◇
夏休み直前、毎年七月の体育の授業は水泳になる。
水着を着なくてはならない恥ずかしさから、水泳の授業を嫌がる女子はとても多い。そんな中、陽路は水泳の授業を楽しみにしている珍しい生徒だった。
準備運動で全身の筋肉をしっかりと伸ばし、水面に飛び込んだ。今日は五十メートルを泳ぐテストだ。足を動かし、手で水を掻き分け、前へ、前へと進む。
もう陸上では得ることのできない、他者を追い抜く感覚や、呼吸機能の限界へと挑む感覚。陽路はそれらを夢中で味わいながら、真っ直ぐにゴールを目指した。
ゴールしてゴーグルを取った陽路に、女子たちから歓声が沸いた。
「陽路、速ーい!」
「めっちゃ格好良かったよ!」
水泳に限らず、スポーツ科という運動神経の塊が多いクラス内でも、陽路の運動神経は群を抜いていた。さすがに水泳部には勝てないが、他のどの生徒よりも速い記録をたたき出した陽路をクラスメイトたちが取り囲んだ。
「すごいね! 陽路、水泳部に入ればいいのに!」
「泳ぐのは好きなんだけどね。ほら、わたし靭帯やっちゃってるから」
右膝を指差した陽路に、彼女たちは残念そうな目を向けた。
「あ、そっか……そうだよね、ごめん。でも本当すごかったよ!」
「いやー、うん、陽路は本当すごいよね! もし陸上も続けていたら、わたしなんて比較にならないくらい差がついたと思うよ」
太陽の下で背伸びをしていた朱音がやって来て、陽路の肩に手を回した。背丈も同じ位のふたりは、視線の高さもちょうど合っている。
「もう、何言ってるのよ! もしもの話はなしだって、前から言ってるでしょ?」
陽路は諭すように言って朱音の頬をつねった。朱音は昔から「もしも」の話をすることが多かったが、ここ最近スランプに陥ってからその兆候は顕著であった。
「それより皆さん、陽路って良いおっぱいをしていると思いませぬか? 我がクラスにおいてこの形、この大きさは逸材ですぞ」
「……何よその喋り方。ていうか、スポーツ選手は胸がない方が有利じゃない?」
「うわー! 聞きましたか皆の衆! 強者は常に、持たざる者の気持ちなぞわからんのですよ!」
「わ!? 馬鹿! ちょっと、やめなさい!」
両胸を掴んで揉んでくる朱音の手を引っぺがして、さっきよりも強く頬をつねると朱音はおちゃらけた顔をし、それを見たクラスメイトたちは声を出して笑った。
「こら、そこの女子たち! 自分の番が終わったからといって、遊んでいるんじゃない!」
教師の叱責に「はあーい」と軽い返事をして、クラスメイトたちは口を噤んだ。
陽路が朱音から手を離したときに見た彼女の表情にはどこか陰があり、いつもの明るい朱音のものではなかったことが、少し気になった。
◇
「……ない! わたしの指輪が、なくなってる!」
授業を終えた陽路たちが濡れた髪の毛をタオルで拭きながら教室へ戻ると、クラスメイトの島村里香が青い顔をして叫んでいた。
里香はソフトボール部の活発な少女で、良くいえばリーダーシップがあり、悪くいえば目立ちたがりな性格をしている。彼女の声にクラス中がざわめく中、輪の中心にいる里香に陽路は話しかけた。
「どんな指輪がなくなったの?」
「ブルームの、細いシルバーの指輪……わたしがいつもチェーンつけて、首から下げていたやつ、見たことあるでしょ? ……どうしよう! 彼氏に貰ったやつなんだよね」
里香はひどく動揺していて、周りにいる女子たちは皆同情し「かわいそう」「盗んだやつは許せない」などと口にしていた。
騒ぎは続いたが予鈴が鳴ったため、陽路たちは一旦席に着いた。
里香が唯一ネックレスを外す水泳の時間を狙うなんて、犯人は絶対に彼女と近しい人物だ。里香の心境を考えればかわいそうだけれど、犯人を特定するのは容易だろう。
事態を重く捉えなかった陽路は、気持ちを切り替えて授業に集中しなければと考えながら、机の中から教科書を取り出した。
◇
部活動を終え、部室で制服に着替えているときのことだった。
「朱音ー、悪いけど制汗剤貸してくれない? 教室に忘れてきちゃったみたい」
「はいよー。ちょっと待っててー」
上半身にブラジャーだけを纏った朱音が鞄を漁ったとき、陽路は彼女の鞄の中で何かが光ったのを見た。
「……ねえ、朱音。それ、指輪だよね?」
疑心、いや、確信を持って陽路は口にした。
目がいい陽路は、朱音の鞄の中にチェーンのついた、小さなリングを見てしまったのだ。
「こ、これは……その、たまたま廊下で拾って……」
しどろもどろになった朱音が、何度も瞬きをした。嘘を吐くとき、朱音の瞬きが増えることを陽路は知っていた。
陽路は朱音に近づき、有無を言わさず彼女の鞄から指輪をひったくった。
「嘘を吐くのはやめて! これ、里香の指輪でしょ!? どうして盗ったりしたのよ!?」
朱音は黙って下を向いていた。何も言わない朱音に対して、陽路の怒りはますます大きくなっていく。
「なんでこんな馬鹿なことしたのよ! 人の物を盗るなんて、信じられない!」
「……だって、しょうがないじゃない! ストレスが溜まってしょうがなかったんだもん! 周りはタイムタイムって、呪文のように繰り返すし! あんただってそうだよ陽路!」
やっと口を開いたかと思えば、ストレスが溜まっていたという理由を口にするだけで、反省の意も見せないなんて。朱音には子どもっぽいところもあるが、こんな呆れるような理屈をこねることはしなかったのにと、陽路は腹が立ってしょうがなかった。
「同じ陸上部の仲間として、記録に拘るのは当たり前でしょ?」
「陽路だって弱いくせに、大人ぶらないでよ! わたしはあんたがわたしとの勝負から逃げたってこと、ちゃんと知ってるんだから!」
この一言は、陽路の頭に血を昇らせた。思わず手が出そうになったが、深呼吸をして必死に耐えた。
「……そうだね、わたしも弱いよ。でも、わたしの話はまた別の問題でしょう? とにかく、騒ぎが大きくなる前に里香に謝ろうよ。わたしも一緒に付き添ってあげるから」
取り乱している友人の力になれるよう気丈に振舞った陽路の言葉に、朱音は眉間に皺を寄せて何かを言いかけた。それを言い訳だと推測した陽路は、有無を言わせない視線で朱音を見つめ、手を握った。
「ね? 朱音ならできるでしょ?」
「……わかった。明日、謝る……わたし一人でちゃんとやるから……」
弱弱しくも小さく頷いた朱音を見て、自分の思いが伝わったのだと信じた陽路は、それ以上彼女を責めることはしなかった。
◇
次の日、陽路は登校直後に違和感を覚えた。
「おはよー」
「……」
下駄箱で会ったクラスメイトに無視された陽路は、首を傾げつつも、彼女の虫の居所が悪かったのだろうとそのときはあまり気にしなかった。
だが教室に入った瞬間、自分が嫌な意味で注目されているのだという空気を察してしまった。
陽路を見るクラスメイトたちの目が、心配そうなものだったり軽蔑したものだったりで、いつもとは明らかに異なっていたからだ。理由もわからず困惑したまま自席に着くと、里香がやってきた。
「……犯人はまだわからないんだけど、盗まれた指輪は見つかったわ」
謝ってはいないようだが、朱音はちゃんと里香に指輪を返したようだ。
「そっか、見つかったんだ。良かったね、安心した」
陽路がそう答えると、里香はあからさまに不快な表情を見せた。
「……あのさ、回りくどいのって嫌いだから、単刀直入に言うね。……陽路、あんたがわたしの指輪を盗んだって、本当なの?」
「……え? ……なんで?」
頭の中が真っ白になった。わたしじゃないのに、どうして?
