東京都内にある病院内で、ひとりの研修医が日々奮闘していた。
「三島先生、これお願いします」
「はい、ありがとうございます」
看護師から渡されたカルテを、三島晃は疲れた顔で受け取った。
総合病院の研修医が激務だという話は、医学部在学中からよく聞かされていた。わかっていたはずだったのに、実際に現場に入ってみると噂以上であることを体感した。
勉強に明け暮れた学生時代からの長い付き合いになる隈を浮かべながら、晃は大きなあくびをした。
「やだ、三島先生すごいあくびね。男前が台無しよ? ちょっとコーヒーでも買ってきてあげるわ」
そう労ってくれたのは、ベテランの丸山看護師だ。
「あ、わたし受付に行く用事があるので、コーヒーならついでに買ってきますよ」
そう手を挙げてくれたのは、ミーハーな金子看護師だ。
そもそも、コーヒーなら自動販売機で買わなくても、給湯室にインスタントが常備してあるから飲むことができる。それなのに買って来ると申し出てくれる彼女たちの下心を、晃は見抜いていた。
今日は金曜日。そして十七時半から十八時の間の、この時間帯。
そろそろ彼が病院に顔を出す頃なのだ。
「おふたりとも、お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です。眠気覚ましに、自分で行ってきますから」
晃の返答に、看護師たちはわかりやすく残念そうな顔をした。
一階に降りて外の空気を吸った晃が帰ってくると、女だらけの人だかりがあった。
彼女たちの視線は皆、中心を見つめている。視線を追った晃は予想通り、看護師たちのお目当ての人物を発見した。
「いつもお世話になっております。これ、皆様で召し上がってください」
「え、あ、はい! ありがとうございます! い、頂きます!」
個人宛で頂いたわけではないだろうに、若い看護師の頬が瞬時に桃色に染まるのを見てしまった。若いといっても社会人の女が、高校生男子に心揺さぶられているのを見るのは、どうにも居心地が悪い。
だが相手が旭幸之輔なら仕方のないことかもしれないなと、晃はひとり頷いた。
この病院で幸之輔の存在を知らない人間はいない。眉目秀麗、成績優秀、旭出版の跡取り息子という、肩書きだけで晃とは別世界の人間である。
性格は良くないという噂を耳にすることも多いが、病院で彼の姿を見る限り、そんな噂は信じられないくらいの好青年である。
ただそれは、妹が通院しているから猫を被っているのかもしれないが。
彼の妹、旭寧々が当院の精神科に通院していることは、科が違ってもスタッフ一同周知している。旭家の遺伝子はどうなっているのだと神に不平等を訴えてしまいたくなる程、寧々の美貌はそこらではとても見ることのできない、完璧な代物だった。
自分が同じクラスにいたならば間違いなく授業に集中することなど不可能だろうから、生まれた時代が違って良かったと安心したくらいだ。
「さて……油を売っている暇はないな」
神経内科医を目指して医者になったといっても、それだけを学ぶわけではない。
ましてや、研修医は雑用係とも言われている。研修医一年目、睡眠時間の確保も難しい毎日を繰り返していると、疲れは溜まる一方である。
晃は背伸びをしてから眠たい目を擦って、患者たちの待つ病棟へ向かった。
業務時間が終わり白衣を脱いだ晃が真っ先に向かうのは、自宅ではない。今日も晃は神経内科の病棟に足を運び、逸る気持ちで一○七号室の扉をノックする。
「はあい、どうぞ」
高く、柔らかい声が返ってくるのを確認して扉を開けた。
「亜矢子、具合はどうだ?」
「もう、先生なんでしょ? 公私混同はダメよ? ちゃんと矢野さんって呼んで」
「いいだろ? 今は医師としてじゃなく、恋人として見舞ってるんだから」
「面会時間を守ってないのに、恋人としてとか言い訳しないの」
亜矢子は困ったように、だけど嬉しそうに笑った。
晃と亜矢子が交際をはじめてから、もう十年以上が経過していた。
人生の大半を一緒に過ごしてきた大切な彼女だ。亜矢子が患っている病気を完治させ、退院したらプロポーズをしようと晃は心に決めていた。
「体調はいいと思うわ。来週、また検査があるけどね」
「そっか。症状や結果については、また梶先生から勉強させてもらうよ」
