姉と古澤柊斗がデートした翌日。学校に向かって歩いている途中で、恭介と並んで歩く古澤柊斗を見つけた。
早足で近づいていってその背中を鞄で軽く小突くと、「いてっ」と呻きながら、彼が背中に腕を回す。
不審げに振り返った古澤柊斗だったけれど、その視界にあたしの姿を捉えると、途端に人懐っこい笑顔を向けてきた。
「あ、まおちゃん。おはよう」
「あぁ、まおちゃん」
古澤柊斗よりワンテンポ遅れて、気だるそうな顔の恭介も振り返る。
「おはよ」
あたしは振り返った二人に素っ気無い挨拶を返すと、古澤柊斗の顔をじろっと見た。朝っぱらに出会って早々あたしに睨まれた彼が、きょとんとした表情で首を傾げる。
「で? デートはどうだったわけ?」
あたしが訊ねると、きょとんとしていた彼の顔が、徐々にだらしなく緩み始めた。
蕩けてなくなりそうなその顔を見れば、感想なんて聞かなくても姉とのデートがどうだったのか想像できる。デレデレしてにやけている古澤柊斗を見て眉を寄せていると、恭介が呆れたように笑った。
「俺もデートの感想聞いてみたんだけど、ただにやにやしてるだけで何も言わねぇの」
「ふぅん。そんな楽しかったんだ?」
「うん、楽しかった」
嫌味っぽい口調で訊ねてみたつもりなのに、古澤柊斗が笑いながら少しの躊躇なく頷く。
「それに詩音さん、すげー綺麗でめちゃくちゃ優しかった。俺、昨日のデートの思い出があれば、あと一週間くらいは何も食わなくても生きていけそう」
「あっそ」
古澤柊斗があんまり素直に人前で惚気るから、苛立ちを通り越して呆れてしまう。
「で、お姉ちゃんに選んでもらったCDは一体誰にプレゼントするわけ?」
「え? 何でまおちゃんがそれ知ってんの?」
それまで顔全体で惚気ていた古澤柊斗が、急にちょっと慌て出す。
「お姉ちゃんに聞いたから」
やっぱり、クラッシックが好きなクラスメートの話は古澤柊斗の嘘だったんだ。
小さく鼻で笑うと、恭介が興味深そうに口角をきゅっと引き上げた。
「ねー、まおちゃん。それ、何の話?」
「クラッシックが好きなクラスメートの女子にピアノのCDプレゼントしたいから一緒に選んでほしい。そう言って、お姉ちゃんのこと騙してデートしたらしいよ。やり方が汚いよね」
あたしが皮肉っぽく言うと、恭介がけらけらと笑った。
「何だよ、それ。デートの約束したなんていうから、どうなってんだと思った。もしかしたらまおちゃんの姉ちゃんは、柊斗と二人で出かけたことをデートとすら思ってないんじゃない?」
「思ってないだろうね。お姉ちゃん、古澤柊斗のこと弟みたいだって言ってたし」
あたしが恭介の言葉にわざと冷たい口調で同意すると、古澤柊斗が不貞腐れてそっぽ向いた。
「うるせーな。そんなの、二人に指摘されなくたってわかってるし」
低い声でぼやいた古澤柊斗が、足元に落ちていた小石をやけくそ気味に蹴飛ばす。
「ねー、まおちゃん」
遠くに弾けていった小石をしばらく見つめて黙り込んでいた古澤柊斗が、突然はっとしたように顔を上げた。
「クラッシックが好きなクラスメートの女子の話が嘘だってこと、詩音さんには絶対言わないでね」
古澤柊斗が急に、真剣な顔付きであたしを見てくる。その顔を見つめ返しながら、あたしは少し意地悪をしてやりたくなった。
「さぁ、どうしよう」
「まおちゃん!」
肩を竦めながら口元を歪めたあたしを、古澤柊斗が懇願するような目でじっと見てくる。その目をじっと見つめ返して充分な間を置いてから、「言わないよ」と答えると、彼がほっとしたように笑った。
古澤柊斗の笑顔を見た瞬間、あたしの鼓動がトクンと大きく高鳴る。あたしはそれ以上彼の笑顔が見えないように視線をそらすと、唇を真横にきつく引き結んだ。
***
その日の夜。夕飯を食べ終わって部屋でくつろいでいると、姉の部屋からヒステリックな声が聞こえてきた。
いつも穏やかで微笑んでいる印象が強い姉が、声を荒げているなんて珍しい。
一人で怒っているなんてことはないだろうから、誰かと電話で話しているんだろう。
しばらく姉の部屋の様子に耳を澄ませていたけれど、ヒステリックな姉の声は治まらない。
何が起こっているのか気になったあたしは、そっと姉の部屋を覗き込んでみた。
姉の部屋のドアは半分ほど開いていて、その隙間から彼女の様子が見える。
姉はベッドに座ってスマホを握りながら、強い口調で何か言っていた。
「だってそれは瑛大くんが――!」
電話の相手は、瑛大くん?