陽路が朱音の様子を窺うと、自席からこちらを盗み見るように見ていた彼女は、目が合うと即座に目を逸らした。
「ある人から、陽路が盗ったって話を聞いたの。で、実際はどうなの? あんたも疑われるの嫌だろうし、わたしとしても友達を疑いたくない。違うなら早く否定して」
「わ、わたしじゃ……」
否定しようと口を動かしたとき、朱音のことが頭を過ぎった。
試合前のストレス発散のためについ、衝動的にやってしまったという大きな罪。普通なら決して許されることではない。
だが試合前のストレスは、かつて選手だった自分にもよくわかるものであった。
努力しているのに伸びない記録との戦い。自分を追い詰める苦しさ。無責任な周りからの期待、重圧。思い描く未来と結果の剥離を想像して、張り裂けそうになる胸。
朱音の行動は計画性があったものではなく、突発的にやってしまったことなのだろう。
もし自分がここで本当は朱音が犯人なのだと告げてしまえば、朱音は部活動謹慎処分はおろか、下手すれば停学になるだろう。どちらにせよ、インターハイ出場は不可能になる。
わたしは、朱音が反省しているって信じたい。
ならば今、わたしが朱音の親友として出来ることは――
陽路は深く息を吸った。
「……そうだよ。指輪を盗ったのは、わたし。……反省しているわ。本当に、ごめんなさい」
注目が集まっていた中での陽路の発言は、教室中をざわつかせた。再び朱音の方を見ると、彼女は目を丸くして陽路を見ていた。
「マジで陽路がやったんだ……あんたはそんなことするようなやつじゃないって、思っていたのに。……見損なったよ」
里香は軽蔑するように告げて、陽路の元を去って行った。陽路を心配そうな顔で見守っていた友人たちは悲しそうに目を逸らし、疑いの目で見ていた連中は陽路に聞こえるように悪口を言い出した。
その日陽路に話しかけてくるクラスメイトはおらず、陽路は軽蔑の視線と陰口を聞きながら一日を過ごした。
辛いと思わなかったと言えば、勿論嘘になる。
だが朱音がわかってくれるなら、朱音が陸上をまた頑張る気持ちになれるなら、それだけで十分自分の行動は報われると思った。
放課後、部活の時間がやってきた。
自分と話していれば朱音にも疑いがかかってしまうと思った陽路は、早めに教室を出て陸上部の部室で彼女を待った。
「朱音!」
暗い顔をして部室までやって来た朱音に陽路が話しかけると、彼女は脅えた表情を見せた。
「……わ、わたしが頼んだわけじゃないからね!」
朱音の口から飛び出したのは、予想もしていなかった言葉だった。
「……え? 急に、何を言いだすのよ?」
「陽路はいつもそう! いつだって正しい! でも、わたしが庇ってって頼んだわけじゃない! ……あんたがあの場でわたしがやったって言ってくれれば! 正直に言ってくれれば! わたしには謹慎処分が出て、インターハイに出なくてもすんだのに!」
「朱音、まさか……!」
ようやく言葉の意味を理解できた陽路だったが、それは立っていることが辛い程の衝撃だった。
「……朱音、試合に出るのが嫌だったの……?」
陽路は言葉を振り絞り、彼女に問いかけた。
「そうだよ! だから、昨日言ったでしょ!? 勝負の世界から逃げ出した陽路には、わかんないんだよ!」
陽路は言葉に詰まった。朱音の主張が絶対に間違っていると、言いきれる自信がなかったからだ。
ただ、朱音を庇った行為だけは、彼女のためにやったと自信を持って言える。
「でも……わたしは、朱音のためを思って、」
「それが嫌なんだよ! どうしてわかってくれないの!? 陽路のそういう正義感、わたしには辛いんだよ!」
朱音は泣きながら部室を飛び出していった。朱音の言っていることはひどく理不尽で、感情的で、第三者から見れば百パーセント朱音が悪いと言える内容だろうと思った。
だが陽路はそんな朱音の行動を咎める余裕がない程、頭が真っ白になっていた。
朱音のことならなんでもわかっていると思っていた。だけどそれは自分の思い上がりだった。彼女のためを思ってやったことが、彼女を傷つけていたなんて。
ショックで動けず、呆然と部室に佇んでいた陽路だったが、
「ここにいたのか小川。ちょっと話があるんだが、いいか?」
部室にやってきた陸上部顧問・佐々木の声で我に返った。
「……はい、なんでしょうか……?」
「先生は信じたくないが……お前が、クラスメイトの物を盗んだって話を耳にしてな。……その話、本当なのか?」
庇われるのが辛いと泣いた朱音の顔が脳裏をちらついたが、ここで無実を主張しても、かえって事を大きくするだけだと思った。
――それに何より、朱音にはまだ走る権利を失って欲しくない。
「……はい。本当です」
佐々木はゆっくりと瞬きをした後、静かに息を吐いた。
「……そうか、残念だ。担任の先生とも、もしお前が本当に犯人ならどうするかと、処分を相談しておいた。……小川、お前を一週間の部活動謹慎処分にする」
覚悟はできていたつもりだったが、今まで優等生として生きてきた陽路にとって、謹慎処分はとても大きな罪に感じられた。
「……そんな……」
「前から先生、言っているよな? 部活動で力を発揮できる人間は、学校生活もしっかりしているものだって。本来スポーツ科の人間が部活動謹慎処分になれば停学コースなんだが、思えば、マネージャーに転向してからお前の心のケアをしてこなかった先生にも落ち度がある。悩みがあるなら今、思う存分話しなさい。そして今日から一週間ゆっくり休んで、また元気なお前の姿を先生に見せてほしい」
その後、佐々木に犯行の動機や犯行日の詳細などいろいろと訊かれた気がしたけれど、内容は全く頭に入ってこなかったし、何を話したのかも覚えていない。
ただ、自分はやり方を間違えたのだと、それだけを実感していた。
◇
陽路はすっかり居場所を失った。
教室では白い目で見られ、部活動は謹慎をくらってしまった。佐々木からは帰宅を命じられたが、家に帰れば母親から部活はどうしたのか訊かれることはわかりきっている。とてもじゃないが、説明なんかしたくない。
陽路は時間を潰すため、学校と自宅の真ん中にある馴染みのない駅で降車し、駅前にある喫茶店に入りイヤホンで音楽を聴いて、雑音が耳に入らないように努めた。
明日からどうすればいいのだろうか。考えなくてはならないことはたくさんあるのに考えたくなくて、馴染みのあるお気に入りの曲に耳をすませて気を紛らわそうとした。
自分の世界に入りこんでいると、イヤホンからある曲が流れてきた。
レッドホットの代表曲『BEST FRIEND』だ。陽路も朱音も、今流行りの女性アーティストの同タイトル曲よりも、自分が生まれる前から存在する、このフォークソングが好きだった。
朱音とはよくカラオケで一緒に歌ったし、陽路がまだ選手だった頃は、ふたりでイヤホンを半分こして試合前に聴いていた、思い出の曲だ。
しかし今は、全く聴きたい気持ちにならなかった。ボタンを押して次の曲へとスキップしたとき、周りの客がある一点を集中して見ていることに気がついた。
陽路が観衆の視線の先を追うと、そこには朱音の想い人、旭幸之輔がいた。
思わずイヤホンを取って、周りの雑談に耳を傾けてみた。幸之輔は特に何か目立つ行動をしているわけではなく、ただ一人本を読みながらコーヒーを飲んでいるだけだった。
それなのに周りの人間は、彼を見て「格好良い」とか「声かけてみようよ」などと騒いでいた。
今この瞬間までは朱音に対して負の感情を抱いていなかった陽路だったが、幸之輔を見つけたことで無性に、朱音に復讐したいという気持ちがふつふつと湧き上がってきた。
自身が受けた悲しみを他の感情に変換しないと、とてもじゃないが平静でいられなかったのだ。
陽路は無意識のうちに、その感情を憎しみに変化させていた。朱音が好きな幸之輔と話をして一緒の時間を過ごせば、少しは朱音へのあてつけになるだろうと考えたのだ。
真っ黒な気持ちを抱きながら、陽路は幸之輔の隣に座った。
「こんばんは。少し話をしてもいいかな?」
周りの女たちの注目が、一斉に自分に集まってくるのを感じた。
「俺が飲み終わるまでなら、構わない」
「ありがとう。少しだけだから」
噂以上に冷たい印象を幸之輔に抱きつつ、陽路は内心を悟られないように笑顔で隣に座った。
「それで、話とはなんだ? スポーツ科二年E組、陸上部の小川陽路」
「……え!? わたしの名前、知っていたの?」
「俺は学校の関係者なら全員、顔と名前、特徴くらいは記憶している」
淡々とコーヒーを啜る幸之輔に目を丸くした。全校生徒と教師、併せて約千人弱を把握するのは容易なことではない。
「へえー! すごいね! 頭いいって噂は聞いていたけど、本当なのね!」
「そんなことはどうでもいい。話とはなんだ、と訊いている。特にないなら、俺は残りのコーヒーを飲み切って失礼させてもらう」
「わ、ちょ、ちょっと待って! えっと……あ! わたし、手品ができるの!」
幸之輔を引き止めるために口から出た出まかせを何とか形にしようと、幸之輔の怪訝な表情が見守る中、陽路は中身を取り出されて空になったストローの袋にキャラメルマキアートを一滴垂らした。当然、袋はゆっくりと地味に伸びた。
「……あはは、ミミズ……なんちゃって……」
苦し紛れにしても、酷いものを見せてしまった。どんな冷たい目で見られているだろうとおそるおそる幸之輔の顔を窺うと、予想に反して、彼は食い入るように紙のミミズを見ていた。
「……面白い! 身近なものでそんな発想が出てくるなんて、天才的だ! 君が考えたのか?」
「えっ、割と有名な遊びだと思っていたけど……」
「そうだったのか……! 父の指摘通り、やはり俺にはまだ遊び心が足りないようだな……」
初めはからかわれているのかと思ったが、幸之輔はどうやら本気で感心しているようだった。
予想外の反応に陽路は笑った。さっきまであんなに黒い気持ちを抱えていたのに、今のやり取りですっかり毒気を抜かれてしまっていた。
「実に勉強になったぞ、感謝する。では」
幸之輔はカップを持って立ち上がろうとしていた。
「待って! こ、これは知ってる?」
まだ幸之輔と話し足りない陽路は、慌ててポニーテールを留めていたシュシュを右手の人差し指と中指にかけ、握り拳を作り、幸之輔に見えない自分側で薬指と小指にもかけ、拳を開いた。
シュシュは、人差し指と中指から薬指と小指へと瞬時に移動した。……さすがに、子ども騙しすぎただろうか?
