短調のはずなのに、その旋律にはどこか希望を感じた。僕は不思議でたまらなかった。彼女の“月光”は、どうしてこうも華やかな音を響かせるのか。

 ピアノソナタ第14番嬰ハ短調 作品27-2 『幻想曲風ソナタ』、通称“月光”。楽聖ベートーヴェンが作曲した、様式破りのソナタ。
 僕はクラシックの中でも、特にこの曲が好きだ。



 僕と彼女が出会ったのは、互いに小学3年生の頃だった。2人にとって、初めて参加したピアノコンクールだった。結果は2人して散々だった。だけど僕は、その時初めて他人の弾くピアノに魅せられたのだ。

 ピアノに正解はない。楽譜はあれど、それらはすべて演奏者の解釈に委ねられる。ベートーヴェンは何を思い、ここにクレッシェンドを用意したのか。何を思い、ピアニッシッシモを用意したのか。僕らは作曲者ではないから、その楽譜に作曲者がどんな思いを込めたのか、想像して弾くしかない。

 けれど、それが楽しい。自分が楽譜を解釈するのも、また他人が解釈したピアノの演奏を聴くのも楽しい。僕は小学3年の頃から、ピアノの虜だった。



 そんな僕が、初めて味わった感覚。それが、彼女の弾くピアノだった。音粒ははっきりしているのに、どこまでも繊細で、それでいて鮮烈な、光の中にいるような。“月光”は短調の曲のはずなのに、彼女のピアノはどうしてこんなにも、軽やかな音を放つのだろう。

 高校生になった今も、僕は彼女のピアノに心を奪われたままだった。僕にはどうしてもあの音は出せない。いつしか僕はその思いの対象を、彼女自身にまで向けるようになっていった。

「お疲れ様。今日もいい音だったよ」

 僕は演奏を終えた彼女に向かってそう言った。他の演奏者たちは、緊張感が漂うステージ脇での僕の場違いな言動に、疎ましそうな視線を向ける。

「ありがとう。相変わらず、君は緊張感がないね」

 彼女は皮肉じみた発言をした。別に構わない。

「緊張はしているけど、素晴らしい演奏を素晴らしいと言うことは、何もおかしなことじゃない」

 だってそうだろう? 素晴らしいピアノには、相応の評価があるべきだ。それに僕の緊張と彼女の演奏に、因果はない。

「私は今日のコンクールに懸けてるの。他の参加者だって、少なからず似たような思い入れを抱いているはず。私の演奏を褒めるのは結構だけど、まずは自分の演奏に集中すべきじゃない?」

 確かに、今日僕らが参加しているコンクールは並の規模ではない。このコンクールで入賞を果たせば、メディアに取り上げられる可能性もあると聞く。参加者たちの雰囲気が普段よりピリついているのは、そのせいかもしれない。

「じゃあ、君のその言葉は激励として受け取っておくよ」

 彼女はやれやれという様子で肩をすくめ、笑った。

「ちゃんと、聞いてるからね」

 という言葉を残し、彼女はその場を後にした。

 さて、僕も。ずっとヘラヘラしているわけにもいかない。彼女の演奏を超えて、最高の演奏を。まだ誰も聞いたことのない、“月光”を。
 夜の音楽室というのは、実に恐ろしいものだ。それこそ、壁に飾られたモーツァルトやショパン、チャイコフスキーなんかの肖像画が動き出すような気がして、僕を震え上がらせるのだ。夜の学校に忍び込むなんて、そう簡単なことじゃない。けれど僕は、やってのけた。それも、彼女の手招きによって。

「12時になった。演奏会を始めようか」

 彼女はピアノの前の椅子に腰掛け、鍵盤に滑らかな指を沿わせた。息をひとつ吸って、音を紡ぎだす。曲はもちろん、“月光”。

「“月光”を聞くと、どういうわけか、本当に夜の月を思い浮かべるんだよね」

 僕は彼女の“月光”を聞きながら、そんなことを言った。荘厳でいて美しく、物悲しい音色は、聞いた人の心に不思議と夜の月の情景を思わせる。

「“月光”という名前だからだよ」

 彼女はピアノを弾きながら、静かな声でそう言った。夜の音楽室を照らすのは月光だけ。その光景は不気味でありながら、幻想的でもあった。

「月光と聞いて月を思い浮かべるのは当然だよ。短調の曲だから、昼間じゃなくて夜。この旋律に、夜の月を明確に表す音は存在しない。たとえばこの曲のタイトルが“妖精のダンス”なら、君はそのシーンを想像するでしょう?」

