放課後。あたしは真っ直ぐ家へは帰らずに、制服のまま近所の川原に行った。土手を半分ほど下ったところで足を前に投げ出すようにして地面に腰をおろす。
 無性に走りたい気分になったわけでもないし、夕暮れの川原の風景を見たかったわけでもない。
 自分でもよくわからないままに、あたしはこの川原にやってきていた。
 目の前を流れていく川の水面を見つめながら、背中の後ろに両手をついて小さくため息をつく。
 このままここにいたら、部活を終えた古澤柊斗が自主トレのためにやってくるかもしれない。
 あいつの顔は見たくない。
 そう思うのに、土手に座り込んだあたしはなかなかそこから腰を上げることができなかった。
 顔は見たくない。だけど、会いたい。
 矛盾する二つの願望が、あたしの中で葛藤してせめぎ合う。
 古澤柊斗の顔を見たらきっと、ここで彼が姉と抱き合っていたのを思い出す。思い出せばまた息苦しくなって、自分が傷つくだけだとわかっているのに。
 矛盾する二つの想いが夕暮れの川原にあたしを留まらせていた。
「あれ、まおちゃん。今日も来てたんだ?」
 結局立ち上がることができないまま土手の中腹に座っていると、背後から草を踏みつけるサクサクという足音が近づいてきた。
 聞きたいようで聞きたくなかった声に話しかけられて、心臓がドクンとやけに大きな音をたてる。
 足音と声を聞いただけでこんなにも動揺するなんて、バカみたいだ。
 あたしは古澤柊斗の顔が見たいわけじゃない。それに、待ってたわけでもない。
 絶対に自分から振り返ったりしないように、背中の後ろについた手をぎゅっと強く握り締める。
「まおちゃん?」
 だけど後ろから近づいてきた彼は能天気な声であたしを呼ぶと、あたしの左隣に腰を落とした。
 気安く隣に座ってきた古澤柊斗の右肩が、あたしの左肩に軽く触れる。
 男の子とちょっと触れるくらい普段は何ともないはずなのに、彼と触れた側の肩が、自分でも驚くくらい過剰に揺れた。
 でも、鈍感な彼は普段とは違うあたしの肩の震えになんて気付かない。
「何してんの?」
 古澤柊斗はあたしの横顔を覗き込むように小首を傾げると、いつもと同じ調子でへらりと笑った。
「別に何も」
「そっか。俺、これから川沿いをジョギングするけど、まおちゃんも一緒に走る?」
「あたし、制服なんだけど……」
「何をいまさら。まおちゃん、ここで走ってるときいっつも制服じゃん」
 あたしがどんな想いで、今隣に座っているか。そんなことも知らないで、古澤柊斗が肩を揺らしながら暢気に笑う。
 いつも笑っていることが多い彼だったけど、なんだか今日は特別に機嫌が良さそうだ。
「今日はやけに浮かれてない?」
 嫌味っぽい声で訊ねると、古澤柊斗は「そうかな」と、へらへら笑った。
 そんなに機嫌がいいのは昨日姉と――。
 ご機嫌な古澤柊斗の笑顔と、昨日この場所で見た光景がリンクする。
 思い出したくなんかないのに、姉を抱きしめている彼の横顔は、今もあたしの頭に鮮明にこびりついたままだ。
 窒息しそうな息苦しさに襲われて、右手で作った拳を胸にぎゅっと押しつける。
 泣いていた姉を抱きしめた古澤柊斗は、あのあとどうしたのだろう。あのあとも、遅くまでずっと姉の傍にいたんだろうか。
 そうして、姉に想いを伝えた? それに対して姉はどう答えてくれた?
 姉は電話でケンカをしていた瑛大くんと未だに仲直りしている気配がない。
 まさか、瑛大くんと別れて古澤柊斗と……。
 そんなの、嫌だ――!!