「……二回も俺を驚かすとは、君はマジシャンとして本物のようだ。ぜひトリックを教えてほしい。一体どうやったんだ?」
またしても幸之輔は子どものように目を輝かせていた。なんだか可愛らしくて、陽路は一瞬朱音のことを忘れて笑っていた。
「えっと……場所を変えてもいいかな? ここだと話辛くて……」
「そうか。ここだと明かせないトリックなのだな?」
「ち、違うの。そうじゃなくてちょっと、個人的な話を聞いてほしいな、って思って。……も、もちろん、さっきの手品も教えるから!」
最初は、少し話せれば十分だと思っていた。目標は達成されたはずなのに、ここまでして彼を引き止める理由は自分でもよくわかっていなかった。
「ならば、早く話せる場所まで案内してくれ。時間は有限なのだからな」
「い、いいの?」
「おかしなことを言う。君が誘ったのだろう?」
了承してくれると思わなかった陽路が慌てている様子を、幸之輔は不可解そうに見つめていた。
どこに行けばいいのかわからず、陽路は幸之輔と一緒に学校に戻って来てしまった。
練習が終わって誰もいなくなったグラウンドに、部活動謹慎中の自分と、汗とは無縁そうな幸之輔がふたりでいるのは場違いな気がした。
ローファーでグラウンドに立つなんて、貴重な経験だ。
足を止め、陽路は大きく息を吸った。今ならなんでも話せるような気がした。
「……わたしね、今日、クラスメイトから物を盗んだ友達を庇ったの。わたしが犯人ですって言ってさ。それは正しいと思った。間違えていないと思った。だって朱音は、インターハイで入賞が期待されている学校のエースだし、こんなことで出場停止とかになったら馬鹿みたいでしょ? だからわたしが罪を被るくらい、いいかなって思ったの。クラスメイトに白い目で見られても、朱音が自分のやったことを反省して、試合で全力を出してくれれば、それでいいって。……なのに……」
あのときの朱音の表情が思い出されて、胸が苦しくなってきた。その息苦しさを吐き出すように、
「なのに、朱音はわたしを裏切った! わたしを切り捨てたのよ!」
親しくもない年下の男に、感情をさらけ出していた。言葉にすることで、自分が傷ついているということがはっきりとわかった。
辛かった。助けてほしかった。無意識に、いや、意図的に、旭幸之輔の救いの手を求めていた。幸之輔に想いを寄せる朱音の愚痴を彼に話すことで、心にかかった靄を汚い方法で振り払おうとしていた。
「……君がやったことはただの偽善、自己満足だ。彼女はそんな君の偽善に、堪えられる器を持っていなかったのだろう? ただそれだけの話じゃないか」
――突然、見捨てられた気分だった。
自分は幸之輔に一体、どんな言葉を期待していたのだろう。慰めてほしかったという下心を見透かされたようで、赤面してしまった。
手品を見せたときは可愛らしい男だと思ったのに、今の彼は冷淡で、人の気持ちなど考えずにただ正論を吐くという、噂通りの旭幸之輔になっていた。
「……なんでよ。なんでわたしばっかり、酷い目に合うのよ! わたしはただマネージャーとして! 親友として! 朱音を一生懸命に守ろうとしただけ! それなのに、どうしてわたしが悪者になるのよ!」
「見返りを求めるくらいなら、自分が悪者になろうなんて思わない方がいい」
「わ、わたしは別に、誰かに評価されたくてやったわけじゃない! ただ朱音のためを思っただけなのに!」
「自己犠牲が美しいと思っている反面、恩の押し売りか。俺には今の君の姿も、俺に優しい言葉をかけてほしくて言っているようにしか思えないがね。本当に親友のことを考えているなら、第三者に事件の事情を話したり、主観的立場から胸の内を吐露したりするなど考えられない行為だ」
冷酷な幸之輔の視線にぞっとした。彼の視線から逃れるように、陽路は必死に叫んだ。
「うるさい! やめてよ! 何もかもを見透かしたような目で、わたしを見ないで!」
言い負かされて視線を逸らした陽路の耳には、幸之輔の呆れたような溜息が届いた。
「――では、俺が君の望む物語を作ってみせよう」
軽蔑され罵倒されるかと思っていた陽路は、幸之輔の言葉に驚いて顔を上げた。
言葉の意味はわからなかったが、彼はふざけているようには見えず、いたって真剣な顔をしていた。
「……どういうこと?」
「言葉通りの意味さ。まあ、君は何も知らないまま、ただ今夜眠るだけでいい。明日の朝には世界は変わっているだろう」
「……待ってよ、わかるように説明して」
幸之輔が真面目に言っているのか頭がおかしいのかが判断できなくて、頭が痛くなってきた。わざとわからないような言い回しをしているのかと疑いたくなる。
「説明は無意味だと思うがね。では、俺はこれで失礼する」
「勝手なこと言わないで! わたしが望む物語って何? わたしに関係あるのなら、ちゃんとわたしにもわかるように説明して!」
「……感情的な君が理解できるとは、到底思えないな。だがまあ、知的探究心を持つ人間を拒む理由もない。俺についてくるといい」
そう言って幸之輔は歩き出した。早々と遠ざかっていく彼の背中を追いかけることに、陽路は少しの迷いも抱かなかった。
幸之輔は学校近くの本屋に寄り、真っ直ぐに児童書のコーナーに足を運んだ。彼が手にした本は、浜田広介著の『泣いた赤鬼』だった。
「君はこの物語の内容を知っているかい?」
「うん、有名な話だし、大体はね。人間と仲良くなりたいけどなかなか上手くいかない赤鬼のために、青鬼がわざと悪役を買って出て、人間を襲うフリをするのよね。赤鬼が人間のために戦って青鬼を追い払うことで、赤鬼は人間に信頼されて仲良くなることができたんだけど、青鬼は自分と親しいことがわかったら人間が不信感を抱いてしまうだろうと懸念して、遠くへ行ってしまう。そういう話だったわよね?」
「そうだ。だが、君の知っている『泣いた赤鬼』は、今日から違う物語になる」
小首をかしげた陽路を無視して、幸之輔はさっさとレジに向かい会計を済ませた。
外に出ると、着物のよく似合う美しい女性が黒髪を靡かせて立っていた。こんなに綺麗な女性は陽路の人生で見たことがなかった。
次元の違う美しさについ見惚れていると、
「あなたは……」
黒髪の女性は、陽路を見て驚いているように見えた。陽路は女性と知り合いである線を考えたが、やはり彼女とは初対面だと言い切れると思った。陽路は人の顔を覚えることが苦手ではないし、これ程の美人と知り合いであれば記憶している自信があったからだ。
「……あの、どこかでお会いしたことがありましたか?」
我慢できずに陽路から訊いてみると、女性はふっと我に返ったような表情を見せて、頭を下げた。
「……いえ、大変失礼致しました。わたしはエイミー、彼の行動を見守るだけの存在です。どうかお気になさらず」
エイミーと名乗った女性は、優雅な笑みを浮かべた。
陽路は幸之輔とエイミーと共に、再び学校に戻って来た。
空には星が輝いていた。帰りが遅くなることを母親に連絡しなければと、陽路はこれから起こることへの不安と少しの興奮を抱きながら頭の片隅で思った。
年下には見えない威厳を漂わせながら陽路の前を歩いていた幸之輔は、グラウンドに設置してあるサッカーゴールの前で立ち止まった。そして鞄からは購入した『泣いた赤鬼』の本を、胸ポケットからは何か細いものを取り出した。
「……それって、万年筆? その本にサインでも書くつもりなの?」
陽路が冗談のつもりで言うと、幸之輔は不敵な笑みを浮かべた。
「いいや、作者になるのさ。これくらいの文章量だったら、すぐに終わる」
そう言って本を開いた幸之輔は、手にした万年筆で本に文字を書き込んでいった。
「ちょっと、何しているの!?」
ぎょっとした陽路を無視して、幸之輔は黙々と手を動かし続けていた。助けを求めてエイミーを見たが、彼女は不介入を決めているのか動じず、ただ幸之輔を見ているだけだった。
どうすればいいのかわからず狼狽した陽路だったが、今幸之輔に声をかけても無視されるだけだ。エイミーを見習って彼女と同様、ただ待つことにした。