何を隠そう、晃が医師を目指した理由が亜矢子の存在であった。やらなくてはいけない目の前の仕事だけで必死なくせに、晃には亜矢子の病気を治したいという、どうしても叶えたい目標があった。
「わかっているとは思うけど、わたしのことより、今晃が担当している患者さんのことを優先してね?」
「大丈夫、わかってるよ。でも俺が白衣を着ている理由は、お前だってことは忘れないでくれ」
「もー、晃の愛って重い!」
そう言って笑う亜矢子のひどくやせ細ってしまった手を、晃は優しく擦った。
「相変わらず白い肌だな。今度天気の良い日に、外に遊びに行こうな」
亜矢子は手足が満足に動かせないだけで、外に出て支障のある病気ではない。
「ふふ、白雪姫目指してますから。……というのは冗談で、外でデート、いいわね。でも、晃すごく忙しいから、そんな時間ないんじゃない?」
亜矢子がグリム童話の『白雪姫』が好きだという話を、晃は何度も聞かされていた。
白雪姫の、王妃に何度も騙されてしまう素直なところが愛おしく、七人の小人たちの懸命なところが可愛らしく、死んでしまった白雪姫に一目惚れした挙句、国へ連れて帰ろうとする王子の偏愛がたまらないのだと言っていた。
病気のせいで手足の運動神経が鈍り、本のページを捲くることが難しくなった今でも、亜矢子は月に一回は『白雪姫』を読もうと心がけているようだった。医師の立場から見ても、読書はリハビリも兼ねるため推奨している。
「時間っていうのは、作るものなんだよ」
「ありがと。でもさっきも言ったけど、担当している患者さんを優先してね。わたしはまだまだ元気だから」
亜矢子はそう言って、晃に包まれている手をか弱い力で動かしてみせた。
「……ねえ晃。わたしが死んでも、死体を引き取って愛してくれる?」
「おいおい、亜矢子は白雪姫じゃないし、俺は王子じゃないぞ? 第一、亜矢子は俺が死なせないんだから、そんな弱気なことを言わないでくれよ」
「はーい、ごめんなさーい」
亜矢子のためにすべての時間を勉強に費やし、医者になった。
亜矢子の病気は確かに難病だが、これで治せないなんて報われない話はないと、晃は信じて疑わなかった。
この前向きで熱い性格こそが、三島晃の特徴だった。
「三島先生、これお願いします」
「はい、ありがとうございます」
看護師から渡されたカルテを、三島晃は疲れた顔で受け取った。
総合病院の研修医が激務だという話は、医学部在学中からよく聞かされていた。わかっていたはずだったのに、実際に現場に入ってみると噂以上であることを体感した。
勉強に明け暮れた学生時代からの長い付き合いになる隈を浮かべながら、晃は大きなあくびをした。
「やだ、三島先生すごいあくびね。男前が台無しよ? ちょっとコーヒーでも買ってきてあげるわ」
そう労ってくれたのは、ベテランの丸山看護師だ。
「あ、わたし受付に行く用事があるので、コーヒーならついでに買ってきますよ」
そう手を挙げてくれたのは、ミーハーな金子看護師だ。
そもそも、コーヒーなら自動販売機で買わなくても、給湯室にインスタントが常備してあるから飲むことができる。それなのに買って来ると申し出てくれる彼女たちの下心を、晃は見抜いていた。
今日は金曜日。そして十七時半から十八時の間の、この時間帯。
そろそろ彼が病院に顔を出す頃なのだ。
「おふたりとも、お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です。眠気覚ましに、自分で行ってきますから」
晃の返答に、看護師たちはわかりやすく残念そうな顔をした。
一階に降りて外の空気を吸った晃が帰ってくると、女だらけの人だかりがあった。
彼女たちの視線は皆、中心を見つめている。視線を追った晃は予想通り、看護師たちのお目当ての人物を発見した。
「いつもお世話になっております。これ、皆様で召し上がってください」
「え、あ、はい! ありがとうございます! い、頂きます!」
個人宛で頂いたわけではないだろうに、若い看護師の頬が瞬時に桃色に染まるのを見てしまった。若いといっても社会人の女が、高校生男子に心揺さぶられているのを見るのは、どうにも居心地が悪い。
だが相手が旭幸之輔なら仕方のないことかもしれないなと、晃はひとり頷いた。