 一人で勝手に膨らまし続けた想像が、あたしの中で爆発しそうになる。
 ばっと顔を上げると、古澤柊斗が不思議そうな目であたしをじっと見つめた。
「まおちゃん、どうしたの? なんか今日は変だけど……。悩みごと?」
「悩みごと?」なんて。そんな能天気な声で訊いてこないでよ。
 あたしが今苦しいのは、全部あんたのせい。
 古澤柊斗の目を、強く見つめる。
 けれどどんなにきつく睨んでも、彼はいつものようにへらりと笑うだけで、あたしの心の内には少しも気付かない。それどころか、へらへらとした笑みを浮かべたまま、信じられないくらい無神経なことを口にした。
「あ、もしかして恋の悩み? だったら俺が聞いてあげてもいいよ。まおちゃんも詩音さんのこと励ましてくれたし」
「は?」
「まおちゃん。今、好きな人とかいるの?」
 好きな人。そんなの――。
「さぁ、どうだろ。年上の彼氏には着信拒否されて、そのまま会えずに振られたし。昔何度か遊んだ先輩には騙されたし。それからよくわかんない」
 あたしは一度きゅっと下唇を噛むと、どこまでも無神経な古澤柊斗のことをさらに強く見つめた。
「振られて騙されたって……。まおちゃん、それで悩んでたの?」
 古澤柊斗が同情するようにあたしを見ながら、片眉を下げる。
「違う」
 年上の元彼のことも、コージ先輩に騙されたことも。ムカつくことには変わりないけど、あたしの中ではとっくに吹っ切れてる。
 それは、古澤柊斗がここで走っているあたしを偶然見つけてくれたからで。古澤柊斗がいつも、何も考えてないみたいな顔で、バカみたいに無邪気にあたしに笑いかけてくるからだ。
 だけどあんたは……。
 あたしは土手に生えていた草を衝動的にむしりとると、それを古澤柊斗に向かって投げつけた。
「……っぷ。まおちゃん!」
 渋い表情を浮かべて、彼が顔にかかった草を手で振り払う。
「いきなり何?」
「悩みなら聞いてあげてもいいとか……。年下のくせに、ほんとムカつく」
 低い声でそう言うと、彼がわけがわからないとでも言いたげに眉を顰めた。
「さっきから何浮かれてんの? バカみたい」
 続けて低く呟くと、彼が怪訝そうに首を傾げた。
「まおちゃん、今日はやけに機嫌悪くない?」
「だとしたら、バカみたいに浮かれてるあんたのことがムカつくからだよ。浮かれてるのは、昨日ここでお姉ちゃんとふたりで会ってたから?」
「え?」
 あたしの言葉を聞いた古澤柊斗が、驚いたように大きく目を見開く。それからすぐに動揺したように、黒い瞳を左右にうろうろと動かした。
「どうしてまおちゃんがそれ……」
「夕方ここを通りかかったとき、偶然見ちゃった。憧れのお姉ちゃんのこと、抱きしめてみた感想は? コーフンした?」
 嫌味のこもった声で訊ねるあたしの前で、古澤柊斗が困ったように首筋を掻く。
「あれはちょっと、成り行きっていうか……。昨日俺んちに来た詩音さんが、兄貴とケンカみたいになって帰って行っちゃって。兄貴も『ほっとけ』って、珍しくキレてるし。追いかけて話聞いてあげてたら、つい……」
「瑛大くんとケンカして弱ってるお姉ちゃんの心につけ込んだんだ?」
 ピクリと眉を痙攣らせるあたしの前で、古澤柊斗が弁解するように顔の前で横に手を振る。
「もちろん、あとで詩音さんには謝ったよ。そのあと、ちゃんと兄貴のところにだって連れ戻したし」
「ふーん。思いきった行動に出たくせに、お姉ちゃんのこと、あっさり瑛大くんに返しちゃったんだ? せっかく奪い取るチャンスだったかもしれないのに」
「そもそも、兄貴から奪えるなんて思ってないし。俺は、詩音さんが笑顔になってくれたらそれで充分だから」
 照れくさそうに首筋を掻きながら、たらたらと言い訳を述べる古澤柊斗にだんだん苛立ってくる。
「綺麗事言っちゃって、バッカみたい。ほんとはフラれるのが怖かったんじゃないの?」
 あたしに罵られた古澤柊斗の瞳が、傷ついたように小さく揺れる。
 だけど彼は、あたしに何の反論もしてこなかった。
「図星だから、何も言えない?」
 口を開けば、古澤柊斗を傷付けるような言葉ばかりが溢れ出す。
 でも本当は、彼を傷付けたいわけでも悲しい顔をさせたいわけでもない。伝えたいのは、こんなことじゃない。
 胸の中が苛立ちと切なさが入り混じった奇妙な気持ちで支配されて、古澤柊斗の前で頭が正常に働かない。
 あたしは古澤柊斗が着ているスウェットの胸元を両手でぐいっとつかむと、彼のことを下からじっと見上げた。