姉が彼と電話で言い争っているなんて、珍しい。
強い口調で電話口に向かって話し続けていた姉が、突然涙声になる。
「もういい!」
姉は最後に吐き捨てるようにそう言うと、通話ボタンを押してスマホをベッドに放り投げる。
こんなに取り乱して怒鳴る姉を見たのは、記憶の限り初めてだ。
姉の姿に驚いて呆然としていると、あたしの気配に気付いた彼女と目が合った。
「真音?」
姉があたしの名前を呼びながら、指先で目元を擦る。
「ごめん、うるさかった?」
「そうじゃないけど、何かあったの?」
「何でもないの。うるさくしてごめんね」
姉はうっすらと目に溜まっていた涙を完全に拭ぬぐいとると、いつも通り優しく綺麗に微笑んだ。
「瑛大くんと、ケンカでもした?」
「大丈夫。心配かけてごめんね」
あたしの問いかけに、姉が哀しそうな目をして静かに首を横に振る。
その日から数日の間、姉はどことなく元気がなかった。
両親と話しているときも、ご飯を食べているときも、ぼーっとしてときどき上の空になる。
ピアノの練習をするからと部屋にこもっていても、姉の部屋からピアノの音が聴こえてくることはほとんどなくて。珍しく母が、姉のピアノのことで父に愚痴を溢していた。
やっぱり、姉は瑛大くんとケンカしたんだ。
そしてたぶん、あの電話のあとから仲直りができていない。
これまで週に一回はうちに遊びにきていた瑛大くんも、しばらく遊びに来ていない。
いつも仲がいいのに、何があったんだろう。
元気がない姉の様子が気にはなったけれど、あたしは珍しい二人のケンカを比較的楽観視していた。
瑛大くんは大人で優しいから。きっと、しばらく経てば二人は仲直りする。そう思って、あたしは元気がない姉のことを静かに見守っていた。
***
日曜日。あたしはエリナと買い物に行く約束をしていた。
待ち合わせに間に合うように、昼過ぎに玄関で履いていく靴を選んでいると、姉がすごい勢いで階段を駆け下りてきた。
「お母さん、ちょっと出かけてくるね」
「どこ行くの?」
「ちょっとそこまで」
玄関に出してあったつま先の丸いローヒールの靴に足を通した姉が、余裕なさげにあたしの横をすり抜ける。
「どうしたの、そんな急いで」
あたしが声をかけると、姉は「ちょっとね」と言って慌てた様子で出て行った。
ずいぶんと軽装で出て行ったけど、そんなに急いで何の用事だろう。
あたしは姉が出て行った玄関のドアを見つめて首を傾げると、長い時間をかけて選んだ靴を玄関の床に置いた。
ヒール十五センチ程の、まだ二回しか履いていない白色の靴。一目惚れして買ったような気がするけど、その割にほとんど履いていない。その白い靴に足を通すと、あたしも姉に続いて家を出た。
待ち合わせの場所に着くと、先に来ていたエリナがあたしを見つけて手を振ってきた。
「ごめん、待った?」
あたしが謝ると、エリナは笑顔で首を横に振った。それからすぐに申し訳なさそうに片眉を下げる。
「いいよ、全然。それよりあたしも真音に謝らないといけないことがあって」
「何?」
「今日一日空いてるって言ったのに、急遽夕方から彼氏とごはん食べに行くことになっちゃった。だから、五時くらいには帰ってもいい?」
スマホで時間を確かめると、現在昼の二時少し前。ゆっくり買い物するにはあまり時間がないような気もするけど。エリナの彼氏は今年受験生で、会える時間に制約もあるのだろうから仕方ない。
「いいよ、気にしなくて」
あたしがそう言うと、エリナは顔の前で両手を付き合わせて「ごめんねー」と眉尻を下げて笑った。
時間が限られていることもあって、あたしとエリナはお互いがよく行くお気に入りの店をあらかじめ決めてから買い物をした。
あまり時間がないかと思ったけれど、事前に行きたい店を決めていたおかげで、ムダなく効率的に買い物ができた気がする。
買い物を終えたあと、エリナが「まだ時間がある」と言うので、駅前のコーヒーショップに入って時間を潰すことにした。二人掛けの席に座って今日買ったものをエリナと見せ合ったあと、注文したカフェ・ラテを飲む。
「結構歩いたから、足痛い」
「真音が普段よく履いてるのよりヒール高いもんね。それって、元彼の誕生日デートのためにって買ったやつじゃなかった?」
テーブルの下でこっそりヒールの高い白い靴を脱ぎ、足のつま先を握ったり開いたりしていると、エリナがあたしの足元を指差してきた。
「そうだっけ?」
「そうだよ。あたし、買い物付き合ったもん」
十五センチヒールの、まだ新しい白の靴を見ながら少し考える。
家で靴を選んでいるときには気付かなかったけど、言われてみればそうだった。
音信不通にされたのちに、ラインであたしに別れを告げてきた元彼の誕生日。デートの場所は結局彼の家だったけれど、年上の彼に見合うようにちょっとでも大人っぽく見せたくて。試着の段階で足が痛くなるのを充分承知の上で、見栄を張ってヒールの高い靴を買ったんだっけ。
買ってからあまり履いていないという単純な理由で今日はこの靴をチョイスしたけど……。すっかり忘れていた。
「その靴をどういう理由で買ったか忘れてたってことは、元彼のことはもう完全にふっきれたんだ?」
エリナがテーブルに両肘をついてあたしのほうに身を乗り出してくる。
「うーん、そうだね」
ふっきれたというか、もう全く思い出すこともなかったかも。
白い靴にもう一度足を通しながら苦笑いを浮かべていると、エリナが「そっか、そっか」と頷きながら微笑んだ。
「だったら、こないだ言ってたあたしの彼氏の友達。正式に紹介しようか?」
エリナの申し出に即答できずにいると、彼女が少し不満そうに眉根を寄せた。
「どうしたの、真音。この前からずっとノリ悪くない?これまでなら、年上って聞いただけで『紹介して』ってすぐスマホ出してたじゃん」
「すぐって。そんなノリ軽くないってば……」
エリナの言うとおり、フリーのときに年上の男の紹介の話がきたら、わりとすぐに飛びついてたってことはあながち間違ってはいないけど……。
苦笑いを浮かべながら言葉を濁していると、エリナがさらに身を乗り出して、あたしの顔をじっと覗き込んできた。
「真音さー、もしかして、好きな人できた?」
「はぁっ!?」
唐突なエリナの発言に、反射的に椅子から腰が浮く。同時に、店中に響き渡るくらいの大きな声を出してしまった。
店内に響き渡る声を聞いた周りの客達が、迷惑そうに、あるいは驚いたようにあたしを振り返る。たくさんの人にじろじろと見られた恥ずかしさで顔を赤くしながら、あたしは軽く浮いてしまった腰をもう一度椅子に落ち着けた。
「真音、過剰反応しすぎ。恥ずかしいんだけど」
真っ赤な顔で椅子に座りなおしたあたしを見ながら、エリナが眉をしかめる。
「ごめん……」
俯きがちに謝ると、迷惑そうに眉を寄せていたエリナが、口角をあげて意味ありげに笑った。
「でもそんなに過剰反応するってことは、やっぱりできたんだ? 好きな人」
脳裏にほんの一瞬だけ、へらりと笑う古澤柊斗の顔が思い浮かぶ。
どうして今、古澤柊斗――!?
