手を差し伸べるメリットは、俺にとって一つもない」

 バッテリーの上がった晃を救ってくれたときとはまるで別人のように、幸之輔は冷たく嘲笑した。

「……もっとも、優しい寧々はそう思っていないようですがね。寧々は今でこそ通院せざるを得ない精神状態ではありますが、基本的に人当たりが良く優しい子ですから。目の前で死にそうな顔をしている貴方を、放って置けなかったのでしょう」

「……別に、訊いていないが」

 幸之輔の寧々への偏愛ぶりを受け止める余裕は、今の晃にはなかった。

「おっと、失礼しました。……さて。先生は堀辰雄著の『風立ちぬ』という小説をご存じですか?」

「……ああ。学生時代に読んだよ」

「なら話は早いですね。この有名な恋愛小説の結末は、ヒロインである節子の死です。簡単に纏めると、主人公は節子と出会い、恋に落ち、婚約し、そして病気にかかり死に向かう節子とできるだけ一緒にいようと試みるも、最後には亡くなってしまう節子に主人公が想いを馳せる物語……つまり、今の貴方にとても近い話なのです」

「おい! 馬鹿なことを言うな! 亜矢子は死にはしない!」

「ああ、表現に失礼がありましたね。申し訳ございません。ですが……」

 幸之輔は鞄から一冊の文庫本を、胸ポケットから一本の万年筆を取り出した。

「この『風立ちぬ』を改変することで、貴方の考え方も変わると思いますよ」

 幸之輔は本文最後の方の文字を消すように、二重線を引いていった。

 あまりに予想外な行動に愕然として幸之輔を見ていると、彼は何ページにも渡ってその奇怪な行動を続けた。

 ようやく終わったかと思えば、今度は文字を書き出した。晃の位置からはそれを文章として読み取ることは難しかったが、幸之輔の真剣な表情に引きずられ、問いかけることもせずただ黙って見ていた。

 どれくらい経っただろうか。動かし続けていた幸之輔の手が、やっと止まった。

「……さあ、見ていてください。貴方に近い境遇の男が、どんな結末を選んだのかを」

 そう言って幸之輔が万年筆のキャップを閉めた瞬間、文庫本から光が溢れ出した。

「うわあ!」

 思わず声が出てしまった。光はあっという間に店全体に広がり、たくさんの映像となって晃たちの座るテーブルを囲んだ。