◇
翌日、出勤直後に晃は衝撃的なニュースを聞かされた。
「え!? 小松先生が異動されるんですか!?」
「そうなの、医局から急に通達があったみたいでね……新しい先生がくるまで早くて一ヶ月はかかるらしいから、それまで皆で力を合わせて頑張りましょうね」
頑張りましょうと言った丸山看護師の表情は疲れていた。ただでさえ毎日人手不足を訴えている現状だというのに、内科の小松先生が異動とあれば、ただでさえ少ない休みが一切なくなることは容易に想像できる。
「は、はい……ガンバリマス……!」
晃は顔を引きつらせながら笑った。
晃が落胆しようとも、患者には全く関係のないことだ。その日も晃は身を粉にして働き、午後休憩のタイミングでふらふらの体を引きずって、なんとか亜矢子の病室に顔を出した。
亜矢子は晃の姿を認めると穏やかに微笑んだ。その笑顔を見ることが、晃にとって何よりの栄養剤みたいなものだった。
「亜矢子、具合はどうだ?」
「わたしは調子いいよ。わたしより、晃の方が疲れてるんじゃない? 顔色、よくないみたいだけど……」
「ん? 平気平気! それよりさ、聞いてくれよ。昨日、あの旭くんと話をしたんだ」
「え! すごい! いいなあ、どんな子だったの?」
亜矢子も当院の患者として例に漏れず、旭幸之輔の存在を知っている。
「いやー、とても年下とは思えない貫禄だったよ。あと、妹さんに対してすごく過保護で驚いた」
「へえーそうなんだ。わたしも話してみたいなあー」
羨ましそうに話す亜矢子の顔を見ていたら、晃の胸に一抹の不安が過ぎった。
「……まさか、旭くんのこと好きになったりしないよな?」
「それはわかんないよー? 格好良すぎて、すぐにぞっこんになっちゃう可能性もあるかもね?」
「……医者の権限を使って、ふたりの接触を回避させてやる」
「ふふ、冗談だよー。わたしには晃がいるもんね」
そう言って亜矢子は笑った。月並みな言葉しか出てこないが、晃は亜矢子の笑顔が何よりも好きだ。この笑顔をずっと見ていられるなら、なんでもできると思った。
「でも確かに、旭くん格好いいからなあ。よし! 亜矢子が心奪われないように、俺が亜矢子の病気を治して惚れ直させるからな!」
「……うん」
晃が目標を口にすると、いつもなら「ありがとう、頑張ってね」と言ってくれる亜矢子は、晃からそっと目を逸らした。
「亜矢子? どうした、気分が悪いのか?」
「……ううん。そんなことないよ?」
「そっか、ならいいんだけど」
時計を見ると、休憩時間は残りわずかだった。
「そろそろ戻るよ。……あ、そうだ。急なんだけど、内科の小松先生の異動が決まったんだ。人手不足でこれからもっと忙しくなると思うから、もしかしたら顔を出す機会が減るかもしれない」
「そっかあ……うん、ここが踏ん張りどころだね。わたしのことは後回しでいいから、目の前の患者さんに一生懸命になってね」
「わかってる。亜矢子のことを後回しって言い方はしたくないけど、患者さんには今まで以上に真摯に対応するつもりだよ」
「うん、頑張ってね。応援しているから」
理解のある彼女で本当に良かった。自分よりも他人を大切にするその優しさも、亜矢子の魅力の一つだ。
いつものように亜矢子の手を握った。今までなら微力でも握り返してくれたその手は、今日は晃に握られるがままだった。
やはり心のどこかで、会える時間が減ることに落胆する気持ちがあるのだろうか。
晃はそんなことを思いつつ、亜矢子のためにももっと頑張ろうという気持ちを奮い立たせて、病室を後にした。
小松先生の異動後、晃の日常は想像以上に目まぐるしく変化した。
亜矢子の顔は一日一回、三分も見られればいい方で、あとはひたすら仕事と勉強の毎日だった。
忙しいという文字通り心を亡くしかけたときもあったが、患者さんに「ありがとう」と言われることで晃の心は救われた。
