陽路は幸之輔とエイミーと共に、再び学校に戻って来た。

 空には星が輝いていた。帰りが遅くなることを母親に連絡しなければと、陽路はこれから起こることへの不安と少しの興奮を抱きながら頭の片隅で思った。

 年下には見えない威厳を漂わせながら陽路の前を歩いていた幸之輔は、グラウンドに設置してあるサッカーゴールの前で立ち止まった。そして鞄からは購入した『泣いた赤鬼』の本を、胸ポケットからは何か細いものを取り出した。

「……それって、万年筆? その本にサインでも書くつもりなの?」

 陽路が冗談のつもりで言うと、幸之輔は不敵な笑みを浮かべた。

「いいや、作者になるのさ。これくらいの文章量だったら、すぐに終わる」

 そう言って本を開いた幸之輔は、手にした万年筆で本に文字を書き込んでいった。

「ちょっと、何しているの!?」

 ぎょっとした陽路を無視して、幸之輔は黙々と手を動かし続けていた。助けを求めてエイミーを見たが、彼女は不介入を決めているのか動じず、ただ幸之輔を見ているだけだった。

 どうすればいいのかわからず狼狽した陽路だったが、今幸之輔に声をかけても無視されるだけだ。エイミーを見習って彼女と同様、ただ待つことにした。

 幸之輔の顔をこんなに間近で真剣に見るのは初めてだった陽路は、彼の顔は芸術家によって精密に作られた像のようだな、という感想を抱いた。

 外見だけなら、吸い込まれてしまいそうな美しさだ。ファンクラブの人たちの気持ちが、ほんの少しだけ理解できた気がした。

「終わったぞ。……それにしても君、人の顔を見るのに少しは遠慮や恥じらいを持つのも、礼儀ではないか?」

「べ、別に見てないわよ! ぼーっとしてただけ!」

「まあいい。今からは呆けず、瞳を開いてよく見ておくといい」

 幸之輔が万年筆のキャップを閉めると、瞬間、彼が手にしていた本から光が溢れ出した。

 その光は陽路を含めて、グラウンドの地面から夜空まであっという間に広がり、やがて上下左右すべての空間には何かの映像が映し出されていた。

「こ、これって……『泣いた赤鬼』!?」

「ご名答」

 陽路がそう判断できたのは、赤鬼と青鬼が仲睦ましげに語り合っている映像と、赤鬼が人間と仲良くしたくて里へ降りていく映像を見たからであった。

「今見えているのが、君の知っている『泣いた赤鬼』だが……さて、物語が変わるのは、これからだよ」

 陽路の背後から現れた映像は、青鬼が去った後、一度は泣いていた赤鬼が涙を拭いて立ち上がり、人間に青鬼の無実を証明するために事情を説明しているものと、旅立った青鬼を赤鬼が自力で探して連れ戻し、人間たちと一緒に皆で仲良く暮らしていくというものだった。

 こんな展開は『泣いた赤鬼』には存在しないはずだ。これは一体なんだろうと思っていると、陽路の知らない展開を見せた映像は、青鬼からの手紙を読んで涙する赤鬼の映像の上に重なり、原作通りの映像の方は空間の中から消えてしまった。

 幸之輔に理由を問うより先に、陽路たちを囲む空間は再び光り出し、彼が手にした本に収束されていった。

 陽路が現実に戻ってきたことを認識したのは、幸之輔に本を渡され、映像のない普通の星空を見上げたときだった。

「……今のは、現実? 夢?」

「ずいぶんとロマンティックな発言をするのだな。問題ない。物語は無事に改変された」

「改変……つまり、物語の内容が変わったってこと?」

「そうだ。今現在世の中に知れ渡る『泣いた赤鬼』の内容は、赤鬼と青鬼、そして人間が仲良く暮らして終わる結末のものになっている。改変前、原作通りの『泣いた赤鬼』の話を知っているのは、この世で俺とエイミー、そして君だけだ。誰かに話したところで変人扱いされるだろうから、黙っている方が賢明だぞ」

