亜矢子が口を動かすのが辛そうだから、という言い訳で晃は逃げるように病室を出た。

 それからどうやってここまで来たのかは覚えていないが、足取りも覚束ないまま辿り着いていたのは、院内にある中庭のベンチだった。

 リハビリのために日光浴している患者や、見舞い客と一緒に会話を楽しむ患者の姿が何人か見られた。一時間前にこの光景を見たならば、彼らの一日でも早い回復を願っただろう。

 しかし今は、なんの感情も抱けなかった。亜矢子を救えないとわかった今となっては、自分が医者であることすらどうでも良かった。

 このまま白衣を脱ぎ捨てて帰ってしまおうかと投げやりになっていると、

「……あの、三島先生、顔色が優れませんが、大丈夫でしょうか……?」

 うつむいていた晃が顔を上げると、そこには栗色の長髪を靡かせた美少女が立っていた。
少女は全体的に色素の薄い印象を抱かせるが、その大きな瞳には吸い寄せられてしまうような引力があった。

「旭……寧々ちゃん……」

「はい、そうです。先生方にはいつもお世話になっております」

 寧々はそう言って深々と頭を下げた。寧々をこんなに近くで見たのは初めてだが、幸之輔の懸念も当然だなと納得の美貌を持った少女だった。

「……大丈夫だよ。少し風に当たりたいだけだから、放っておいてくれ」

 だがその美しさを持ってしても、晃の深く沈んだ心を慰めるまでには至らなかった。

 寧々と会話をするのが面倒で、晃は低い声色と冷たい態度で彼女を遠ざけようとした。

「しかしどう見ても……やはり、お医者様を呼んでまいります」

 寧々は晃の思惑通りに動いてくれなかった。だから、医者を呼ぼうと立ち去らんとした寧々の腕を、晃は思わず掴んでしまった。

 彼女に接触したことが同僚の誰かに見られていたら、誤解を招いて大変な騒ぎになると思考が追いついたときには後の祭りだったが、言い訳をする気力すら湧かない程、投げやりになっていた。

「気分は悪くないんだ。頼む、放っておいてくれないか……」

「……しかし、このまま放っておいたら先生、倒れてしまいそうで……見過ごせません。何かあったのなら、わたしに話してくれませんか? 思いつめたままでいるよりは、少しは楽になれるのではないかと存じます」

 晃にもプライドがある。成人し、自分の力で生計を立てている男として、寧々のような少女に胸の内を吐露するなど到底できるはずがなかった。

「……いや、少しプライベートのことで凹んじゃっただけで、本当になんでもないんだ。大の男として、君みたいな少女に甘えるなんてできないよ。さあ、俺も仕事に戻るから、君も遅くなる前に帰りなさい」

 精一杯強がった声を出したものの、無理があった。寧々の顔すら見られずに暗い声で放った言葉は、ただ彼女を追い払うために適当に言ったとしか思われないだろう。

 晃の心中を察したのか寧々は何も言わなくなったが、立ち去ってもくれず、晃の隣に腰掛けた。

 ふたりの間に、しばし沈黙が流れた。

「……先生は、旭幸之輔をご存じでしょう? わたしでは力になれないのなら、兄に相談してみてはいかがでしょうか? 人の気持ちを察することに疎い兄なので、もしかしたら先生を傷つけるかもしれませんが、冷静で理論的な人です。きっと何か先生に打開策を講じるか、もしくは気持ちの落としどころを見つけるはずです」

 寧々はこの場を離れる別れの挨拶ではなく、晃の力になろうという提案を口にした。

 普段の晃だったら、軽く流したであろう。しかし追い詰められていた晃は、旭幸之輔という単語に不思議な説得力を感じた。彼なら本当になんとかしてくれるのではないかと思ったのだ。