『好きな人』と言われてなぜか勝手に思い浮かんできたその顔に、頬がかあーっと熱くなる。
「まさか! そんなのできるわけないじゃん」
頭を大きく横に振ると同時に、思い浮かんできた古澤柊斗の薄ら笑いを遠くへ振り払う。
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
「嘘だ、絶対いるでしょ?」
「いないってば!」
何度も全否定しているのに、エリナはしつこくあたしを問い詰めてくる。
「エリナ、彼氏との待ち合わせ場所に行かなくていいの?」
しつこいエリナにうんざりしてため息をつくと、彼女は「まだ少し大丈夫」と言ってにこっと笑った。
「真音が言わないならこっちから聞くけど、最近後輩の男の子で仲がいい子いるでしょ?」
「は!?」
エリナの言葉に、また古澤柊斗の顔を思い出してドキリとする。
エリナはそんなあたしの心を見透かすように笑うと、右手の人差し指と中指をそれぞれ同時に立てて、あたしの目の前に突き出してきた。
「しかも、一人じゃなくて二人」
「二人?」
「あたし、この前見ちゃったんだ。真音が後輩の男の子二人と登校してるとこ。一人はなんか可愛い感じで、もう一人はちょっとクールな雰囲気の子。真音、年上に拘るのやめたの?」
二人っていうから誰かと思ったら……古澤柊斗と恭介のことか。この前校門の近くで出会った二人に話しかけてたところを、エリナに見られてたんだ。
「あれは、仲がいいとかそういうんじゃないから!」
反論するあたしを見て、エリナがにやにやと笑う。
「嘘だ。楽しそうに話してたじゃん」
「別に、楽しい話はしてなかったよ」
姉とデートした翌日の古澤柊斗に嫌味を言ってただけだ。楽しいどころか寧むしろ、デレデレしている古澤柊斗にムカムカしていた。
「で、真音はどっちが好きなの?」
エリナが興味深々といった様子で目を輝かせる。
エリナに問われて、またほんの一瞬だけ古澤柊斗の顔が浮かぶ。
どうして……。あいつはお姉ちゃんが好きなんだから。
一瞬でも彼の顔を思い浮かべてしまった自分が腹立たしい。
「どっちも好きじゃないし、年下には興味ないって」
顔をしかめながらきっぱり否定すると、エリナが面白くなさそうな顔をした。
「真音、絶対嘘ついてる」
不服そうに唇を尖らせたエリナは、彼氏との待ち合わせ時間ギリギリまであたしを問い詰めてきて。本当に、かなりしつこかった。
エリナと別れたあと、あたしは真っ直ぐに自宅の最寄り駅まで戻った。
ヒールの高い靴で急ぐと疲れるから、駅から家に向かってゆっくりとのんびり歩く。しばらく歩いていると、川原が見えてきた。
土手の傍の道を歩いていると、涼しい風がふっと首筋を吹きぬけていく。その風の温度が心地よくて、あたしは何気なく足を止めた。
土手の上から川原を見下ろす夕暮れの川原は、落ちていく太陽の橙色の光に照らされてとても綺麗だった。まだ完全に日が落ちきっていないから、川岸には犬の散歩をする人やウォーキングをしている人がまばらに行き来している。
その風景を見ながら和んでいると、あたしが立っている位置から数メートル離れた土手の中ほどに、肩を寄せ合って座っているカップルの後ろ姿が見えた。
黒髪の男の人と、ナチュラルブラウンの髪の長いの女の人。二人の後ろ姿は華奢で、まだあたしと同じくらい若そうだ。
夕暮れの川原でデートなんて、気持ちよさそう。
しばらく二人の後ろ姿を微笑ましく見つめてから再び歩き出そうとしたとき、ナチュラルブラウンの長い髪の女の人が動いた。
そのすぐあと、彼女の動きを追うように男の人が動く。
少し遠目だったけど、あたしの立っている場所から二人の横顔がはっきりと見えた。その瞬間、あたしの身体が凍り付く。
「どうして……」
川原の土手に向かい合うようにして座っている男女は、姉と古澤柊斗だった。
姉は今日の午後、あたしが出かけるのとほぼ同じタイミングで家を出たはずだ。それなのにどうして今、古澤柊斗とこんなところにいるんだろう。
立ち尽くしたまま動かなくなったあたしの心臓が、ドクドクと早鐘を打つ。
古澤柊斗はいつになく真剣な目で向かい合う姉のことを見つめていて、姉は彼の前で静かに泣いているようだった。
姉をじっと見つめていた古澤柊斗が、不意にすっと腕を伸ばしてその手の平で彼女の左頬に触れる。
姉が戸惑うように肩を揺らして顔を伏せると、古澤柊斗は姉の顎に親指を押し当てて、彼女の顔を上に向かせた。
姉の頬に触れていないほうの彼の手が、彼女の涙を優しく拭う。
スローモーションのようなその映像を遠くから見つめていたあたしの鼓動が、ドドドッと急に激しくなった。
これ以上見ないほうがいい。
心臓がそんな警告が出しているのに、あたしは二人から目をそらせなかった。
姉の涙を拭ってやった古澤柊斗が、彼女の肩に手を載せる。
姉はその手を避けることも拒むこともしなくて……。あたしの目の前で、古澤柊斗が姉のことを壊れ物でも扱うみたいに、優しくそっと抱きしめた。
ドドドッと、激しい音をたてるあたしの鼓動。
ズキンと胸を鋭い痛みが突き抜けて、窒息しそうなくらい息苦しくなる。
今、あたしが目にしている光景は何――?
どれだけ長い間、古澤柊斗と姉が抱き合っていたのかはわからない。
彼がゆっくりと姉の身体を離すのと同時に、あたしも川原から離れた。
歩き出したあたしの足は、勝手にふらふらと駅のほうへと引き返していく。
激しい動悸はまだ治まらなくて、息苦しくて。とてもじゃないけど、このまま家に帰れそうにない。帰ったとしても、姉と普段どおりに顔を突き合わすことなんてできない。
あたしは駅前まで戻ると、その付近をあてもなく歩き回った。
日が完全に落ちると辺りは次第に暗くなってきて、人通りも少なくなる。
履きなれない高いヒールで歩いているせいで、足が痛くて仕方なかった。ついに足の痛みに耐え切れなくなって、駅の傍のコンビにの前でしゃがみ込む。
片方だけ靴を脱いでみると、靴擦れで踵の皮がひどく擦りむけていた。
「痛い……」
擦りむけた踵に指先で触れながら呟いたとき、目尻から涙の粒がぽたりと地面に落ちる。