 僕は騙されたと思って、彼女が奏でる旋律に“妖精のダンス”という名前をつけてみた。するとどういうわけか、目に浮かぶのは月夜に踊る妖精の姿だ。

「たしかにな」

 と僕が言うと、彼女はほらね、とでも言いたげな表情でわずかに胸をそらした。

「なぁ。君はどうして、僕をここに呼んだんだ? それもこんな遅くに」

 先生の目を盗んで学校に忍び込むなんて、本当にヒヤヒヤした。それも彼女にもらった手紙が原因だ。教室の机の中に手紙が入っていた時は、……いや、正確には手紙を書いたのが彼女だと分かった時は、本当にびっくりした。手紙にはこうあった。

 “今夜12時、音楽室で待ってる”

 最初は目を疑ったけど、でも僕はこれが彼女からの手紙であることを確信した。彼女は夜中の0時のことを、“夜の12時”というから。

「聞きたいことがあったの」

 彼女はそう言って、演奏をやめた。音楽室は、しんと静まり返った。

「“月光“は、どんな曲だと思う? 君の意見を聞きたい」

 彼女は椅子に座り直して、僕に挑戦的な笑みを向けてきた。いいだろう。付き合ってあげるよ。君と僕の2人きり、おそらく最初で最後の音楽の授業だ。
「入賞おめでとう」

 1週間前のコンクールで僕の入賞が決まったとき、彼女は僕にそう言った。僕は彼女のその言葉を、素直に受け取れずにいた。理由は単純だ。僕の演奏より、彼女の演奏の方が、よほど入賞に相応しいと思ったから。あの“月光”は、他の参加者の演奏とは比にならないほど優れていた。けれど、彼女の演奏は賞を得ることができなかった。

 あのコンクールに懸けている、と彼女は言った。だからなのか? だから君はあの日──。



「“月光”はどんな曲だと思う? 君の意見を聞きたい」

 僕は少し、目を伏せた。

「……絶望」

 あの重苦しい音色。

「あれは絶望や、恐怖の類の旋律だ。あるいは、底知らぬ恨み」

 つまらないことを言っている自覚はあった。けど、これくらいしか答えは浮かばない。

「答えを聞いているんじゃないの。私が聞きたいのは、君がこの曲を聞いて、何を感じたか、だよ」

 彼女はやけに思い詰めた表情で、そう言った。

「僕は……この曲を聞くと、泣きたくなる」

「────どうして?」

 僕は目を閉じて、頭の中で“月光”の第1楽章を再生した。絶望的な音色だ。まるで、ピアノが独りで泣いているような……。

「あれは、ピアノの号哭だ」

「号哭?」

 彼女は首を傾げた。

「“月光”を弾くと、ピアノが泣く。あの音色は、ピアノの泣き声なんだ。どうしてかは分からない。だけど僕は……あれはピアノのアリアであり、号哭だと思ってる」

「へぇ。それは演奏者の感想だね。私にその発想はなかったよ。あるいはその感想こそが、君のピアニストとしての特徴なのかもしれない」

 彼女の暗い顔を、月光だけが照らしていた。

「君はどう思うんだ?」

 僕は彼女に聞き返した。

「……私は、君の“月光”を初めて聞いた時、泣いたよ」

 それは初耳だった。初めてというと、小学3年生の頃、僕と彼女が初めて出会ったコンクールの時だ。そのコンクールの課題曲が、まさに“月光”だった。

「魂が震えたの。ピアノのあんな音色は聞いたことがなかった。今思えば、あれは確かに、ピアノの泣く声だったかもしれない」

 僕は今更、彼女が涙を流していることに気づいた。

「君の演奏を聞いてから、自分の演奏がつまらなくて仕方なかった。楽譜どおりの演奏……別にミスをしたわけじゃない。でも、何かが決定的に欠けていた。それが何なのかは分からない。でも、足りない。圧倒的に、君のピアノには追いつけない。自分の音が、何もかも信じられなくなったの。……1週間前のコンクールで、私たち、また“月光”を弾いたよね。あの時、私の音は、完全に壊れちゃったんだ。私のピアノ、人生。私という存在までもが」