元々、恋人の存在がきっかけで医師を目指したくらいには情に厚い男である。感謝されればもっと患者のためにと仕事にのめり込み、文句を言われれば自分の腕のなさを反省して、より多くの勉強と実践を重ねた。
それは医者として至極真っ当で、理想的な在り方だった。
医者としての晃の毎日は、客観的に見れば充実しているものだった。
◇
目の前のことに無我夢中で、時間の感覚もないまま時は流れていた。
「もうすっかり秋ですねえ」
「本当ですね。これから寒くなってくると、また患者さんが増えてきますよ」
晃は看護師たちの会話で季節の移り変わりに気づかされた。小松先生が異動してからもう、一ヶ月が経過していたようだ。
忙しさのあまり、亜矢子に会いに行けたのも最初の一週間だけだった。
彼女の担当医である梶先生が「矢野さんの症状に変化はないよ。何かあったら僕から報告するから、彼女のことは僕に任せて君は目の前の仕事に取り組みなさい」と言ってくれたこともあり、亜矢子の病室から足が遠ざかっていた。
だがようやく医師が一人増えて、晃にかかる負担が減りつつあった。久しぶりに亜矢子の顔が見たいと思った晃は、休憩時間を利用して彼女の病室へ足を運んだ。
晃の好きなあの優しい笑顔に会えることを期待して、一○七号室の扉を開いた。
――だが、そこで晃が見たのは、目を疑う亜矢子の姿だった。
亜矢子の手足はますます細くなっていて、頬の筋肉もより衰えていた。
どう見ても、症状は悪化しているとしか思えない。
「……わたし、もう、すぐ、かいわ……が、できなく、なる」
愕然とする晃に、亜矢子がたどたどしく言葉を紡いだ。
彼女の発声は以前よりもずっとゆっくりで、活舌の悪さも際立っている。言葉を発するのが困難になるという、ALS患者の末期的症状が現れていた。
「そんな……なんで……俺、梶先生から何も聞いてない……」
「わたしが、くちどめして、おいたの。かんじゃの、いしって、ゆうせん、される、べきでしょう? ここさいきん、きゅうげきに、しんこうが、すすんで、らしくって、こきゅうきの、とりつけも、じかんの、もんだい、だって」
人工呼吸器の取り付けは、自力で呼吸が出来ないことを意味する。確実にやってくる無慈悲な未来の訪れを受け入れているのか、動揺を隠し切れない晃とは対照的に、亜矢子は晃の顔をしっかりと見据えていた。
「ずっと、がまん、してた、けど……こえが、だせなく、まえに、どうしても、あきらに、いいたい、こと、あるの。わがまま、いうけど、わらって、ながしてね? こんな、いうの、いちど、にするから」
亜矢子の瞳はゆっくりと涙を溜めていった。声を出せば零れてしまうのを懸念してか、なかなか言い出さずにいた亜矢子の手を晃は握った。
ぞっとする程か弱く、力のない手だ。それなのに、震えているのは晃の方だった。
亜矢子は深呼吸をして唇を開いた。
「……あきら、わたしの、ために、ずっと、がんばって、しってる。わかってる。でも、それでも……べんきょう、の、じかんを、いっしょに、すごしたかった。おしゃべり、したかった。ふつうの、デートを、わたしも、したかった、んだよ」
頭上から、大きな大きな岩を落とされたような気分だった。
今まで亜矢子のためにしてきた努力や思い出をすべて否定されたような、絶望という言葉が当てはまる心境に陥った。
「……俺は、お前のためを思って……」
「うん、だから、いっかい、って、まえおき、した。ほんと、あきら、には、かんしゃ、してる」
長い間亜矢子の病気を治そうと勉強してきた晃には、いくら晃が亜矢子の手を握ったとしても、もう亜矢子が握り返してくれることはないとわかってしまった。
晃が治療法を見つけられるまで、亜矢子の命は持たない。
「……だいすき、だよ、あきら」
亜矢子の愛の言葉も、素直に受け取ることができなかった。
その後、亜矢子と何を話したのかはよく覚えていない。
亜矢子がたった一度だけ口にしたあの言葉だけが、脳裏を巡って離れなかった。