幸之輔の顔をこんなに間近で真剣に見るのは初めてだった陽路は、彼の顔は芸術家によって精密に作られた像のようだな、という感想を抱いた。
外見だけなら、吸い込まれてしまいそうな美しさだ。ファンクラブの人たちの気持ちが、ほんの少しだけ理解できた気がした。
「終わったぞ。……それにしても君、人の顔を見るのに少しは遠慮や恥じらいを持つのも、礼儀ではないか?」
「べ、別に見てないわよ! ぼーっとしてただけ!」
「まあいい。今からは呆けず、瞳を開いてよく見ておくといい」
幸之輔が万年筆のキャップを閉めると、瞬間、彼が手にしていた本から光が溢れ出した。
その光は陽路を含めて、グラウンドの地面から夜空まであっという間に広がり、やがて上下左右すべての空間には何かの映像が映し出されていた。
「こ、これって……『泣いた赤鬼』!?」
「ご名答」
陽路がそう判断できたのは、赤鬼と青鬼が仲睦ましげに語り合っている映像と、赤鬼が人間と仲良くしたくて里へ降りていく映像を見たからであった。
「今見えているのが、君の知っている『泣いた赤鬼』だが……さて、物語が変わるのは、これからだよ」
陽路の背後から現れた映像は、青鬼が去った後、一度は泣いていた赤鬼が涙を拭いて立ち上がり、人間に青鬼の無実を証明するために事情を説明しているものと、旅立った青鬼を赤鬼が自力で探して連れ戻し、人間たちと一緒に皆で仲良く暮らしていくというものだった。
こんな展開は『泣いた赤鬼』には存在しないはずだ。これは一体なんだろうと思っていると、陽路の知らない展開を見せた映像は、青鬼からの手紙を読んで涙する赤鬼の映像の上に重なり、原作通りの映像の方は空間の中から消えてしまった。
幸之輔に理由を問うより先に、陽路たちを囲む空間は再び光り出し、彼が手にした本に収束されていった。
陽路が現実に戻ってきたことを認識したのは、幸之輔に本を渡され、映像のない普通の星空を見上げたときだった。
「……今のは、現実? 夢?」
「ずいぶんとロマンティックな発言をするのだな。問題ない。物語は無事に改変された」
「改変……つまり、物語の内容が変わったってこと?」
「そうだ。今現在世の中に知れ渡る『泣いた赤鬼』の内容は、赤鬼と青鬼、そして人間が仲良く暮らして終わる結末のものになっている。改変前、原作通りの『泣いた赤鬼』の話を知っているのは、この世で俺とエイミー、そして君だけだ。誰かに話したところで変人扱いされるだろうから、黙っている方が賢明だぞ」
相変わらず幸之輔の言葉は意味不明なものだったが、不思議と嘘は吐いていないのだろうと思った。
「……旭くんって、格好いいのは外見だけなのかもね。変人だわ」
「変人で結構。君は偽善者で自己満足に溺れる、俺には理解し難い人種だがね」
「わかっていただけなくて結構よ。わたしも、旭くんのことを理解するのは諦めたしね」
「だが、多勢から友人を庇ったその度胸だけは単純に評価に値してもいいと思ってね。人間関係の興味も手伝って、今回は少しばかり関わらせてもらった」
「……すごく上から目線なのね」
呆れる程自分のことしか考えておらず、人の気持ちなんてわかろうと努力するどころか好奇心の対象としか捉えられない幸之輔は、一言で言ってしまえば性格が悪くて、腹が立つやつだ。
腹が立つからこそ――こんな男について、朱音と話をしたいと思った。
朱音とまた普通に話せるようになる日がくるならば、幸之輔とふたりで話したという自慢をしつつ、彼の真の顔を教えてやろうと思った。
傲慢で、口が悪くて自信家で、顔で得しているだけで普通なら絶対に近づきたくないタイプの男だが、意外にもボケていて、可愛いところもあるのだと。
そんな幸之輔を、朱音はどう思うだろうか。彼に夢を見ている彼女のことだ、青い顔をして幻滅もありうる。表情豊かな朱音の顔を想像すると、なんだかおかしかった。真っ黒になっていた心が澄み渡っていく気分だ。
やっぱり、朱音と仲直りしたいと思った。
「さて、もう遅い。帰るぞ。君の家はどっち方面だ?」
「桜町方面だけど……え? 一緒に帰るの?」
「当たり前だろう。こんな時間に女が一人で歩くのは危ない。それに、俺はまだ君からマジックを教えてもらっていない」
それは陽路にとって、あまりにも不意打ちの優しさだった。
「……もう、ちょっと待ってよ!」
陽路の返事を待たず、女の歩幅も考慮せずにさっさと歩き出してしまった幸之輔を慌てて追いかけると、
「彼が前を歩いていて良かったですね。赤くなってしまった頬を、見られずに済みますもの」
「きゃあ!」
いつの間にか隣にいたエイミーに驚き、陽路は声をあげてしまった。
「ち、違います! 別に赤くなってなんか――!」
「わたしとしては、貴女のそんな顔を見ることができてとても嬉しいですよ。なにせ、とても貴重な表情ですから」
「もう、からかわないでください! わたしは別に、ぜんっぜん、旭くんにときめいたりなんかしていませんから!」
「あら? わたしは貴重な表情と言っただけで、ときめいたかなんて言っていませんよ?」
エイミーと自分は初対面なのに貴重とはどういう意味だろうという疑問が頭を過ぎったが、エイミーは幸之輔の彼女で立場上嫉妬しているものだと推測し、陽路は芽生えかけた気持ちを否定することを優先した。
「違いますって! ……ほ、ほら! 旭くんに追いつけなくなりますよ! 急ぎましょう!」
「そうですね。あまりに遅いと、苛立った彼に手を引かれてしまうかもしれませんしね」
ところが、エイミーは嫉妬どころか、陽路の反応を楽しんでいるように見えた。
そのことが、負けず嫌いな陽路にとって少々癪に障った。
「……旭くんって、学校ではとても女子人気が高いんですよ? うかうかしていると、どこかの美人に彼を取られちゃうかもしれませんよ?」
「あら、そうなったら彼には高校生らしい健全なお付き合いをしてほしいものです。ところで、その可能性が貴女ということはないのですか?」
ああ、ダメだ。陽路はエイミーを言い負かすことはできないと、早々に胸中で白旗を挙げた。
「わたしは……遠慮しておきます。わたし、もっと素直で明るい、優しいスポーツマンがタイプなんです」
「すべて彼にないものですね。確かに彼、頭は良いらしいですが……一般人の感覚や常識からかけ離れていて、扱い辛いのが厄介です」
「そうなんですよ! あの人、こんな手品もわからなかったんですよ? 小学生でもわかる簡単なヤツなのに!」
陽路がシュシュを使った手品をエイミーに見せると、エイミーはすぐに同様の手品をやってみせた。
「……あの人、本当は馬鹿なのかもしれませんね」
ふたりは夏の星空の下で、幸之輔を追いかけながら笑った。
◇
陽路は家まで送るという幸之輔の申し出を、電車の中で考え事をしたいからと言って断った。
理由があるなら従うといった様子で幸之輔はあっさりと了承し、陽路を駅まで送った後はそのままエイミーと去っていった。
陽路は電車の中で、幸之輔に渡された『泣いた赤鬼』の中身を確認した。
物語の後半の文章には二重線が引かれていて、その横には機械的な綺麗な文字で、彼が考えたのであろう物語が記載されていた。
その話は本来の『泣いた赤鬼』とはまるで内容の違う、陽路が不思議な空間で見た映像と合致しているものだった。
どうやって改変されたのか理論は全くわからないけれど、ただ、幸之輔の書いたこの哀愁のない平凡なハッピーエンドは、今の自分が求めている物語なのだと感じた。
決意を固めた陽路は、大きく息を吐いてからイヤホンをして、お気に入りの曲を再生した。
再生した曲は、レッドホットの名曲『BEST FRIEND』
この曲を聴き終わるとき、陽路は青鬼ではなくなっているだろう。
◇
「陽路……どうしてここにいるの?」
謹慎中の陽路は、部活動に参加することを禁止されている。
放課後、女子陸上部の部室にいた陽路を見て、朱音は驚きの声をあげた。