 まさか。それで君は、1週間前のあの夜──。

「あの夜も、この音楽室で月光を弾いた。その時気づいたの。“月光”は、本当にただ悲しいだけの曲なのか?」

 彼女は窓の向こうを見る。その細い首筋は白く滑らかで、僕はドキッとした。

「そうじゃないわ。私の“月光“は、悲しい曲じゃない。……ねぇ、こんな解釈をしたことはない? もし“月光”が、明日への希望を綴った旋律なら。暗い毎日からの脱出をテーマにした曲なら? そうしたら、月光は未来への明るい道筋になる」

 世界の色が、まるで変わって見えた。今まで見えていた景色は全てモノクロームだったんじゃないかと疑うくらい。

「私は、この世界が息苦しかった。君の才能が、私の才能を覆い隠してしまうから。君のピアノは、他の誰とも違う。私も、誰かとの違いが欲しかった。特別になりたかった。私が私という1人の人間なんだって証明するために──」

「そのために、君はあの日、この窓から飛び降りたのか?」
 先日のピアノコンクール。彼女は演奏を終えた僕のところにやってきて、こう言った。

「死にたくなるくらい、素晴らしい演奏だったよ」

 その夜、彼女は学校に忍び込んで、音楽室の窓から飛び降りた。その日は綺麗な満月だった。彼女は、死んだ。

 なら、僕が今話しているのは誰なのか。これももちろん彼女だ。幽霊とか、そんな類なのだろう。驚きはなかった。いやもちろん、あれから1週間後の今日、彼女の姿を見た時はさすがに鳥肌が立ったけど。それよりも僕は、彼女に会えたことが嬉しかった。だってまだ、別れも告げられていないのだ。自分の思いすら、伝えられずにいるのだ。

「月が綺麗な、いい夜だった。あの時、私は少しだけ、ベートーヴェンに近づけた気がしたんだ。私は今でも、クラシックの中では“月光”が1番好き。あの曲は、私の全てなの。あなたのピアノに全てを奪われた、私の心」

 ずいぶん毒のある言い方をするんだな、と思った。

「ねぇ。ひとつ、聞いてもいい?」

 僕は言った。

「君は、死についてどう思う?」

 かなり間が空いた。彼女はどうやら答えについて考え込んでいるようだった。あるいはその答えを口にすることを、躊躇っているのかもしれなかった。

 やがて彼女は「きわどい質問だね」と、うっすら笑った。

「生きる意味が知りたくて、死んだんだ」

 意味が分からなかった。けど、ここで「どういうこと?」と聞くのはあまりに無粋な気がしたから、やめておいた。

「死は、みんなが言うほど悪いことかな? 私はそうは思わない。食べたり、寝たり。死はその延長線上にある。死こそ、生命の営みだと思う。生きているから死ぬ。死とは、生の象徴だ。後ろめたいことなんか、何もない。死んでみて、やっと分かったんだ」

 彼女の言っていることは難しすぎて、よく分からなかった。けれど彼女はいつの間に泣き止んで、その表情はすっきりとして見えた。

「……僕は、君が好きだった」

 彼女は驚いた様子で、こっちを見た。

「僕は、君のピアノが好きだった。君の笑う顔とか、怒る顔とかが好きだった。君の“月光”が好きだった」

「私の……?」

 彼女は掠れた声で、僕に問いかけた。

「君の“月光”は、誰のものとも違うよ。僕は初めて聞いた時、衝撃を受けたんだ。君のは、短調なのに、全然その悲しさを感じさせない。君の意見を聞いて、やっとその理由がわかったよ。君はすでに、答えを見つけていたんだ。自分の中で、“月光”がどんな曲なのか。その答えを、見つけていたんだ。だからあの演奏ができた。あの演奏は、“月光”に希望を見出した、君にしかできない演奏だった」