「前にあんた、言ってたよね。あたしにも、お姉ちゃんに負けないものがひとつくらいはあるんじゃないか、って」
「まおちゃん?」
 胸ぐらをつかまれた彼が、戸惑ったようにあたしを見下ろす。その表情が、苛立ちと切なさが綯交ぜになったあたしの胸を、一層強く締め付けた。
「あるよ、走る以外にも負けないもの。たとえば付き合った彼氏の数。瑛大くんしか知らないお姉ちゃんには、絶対負けない」
 古澤柊斗の目が僅かに見開かれるのがわかる。
「言っとくけど、お姉ちゃんよりあたしの方が経験豊富だよ?」
 挑戦的な目で古澤柊斗を見上げると、ふっと微笑む。
 スウェットをつかむ手に力を入れて引き寄せると、よろけた古澤柊斗があたしのほうに前のめりに近づいてきた。
 あたしも身体を前に少し突き出すと、古澤柊斗の唇に噛み付くように、自分の唇を重ね合わせる。
 あたしに唇を塞がれた古澤柊斗が、痙攣するみたいに小さく肩を震わせた。
 抵抗するように後ろに身を引こうとする古澤柊斗を逃さないように、つかんだままの彼のスウェットを強く引っ張る。
 一度触れた唇をあっさりと離すのはもったいなくて、あたしは古澤柊斗の唇に、角度を変えて何度もキスをした。
 それからゆっくりと唇を離すまで、彼は硬直したままあたしのされるがままになっていた。
「へたくそ」
 あたしが唇を離してもまだ呆然としている古澤柊斗に向かって呟く。
 すると彼はようやく我に返ったようで、手の甲で口元を押さえながら顔中耳まで真っ赤になった。
「まおちゃ…、今っ――!?」
 古澤柊斗があたしを前にしてものすごく動揺しているのがわかる。
 これくらいのキスで動揺するくせに、お姉ちゃんと抱き合ったくらいで浮かれるなんて……。ほんとにバカだ。
 ねぇ。今のあたしのキスを、あんたはどんなふうに受け止めた――?
 睨むみたいに、真っ直ぐじっと古澤柊斗を見つめると、彼が顔を赤くしたまま困惑した様子であたしから目をそらす。
 その瞬間、胸の奥が鈍い音をたてて疼いた。
 あぁ。違う。そうじゃない。
 こんなの、ただ、古澤柊斗を困らせただけ。
 古澤柊斗は、自分からキスをしたあたしの気持ちになんて少しも気付かない。
「バカ! 無神経!」
 少しも伝わりそうにない想いと胸の痛みを乱暴な言葉に代えて、古澤柊斗に向かって吐き捨てる。
 下唇をきつく噛み閉めると、まだつかんだままでいた彼のスウェットから手を離した。
「まおちゃん?」
 古澤柊斗が戸惑ったような声であたしを呼ぶ。
 あたしは唇を噛み締めながら俯くと、彼の肩を突き飛ばすように向こうへ押しやった。
 鞄をつかんで立ち上がると、無言で土手を駆け上がる。
「まおちゃん!」
 古澤柊斗の声が、走って立ち去ろうとするあたしを呼び止める。その声にトクンと胸が震えた。
 だけど、かなり捨て身の行動に出てしまったあたしには、振り返って古澤柊斗の顔を確かめることなどできなくて。呼び止める彼の声を無視して、そのまま全速力で走った。
 自宅の近くまできたとき、あたしはようやく走るのをやめた。
 立ち止まって深い息をつくと、それに合わせたかのように両目から零れ出た涙が頬を滑った。
 下を向いて涙を拭い、顔を上げる。
 そのとき、自宅から姉と瑛大くんが出てきた。
 肩を寄せ合うようにしながら出てきた二人は、少し離れた場所に立っているあたしの存在には気付いていない。
 家の前で、二人はしばらく向かい合って何か話していた。
 最初は穏やかに見えた二人だったけど、そのうち姉の表情が強張っていく。
 やがて姉が泣きそうな顔で俯くと、その頭のてっぺんをじっと見つめていた瑛大くんが、ため息をつきながら姉の肩に手を載せた。
 それに反応するように姉が少し顔を上げると、瑛大くんが彼女の顎をつかんで引き上げ、そのままキスをする。
 瑛大くんの黒い髪とその横顔が、さっき川原で別れたばかりの古澤柊斗の姿とダブって見える。
 一瞬、姉と彼のキスの場面を見せられているような気がして、息が詰まった。
 喉の奥で擦り切れてしまいそうな呼吸をしたとき、姉と瑛大くんの唇が離れた。
 瑛大くんにキスされた姉が、恥ずかしそうにはにかむ。
 瑛大くんはそんな姉を優しい目で見つめると、その手の平で彼女の頭をそっと撫でた。
 仲直りしたんだ……。
 姉と瑛大くんのキスに、昨日川原で見た光景を思い出したけれど、柔らかな眼差しでお互いを見つめ合う二人の姿にあたしはものすごくほっとしていた。
 家の前で向かい合って立っている二人にゆっくりと近づく。
「ただいま」
