◆

     泣いた赤鬼・あとがき

 小川陽路を駅まで送り届けた後、幸之輔は生温い夜風に癖毛を揺らしながら、夏の騒々しい夜をエイミーと歩いていた。

「彼女を家まで送ると言ったときは、成長したなと感心したんですけどね。遠慮されて本当に送らないのが、貴方が冷たいと言われる所以ですよ」

「成長とは保護者が使うべき言葉だ。君が使うには相応しくない」

「あら、保護者ですよ。貴方が行う改変の責任を、わたしは代償という形で負っているのですから」

 不快だが一理あると思った幸之輔は、反論はしないでおいた。

「……それにしても、対象人物に直接影響を受けるであろう物語を推測し、提案するやり方に変えて正解だったな。小川陽路と出会い彼女の胸中を聞いたのは偶然だったが、彼女が受けた刺激は大きく、とても有益なデータを得ることができた。次回は俺が対象の目星をつけて接近する。君は口出しせず、ただ俺の行動を傍観していろ」

「もちろんそのつもりですが、貴方の……」

 何かを言いかけたエイミーの体が、何重にもぶれた。

「代償が降りてきたのか?」

「……はい。今回の代償は、『大勢の人に誤解され疎まれる』……とのことです」

「『羅生門』を改変した際の代償『寿命を芥川龍之介と同じとする』は、時が来なければわからないものだからともかく、今回の代償も俺からは変化がわからないのか?」

「代償を把握し、その身に受けるのはわたしだけです。ですから、基本的には物語の改変をした著者である貴方にすらわかりませんよ。……いえ、貴方なら著者でなくとも、わからないでしょうね。人間の心情に疎いですし」

「何を楽しそうにしている。面白くもなんともないぞ」

「だから驚きましたよ。『泣いた赤鬼』を、小川陽路もその親友も救える可能性を残したハッピーエンドに変えるなんて」

「彼女に与える影響が知りたかっただけだ。だが結果として、反吐が出るほどくだらないエンディングになってしまった。この代償は大きい気がするが、エイミー、本当に君に払い切れるのか?」

 エイミーは目を丸くした後、くすりと笑った。

「珍しいこともあるものですね。貴方がわたしの心配をするなんて」

「君は今日、俺に驚きすぎだ。俺をなんだと思っている」

「なにって……恐ろしく冷静で、残酷で、友達がおらず、どこか抜けていて、ギャグセンスのない男だと思っています」

「……もういい、喋るな」

 幸之輔が溜息を吐くと、ふたりの前方に一人の女が現れ、仁王立ちになって行く手を塞いでいた。

「知り合いか?」

 幸之輔がエイミーに訊いた途端、前方にいた女は奇声をあげながらエイミーに向かって突進してきた。女の手に包丁が握られているのを確認した幸之輔は、咄嗟に女の腕を掴んで捻り上げた。

「痛い痛い痛い痛あい!」

 叫んだ女が包丁を落としたのを見て、幸之輔は少しだけ力を緩めてやったが、凶器を持つ素性も知らない女を見過ごすわけにはいかない。

「君は誰だ。なぜエイミーを狙う?」

 冷たい声色で問いかけると、女は幸之輔に陶酔しているような表情を見せた後、エイミーを睨みつけた。

「近頃、この女が幸之輔様の周りをうろちょろして邪魔だったので。この女がいなくなれば、幸之輔様がわたしを見てくださると思ったので」

 おかしな日本語とおかしな解釈を振りかざし、女は幸之輔に笑いかけた。

「愚かな脳味噌をしているな。警察に突き出してやろう」

 女を掴んだまま幸之輔がポケットから携帯電話を取り出すと、エイミーはその手を押さえてかぶりを振った。

「お嬢さん。今回は見逃しますが、次はないですよ」

「うるさい! あんたの言葉なんて誰が聞くか!」

「……彼女の言葉は、俺の言葉だ。言うことを聞いて、さっさとこの場から去れ」

「……幸之輔様が、そう仰るなら」

 幸之輔の言うことは絶対だと思っているのか、女はあっさりとふたりの前から姿を消した。

 女がいなくなったのを確認してから、幸之輔は苛立ち混じりに声をあげた。

「……なぜ彼女を見逃した? また狙われたらどうするんだ?」

「警察に行って、わたしのことを根掘り葉掘り訊かれるのはごめんですから」

 エイミーは幸之輔の視線から逃れるようにして、再び歩き出した。

「さて、どうやらわたしは、貴方に恋心を抱いていた女の恨みを買っていたようですね。それが今回の代償に繋がったと。……そうすると、わたしはあと何回恨みを買うことになるのでしょうね?」

 他人事のように答えたエイミーの表情からは、恐怖心は全く読み取れなかった。
幸之輔は後味の悪さを覚えたが、代償に関しては無関係という契約をしている。

「……そうだな」

「まあ、何はともあれ、貴方の仰る通り『泣いた赤鬼』は物語の良さをなくし、没個性的な話になってしまいましたね」

「ああ。物語として形を成さない、最悪の結末だ。何もかもを手に入れようとすると失敗する、俺はそれを知っているくせに、物語を書き換えた。この選択は読者に現実で生きる希望を与えると同時に、叶えられなかったときの失望も与えることになるだろう」

「本当ですね。幸いにして小川陽路は前者でしたが、旭幸之輔版の『泣いた赤鬼』は、貴方の想像以上に多くの人の未来に悪影響を与えるでしょうね」

 エイミーのマンションに到着したとき、幸之輔は思い出した。

「ところで、君は本当に小川陽路とは初対面だったのか? 否定していたが、彼女を見たときの反応が大きいように見えたのだが」

「……わたしとしたことが、とんだ失態を犯してしまったようですね。貴方に心情を推理されてしまうなんて」

「それを失態と呼ぶのか。俺に対して失礼だと思わないか?」

「まあ、お気にならさないでください。小川さんとわたしは知り合いではありません。かつて中学陸上競技界で有名な方だったので、突然の邂逅にわたしが勝手に驚いた……ただそれだけのことですから」

 取るに足らない出来事だと判断した幸之輔は、「そうか」と呟いて踵を翻した。

「小川陽路……残念ながら、彼女は本物の青鬼にはなれなかったということだ」

 浜田広介が著した青鬼は、友人のために悪役を買って出て、最後には独りでいることを選んだ実に誇り高い鬼である。

 帰り道、幸之輔は湿気の多い夜に癖毛をますますうねらせながら、もう見ることのできない青鬼に敬意を払った。