 僕は彼女の瞳をまっすぐに見つめた。彼女は、呆気に取られているようだった。

「私だけの、“月光”……?」

 僕が頷くと、彼女は再び、涙を流した。

「あぁ、私にも、あったんだ。自分のピアノが。……見失ってしまうところだったよ。ありがとう」

 僕は姿勢を正して、息を吸い込んだ。夜の空気は冷たかった。

「改めて言うよ。僕は、君が好きだった」

 彼女は僕を責めたりはしなかった。「なんでもっと早く言ってくれなかったの」とか、そんなことは言わなかった。ただ、「そっか」と悲しく目を細めるだけだった。
「こんな私のピアノでも、好きになってくれる人はいたんだね」

 僕はその時、確信した。彼女もまた、ピアノに囚われている。彼女も僕と同じように、ピアノの虜であり、囚人だ。

「君の意見も教えてよ。君は死をどう捉える?」

 彼女は最後の力を振り絞るように、そんなことを言った。僕は死をどう捉える? 死とはなんだ。何なんだ、一体。

「死は……終わりだ」

 つまらないことしか言えないんだ、僕は。君みたいに、“月光”の新しい道なんか見出せない。

「死んだら、それまで。そのあとはもう、故人に世界は観測できない。そう。それこそ、君みたいに幽霊にでもならなければね。だからこそ、死は同時に救いでもある」

「嫌なことから逃げられる、って?」

「そう。死とは最高の逃げ道だ。現実から目を背けたいのなら、死ねばいい。死ねば全てが終わる。だから人は、自殺する。でも……君は、『生きる理由が知りたくて死んだ』と言った。どういう意味か、聞いてもいい?」

 僕にはそれが分からなかった。それだけが分からなかった。

「私が死んだのは、別に君のピアノに絶望したからじゃない。君のピアノに、もっともっと近づきたいって思ったからだよ。やっと分かったの。“月光”の、本当の顔」

「本当の顔って?」

「……教えない。これは、私の“月光”だから。君のものとは違う。さっき、君が教えてくれたことじゃない。私の“月光”は、希望の音。君のは絶望。何もかも違う。だから教えない。私は分かったよ、生きる理由が。だからもう一度、始めるの」

 彼女は生まれ変わりとかいう迷信を信じているのだろうか。もう一度始める、とはそういうことを意味しているのだろう。生まれ変わって、彼女はまた、ピアノを弾くんだろうか。

「僕には……分からないな」

 きっと、一生わからない。

 彼女は僕に、「最後に君の“月光”が聞きたい」と言った。僕はそれを承諾した。

 僕が月光を弾き始めると、彼女は再び涙を流した。僕は胸が痛くなった。痛くて、悲しくて、苦しかった。ピアノも、彼女も、ずっと泣いている。僕が鍵盤を叩くたび、永遠に、泣いている。まるで、ピアノにこう言われている気がしたんだ。「お前のピアノじゃ、彼女は救えない」と。

 僕は第1楽章の終わりで、演奏をやめた。ふと、辺りを見回すと、彼女の姿がどこにも見当たらなかった。僕はある可能性に思い至り、立ち上がって窓から下を見下ろした。数十メートル離れた地面には、濃くて赤い、血溜まりがあった。彼女は死んだ。それは、彼女の二度目の自殺だった。僕は彼女を二度殺したのだ。

 それから僕は音楽室を出て、家に帰ることにした。

 家に着いて自宅のレッスンルームの電気をつけた時、時刻は1時をすぎていた。僕は弟が野球で使っている金属バットを片手に持って、防音室となっている部屋の扉を閉めた。

 そして、部屋の真ん中に鎮座する黒いグランドピアノをめちゃくちゃに叩き壊した。

 そう広くはない室内に、ピアノの号哭が鳴り響いてやまなかった。

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