あたし、なんで靴擦れくらいで泣いてるんだろう。
慌てて目尻を拭ったけれど、すぐにまた目に溜まった涙が零れ落ちてくる。
痛いのは、足だけじゃない。
それに気付いたあたしは、右手を握り締めてそれを強く左胸に押し当てた。
「頑張れば」と。古澤柊斗に向かって無責任な励ましの言葉を投げかけたのはあたし。
だけど……。泣いている兄貴の彼女を抱きしめちゃうなんて。
あたしの言葉を本気で受け止めて、素直に真面目に頑張りすぎでしょうが。
そんなふうに本気で頑張られたら、あたしは……。
川原で見た光景が再び脳裏に甦ってきて、唇を強く噛み締める。
同時にあたしの目尻からは、また涙の粒が零れて落ちた。
「まおちゃん?」
しばらくの間、靴擦れと胸の痛みとそれから涙のせいでコンビニの前にしゃがみ込んでいると、不意に頭上から声が聞こえた。
手の甲で目元を拭って顔を上げると、恭介がすぐ傍に立っていた。
最初は眉を寄せて首を傾げていた恭介だったけど、あたしの顔を確認すると驚いたように半歩後ろに後ずさる。
きっと、涙でひどい顔をしているあたしにびっくりしたんだろう。泣きすぎたせいで、アイメイクが完全に落ちていつもと違う顔になっているはずだ。
慌てて顔を伏せると、一度は後ずさった恭介がまた近づいてきてあたしの隣にしゃがんだ。
「まおちゃん、どうかしたの?」
優しく声をかけてくる恭介に、あたしは顔を伏せたまま小さく首を横に振る。何も言わずに伏せているあたしの隣で、恭介が困っているのがわかった。
「別に、何でもないから」
できるだけ平然を装ったつもりだったけど、掠れた涙声は隠せない。
「まおちゃん。もしかして、靴擦れ?」
踵の靴擦れに気付いた恭介が、あたしの足元を指差す。
「これが痛くて動けなかったとか?」
靴擦れのせいもあるけど、それだけじゃない。
だけどコンビニの前で蹲って泣いていた本当の理由なんて言えるはずないから、恭介の問いかけに無言で頷いた。
「だったら絆創膏買ってきてやるよ」
恭介は立ち上がると、あたしをその場に残してコンビニの中に入っていった。
それから数分もたたないうちに戻ってくる。
「はい。これ貼ったらちょっとはマシじゃない?」
あたしは無言で小さく頷くと、恭介に差し出された絆創膏の箱を受け取った。
箱の中から絆創膏を二枚取り出して、右と左の踵に丁寧に貼る。
絆創膏を貼り終えたあともその場にしゃがみ込んでいると、恭介に手首をつかまれた。想像よりも大きな恭介の手の平に驚いていると、彼があたしを引っ張って立ち上がらせる。
「家まで送ってく」
「え、平気だけど」
「でも、もう遅いし。なんか、心配だから。まおちゃん、泣いてたし」
恭介の言葉に、つい恥ずかしさで目を伏せると、彼があたしの足元にぽとんと何か落とした。
「あと、これ使って。サンダルでもあればいいなーと思ったんだけど、これくらいしかマシなのなかった」
恭介が落としたのは、コンビニで買ったばかりの室内用の白いスリッパだった。
「痛いの我慢してそれ履いて帰るよりいいと思う。ちょっとダサいかもだけど、こんだけ暗ければ足元なんてわかんないし」
「ありがと……」
恭介の優しさが、弱っていた心に沁みた。
結局あたしは、そのまま恭介に家まで送ってもらうことになった。
暗くても慣れた道なら平気だと思っていたけれど、川原の近くに差し掛かったときに、そこで抱き合っていた古澤柊斗と姉の姿を思い出した。
もうあれからだいぶ時間が経っているというのに、古澤柊斗が姉を優しく抱きしめた瞬間の映像がはっきりとリアルに思い出されて、胸がズキンと痛む。
恭介は終始無言のままだったけど、もし彼が隣にいなかったらあたしはまた泣いていただろう。土手の傍の道を歩きながら、やっぱり恭介に送ってもらってよかったと思った。
「ありがとう、助かった。絆創膏とそれからスリッパも」
「いいよ、別に。それよりまおちゃん、さっき泣いてたのって本当に足が痛かっただけ?」
家の前で恭介にお礼を言うと、彼があたしの顔をじっと見つめながら訊ねてきた。
動揺して視線を泳がせると、恭介が小さく首を横に振る。
「ごめん、何でもない」
恭介はそう言うと、あたしに軽く手を振って帰っていった。
「ただいま」
玄関のドアを開けると、あたしの声を聞いた母がリビングから飛び出してきた。
「真音。連絡もしないで遅くまでどこ行ってたのよ! 夕飯、とっくにできてるわよ」
眉間に皺を寄せて怒る母の前で、あたしは小さく肩を竦める。
「ごめん……」
母が怒っているときに反論するとその怒りを助長させるだけだと知っているから、小さな声で謝って彼女の傍をすり抜けた。
「荷物置いたら早く降りてきなさいよ!」
階段を上がって部屋へと向かうあたしに、母が階下から怒鳴りつけてくる。
あたしは鞄と買い物した店の袋をドアの外から部屋に投げ込むと、それ以上母の怒りが増幅しないように急いで階段を駆け下りた。
リビングに行くと、夕飯の用意はほぼ完璧に整えられていて、既にダイニングテーブルについている父がテレビのリモコンを操作していた。あたしが席につくと、母がお盆に茶碗を三つ載せてキッチンから出てくる。
「お姉ちゃんは?」
テーブルの上に夕飯の用意は整えられているのに、姉の姿がどこにも見えない。運ばれてきた三つしかない茶碗を見ながら訊ねると、母が「さぁ」と言いながら首を傾げた。
「ちょっと遅くなるって連絡があったけど。そのうち帰ってくるんじゃない?」
「遅くなる……?」
それって、まだ古澤柊斗と一緒にいるってこと……?
「お母さん、すぐにお姉ちゃんに連絡しなよ。帰ってこいって……!」
あたしが食い気味に迫ると、母が驚いたような顔をした。
「なによ、急に。詩音はもう大学生なんだから、そこまで厳しくしなくても大丈夫よ」
「でも……、外で何してるかわからないじゃん!」
「何言ってるのよ。詩音と真音は違うのよ」
母が呆れ顔でそう言う。
いつもいい子の姉は、母からの信頼度もあたしとは違うのだ。
日頃の行いって言われたら仕方ないけど……、姉は今、瑛大くんっていう彼氏を差し置いて、年下の高校生と浮気してるのに……!