 晃の無言を了承と捉えたのか、寧々は立ち上がった。

「今夜先生にお会いするように、兄に伝えておきます。お仕事は何時頃終わりますか?」

「……今夜は当直だから帰れないよ。今度彼に会ったら、話してみようかな」

「では、これをお渡しします」

 寧々は手帳に何かを書いて破り、晃に差し出した。紙に書かれていたのは、携帯電話の電話番号だった。

「わたしの電話番号です。先生がご帰宅の際にご連絡をいただければ、兄が伺いますので」

「……いいのかい? お兄さんをそんな家来みたいな扱いして……彼が従うとは思えないけれど」

「いえ、兄はわたしの言うことなら聞いてくれますから」

 旭家は寧々に対して過保護だと思っていたが、極度に甘やかしてもいるようだ。

「……わかった、相談させてもらう。ありがとう。……やっぱり、君にとって幸之輔くんは自慢のお兄ちゃんなんだね」

 何の気なしに口にした言葉を聞いた寧々は、表情を強張らせた。引っ掛かるものを感じた晃がその表情の意味を問おうとすると、

「――はい。兄はわたしにとって、尊敬できる自慢の肉親です」

 寧々は優雅な微笑みを浮かべた。だがその表情とは裏腹に、まるで台本を読んでいるかのような演技っぽさが気になった。

 晃自身に余裕がなかったこともあり、寧々はどうして精神科に通院しているのか――寧々の心の闇について、深く考えることはしなかった。



 休憩時間を大幅にオーバーして持ち場に戻った晃は、丸山看護師と上司の内田にこっぴどく叱られた。

 どうしてもやる気が起きてこないが、命を預かる現場にいる以上、一旦亜矢子のことは忘れて患者と真摯に向き合わなくてはと無理に自分を鼓舞した。

 しかし、医者という仕事はそんなに甘いものではなかった。

「ちょっと先生、痛い!」

 不快な気持ちを露にした女性の声で、晃は現実に引き戻された。

 晃の目の前には年配の女性が眉間に皺を寄せて座っていて、その人の腕には注射の針が刺さっていた。針の先は的外れな部分に深く突き刺さっていたのだが、ぞっとしたのは注射に失敗したからというよりも、注射をしているという意識がなかったことだった。

「も、申し訳ございません!」

 動揺した晃は乱暴に針を抜いてしまい、女性は再び悲鳴をあげた。

「痛いんだよ! 全く、こんなに下手な先生は初めてだね! もうあんたにはやってほしくない! 他の誰かと代わって!」

 晃はひたすらに謝り倒したが、女性が許してくれることはなかった。

 その後も晃の注意力は散漫で、患者のカルテを忘れる、患者の質問に対して心ない答えを口にする、看護師への指示を間違える等、散々たるものだった。

「もういい、三島。帰れ」

 十八時を回った頃、内田は溜息を吐いたあと、冷徹に晃に告げた。

「……す、すみません。ちゃんと仕事に集中します!」

「三島。今までの忙しさを思えば、お前のミスを大目に見てやりたい気持ちはある。だがな、お前のいる場所は病院なんだ。医者っていうのは、どんな状況でも患者を最優先する仕事なんだよ。お前も覚悟を持って選んだ職業だろう? 白衣を着ている以上、そのことを忘れるな。今日は俺が残るから、早く帰って寝ろ。疲れを取ってこい」

 温厚かつ熱心な内田は、患者からも看護師からも慕われる晃の尊敬する医師である。そんな彼にこれ程まで厳しい説教を受けたのは、研修生として配属されてから初めてのことだった。

「……申し訳ございません……よろしくお願いします」

 本当ならば、帰れと言われようとも必死にやる気を見せなければならなかった。いつもの晃なら必死に謝って食い下がっただろうが、今日の晃には弁解をする気力など湧かなかった。

 晃は頭を下げて、すべてを投げ出す選択をしたのだった。

 院内の白い壁に囲まれながら、晃はまるで自分が迷宮に迷い込んだように思った。