 声をかけると、姉が驚いたように振り返った。
「真音、帰ってたんだ?」
 姉が瑛大くんを気にしながら、恥ずかしそうに目を伏せる。
 さっきのキスを見られてないか、気にしてるんだと思う。
 恥ずかしそうに俯いている姉は、やっぱりとても綺麗だった。そんな彼女を、無感情にじっと見つめる。
 昨日川原で古澤柊斗に抱きしめられたときも、こんなふうに綺麗な表情を浮かべていたのかな。
 きっと姉は、その泣き顔さえも完璧に美しかっただろう。
 あたしの胸の中で、どす黒い嫌な感情がぐるぐると渦を巻く。
 これ以上姉を見ていると、醜い感情を二人の前にぶち撒けてしまいそうで。
 あたしは瑛大くんに軽く会釈して、姉の横をすり抜けて家に入った。

 無言で靴を脱ぎ捨てて、二階に上がろうと階段の手摺りに手をかけたところで、姉も家の中に入ってきた。
「真音、ちょっと待って」
 姉に切羽詰まったような声で呼び止められて、無視しきれずに足を止める。
 振り向くと、姉が何か言いたげにあたしのことを見上げていた。上目遣いにこちらを見つめる不安そうな瞳に、ただ嫌な予感しかしない。
「真音、あの……」
「瑛大くんは? 帰ったの?」
「あ、うん。たった今。真音、あの、私……」
「よかったね。仲直りできたみたいで」
 あたしに言葉を遮られた姉は、あからさまに困った顔をしていた。
「用ないなら、行っていい?」
 まだ何か言いたそうにしながらも黙り込んでしまった姉に、冷たい言葉をかける。
 しばらく待ってみても返答がなかったから、あたしは姉に背を向けた。
「真音、ごめんね」
 不意に、喉から絞り出したような苦しげな姉の声が聞こえてきて、階段を上りかけていたあたしの肩がビクリと震えた。
「ごめん、って?」
 平静を装った声で聞き返したけれど、姉の顔を見られない。
 姉の言う「ごめん」の意味を、あたしは既に薄々感じ取っていたから。
「柊くんに……」
 姉が震える声で、その名前を口にする。それだけで、胸がズキンと痛かった。握りしめた右手をぐっと心臓の辺りに押し付ける。
「柊くんにいろいろ助けてもらったの。瑛大くんと仲直りするために」
「ふーん」
「でも、私は柊くんとは何もないから。だから、ごめん……」
 今にも泣き出しそうなほど震えている姉の声を聞きながら、この人は無自覚に、なんて残酷なんだろうと思った。
 古澤柊斗は姉に気持ちを伝えていないと言ったけど、姉はたぶん、川原で抱きしめられた時点で彼の気持ちに気付いてる。
 それから、彼に揺さぶられているあたしの気持ちにも。
 姉は穏やかで優しいけれど、頭が良いし、鈍くはない。
「どうしてお姉ちゃんが謝るの? あたしと仲が良いと思っていた古澤柊斗が、ほんとはお姉ちゃんのことが好きだったから?」
 胸に押し当てた右手が、小刻みに震える。
「お姉ちゃんは、何にもわかってない。何でも持ってるお姉ちゃんに……。瑛大くんがいるのに、あいつにまで好かれちゃうお姉ちゃんに『ごめん』なんて言われたら、あたしがどれだけ惨めになるか……」
 眉間に力を入れて振り向くと、姉が呆然とした顔であたしを見ていた。
 姉はいつも綺麗で優しくて、音楽の才能があって、何をやらせてもほとんどの場合が優秀で。あたしは小さな頃から、そんな姉に憧れていた。どこに行っても褒められる、自慢の姉だった。
 だけどいつだって、あたしがどうしようもなく欲しいものを。努力したって手に入らないものを。目の前で全部、攫ってく。
 両親の賞賛も、古澤柊斗も……。
 姉のことを強い眼差しで見つめながら、あたしは産まれて初めて、彼女のことを嫌いだと思った。
 いや、表には出せなかっただけで、本当は昔からずっと疎ましく思ってたのかもしれない。
 綺麗で、華やかで、優しくて、憧れで……、そして、誰よりも――。
「嫌い。お姉ちゃんなんて、大っ嫌い」
「真音……」
 子どもみたいに叫ぶあたしを見つめる姉の顔が曇る。
 明らかに傷付いたように姉の瞳が潤むのを見て僅かな罪悪感が芽生えたけれど、突き付けた言葉を翻そうとは思わなかった。
「二人とも、どうしたの? ケンカ? 真音も、こんなところで大声出して……」
 リビングから顔を出した母が、怪訝に眉をしかめる。
「何でもない」
 あたしは母に不機嫌な声をぶつけると、階段を駆け上がって部屋にこもった。
 ベッドにうつ向けに倒れて目を閉じると、傷付いた目をした姉の顔が何度も消えては浮かぶ。
 その夜。夕飯の席で一緒になった姉は、私の顔を少しも見ようとしなかった。