翌日、出勤直後に晃は衝撃的なニュースを聞かされた。
「え!? 小松先生が異動されるんですか!?」
「そうなの、医局から急に通達があったみたいでね……新しい先生がくるまで早くて一ヶ月はかかるらしいから、それまで皆で力を合わせて頑張りましょうね」
頑張りましょうと言った丸山看護師の表情は疲れていた。ただでさえ毎日人手不足を訴えている現状だというのに、内科の小松先生が異動とあれば、ただでさえ少ない休みが一切なくなることは容易に想像できる。
「は、はい……ガンバリマス……!」
晃は顔を引きつらせながら笑った。
晃が落胆しようとも、患者には全く関係のないことだ。その日も晃は身を粉にして働き、午後休憩のタイミングでふらふらの体を引きずって、なんとか亜矢子の病室に顔を出した。
亜矢子は晃の姿を認めると穏やかに微笑んだ。その笑顔を見ることが、晃にとって何よりの栄養剤みたいなものだった。
「亜矢子、具合はどうだ?」
「わたしは調子いいよ。わたしより、晃の方が疲れてるんじゃない? 顔色、よくないみたいだけど……」
「ん? 平気平気! それよりさ、聞いてくれよ。昨日、あの旭くんと話をしたんだ」
「え! すごい! いいなあ、どんな子だったの?」
亜矢子も当院の患者として例に漏れず、旭幸之輔の存在を知っている。
「いやー、とても年下とは思えない貫禄だったよ。あと、妹さんに対してすごく過保護で驚いた」
「へえーそうなんだ。わたしも話してみたいなあー」
羨ましそうに話す亜矢子の顔を見ていたら、晃の胸に一抹の不安が過ぎった。
「……まさか、旭くんのこと好きになったりしないよな?」
「それはわかんないよー? 格好良すぎて、すぐにぞっこんになっちゃう可能性もあるかもね?」
「……医者の権限を使って、ふたりの接触を回避させてやる」
「ふふ、冗談だよー。わたしには晃がいるもんね」
そう言って亜矢子は笑った。月並みな言葉しか出てこないが、晃は亜矢子の笑顔が何よりも好きだ。この笑顔をずっと見ていられるなら、なんでもできると思った。
「でも確かに、旭くん格好いいからなあ。よし! 亜矢子が心奪われないように、俺が亜矢子の病気を治して惚れ直させるからな!」
「……うん」
晃が目標を口にすると、いつもなら「ありがとう、頑張ってね」と言ってくれる亜矢子は、晃からそっと目を逸らした。
「亜矢子? どうした、気分が悪いのか?」
「……ううん。そんなことないよ?」
「そっか、ならいいんだけど」
時計を見ると、休憩時間は残りわずかだった。
「そろそろ戻るよ。……あ、そうだ。急なんだけど、内科の小松先生の異動が決まったんだ。人手不足でこれからもっと忙しくなると思うから、もしかしたら顔を出す機会が減るかもしれない」
「そっかあ……うん、ここが踏ん張りどころだね。わたしのことは後回しでいいから、目の前の患者さんに一生懸命になってね」
「わかってる。亜矢子のことを後回しって言い方はしたくないけど、患者さんには今まで以上に真摯に対応するつもりだよ」
「うん、頑張ってね。応援しているから」
理解のある彼女で本当に良かった。自分よりも他人を大切にするその優しさも、亜矢子の魅力の一つだ。
いつものように亜矢子の手を握った。今までなら微力でも握り返してくれたその手は、今日は晃に握られるがままだった。
やはり心のどこかで、会える時間が減ることに落胆する気持ちがあるのだろうか。
晃はそんなことを思いつつ、亜矢子のためにももっと頑張ろうという気持ちを奮い立たせて、病室を後にした。
小松先生の異動後、晃の日常は想像以上に目まぐるしく変化した。
亜矢子の顔は一日一回、三分も見られればいい方で、あとはひたすら仕事と勉強の毎日だった。
忙しいという文字通り心を亡くしかけたときもあったが、患者さんに「ありがとう」と言われることで晃の心は救われた。