「悪い? クラスではわたし、あんたをはじめ皆に避けられているから、とても話せる状態じゃないでしょ?」
陽路がそう言って肩をすくめると、朱音は気まずそうに視線を逸らした。
「朱音のこと待ってた。どうしても、伝えたいことがあるから」
陽路が一歩踏み出して朱音との距離を詰めると、朱音はたじろいだ。陽路に責められると怯えているのだろう。
「朱音。指輪を盗んだのはあんただって、里香にちゃんと謝ろう?」
陽路の言葉に朱音は表情を曇らせ、小さい声で呟いた。
「……やっぱり、そうだよね。わたしのことムカつくよね。ごめん。陽路に汚名を着せたこと、本当に後悔してる」
「うん」
「陽路に正論を言われて逆ギレしちゃったこともね、反省しているの。陽路の気持ちをわかっているつもりだったのに、自分勝手に都合のいいように解釈して、自分の罪を正当化しようとしたんだ」
「うん」
「でも……でも! やっぱり怖い! もしも今更わたしが犯人なんですって名乗り出たら、里香だけじゃなくて皆に嫌われる! だって最低だもん! 卑怯なことしたもん! 自己中なこと言って、ごめんなさい! でもお願い! 言わないで……!」
朱音の言っていることは、本当に身勝手な防衛手段であった。
懇願する朱音に溜息を吐きながら更に接近すると、後ずさりしていた朱音の背中は壁につき、ついに彼女は退路を失った。
至近距離で朱音と対面した陽路が手を動かすと、暴力を予想したのか、朱音は咄嗟に顔を庇った。
――陽路は、朱音の手を優しく握った。
「……大丈夫。もしも、クラスの皆があんたを許さなくても、学校中の皆があんたを軽蔑しても、わたしだけはあんたのそばにいるって、命を懸けて約束するから」
朱音がよく使用する「もしも」のフレーズ。
それは悲観的な未来を予想するときに使うのではなく、自信を持って未来を歩くための、おまじないにしてしまえばいい。
「あのさ、わたしが朱音のこと庇ったのって、正義感だけじゃないんだ。勝負から逃げたって指摘、あながち間違ってないよ。だから今回の件も、朱音への贖罪の気持ちが大きかったんだと思う。それは誰がなんといってもわたしの弱さだし、自己満足。ごめん。だからさ、これでおあいこってことで!」
陽路の言葉には、嘘や偽りは一つもなかった。
朱音に格好つけない素直な気持ちを伝えられたことで、むしろすっきりした気分にさえなっていた。
なにも言わない朱音の手をそっと離して、陽路は部室のドアノブに手をかけた。
「朱音が犯人ですなんて、わたしからは言わないよ。でも、あんたが自首してくれるって……信じてる」
部室を出ていった陽路の耳に、朱音の返事は聞こえてこなかった。
だけど陽路は、親友である彼女のことを信じている。
だからこそ、罪のない汚名を浴びていようとも、謹慎中であろうとも、前を向いて歩いていられるのだ。
◆
泣いた赤鬼・あとがき
小川陽路を駅まで送り届けた後、幸之輔は生温い夜風に癖毛を揺らしながら、夏の騒々しい夜をエイミーと歩いていた。
「彼女を家まで送ると言ったときは、成長したなと感心したんですけどね。遠慮されて本当に送らないのが、貴方が冷たいと言われる所以ですよ」
「成長とは保護者が使うべき言葉だ。君が使うには相応しくない」
「あら、保護者ですよ。貴方が行う改変の責任を、わたしは代償という形で負っているのですから」
不快だが一理あると思った幸之輔は、反論はしないでおいた。
「……それにしても、対象人物に直接影響を受けるであろう物語を推測し、提案するやり方に変えて正解だったな。小川陽路と出会い彼女の胸中を聞いたのは偶然だったが、彼女が受けた刺激は大きく、とても有益なデータを得ることができた。次回は俺が対象の目星をつけて接近する。君は口出しせず、ただ俺の行動を傍観していろ」
「もちろんそのつもりですが、貴方の……」
何かを言いかけたエイミーの体が、何重にもぶれた。
「代償が降りてきたのか?」
「……はい。今回の代償は、『大勢の人に誤解され疎まれる』……とのことです」
「『羅生門』を改変した際の代償『寿命を芥川龍之介と同じとする』は、時が来なければわからないものだからともかく、今回の代償も俺からは変化がわからないのか?」
「代償を把握し、その身に受けるのはわたしだけです。ですから、基本的には物語の改変をした著者である貴方にすらわかりませんよ。……いえ、貴方なら著者でなくとも、わからないでしょうね。人間の心情に疎いですし」
「何を楽しそうにしている。面白くもなんともないぞ」
「だから驚きましたよ。『泣いた赤鬼』を、小川陽路もその親友も救える可能性を残したハッピーエンドに変えるなんて」
「彼女に与える影響が知りたかっただけだ。だが結果として、反吐が出るほどくだらないエンディングになってしまった。この代償は大きい気がするが、エイミー、本当に君に払い切れるのか?」
エイミーは目を丸くした後、くすりと笑った。
「珍しいこともあるものですね。貴方がわたしの心配をするなんて」
「君は今日、俺に驚きすぎだ。俺をなんだと思っている」
「なにって……恐ろしく冷静で、残酷で、友達がおらず、どこか抜けていて、ギャグセンスのない男だと思っています」
「……もういい、喋るな」
幸之輔が溜息を吐くと、ふたりの前方に一人の女が現れ、仁王立ちになって行く手を塞いでいた。
「知り合いか?」
幸之輔がエイミーに訊いた途端、前方にいた女は奇声をあげながらエイミーに向かって突進してきた。女の手に包丁が握られているのを確認した幸之輔は、咄嗟に女の腕を掴んで捻り上げた。
「痛い痛い痛い痛あい!」
叫んだ女が包丁を落としたのを見て、幸之輔は少しだけ力を緩めてやったが、凶器を持つ素性も知らない女を見過ごすわけにはいかない。
「君は誰だ。なぜエイミーを狙う?」
冷たい声色で問いかけると、女は幸之輔に陶酔しているような表情を見せた後、エイミーを睨みつけた。
「近頃、この女が幸之輔様の周りをうろちょろして邪魔だったので。この女がいなくなれば、幸之輔様がわたしを見てくださると思ったので」
おかしな日本語とおかしな解釈を振りかざし、女は幸之輔に笑いかけた。
「愚かな脳味噌をしているな。警察に突き出してやろう」
女を掴んだまま幸之輔がポケットから携帯電話を取り出すと、エイミーはその手を押さえてかぶりを振った。
「お嬢さん。今回は見逃しますが、次はないですよ」
「うるさい! あんたの言葉なんて誰が聞くか!」
「……彼女の言葉は、俺の言葉だ。言うことを聞いて、さっさとこの場から去れ」
「……幸之輔様が、そう仰るなら」
幸之輔の言うことは絶対だと思っているのか、女はあっさりとふたりの前から姿を消した。
女がいなくなったのを確認してから、幸之輔は苛立ち混じりに声をあげた。
「……なぜ彼女を見逃した? また狙われたらどうするんだ?」
「警察に行って、わたしのことを根掘り葉掘り訊かれるのはごめんですから」
エイミーは幸之輔の視線から逃れるようにして、再び歩き出した。
「さて、どうやらわたしは、貴方に恋心を抱いていた女の恨みを買っていたようですね。それが今回の代償に繋がったと。……そうすると、わたしはあと何回恨みを買うことになるのでしょうね?」
他人事のように答えたエイミーの表情からは、恐怖心は全く読み取れなかった。
幸之輔は後味の悪さを覚えたが、代償に関しては無関係という契約をしている。
「……そうだな」
「まあ、何はともあれ、貴方の仰る通り『泣いた赤鬼』は物語の良さをなくし、没個性的な話になってしまいましたね」
「ああ。物語として形を成さない、最悪の結末だ。何もかもを手に入れようとすると失敗する、俺はそれを知っているくせに、物語を書き換えた。この選択は読者に現実で生きる希望を与えると同時に、叶えられなかったときの失望も与えることになるだろう」
「本当ですね。幸いにして小川陽路は前者でしたが、旭幸之輔版の『泣いた赤鬼』は、貴方の想像以上に多くの人の未来に悪影響を与えるでしょうね」
エイミーのマンションに到着したとき、幸之輔は思い出した。