そのことを言いつけてやりたいけど、言ったところで母はあたしの言葉なんて信じないだろう。
それ以上は母に何も言えずに、手のひらをギュッと握りしめる。
「真音が気ままなのは昔からだけど、この頃詩音もおかしいのよね」
母が父の前に茶碗を置きながら、顔をしかめてぶつぶつ言っている。
母の不満げな声を聞き流しながら、あたしは姉と一緒にいる古澤柊斗の姿を想像していた。
彼は今頃姉の前で、いつもみたいに人懐っく明るく笑っているんだろうか。
ときどき空気の読めないことを言って、姉のことを困らせて。それから……。
そんな考えを巡らせている間も、姉を抱きしめる古澤柊斗の姿が脳内に映像となって浮かび上がって、リフレインする。
古澤柊斗と姉のことを考えるとどうしようもなく息苦しくて、夕飯はほどんど味を感じなかった。
姉が家に帰ってきたのは、あたし達が夕飯を食べ終わって二時間ほど過ぎた頃だった。
お風呂から出て部屋に上がろうとしていたあたしは、廊下で姉とすれ違う。
「あ、真音」
すれ違いざまにあたしを見た姉は、何か言いたげな顔をしていた。
だから、怖かった。
今立ち止まれば、姉の口から古澤柊斗に関することを聞かされるかもしれない。呼び止める姉の声が聞こえなかったふりをして、あたしは彼女から逃げてしまった。
早足で近づいていってその背中を鞄で軽く小突くと、「いてっ」と呻きながら、彼が背中に腕を回す。
不審げに振り返った古澤柊斗だったけれど、その視界にあたしの姿を捉えると、途端に人懐っこい笑顔を向けてきた。
「あ、まおちゃん。おはよう」
「あぁ、まおちゃん」
古澤柊斗よりワンテンポ遅れて、気だるそうな顔の恭介も振り返る。
「おはよ」
あたしは振り返った二人に素っ気無い挨拶を返すと、古澤柊斗の顔をじろっと見た。朝っぱらに出会って早々あたしに睨まれた彼が、きょとんとした表情で首を傾げる。
「で? デートはどうだったわけ?」
あたしが訊ねると、きょとんとしていた彼の顔が、徐々にだらしなく緩み始めた。
蕩けてなくなりそうなその顔を見れば、感想なんて聞かなくても姉とのデートがどうだったのか想像できる。デレデレしてにやけている古澤柊斗を見て眉を寄せていると、恭介が呆れたように笑った。
「俺もデートの感想聞いてみたんだけど、ただにやにやしてるだけで何も言わねぇの」
「ふぅん。そんな楽しかったんだ?」
「うん、楽しかった」
嫌味っぽい口調で訊ねてみたつもりなのに、古澤柊斗が笑いながら少しの躊躇なく頷く。
「それに詩音さん、すげー綺麗でめちゃくちゃ優しかった。俺、昨日のデートの思い出があれば、あと一週間くらいは何も食わなくても生きていけそう」
「あっそ」
古澤柊斗があんまり素直に人前で惚気るから、苛立ちを通り越して呆れてしまう。
「で、お姉ちゃんに選んでもらったCDは一体誰にプレゼントするわけ?」
「え? 何でまおちゃんがそれ知ってんの?」
それまで顔全体で惚気ていた古澤柊斗が、急にちょっと慌て出す。
「お姉ちゃんに聞いたから」
やっぱり、クラッシックが好きなクラスメートの話は古澤柊斗の嘘だったんだ。
小さく鼻で笑うと、恭介が興味深そうに口角をきゅっと引き上げた。
「ねー、まおちゃん。それ、何の話?」
「クラッシックが好きなクラスメートの女子にピアノのCDプレゼントしたいから一緒に選んでほしい。そう言って、お姉ちゃんのこと騙してデートしたらしいよ。やり方が汚いよね」
あたしが皮肉っぽく言うと、恭介がけらけらと笑った。
「何だよ、それ。デートの約束したなんていうから、どうなってんだと思った。もしかしたらまおちゃんの姉ちゃんは、柊斗と二人で出かけたことをデートとすら思ってないんじゃない?」
「思ってないだろうね。お姉ちゃん、古澤柊斗のこと弟みたいだって言ってたし」
あたしが恭介の言葉にわざと冷たい口調で同意すると、古澤柊斗が不貞腐れてそっぽ向いた。
「うるせーな。そんなの、二人に指摘されなくたってわかってるし」
低い声でぼやいた古澤柊斗が、足元に落ちていた小石をやけくそ気味に蹴飛ばす。
「ねー、まおちゃん」
遠くに弾けていった小石をしばらく見つめて黙り込んでいた古澤柊斗が、突然はっとしたように顔を上げた。
「クラッシックが好きなクラスメートの女子の話が嘘だってこと、詩音さんには絶対言わないでね」
古澤柊斗が急に、真剣な顔付きであたしを見てくる。その顔を見つめ返しながら、あたしは少し意地悪をしてやりたくなった。
「さぁ、どうしよう」
「まおちゃん!」
肩を竦めながら口元を歪めたあたしを、古澤柊斗が懇願するような目でじっと見てくる。その目をじっと見つめ返して充分な間を置いてから、「言わないよ」と答えると、彼がほっとしたように笑った。
古澤柊斗の笑顔を見た瞬間、あたしの鼓動がトクンと大きく高鳴る。あたしはそれ以上彼の笑顔が見えないように視線をそらすと、唇を真横にきつく引き結んだ。
***
その日の夜。夕飯を食べ終わって部屋でくつろいでいると、姉の部屋からヒステリックな声が聞こえてきた。
いつも穏やかで微笑んでいる印象が強い姉が、声を荒げているなんて珍しい。
一人で怒っているなんてことはないだろうから、誰かと電話で話しているんだろう。
しばらく姉の部屋の様子に耳を澄ませていたけれど、ヒステリックな姉の声は治まらない。
何が起こっているのか気になったあたしは、そっと姉の部屋を覗き込んでみた。
姉の部屋のドアは半分ほど開いていて、その隙間から彼女の様子が見える。
姉はベッドに座ってスマホを握りながら、強い口調で何か言っていた。
「だってそれは瑛大くんが――!」
電話の相手は、瑛大くん?