元々、恋人の存在がきっかけで医師を目指したくらいには情に厚い男である。感謝されればもっと患者のためにと仕事にのめり込み、文句を言われれば自分の腕のなさを反省して、より多くの勉強と実践を重ねた。
それは医者として至極真っ当で、理想的な在り方だった。
医者としての晃の毎日は、客観的に見れば充実しているものだった。
◇
目の前のことに無我夢中で、時間の感覚もないまま時は流れていた。
「もうすっかり秋ですねえ」
「本当ですね。これから寒くなってくると、また患者さんが増えてきますよ」
晃は看護師たちの会話で季節の移り変わりに気づかされた。小松先生が異動してからもう、一ヶ月が経過していたようだ。
忙しさのあまり、亜矢子に会いに行けたのも最初の一週間だけだった。
彼女の担当医である梶先生が「矢野さんの症状に変化はないよ。何かあったら僕から報告するから、彼女のことは僕に任せて君は目の前の仕事に取り組みなさい」と言ってくれたこともあり、亜矢子の病室から足が遠ざかっていた。
だがようやく医師が一人増えて、晃にかかる負担が減りつつあった。久しぶりに亜矢子の顔が見たいと思った晃は、休憩時間を利用して彼女の病室へ足を運んだ。
晃の好きなあの優しい笑顔に会えることを期待して、一○七号室の扉を開いた。
――だが、そこで晃が見たのは、目を疑う亜矢子の姿だった。
亜矢子の手足はますます細くなっていて、頬の筋肉もより衰えていた。
どう見ても、症状は悪化しているとしか思えない。
「……わたし、もう、すぐ、かいわ……が、できなく、なる」
愕然とする晃に、亜矢子がたどたどしく言葉を紡いだ。
彼女の発声は以前よりもずっとゆっくりで、活舌の悪さも際立っている。言葉を発するのが困難になるという、ALS患者の末期的症状が現れていた。
「そんな……なんで……俺、梶先生から何も聞いてない……」
「わたしが、くちどめして、おいたの。かんじゃの、いしって、ゆうせん、される、べきでしょう? ここさいきん、きゅうげきに、しんこうが、すすんで、らしくって、こきゅうきの、とりつけも、じかんの、もんだい、だって」
人工呼吸器の取り付けは、自力で呼吸が出来ないことを意味する。確実にやってくる無慈悲な未来の訪れを受け入れているのか、動揺を隠し切れない晃とは対照的に、亜矢子は晃の顔をしっかりと見据えていた。
「ずっと、がまん、してた、けど……こえが、だせなく、まえに、どうしても、あきらに、いいたい、こと、あるの。わがまま、いうけど、わらって、ながしてね? こんな、いうの、いちど、にするから」
亜矢子の瞳はゆっくりと涙を溜めていった。声を出せば零れてしまうのを懸念してか、なかなか言い出さずにいた亜矢子の手を晃は握った。
ぞっとする程か弱く、力のない手だ。それなのに、震えているのは晃の方だった。
亜矢子は深呼吸をして唇を開いた。
「……あきら、わたしの、ために、ずっと、がんばって、しってる。わかってる。でも、それでも……べんきょう、の、じかんを、いっしょに、すごしたかった。おしゃべり、したかった。ふつうの、デートを、わたしも、したかった、んだよ」
頭上から、大きな大きな岩を落とされたような気分だった。
今まで亜矢子のためにしてきた努力や思い出をすべて否定されたような、絶望という言葉が当てはまる心境に陥った。
「……俺は、お前のためを思って……」
「うん、だから、いっかい、って、まえおき、した。ほんと、あきら、には、かんしゃ、してる」
長い間亜矢子の病気を治そうと勉強してきた晃には、いくら晃が亜矢子の手を握ったとしても、もう亜矢子が握り返してくれることはないとわかってしまった。
晃が治療法を見つけられるまで、亜矢子の命は持たない。
「……だいすき、だよ、あきら」
亜矢子の愛の言葉も、素直に受け取ることができなかった。
その後、亜矢子と何を話したのかはよく覚えていない。
亜矢子がたった一度だけ口にしたあの言葉だけが、脳裏を巡って離れなかった。