 相変わらず幸之輔の言葉は意味不明なものだったが、不思議と嘘は吐いていないのだろうと思った。

「……旭くんって、格好いいのは外見だけなのかもね。変人だわ」

「変人で結構。君は偽善者で自己満足に溺れる、俺には理解し難い人種だがね」

「わかっていただけなくて結構よ。わたしも、旭くんのことを理解するのは諦めたしね」

「だが、多勢から友人を庇ったその度胸だけは単純に評価に値してもいいと思ってね。人間関係の興味も手伝って、今回は少しばかり関わらせてもらった」

「……すごく上から目線なのね」

 呆れる程自分のことしか考えておらず、人の気持ちなんてわかろうと努力するどころか好奇心の対象としか捉えられない幸之輔は、一言で言ってしまえば性格が悪くて、腹が立つやつだ。

 腹が立つからこそ――こんな男について、朱音と話をしたいと思った。

 朱音とまた普通に話せるようになる日がくるならば、幸之輔とふたりで話したという自慢をしつつ、彼の真の顔を教えてやろうと思った。

 傲慢で、口が悪くて自信家で、顔で得しているだけで普通なら絶対に近づきたくないタイプの男だが、意外にもボケていて、可愛いところもあるのだと。

 そんな幸之輔を、朱音はどう思うだろうか。彼に夢を見ている彼女のことだ、青い顔をして幻滅もありうる。表情豊かな朱音の顔を想像すると、なんだかおかしかった。真っ黒になっていた心が澄み渡っていく気分だ。

 やっぱり、朱音と仲直りしたいと思った。

「さて、もう遅い。帰るぞ。君の家はどっち方面だ?」

「桜町方面だけど……え? 一緒に帰るの?」

「当たり前だろう。こんな時間に女が一人で歩くのは危ない。それに、俺はまだ君からマジックを教えてもらっていない」

 それは陽路にとって、あまりにも不意打ちの優しさだった。

「……もう、ちょっと待ってよ!」

 陽路の返事を待たず、女の歩幅も考慮せずにさっさと歩き出してしまった幸之輔を慌てて追いかけると、

「彼が前を歩いていて良かったですね。赤くなってしまった頬を、見られずに済みますもの」

「きゃあ!」

 いつの間にか隣にいたエイミーに驚き、陽路は声をあげてしまった。

「ち、違います! 別に赤くなってなんか――!」

「わたしとしては、貴女のそんな顔を見ることができてとても嬉しいですよ。なにせ、とても貴重な表情ですから」

「もう、からかわないでください! わたしは別に、ぜんっぜん、旭くんにときめいたりなんかしていませんから!」

「あら? わたしは貴重な表情と言っただけで、ときめいたかなんて言っていませんよ?」

 エイミーと自分は初対面なのに貴重とはどういう意味だろうという疑問が頭を過ぎったが、エイミーは幸之輔の彼女で立場上嫉妬しているものだと推測し、陽路は芽生えかけた気持ちを否定することを優先した。

「違いますって! ……ほ、ほら! 旭くんに追いつけなくなりますよ! 急ぎましょう!」

「そうですね。あまりに遅いと、苛立った彼に手を引かれてしまうかもしれませんしね」

 ところが、エイミーは嫉妬どころか、陽路の反応を楽しんでいるように見えた。

 そのことが、負けず嫌いな陽路にとって少々癪に障った。

「……旭くんって、学校ではとても女子人気が高いんですよ? うかうかしていると、どこかの美人に彼を取られちゃうかもしれませんよ?」

「あら、そうなったら彼には高校生らしい健全なお付き合いをしてほしいものです。ところで、その可能性が貴女ということはないのですか?」

 ああ、ダメだ。陽路はエイミーを言い負かすことはできないと、早々に胸中で白旗を挙げた。

「わたしは……遠慮しておきます。わたし、もっと素直で明るい、優しいスポーツマンがタイプなんです」

「すべて彼にないものですね。確かに彼、頭は良いらしいですが……一般人の感覚や常識からかけ離れていて、扱い辛いのが厄介です」

「そうなんですよ! あの人、こんな手品もわからなかったんですよ? 小学生でもわかる簡単なヤツなのに!」

 陽路がシュシュを使った手品をエイミーに見せると、エイミーはすぐに同様の手品をやってみせた。

「……あの人、本当は馬鹿なのかもしれませんね」

 ふたりは夏の星空の下で、幸之輔を追いかけながら笑った。