この病院で幸之輔の存在を知らない人間はいない。眉目秀麗、成績優秀、旭出版の跡取り息子という、肩書きだけで晃とは別世界の人間である。
性格は良くないという噂を耳にすることも多いが、病院で彼の姿を見る限り、そんな噂は信じられないくらいの好青年である。
ただそれは、妹が通院しているから猫を被っているのかもしれないが。
彼の妹、旭寧々が当院の精神科に通院していることは、科が違ってもスタッフ一同周知している。旭家の遺伝子はどうなっているのだと神に不平等を訴えてしまいたくなる程、寧々の美貌はそこらではとても見ることのできない、完璧な代物だった。
自分が同じクラスにいたならば間違いなく授業に集中することなど不可能だろうから、生まれた時代が違って良かったと安心したくらいだ。
「さて……油を売っている暇はないな」
神経内科医を目指して医者になったといっても、それだけを学ぶわけではない。
ましてや、研修医は雑用係とも言われている。研修医一年目、睡眠時間の確保も難しい毎日を繰り返していると、疲れは溜まる一方である。
晃は背伸びをしてから眠たい目を擦って、患者たちの待つ病棟へ向かった。
業務時間が終わり白衣を脱いだ晃が真っ先に向かうのは、自宅ではない。今日も晃は神経内科の病棟に足を運び、逸る気持ちで一○七号室の扉をノックする。
「はあい、どうぞ」
高く、柔らかい声が返ってくるのを確認して扉を開けた。
「亜矢子、具合はどうだ?」
「もう、先生なんでしょ? 公私混同はダメよ? ちゃんと矢野さんって呼んで」
「いいだろ? 今は医師としてじゃなく、恋人として見舞ってるんだから」
「面会時間を守ってないのに、恋人としてとか言い訳しないの」
亜矢子は困ったように、だけど嬉しそうに笑った。
晃と亜矢子が交際をはじめてから、もう十年以上が経過していた。
人生の大半を一緒に過ごしてきた大切な彼女だ。亜矢子が患っている病気を完治させ、退院したらプロポーズをしようと晃は心に決めていた。
「体調はいいと思うわ。来週、また検査があるけどね」
「そっか。症状や結果については、また梶先生から勉強させてもらうよ」
何を隠そう、晃が医師を目指した理由が亜矢子の存在であった。やらなくてはいけない目の前の仕事だけで必死なくせに、晃には亜矢子の病気を治したいという、どうしても叶えたい目標があった。
「わかっているとは思うけど、わたしのことより、今晃が担当している患者さんのことを優先してね?」
「大丈夫、わかってるよ。でも俺が白衣を着ている理由は、お前だってことは忘れないでくれ」
「もー、晃の愛って重い!」
そう言って笑う亜矢子のひどくやせ細ってしまった手を、晃は優しく擦った。
「相変わらず白い肌だな。今度天気の良い日に、外に遊びに行こうな」
亜矢子は手足が満足に動かせないだけで、外に出て支障のある病気ではない。
「ふふ、白雪姫目指してますから。……というのは冗談で、外でデート、いいわね。でも、晃すごく忙しいから、そんな時間ないんじゃない?」
亜矢子がグリム童話の『白雪姫』が好きだという話を、晃は何度も聞かされていた。
白雪姫の、王妃に何度も騙されてしまう素直なところが愛おしく、七人の小人たちの懸命なところが可愛らしく、死んでしまった白雪姫に一目惚れした挙句、国へ連れて帰ろうとする王子の偏愛がたまらないのだと言っていた。
病気のせいで手足の運動神経が鈍り、本のページを捲くることが難しくなった今でも、亜矢子は月に一回は『白雪姫』を読もうと心がけているようだった。医師の立場から見ても、読書はリハビリも兼ねるため推奨している。
「時間っていうのは、作るものなんだよ」
「ありがと。でもさっきも言ったけど、担当している患者さんを優先してね。わたしはまだまだ元気だから」
亜矢子はそう言って、晃に包まれている手をか弱い力で動かしてみせた。
「……ねえ晃。わたしが死んでも、死体を引き取って愛してくれる?」
「おいおい、亜矢子は白雪姫じゃないし、俺は王子じゃないぞ? 第一、亜矢子は俺が死なせないんだから、そんな弱気なことを言わないでくれよ」
「はーい、ごめんなさーい」
亜矢子のためにすべての時間を勉強に費やし、医者になった。
亜矢子の病気は確かに難病だが、これで治せないなんて報われない話はないと、晃は信じて疑わなかった。
この前向きで熱い性格こそが、三島晃の特徴だった。