姉が彼と電話で言い争っているなんて、珍しい。
強い口調で電話口に向かって話し続けていた姉が、突然涙声になる。
「もういい!」
姉は最後に吐き捨てるようにそう言うと、通話ボタンを押してスマホをベッドに放り投げる。
こんなに取り乱して怒鳴る姉を見たのは、記憶の限り初めてだ。
姉の姿に驚いて呆然としていると、あたしの気配に気付いた彼女と目が合った。
「真音?」
姉があたしの名前を呼びながら、指先で目元を擦る。
「ごめん、うるさかった?」
「そうじゃないけど、何かあったの?」
「何でもないの。うるさくしてごめんね」
姉はうっすらと目に溜まっていた涙を完全に拭ぬぐいとると、いつも通り優しく綺麗に微笑んだ。
「瑛大くんと、ケンカでもした?」
「大丈夫。心配かけてごめんね」
あたしの問いかけに、姉が哀しそうな目をして静かに首を横に振る。
その日から数日の間、姉はどことなく元気がなかった。
両親と話しているときも、ご飯を食べているときも、ぼーっとしてときどき上の空になる。
ピアノの練習をするからと部屋にこもっていても、姉の部屋からピアノの音が聴こえてくることはほとんどなくて。珍しく母が、姉のピアノのことで父に愚痴を溢していた。
やっぱり、姉は瑛大くんとケンカしたんだ。
そしてたぶん、あの電話のあとから仲直りができていない。
これまで週に一回はうちに遊びにきていた瑛大くんも、しばらく遊びに来ていない。
いつも仲がいいのに、何があったんだろう。
元気がない姉の様子が気にはなったけれど、あたしは珍しい二人のケンカを比較的楽観視していた。
瑛大くんは大人で優しいから。きっと、しばらく経てば二人は仲直りする。そう思って、あたしは元気がない姉のことを静かに見守っていた。
***
日曜日。あたしはエリナと買い物に行く約束をしていた。
待ち合わせに間に合うように、昼過ぎに玄関で履いていく靴を選んでいると、姉がすごい勢いで階段を駆け下りてきた。
「お母さん、ちょっと出かけてくるね」
「どこ行くの?」
「ちょっとそこまで」
玄関に出してあったつま先の丸いローヒールの靴に足を通した姉が、余裕なさげにあたしの横をすり抜ける。
「どうしたの、そんな急いで」
あたしが声をかけると、姉は「ちょっとね」と言って慌てた様子で出て行った。
ずいぶんと軽装で出て行ったけど、そんなに急いで何の用事だろう。
あたしは姉が出て行った玄関のドアを見つめて首を傾げると、長い時間をかけて選んだ靴を玄関の床に置いた。
ヒール十五センチ程の、まだ二回しか履いていない白色の靴。一目惚れして買ったような気がするけど、その割にほとんど履いていない。その白い靴に足を通すと、あたしも姉に続いて家を出た。
待ち合わせの場所に着くと、先に来ていたエリナがあたしを見つけて手を振ってきた。
「ごめん、待った?」
あたしが謝ると、エリナは笑顔で首を横に振った。それからすぐに申し訳なさそうに片眉を下げる。
「いいよ、全然。それよりあたしも真音に謝らないといけないことがあって」
「何?」
「今日一日空いてるって言ったのに、急遽夕方から彼氏とごはん食べに行くことになっちゃった。だから、五時くらいには帰ってもいい?」
スマホで時間を確かめると、現在昼の二時少し前。ゆっくり買い物するにはあまり時間がないような気もするけど。エリナの彼氏は今年受験生で、会える時間に制約もあるのだろうから仕方ない。
「いいよ、気にしなくて」
あたしがそう言うと、エリナは顔の前で両手を付き合わせて「ごめんねー」と眉尻を下げて笑った。
時間が限られていることもあって、あたしとエリナはお互いがよく行くお気に入りの店をあらかじめ決めてから買い物をした。
あまり時間がないかと思ったけれど、事前に行きたい店を決めていたおかげで、ムダなく効率的に買い物ができた気がする。
買い物を終えたあと、エリナが「まだ時間がある」と言うので、駅前のコーヒーショップに入って時間を潰すことにした。二人掛けの席に座って今日買ったものをエリナと見せ合ったあと、注文したカフェ・ラテを飲む。
「結構歩いたから、足痛い」
「真音が普段よく履いてるのよりヒール高いもんね。それって、元彼の誕生日デートのためにって買ったやつじゃなかった?」
テーブルの下でこっそりヒールの高い白い靴を脱ぎ、足のつま先を握ったり開いたりしていると、エリナがあたしの足元を指差してきた。
「そうだっけ?」
「そうだよ。あたし、買い物付き合ったもん」
十五センチヒールの、まだ新しい白の靴を見ながら少し考える。
家で靴を選んでいるときには気付かなかったけど、言われてみればそうだった。
音信不通にされたのちに、ラインであたしに別れを告げてきた元彼の誕生日。デートの場所は結局彼の家だったけれど、年上の彼に見合うようにちょっとでも大人っぽく見せたくて。試着の段階で足が痛くなるのを充分承知の上で、見栄を張ってヒールの高い靴を買ったんだっけ。
買ってからあまり履いていないという単純な理由で今日はこの靴をチョイスしたけど……。すっかり忘れていた。
「その靴をどういう理由で買ったか忘れてたってことは、元彼のことはもう完全にふっきれたんだ?」
エリナがテーブルに両肘をついてあたしのほうに身を乗り出してくる。
「うーん、そうだね」
ふっきれたというか、もう全く思い出すこともなかったかも。
白い靴にもう一度足を通しながら苦笑いを浮かべていると、エリナが「そっか、そっか」と頷きながら微笑んだ。
「だったら、こないだ言ってたあたしの彼氏の友達。正式に紹介しようか?」
エリナの申し出に即答できずにいると、彼女が少し不満そうに眉根を寄せた。
「どうしたの、真音。この前からずっとノリ悪くない?これまでなら、年上って聞いただけで『紹介して』ってすぐスマホ出してたじゃん」
「すぐって。そんなノリ軽くないってば……」
エリナの言うとおり、フリーのときに年上の男の紹介の話がきたら、わりとすぐに飛びついてたってことはあながち間違ってはいないけど……。
苦笑いを浮かべながら言葉を濁していると、エリナがさらに身を乗り出して、あたしの顔をじっと覗き込んできた。
「真音さー、もしかして、好きな人できた?」
「はぁっ!?」
唐突なエリナの発言に、反射的に椅子から腰が浮く。同時に、店中に響き渡るくらいの大きな声を出してしまった。
店内に響き渡る声を聞いた周りの客達が、迷惑そうに、あるいは驚いたようにあたしを振り返る。たくさんの人にじろじろと見られた恥ずかしさで顔を赤くしながら、あたしは軽く浮いてしまった腰をもう一度椅子に落ち着けた。
「真音、過剰反応しすぎ。恥ずかしいんだけど」
真っ赤な顔で椅子に座りなおしたあたしを見ながら、エリナが眉をしかめる。
「ごめん……」
俯きがちに謝ると、迷惑そうに眉を寄せていたエリナが、口角をあげて意味ありげに笑った。
「でもそんなに過剰反応するってことは、やっぱりできたんだ? 好きな人」
脳裏にほんの一瞬だけ、へらりと笑う古澤柊斗の顔が思い浮かぶ。
どうして今、古澤柊斗――!?
