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 亜矢子の見舞いも終わりいよいよ帰ろうと病院を出ると、旭幸之輔が女性と話しながら歩いているのを見た。

 あの旭幸之輔は、一体どんな女を連れているのだろう? 好奇心に勝てず、晃は気づかれないようにふたりの様子を盗み見た。

 幸之輔と話している女は、あどけない少女の可愛らしさと、大人になりかけの色気の両方を身に纏った、着物のよく似合う絶世の美女であった。

 さすが旭幸之輔、連れている女も良い女だなと思いつつ駐車場に向かった晃は、車を見てぎょっとした。ライトが点けっぱなしになっていたのだ。

 慌てて運転席に座ってエンジンをかけようとしたが、何度キーを回しても、案の定かからなかった。

「うわあ~……マジかよ……誰か気づいていたら、教えてくれればいいのにー……」

 バッテリーが上がってしまったのだ。今からJAFを呼んで助けてもらうとしても、時間も金もかかるのは間違いない。一分でも早く帰りたいというのに、疲れた体に酷い仕打ちだ。

 大きな溜息を吐いて車を出ると、

「やはり、バッテリーが上がっていましたね。念のため車を呼んでいて正解でした」

 そこには幸之輔が立っていた。彼の斜め後ろには晃が見た着物美人もいて、晃を見て一礼した。よく見れば彼女の瞳の色は灰色であり、着物だから疑いもしなかったが純日本人ではないようだった。

「安心してください、三島先生。もう三分もすれば、俺の家からブースターケーブルを乗せた救援車が到着します。少しお時間はいただきますが、そこはご勘弁を」

「え? な、なんで……?」

「無人の車にライトが点いていれば、バッテリーが心配になりますから。普段はここまでしないのですが、ここは職員用の駐車場です。妹が世話になっている病院の先生には、出来るだけ便宜を図りたいですから」

「あ、ありがとう。本当に助かるよ!」

 幸之輔は優しくて実にしっかりした青年だと、晃は感心した。

「妹さんに関することだけはお優しいですね? やりすぎて気持ち悪いとも思いますけれど」

 清楚な容姿からは想像もできない単語が彼女の口から零れ落ちるのを聞いて、晃は愕然とした。

「損得を考えて行動した方が効率がいいのは、世の中の条理だ。当たり前だろう?」

 幸之輔の言葉にも耳を疑った。彼の性格に難があるという噂は、どうやら間違いではなさそうだ。

「ま、まあまあふたりとも、喧嘩はしないで」

「……喧嘩? どこがです? 俺たちはいつも通りですよ」

「お見苦しいところを見せてしまい、申し訳ございません先生。彼の口が悪いのがすべての元凶なのです」

 晃は苦笑いを浮かべた。

「……えーっと……ふたりは気心の知れた仲みたいだけど、もしかして恋人同士だったりするのかな?」

 救援車が来るまで場を持たせようと明るい話を振ったつもりだったのだが、晃の質問に気分を害したのか、幸之輔は露骨に嫌な顔をしてみせた。

「まさか。俺はもう少し女を見る目はあると思いますよ」

「先生、わたしの名前はエイミーといいます。どうかこの男を診てやってくださいな。目も性格も非常に悪いみたいですので」

「君は口も悪いようだがね」

「あら。お互い様という言葉をご存じですか?」

 自分の馬鹿な質問のせいで、険悪な雰囲気を作り出してしまった。何か平和で楽しい話題はないかと頭を捻っていると、

「ところで、先生が医者を目指した理由が恋人の存在だというのは、本当ですか?」

「え!? ど、どうしてそれを!?」

 幸之輔から予想もしていなかった質問を受けて、変な声が出た。

「何度も通院しているうちに、自然と知りました。有名な話ですよね? この病院で知らない関係者はいないのではないですか?」

 晃は頭を抱えた。飲み会で先輩たちに話したことはあったが、まさかこんなところにまで話が広がっているとは。
人の口に戸は立てられぬという諺が正しいことを、身をもって知った。

「ま、まあ、うん、そうだね」

「あら、素敵なお話ですね。わたしもぜひお話を伺いたいですわ」

 恥ずかしいから濁して話を逸らしたかったのだが、そうはいかないようだ。いずれにせよ、救援者が来るまで時間がある。

「じゃあ……つまらない話なんだけど、退屈しのぎに聞いてくれる? 亜矢子……あ、俺の彼女の名前ね。亜矢子とは中学校のときから付き合っているから、もう十年以上一緒にいるんだ」

