夜の音楽室というのは、実に恐ろしいものだ。それこそ、壁に飾られたモーツァルトやショパン、チャイコフスキーなんかの肖像画が動き出すような気がして、僕を震え上がらせるのだ。夜の学校に忍び込むなんて、そう簡単なことじゃない。けれど僕は、やってのけた。それも、彼女の手招きによって。

「12時になった。演奏会を始めようか」

 彼女はピアノの前の椅子に腰掛け、鍵盤に滑らかな指を沿わせた。息をひとつ吸って、音を紡ぎだす。曲はもちろん、“月光”。

「“月光”を聞くと、どういうわけか、本当に夜の月を思い浮かべるんだよね」

 僕は彼女の“月光”を聞きながら、そんなことを言った。荘厳でいて美しく、物悲しい音色は、聞いた人の心に不思議と夜の月の情景を思わせる。

「“月光”という名前だからだよ」

 彼女はピアノを弾きながら、静かな声でそう言った。夜の音楽室を照らすのは月光だけ。その光景は不気味でありながら、幻想的でもあった。

「月光と聞いて月を思い浮かべるのは当然だよ。短調の曲だから、昼間じゃなくて夜。この旋律に、夜の月を明確に表す音は存在しない。たとえばこの曲のタイトルが“妖精のダンス”なら、君はそのシーンを想像するでしょう?」

 僕は騙されたと思って、彼女が奏でる旋律に“妖精のダンス”という名前をつけてみた。するとどういうわけか、目に浮かぶのは月夜に踊る妖精の姿だ。

「たしかにな」

 と僕が言うと、彼女はほらね、とでも言いたげな表情でわずかに胸をそらした。

「なぁ。君はどうして、僕をここに呼んだんだ? それもこんな遅くに」

 先生の目を盗んで学校に忍び込むなんて、本当にヒヤヒヤした。それも彼女にもらった手紙が原因だ。教室の机の中に手紙が入っていた時は、……いや、正確には手紙を書いたのが彼女だと分かった時は、本当にびっくりした。手紙にはこうあった。

 “今夜12時、音楽室で待ってる”

 最初は目を疑ったけど、でも僕はこれが彼女からの手紙であることを確信した。彼女は夜中の0時のことを、“夜の12時”というから。

「聞きたいことがあったの」

 彼女はそう言って、演奏をやめた。音楽室は、しんと静まり返った。

「“月光“は、どんな曲だと思う? 君の意見を聞きたい」

 彼女は椅子に座り直して、僕に挑戦的な笑みを向けてきた。いいだろう。付き合ってあげるよ。君と僕の2人きり、おそらく最初で最後の音楽の授業だ。