『好きな人』と言われてなぜか勝手に思い浮かんできたその顔に、頬がかあーっと熱くなる。
「まさか! そんなのできるわけないじゃん」
頭を大きく横に振ると同時に、思い浮かんできた古澤柊斗の薄ら笑いを遠くへ振り払う。
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
「嘘だ、絶対いるでしょ?」
「いないってば!」
何度も全否定しているのに、エリナはしつこくあたしを問い詰めてくる。
「エリナ、彼氏との待ち合わせ場所に行かなくていいの?」
しつこいエリナにうんざりしてため息をつくと、彼女は「まだ少し大丈夫」と言ってにこっと笑った。
「真音が言わないならこっちから聞くけど、最近後輩の男の子で仲がいい子いるでしょ?」
「は!?」
エリナの言葉に、また古澤柊斗の顔を思い出してドキリとする。
エリナはそんなあたしの心を見透かすように笑うと、右手の人差し指と中指をそれぞれ同時に立てて、あたしの目の前に突き出してきた。
「しかも、一人じゃなくて二人」
「二人?」
「あたし、この前見ちゃったんだ。真音が後輩の男の子二人と登校してるとこ。一人はなんか可愛い感じで、もう一人はちょっとクールな雰囲気の子。真音、年上に拘るのやめたの?」
二人っていうから誰かと思ったら……古澤柊斗と恭介のことか。この前校門の近くで出会った二人に話しかけてたところを、エリナに見られてたんだ。
「あれは、仲がいいとかそういうんじゃないから!」
反論するあたしを見て、エリナがにやにやと笑う。
「嘘だ。楽しそうに話してたじゃん」
「別に、楽しい話はしてなかったよ」
姉とデートした翌日の古澤柊斗に嫌味を言ってただけだ。楽しいどころか寧むしろ、デレデレしている古澤柊斗にムカムカしていた。
「で、真音はどっちが好きなの?」
エリナが興味深々といった様子で目を輝かせる。
エリナに問われて、またほんの一瞬だけ古澤柊斗の顔が浮かぶ。
どうして……。あいつはお姉ちゃんが好きなんだから。
一瞬でも彼の顔を思い浮かべてしまった自分が腹立たしい。
「どっちも好きじゃないし、年下には興味ないって」
顔をしかめながらきっぱり否定すると、エリナが面白くなさそうな顔をした。
「真音、絶対嘘ついてる」
不服そうに唇を尖らせたエリナは、彼氏との待ち合わせ時間ギリギリまであたしを問い詰めてきて。本当に、かなりしつこかった。
エリナと別れたあと、あたしは真っ直ぐに自宅の最寄り駅まで戻った。
ヒールの高い靴で急ぐと疲れるから、駅から家に向かってゆっくりとのんびり歩く。しばらく歩いていると、川原が見えてきた。
土手の傍の道を歩いていると、涼しい風がふっと首筋を吹きぬけていく。その風の温度が心地よくて、あたしは何気なく足を止めた。
土手の上から川原を見下ろす夕暮れの川原は、落ちていく太陽の橙色の光に照らされてとても綺麗だった。まだ完全に日が落ちきっていないから、川岸には犬の散歩をする人やウォーキングをしている人がまばらに行き来している。
その風景を見ながら和んでいると、あたしが立っている位置から数メートル離れた土手の中ほどに、肩を寄せ合って座っているカップルの後ろ姿が見えた。
黒髪の男の人と、ナチュラルブラウンの髪の長いの女の人。二人の後ろ姿は華奢で、まだあたしと同じくらい若そうだ。
夕暮れの川原でデートなんて、気持ちよさそう。
しばらく二人の後ろ姿を微笑ましく見つめてから再び歩き出そうとしたとき、ナチュラルブラウンの長い髪の女の人が動いた。
そのすぐあと、彼女の動きを追うように男の人が動く。
少し遠目だったけど、あたしの立っている場所から二人の横顔がはっきりと見えた。その瞬間、あたしの身体が凍り付く。
「どうして……」
川原の土手に向かい合うようにして座っている男女は、姉と古澤柊斗だった。
姉は今日の午後、あたしが出かけるのとほぼ同じタイミングで家を出たはずだ。それなのにどうして今、古澤柊斗とこんなところにいるんだろう。
立ち尽くしたまま動かなくなったあたしの心臓が、ドクドクと早鐘を打つ。
古澤柊斗はいつになく真剣な目で向かい合う姉のことを見つめていて、姉は彼の前で静かに泣いているようだった。
姉をじっと見つめていた古澤柊斗が、不意にすっと腕を伸ばしてその手の平で彼女の左頬に触れる。
姉が戸惑うように肩を揺らして顔を伏せると、古澤柊斗は姉の顎に親指を押し当てて、彼女の顔を上に向かせた。
姉の頬に触れていないほうの彼の手が、彼女の涙を優しく拭う。
スローモーションのようなその映像を遠くから見つめていたあたしの鼓動が、ドドドッと急に激しくなった。
これ以上見ないほうがいい。
心臓がそんな警告が出しているのに、あたしは二人から目をそらせなかった。
姉の涙を拭ってやった古澤柊斗が、彼女の肩に手を載せる。
姉はその手を避けることも拒むこともしなくて……。あたしの目の前で、古澤柊斗が姉のことを壊れ物でも扱うみたいに、優しくそっと抱きしめた。
ドドドッと、激しい音をたてるあたしの鼓動。
ズキンと胸を鋭い痛みが突き抜けて、窒息しそうなくらい息苦しくなる。
今、あたしが目にしている光景は何――?
どれだけ長い間、古澤柊斗と姉が抱き合っていたのかはわからない。
彼がゆっくりと姉の身体を離すのと同時に、あたしも川原から離れた。
歩き出したあたしの足は、勝手にふらふらと駅のほうへと引き返していく。
激しい動悸はまだ治まらなくて、息苦しくて。とてもじゃないけど、このまま家に帰れそうにない。帰ったとしても、姉と普段どおりに顔を突き合わすことなんてできない。
あたしは駅前まで戻ると、その付近をあてもなく歩き回った。
日が完全に落ちると辺りは次第に暗くなってきて、人通りも少なくなる。
履きなれない高いヒールで歩いているせいで、足が痛くて仕方なかった。ついに足の痛みに耐え切れなくなって、駅の傍のコンビにの前でしゃがみ込む。
片方だけ靴を脱いでみると、靴擦れで踵の皮がひどく擦りむけていた。
「痛い……」
擦りむけた踵に指先で触れながら呟いたとき、目尻から涙の粒がぽたりと地面に落ちる。
あたし、なんで靴擦れくらいで泣いてるんだろう。
慌てて目尻を拭ったけれど、すぐにまた目に溜まった涙が零れ落ちてくる。
痛いのは、足だけじゃない。
それに気付いたあたしは、右手を握り締めてそれを強く左胸に押し当てた。
「頑張れば」と。古澤柊斗に向かって無責任な励ましの言葉を投げかけたのはあたし。
だけど……。泣いている兄貴の彼女を抱きしめちゃうなんて。
あたしの言葉を本気で受け止めて、素直に真面目に頑張りすぎでしょうが。
そんなふうに本気で頑張られたら、あたしは……。
川原で見た光景が再び脳裏に甦ってきて、唇を強く噛み締める。