「ところで、君は本当に小川陽路とは初対面だったのか? 否定していたが、彼女を見たときの反応が大きいように見えたのだが」
「……わたしとしたことが、とんだ失態を犯してしまったようですね。貴方に心情を推理されてしまうなんて」
「それを失態と呼ぶのか。俺に対して失礼だと思わないか?」
「まあ、お気にならさないでください。小川さんとわたしは知り合いではありません。かつて中学陸上競技界で有名な方だったので、突然の邂逅にわたしが勝手に驚いた……ただそれだけのことですから」
取るに足らない出来事だと判断した幸之輔は、「そうか」と呟いて踵を翻した。
「小川陽路……残念ながら、彼女は本物の青鬼にはなれなかったということだ」
浜田広介が著した青鬼は、友人のために悪役を買って出て、最後には独りでいることを選んだ実に誇り高い鬼である。
帰り道、幸之輔は湿気の多い夜に癖毛をますますうねらせながら、もう見ることのできない青鬼に敬意を払った。
東京都内にある病院内で、ひとりの研修医が日々奮闘していた。
「三島先生、これお願いします」
「はい、ありがとうございます」
看護師から渡されたカルテを、三島晃は疲れた顔で受け取った。
総合病院の研修医が激務だという話は、医学部在学中からよく聞かされていた。わかっていたはずだったのに、実際に現場に入ってみると噂以上であることを体感した。
勉強に明け暮れた学生時代からの長い付き合いになる隈を浮かべながら、晃は大きなあくびをした。
「やだ、三島先生すごいあくびね。男前が台無しよ? ちょっとコーヒーでも買ってきてあげるわ」
そう労ってくれたのは、ベテランの丸山看護師だ。
「あ、わたし受付に行く用事があるので、コーヒーならついでに買ってきますよ」
そう手を挙げてくれたのは、ミーハーな金子看護師だ。
そもそも、コーヒーなら自動販売機で買わなくても、給湯室にインスタントが常備してあるから飲むことができる。それなのに買って来ると申し出てくれる彼女たちの下心を、晃は見抜いていた。
今日は金曜日。そして十七時半から十八時の間の、この時間帯。
そろそろ彼が病院に顔を出す頃なのだ。
「おふたりとも、お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です。眠気覚ましに、自分で行ってきますから」
晃の返答に、看護師たちはわかりやすく残念そうな顔をした。
一階に降りて外の空気を吸った晃が帰ってくると、女だらけの人だかりがあった。
彼女たちの視線は皆、中心を見つめている。視線を追った晃は予想通り、看護師たちのお目当ての人物を発見した。
「いつもお世話になっております。これ、皆様で召し上がってください」
「え、あ、はい! ありがとうございます! い、頂きます!」
個人宛で頂いたわけではないだろうに、若い看護師の頬が瞬時に桃色に染まるのを見てしまった。若いといっても社会人の女が、高校生男子に心揺さぶられているのを見るのは、どうにも居心地が悪い。
だが相手が旭幸之輔なら仕方のないことかもしれないなと、晃はひとり頷いた。
この病院で幸之輔の存在を知らない人間はいない。眉目秀麗、成績優秀、旭出版の跡取り息子という、肩書きだけで晃とは別世界の人間である。
性格は良くないという噂を耳にすることも多いが、病院で彼の姿を見る限り、そんな噂は信じられないくらいの好青年である。
ただそれは、妹が通院しているから猫を被っているのかもしれないが。
彼の妹、旭寧々が当院の精神科に通院していることは、科が違ってもスタッフ一同周知している。旭家の遺伝子はどうなっているのだと神に不平等を訴えてしまいたくなる程、寧々の美貌はそこらではとても見ることのできない、完璧な代物だった。
自分が同じクラスにいたならば間違いなく授業に集中することなど不可能だろうから、生まれた時代が違って良かったと安心したくらいだ。
「さて……油を売っている暇はないな」
神経内科医を目指して医者になったといっても、それだけを学ぶわけではない。
ましてや、研修医は雑用係とも言われている。研修医一年目、睡眠時間の確保も難しい毎日を繰り返していると、疲れは溜まる一方である。
晃は背伸びをしてから眠たい目を擦って、患者たちの待つ病棟へ向かった。
業務時間が終わり白衣を脱いだ晃が真っ先に向かうのは、自宅ではない。今日も晃は神経内科の病棟に足を運び、逸る気持ちで一○七号室の扉をノックする。
「はあい、どうぞ」
高く、柔らかい声が返ってくるのを確認して扉を開けた。
「亜矢子、具合はどうだ?」
「もう、先生なんでしょ? 公私混同はダメよ? ちゃんと矢野さんって呼んで」
「いいだろ? 今は医師としてじゃなく、恋人として見舞ってるんだから」
「面会時間を守ってないのに、恋人としてとか言い訳しないの」
亜矢子は困ったように、だけど嬉しそうに笑った。
晃と亜矢子が交際をはじめてから、もう十年以上が経過していた。
人生の大半を一緒に過ごしてきた大切な彼女だ。亜矢子が患っている病気を完治させ、退院したらプロポーズをしようと晃は心に決めていた。
「体調はいいと思うわ。来週、また検査があるけどね」
「そっか。症状や結果については、また梶先生から勉強させてもらうよ」
何を隠そう、晃が医師を目指した理由が亜矢子の存在であった。やらなくてはいけない目の前の仕事だけで必死なくせに、晃には亜矢子の病気を治したいという、どうしても叶えたい目標があった。
「わかっているとは思うけど、わたしのことより、今晃が担当している患者さんのことを優先してね?」
「大丈夫、わかってるよ。でも俺が白衣を着ている理由は、お前だってことは忘れないでくれ」
「もー、晃の愛って重い!」
そう言って笑う亜矢子のひどくやせ細ってしまった手を、晃は優しく擦った。
「相変わらず白い肌だな。今度天気の良い日に、外に遊びに行こうな」
亜矢子は手足が満足に動かせないだけで、外に出て支障のある病気ではない。
「ふふ、白雪姫目指してますから。……というのは冗談で、外でデート、いいわね。でも、晃すごく忙しいから、そんな時間ないんじゃない?」
亜矢子がグリム童話の『白雪姫』が好きだという話を、晃は何度も聞かされていた。
白雪姫の、王妃に何度も騙されてしまう素直なところが愛おしく、七人の小人たちの懸命なところが可愛らしく、死んでしまった白雪姫に一目惚れした挙句、国へ連れて帰ろうとする王子の偏愛がたまらないのだと言っていた。
病気のせいで手足の運動神経が鈍り、本のページを捲くることが難しくなった今でも、亜矢子は月に一回は『白雪姫』を読もうと心がけているようだった。医師の立場から見ても、読書はリハビリも兼ねるため推奨している。
「時間っていうのは、作るものなんだよ」
「ありがと。でもさっきも言ったけど、担当している患者さんを優先してね。わたしはまだまだ元気だから」
亜矢子はそう言って、晃に包まれている手をか弱い力で動かしてみせた。
「……ねえ晃。わたしが死んでも、死体を引き取って愛してくれる?」
「おいおい、亜矢子は白雪姫じゃないし、俺は王子じゃないぞ? 第一、亜矢子は俺が死なせないんだから、そんな弱気なことを言わないでくれよ」
「はーい、ごめんなさーい」
亜矢子のためにすべての時間を勉強に費やし、医者になった。
亜矢子の病気は確かに難病だが、これで治せないなんて報われない話はないと、晃は信じて疑わなかった。
この前向きで熱い性格こそが、三島晃の特徴だった。
◇
亜矢子の見舞いも終わりいよいよ帰ろうと病院を出ると、旭幸之輔が女性と話しながら歩いているのを見た。
あの旭幸之輔は、一体どんな女を連れているのだろう? 好奇心に勝てず、晃は気づかれないようにふたりの様子を盗み見た。
幸之輔と話している女は、あどけない少女の可愛らしさと、大人になりかけの色気の両方を身に纏った、着物のよく似合う絶世の美女であった。