「とても長いお付き合いをされているのですね。彼女さんのことは、今でも愛していらっしゃるのでしょう?」

「う、うん、なんか恥ずかしいな」

 エイミーがあまりに率直に訊いてくるものだから、晃は年甲斐もなく赤面してしまった。

「俺たちが高校三年生のとき、亜矢子が筋萎縮性側索硬化症を発症してね。君たちはこれがどんな病気かわかるかい?」

「通称ALS。神経変性疾患で、筋肉の萎縮、筋力低下が主な症状として現れる病気ですね?」

「さすが旭くんだね、正解だ。若いうちに発症すると進行が早いのが通例なんだけど、奇跡的に亜矢子は進行が遅くてね。症状はまだ運動障害だけなんだ」

 運動障害の他にも、嚥下障害や、言葉を話すことが困難になるといった症状がある。進行が進むと、自力で体を動かすことはおろか、呼吸をすることさえ難しくなる難病である。

「現在治療法がない病気だって知った俺は、すぐに進路希望の変更をしたよ。俺、根が単純だからね。俺が亜矢子の病気を治すんだって、張り切ったんだ。高校三年生から医学部を目指すなんて、周りには無謀だって馬鹿にされたよ。でも死ぬ気で勉強して、なんとか二年の浪人だけで医学部に入ったんだ」

「それなら、現場に立つ臨床医ではなく、治療法を模索する研究医になった方が、近道ではないですか?」

「いや、ALSと戦う人たちと一緒に頑張りたいって思ったし、現場に立つ方が俺の性に合ってるよ。今でも毎日勉強漬けだし仕事も忙しくて大変なんだけど、亜矢子のためを思えば頑張れるんだよね」

 そこまで話した後で、晃は更に赤面した。……高校生相手に何を語っちゃっているんだ、俺は。

「ま、まあそんなところだな! まだまだペーペーの研修医なんだけどさ!」

「先生の夢が叶うように、わたしも心から応援いたしますわ」

 話が終わったタイミングを見計らったように、ようやく幸之輔が呼んだ救援車が到着し、晃の車にケーブルを繋ぎ始めた。心底助かった思いだ。もし幸之輔がいなかったらと思うと、手間と時間を想像しただけで頭が痛くなる。

「旭くん、本当にありがとう。寧々ちゃんの担当医の山田先生にも、俺が旭くんに助けられたことを伝えておくよ。寧々ちゃんにとって君は自慢のお兄さんだろうし、山田先生から武勇伝を聞いたら、寧々ちゃんも喜ぶよね」

「あら、三島先生が直接寧々さんに伝えてあげればいいのに」

 エイミーが不思議そうに首を傾げた。

「あ、うん。他の患者さんなら、コミュニケーションを取るのは大切だよ。でも寧々ちゃんだけは例外で、たとえ医師でも男なら緊急事態以外は寧々ちゃんに話しかけてはいけないって、旭家から言われているルールがあるんだ。だから彼女の担当医や看護師は、必ず女性なんだ。男だと、好意を持つ可能性が否定できないからね」

「それはそれは……大変面倒ですね、心中お察しします。旭家はいわゆる、モンスターペアレントに該当する存在ですね」

 エイミーは晃に同情の目を向けた。

「なにを言っている。寧々の可愛さを持ってすれば、当然の対応だろう? 治療のために通っている病院で寧々の心にストレスを増やされては、かなわないからな」

 過保護な愛情を少しも迷惑だと考えていない幸之輔と、そんな彼に明らかに引いているエイミーの表情を見比べて、晃はつい噴き出してしまった。

「ところで、旭くんはどうしてこんな時間に病院にいたんだい? 外来の時間はとっくに終わっているし、寧々ちゃんの付き添いってわけではないでしょ?」

「……まあ、少し。私事で人に会う用事がありましてね」

「それって、だ……」

 幸之輔とプライベートで会う人物は誰か気になって訊こうとしたとき、救援車の方から「幸之輔様、終わりましたー!」という声が聞こえた。

「終わったようです。それでは、俺たちはここで失礼します。三島先生、毎日お忙しいとは存じますが、どうかお体をご自愛ください」

「あ、本当に助かったよ。どうもありがとう」

 晃が頭を下げると幸之輔は救援車を引き上げさせ、エイミーと共に去って行った。

 車で帰らないのかと疑問に思ったが、ようやく帰れるという喜びが優先してすぐに忘れてしまった。車に飛び乗った晃は、車内が綺麗に清掃されているだけでなく、差し入れのドリンクまで置いてあることに驚愕した。

「……後で高い請求がきたりしないよな……?」

 JAFにはない旭家のサービスに、感動と不安を覚えた。