同時にあたしの目尻からは、また涙の粒が零れて落ちた。
「まおちゃん?」
しばらくの間、靴擦れと胸の痛みとそれから涙のせいでコンビニの前にしゃがみ込んでいると、不意に頭上から声が聞こえた。
手の甲で目元を拭って顔を上げると、恭介がすぐ傍に立っていた。
最初は眉を寄せて首を傾げていた恭介だったけど、あたしの顔を確認すると驚いたように半歩後ろに後ずさる。
きっと、涙でひどい顔をしているあたしにびっくりしたんだろう。泣きすぎたせいで、アイメイクが完全に落ちていつもと違う顔になっているはずだ。
慌てて顔を伏せると、一度は後ずさった恭介がまた近づいてきてあたしの隣にしゃがんだ。
「まおちゃん、どうかしたの?」
優しく声をかけてくる恭介に、あたしは顔を伏せたまま小さく首を横に振る。何も言わずに伏せているあたしの隣で、恭介が困っているのがわかった。
「別に、何でもないから」
できるだけ平然を装ったつもりだったけど、掠れた涙声は隠せない。
「まおちゃん。もしかして、靴擦れ?」
踵の靴擦れに気付いた恭介が、あたしの足元を指差す。
「これが痛くて動けなかったとか?」
靴擦れのせいもあるけど、それだけじゃない。
だけどコンビニの前で蹲って泣いていた本当の理由なんて言えるはずないから、恭介の問いかけに無言で頷いた。
「だったら絆創膏買ってきてやるよ」
恭介は立ち上がると、あたしをその場に残してコンビニの中に入っていった。
それから数分もたたないうちに戻ってくる。
「はい。これ貼ったらちょっとはマシじゃない?」
あたしは無言で小さく頷くと、恭介に差し出された絆創膏の箱を受け取った。
箱の中から絆創膏を二枚取り出して、右と左の踵に丁寧に貼る。
絆創膏を貼り終えたあともその場にしゃがみ込んでいると、恭介に手首をつかまれた。想像よりも大きな恭介の手の平に驚いていると、彼があたしを引っ張って立ち上がらせる。
「家まで送ってく」
「え、平気だけど」
「でも、もう遅いし。なんか、心配だから。まおちゃん、泣いてたし」
恭介の言葉に、つい恥ずかしさで目を伏せると、彼があたしの足元にぽとんと何か落とした。
「あと、これ使って。サンダルでもあればいいなーと思ったんだけど、これくらいしかマシなのなかった」
恭介が落としたのは、コンビニで買ったばかりの室内用の白いスリッパだった。
「痛いの我慢してそれ履いて帰るよりいいと思う。ちょっとダサいかもだけど、こんだけ暗ければ足元なんてわかんないし」
「ありがと……」
恭介の優しさが、弱っていた心に沁みた。
結局あたしは、そのまま恭介に家まで送ってもらうことになった。
暗くても慣れた道なら平気だと思っていたけれど、川原の近くに差し掛かったときに、そこで抱き合っていた古澤柊斗と姉の姿を思い出した。
もうあれからだいぶ時間が経っているというのに、古澤柊斗が姉を優しく抱きしめた瞬間の映像がはっきりとリアルに思い出されて、胸がズキンと痛む。
恭介は終始無言のままだったけど、もし彼が隣にいなかったらあたしはまた泣いていただろう。土手の傍の道を歩きながら、やっぱり恭介に送ってもらってよかったと思った。
「ありがとう、助かった。絆創膏とそれからスリッパも」
「いいよ、別に。それよりまおちゃん、さっき泣いてたのって本当に足が痛かっただけ?」
家の前で恭介にお礼を言うと、彼があたしの顔をじっと見つめながら訊ねてきた。
動揺して視線を泳がせると、恭介が小さく首を横に振る。
「ごめん、何でもない」
恭介はそう言うと、あたしに軽く手を振って帰っていった。
「ただいま」
玄関のドアを開けると、あたしの声を聞いた母がリビングから飛び出してきた。
「真音。連絡もしないで遅くまでどこ行ってたのよ! 夕飯、とっくにできてるわよ」
眉間に皺を寄せて怒る母の前で、あたしは小さく肩を竦める。
「ごめん……」
母が怒っているときに反論するとその怒りを助長させるだけだと知っているから、小さな声で謝って彼女の傍をすり抜けた。
「荷物置いたら早く降りてきなさいよ!」
階段を上がって部屋へと向かうあたしに、母が階下から怒鳴りつけてくる。
あたしは鞄と買い物した店の袋をドアの外から部屋に投げ込むと、それ以上母の怒りが増幅しないように急いで階段を駆け下りた。
リビングに行くと、夕飯の用意はほぼ完璧に整えられていて、既にダイニングテーブルについている父がテレビのリモコンを操作していた。あたしが席につくと、母がお盆に茶碗を三つ載せてキッチンから出てくる。
「お姉ちゃんは?」
テーブルの上に夕飯の用意は整えられているのに、姉の姿がどこにも見えない。運ばれてきた三つしかない茶碗を見ながら訊ねると、母が「さぁ」と言いながら首を傾げた。
「ちょっと遅くなるって連絡があったけど。そのうち帰ってくるんじゃない?」
「遅くなる……?」
それって、まだ古澤柊斗と一緒にいるってこと……?
「お母さん、すぐにお姉ちゃんに連絡しなよ。帰ってこいって……!」
あたしが食い気味に迫ると、母が驚いたような顔をした。
「なによ、急に。詩音はもう大学生なんだから、そこまで厳しくしなくても大丈夫よ」
「でも……、外で何してるかわからないじゃん!」
「何言ってるのよ。詩音と真音は違うのよ」
母が呆れ顔でそう言う。
いつもいい子の姉は、母からの信頼度もあたしとは違うのだ。
日頃の行いって言われたら仕方ないけど……、姉は今、瑛大くんっていう彼氏を差し置いて、年下の高校生と浮気してるのに……!
そのことを言いつけてやりたいけど、言ったところで母はあたしの言葉なんて信じないだろう。
それ以上は母に何も言えずに、手のひらをギュッと握りしめる。
「真音が気ままなのは昔からだけど、この頃詩音もおかしいのよね」
母が父の前に茶碗を置きながら、顔をしかめてぶつぶつ言っている。
母の不満げな声を聞き流しながら、あたしは姉と一緒にいる古澤柊斗の姿を想像していた。
彼は今頃姉の前で、いつもみたいに人懐っく明るく笑っているんだろうか。
ときどき空気の読めないことを言って、姉のことを困らせて。それから……。
そんな考えを巡らせている間も、姉を抱きしめる古澤柊斗の姿が脳内に映像となって浮かび上がって、リフレインする。
古澤柊斗と姉のことを考えるとどうしようもなく息苦しくて、夕飯はほどんど味を感じなかった。
姉が家に帰ってきたのは、あたし達が夕飯を食べ終わって二時間ほど過ぎた頃だった。
お風呂から出て部屋に上がろうとしていたあたしは、廊下で姉とすれ違う。
「あ、真音」
すれ違いざまにあたしを見た姉は、何か言いたげな顔をしていた。
だから、怖かった。
今立ち止まれば、姉の口から古澤柊斗に関することを聞かされるかもしれない。呼び止める姉の声が聞こえなかったふりをして、あたしは彼女から逃げてしまった。