さすが旭幸之輔、連れている女も良い女だなと思いつつ駐車場に向かった晃は、車を見てぎょっとした。ライトが点けっぱなしになっていたのだ。
慌てて運転席に座ってエンジンをかけようとしたが、何度キーを回しても、案の定かからなかった。
「うわあ~……マジかよ……誰か気づいていたら、教えてくれればいいのにー……」
バッテリーが上がってしまったのだ。今からJAFを呼んで助けてもらうとしても、時間も金もかかるのは間違いない。一分でも早く帰りたいというのに、疲れた体に酷い仕打ちだ。
大きな溜息を吐いて車を出ると、
「やはり、バッテリーが上がっていましたね。念のため車を呼んでいて正解でした」
そこには幸之輔が立っていた。彼の斜め後ろには晃が見た着物美人もいて、晃を見て一礼した。よく見れば彼女の瞳の色は灰色であり、着物だから疑いもしなかったが純日本人ではないようだった。
「安心してください、三島先生。もう三分もすれば、俺の家からブースターケーブルを乗せた救援車が到着します。少しお時間はいただきますが、そこはご勘弁を」
「え? な、なんで……?」
「無人の車にライトが点いていれば、バッテリーが心配になりますから。普段はここまでしないのですが、ここは職員用の駐車場です。妹が世話になっている病院の先生には、出来るだけ便宜を図りたいですから」
「あ、ありがとう。本当に助かるよ!」
幸之輔は優しくて実にしっかりした青年だと、晃は感心した。
「妹さんに関することだけはお優しいですね? やりすぎて気持ち悪いとも思いますけれど」
清楚な容姿からは想像もできない単語が彼女の口から零れ落ちるのを聞いて、晃は愕然とした。
「損得を考えて行動した方が効率がいいのは、世の中の条理だ。当たり前だろう?」
幸之輔の言葉にも耳を疑った。彼の性格に難があるという噂は、どうやら間違いではなさそうだ。
「ま、まあまあふたりとも、喧嘩はしないで」
「……喧嘩? どこがです? 俺たちはいつも通りですよ」
「お見苦しいところを見せてしまい、申し訳ございません先生。彼の口が悪いのがすべての元凶なのです」
晃は苦笑いを浮かべた。
「……えーっと……ふたりは気心の知れた仲みたいだけど、もしかして恋人同士だったりするのかな?」
救援車が来るまで場を持たせようと明るい話を振ったつもりだったのだが、晃の質問に気分を害したのか、幸之輔は露骨に嫌な顔をしてみせた。
「まさか。俺はもう少し女を見る目はあると思いますよ」
「先生、わたしの名前はエイミーといいます。どうかこの男を診てやってくださいな。目も性格も非常に悪いみたいですので」
「君は口も悪いようだがね」
「あら。お互い様という言葉をご存じですか?」
自分の馬鹿な質問のせいで、険悪な雰囲気を作り出してしまった。何か平和で楽しい話題はないかと頭を捻っていると、
「ところで、先生が医者を目指した理由が恋人の存在だというのは、本当ですか?」
「え!? ど、どうしてそれを!?」
幸之輔から予想もしていなかった質問を受けて、変な声が出た。
「何度も通院しているうちに、自然と知りました。有名な話ですよね? この病院で知らない関係者はいないのではないですか?」
晃は頭を抱えた。飲み会で先輩たちに話したことはあったが、まさかこんなところにまで話が広がっているとは。
人の口に戸は立てられぬという諺が正しいことを、身をもって知った。
「ま、まあ、うん、そうだね」
「あら、素敵なお話ですね。わたしもぜひお話を伺いたいですわ」
恥ずかしいから濁して話を逸らしたかったのだが、そうはいかないようだ。いずれにせよ、救援者が来るまで時間がある。
「じゃあ……つまらない話なんだけど、退屈しのぎに聞いてくれる? 亜矢子……あ、俺の彼女の名前ね。亜矢子とは中学校のときから付き合っているから、もう十年以上一緒にいるんだ」
「とても長いお付き合いをされているのですね。彼女さんのことは、今でも愛していらっしゃるのでしょう?」
「う、うん、なんか恥ずかしいな」
エイミーがあまりに率直に訊いてくるものだから、晃は年甲斐もなく赤面してしまった。
「俺たちが高校三年生のとき、亜矢子が筋萎縮性側索硬化症を発症してね。君たちはこれがどんな病気かわかるかい?」
「通称ALS。神経変性疾患で、筋肉の萎縮、筋力低下が主な症状として現れる病気ですね?」
「さすが旭くんだね、正解だ。若いうちに発症すると進行が早いのが通例なんだけど、奇跡的に亜矢子は進行が遅くてね。症状はまだ運動障害だけなんだ」
運動障害の他にも、嚥下障害や、言葉を話すことが困難になるといった症状がある。進行が進むと、自力で体を動かすことはおろか、呼吸をすることさえ難しくなる難病である。
「現在治療法がない病気だって知った俺は、すぐに進路希望の変更をしたよ。俺、根が単純だからね。俺が亜矢子の病気を治すんだって、張り切ったんだ。高校三年生から医学部を目指すなんて、周りには無謀だって馬鹿にされたよ。でも死ぬ気で勉強して、なんとか二年の浪人だけで医学部に入ったんだ」
「それなら、現場に立つ臨床医ではなく、治療法を模索する研究医になった方が、近道ではないですか?」
「いや、ALSと戦う人たちと一緒に頑張りたいって思ったし、現場に立つ方が俺の性に合ってるよ。今でも毎日勉強漬けだし仕事も忙しくて大変なんだけど、亜矢子のためを思えば頑張れるんだよね」
そこまで話した後で、晃は更に赤面した。……高校生相手に何を語っちゃっているんだ、俺は。
「ま、まあそんなところだな! まだまだペーペーの研修医なんだけどさ!」
「先生の夢が叶うように、わたしも心から応援いたしますわ」
話が終わったタイミングを見計らったように、ようやく幸之輔が呼んだ救援車が到着し、晃の車にケーブルを繋ぎ始めた。心底助かった思いだ。もし幸之輔がいなかったらと思うと、手間と時間を想像しただけで頭が痛くなる。
「旭くん、本当にありがとう。寧々ちゃんの担当医の山田先生にも、俺が旭くんに助けられたことを伝えておくよ。寧々ちゃんにとって君は自慢のお兄さんだろうし、山田先生から武勇伝を聞いたら、寧々ちゃんも喜ぶよね」
「あら、三島先生が直接寧々さんに伝えてあげればいいのに」
エイミーが不思議そうに首を傾げた。
「あ、うん。他の患者さんなら、コミュニケーションを取るのは大切だよ。でも寧々ちゃんだけは例外で、たとえ医師でも男なら緊急事態以外は寧々ちゃんに話しかけてはいけないって、旭家から言われているルールがあるんだ。だから彼女の担当医や看護師は、必ず女性なんだ。男だと、好意を持つ可能性が否定できないからね」
「それはそれは……大変面倒ですね、心中お察しします。旭家はいわゆる、モンスターペアレントに該当する存在ですね」
エイミーは晃に同情の目を向けた。
「なにを言っている。寧々の可愛さを持ってすれば、当然の対応だろう? 治療のために通っている病院で寧々の心にストレスを増やされては、かなわないからな」
過保護な愛情を少しも迷惑だと考えていない幸之輔と、そんな彼に明らかに引いているエイミーの表情を見比べて、晃はつい噴き出してしまった。
「ところで、旭くんはどうしてこんな時間に病院にいたんだい? 外来の時間はとっくに終わっているし、寧々ちゃんの付き添いってわけではないでしょ?」
「……まあ、少し。私事で人に会う用事がありましてね」
「それって、だ……」
幸之輔とプライベートで会う人物は誰か気になって訊こうとしたとき、救援車の方から「幸之輔様、終わりましたー!」という声が聞こえた。
「終わったようです。それでは、俺たちはここで失礼します。三島先生、毎日お忙しいとは存じますが、どうかお体をご自愛ください」
「あ、本当に助かったよ。どうもありがとう」
晃が頭を下げると幸之輔は救援車を引き上げさせ、エイミーと共に去って行った。
車で帰らないのかと疑問に思ったが、ようやく帰れるという喜びが優先してすぐに忘れてしまった。車に飛び乗った晃は、車内が綺麗に清掃されているだけでなく、差し入れのドリンクまで置いてあることに驚愕した。
「……後で高い請求がきたりしないよな……?」
JAFにはない旭家のサービスに、感動と不安を覚えた。
◇
翌日、出勤直後に晃は衝撃的なニュースを聞かされた。
「え!? 小松先生が異動されるんですか!?」
「そうなの、医局から急に通達があったみたいでね……新しい先生がくるまで早くて一ヶ月はかかるらしいから、それまで皆で力を合わせて頑張りましょうね」
頑張りましょうと言った丸山看護師の表情は疲れていた。ただでさえ毎日人手不足を訴えている現状だというのに、内科の小松先生が異動とあれば、ただでさえ少ない休みが一切なくなることは容易に想像できる。
「は、はい……ガンバリマス……!」
晃は顔を引きつらせながら笑った。
晃が落胆しようとも、患者には全く関係のないことだ。その日も晃は身を粉にして働き、午後休憩のタイミングでふらふらの体を引きずって、なんとか亜矢子の病室に顔を出した。
亜矢子は晃の姿を認めると穏やかに微笑んだ。その笑顔を見ることが、晃にとって何よりの栄養剤みたいなものだった。
「亜矢子、具合はどうだ?」
「わたしは調子いいよ。わたしより、晃の方が疲れてるんじゃない? 顔色、よくないみたいだけど……」
「ん? 平気平気! それよりさ、聞いてくれよ。昨日、あの旭くんと話をしたんだ」
「え! すごい! いいなあ、どんな子だったの?」
亜矢子も当院の患者として例に漏れず、旭幸之輔の存在を知っている。
「いやー、とても年下とは思えない貫禄だったよ。あと、妹さんに対してすごく過保護で驚いた」
「へえーそうなんだ。わたしも話してみたいなあー」
羨ましそうに話す亜矢子の顔を見ていたら、晃の胸に一抹の不安が過ぎった。
「……まさか、旭くんのこと好きになったりしないよな?」
「それはわかんないよー? 格好良すぎて、すぐにぞっこんになっちゃう可能性もあるかもね?」
「……医者の権限を使って、ふたりの接触を回避させてやる」
「ふふ、冗談だよー。わたしには晃がいるもんね」
そう言って亜矢子は笑った。月並みな言葉しか出てこないが、晃は亜矢子の笑顔が何よりも好きだ。この笑顔をずっと見ていられるなら、なんでもできると思った。
「でも確かに、旭くん格好いいからなあ。よし! 亜矢子が心奪われないように、俺が亜矢子の病気を治して惚れ直させるからな!」
「……うん」
晃が目標を口にすると、いつもなら「ありがとう、頑張ってね」と言ってくれる亜矢子は、晃からそっと目を逸らした。
「亜矢子? どうした、気分が悪いのか?」
「……ううん。そんなことないよ?」
「そっか、ならいいんだけど」
時計を見ると、休憩時間は残りわずかだった。
「そろそろ戻るよ。……あ、そうだ。急なんだけど、内科の小松先生の異動が決まったんだ。人手不足でこれからもっと忙しくなると思うから、もしかしたら顔を出す機会が減るかもしれない」
「そっかあ……うん、ここが踏ん張りどころだね。わたしのことは後回しでいいから、目の前の患者さんに一生懸命になってね」
「わかってる。亜矢子のことを後回しって言い方はしたくないけど、患者さんには今まで以上に真摯に対応するつもりだよ」
「うん、頑張ってね。応援しているから」
理解のある彼女で本当に良かった。自分よりも他人を大切にするその優しさも、亜矢子の魅力の一つだ。
いつものように亜矢子の手を握った。今までなら微力でも握り返してくれたその手は、今日は晃に握られるがままだった。
やはり心のどこかで、会える時間が減ることに落胆する気持ちがあるのだろうか。
晃はそんなことを思いつつ、亜矢子のためにももっと頑張ろうという気持ちを奮い立たせて、病室を後にした。
小松先生の異動後、晃の日常は想像以上に目まぐるしく変化した。
亜矢子の顔は一日一回、三分も見られればいい方で、あとはひたすら仕事と勉強の毎日だった。
忙しいという文字通り心を亡くしかけたときもあったが、患者さんに「ありがとう」と言われることで晃の心は救われた。
元々、恋人の存在がきっかけで医師を目指したくらいには情に厚い男である。感謝されればもっと患者のためにと仕事にのめり込み、文句を言われれば自分の腕のなさを反省して、より多くの勉強と実践を重ねた。
それは医者として至極真っ当で、理想的な在り方だった。
医者としての晃の毎日は、客観的に見れば充実しているものだった。
◇
目の前のことに無我夢中で、時間の感覚もないまま時は流れていた。
「もうすっかり秋ですねえ」
「本当ですね。これから寒くなってくると、また患者さんが増えてきますよ」
晃は看護師たちの会話で季節の移り変わりに気づかされた。小松先生が異動してからもう、一ヶ月が経過していたようだ。
忙しさのあまり、亜矢子に会いに行けたのも最初の一週間だけだった。
彼女の担当医である梶先生が「矢野さんの症状に変化はないよ。何かあったら僕から報告するから、彼女のことは僕に任せて君は目の前の仕事に取り組みなさい」と言ってくれたこともあり、亜矢子の病室から足が遠ざかっていた。
だがようやく医師が一人増えて、晃にかかる負担が減りつつあった。久しぶりに亜矢子の顔が見たいと思った晃は、休憩時間を利用して彼女の病室へ足を運んだ。
晃の好きなあの優しい笑顔に会えることを期待して、一○七号室の扉を開いた。
――だが、そこで晃が見たのは、目を疑う亜矢子の姿だった。
亜矢子の手足はますます細くなっていて、頬の筋肉もより衰えていた。
どう見ても、症状は悪化しているとしか思えない。
「……わたし、もう、すぐ、かいわ……が、できなく、なる」
愕然とする晃に、亜矢子がたどたどしく言葉を紡いだ。
彼女の発声は以前よりもずっとゆっくりで、活舌の悪さも際立っている。言葉を発するのが困難になるという、ALS患者の末期的症状が現れていた。
「そんな……なんで……俺、梶先生から何も聞いてない……」
「わたしが、くちどめして、おいたの。かんじゃの、いしって、ゆうせん、される、べきでしょう? ここさいきん、きゅうげきに、しんこうが、すすんで、らしくって、こきゅうきの、とりつけも、じかんの、もんだい、だって」
人工呼吸器の取り付けは、自力で呼吸が出来ないことを意味する。確実にやってくる無慈悲な未来の訪れを受け入れているのか、動揺を隠し切れない晃とは対照的に、亜矢子は晃の顔をしっかりと見据えていた。
「ずっと、がまん、してた、けど……こえが、だせなく、まえに、どうしても、あきらに、いいたい、こと、あるの。わがまま、いうけど、わらって、ながしてね? こんな、いうの、いちど、にするから」
亜矢子の瞳はゆっくりと涙を溜めていった。声を出せば零れてしまうのを懸念してか、なかなか言い出さずにいた亜矢子の手を晃は握った。
ぞっとする程か弱く、力のない手だ。それなのに、震えているのは晃の方だった。
亜矢子は深呼吸をして唇を開いた。
「……あきら、わたしの、ために、ずっと、がんばって、しってる。わかってる。でも、それでも……べんきょう、の、じかんを、いっしょに、すごしたかった。おしゃべり、したかった。ふつうの、デートを、わたしも、したかった、んだよ」
頭上から、大きな大きな岩を落とされたような気分だった。
今まで亜矢子のためにしてきた努力や思い出をすべて否定されたような、絶望という言葉が当てはまる心境に陥った。
「……俺は、お前のためを思って……」
「うん、だから、いっかい、って、まえおき、した。ほんと、あきら、には、かんしゃ、してる」
長い間亜矢子の病気を治そうと勉強してきた晃には、いくら晃が亜矢子の手を握ったとしても、もう亜矢子が握り返してくれることはないとわかってしまった。
晃が治療法を見つけられるまで、亜矢子の命は持たない。
「……だいすき、だよ、あきら」
亜矢子の愛の言葉も、素直に受け取ることができなかった。
その後、亜矢子と何を話したのかはよく覚えていない。
亜矢子がたった一度だけ口にしたあの言葉だけが、脳裏を巡って離れなかった。