「どうして古澤 柊斗だけじゃなくて恭介までついてくんのよ」
 電車を降りてからもずっと後ろからついてくる二人の男を振り返って睨む。
「足ならもうとっくに治ってるし、とっとと自分の家に帰れば?」
「だって、俺もまおちゃんの美人な姉ちゃん見たいし」
 あたしがどれだけ嫌そうな目で睨もうが文句を言おうが、へらへらと笑いながらあとをついてくる古澤柊斗の横で、恭介がしれっとした顔でそう言った。
「見たいって……。見世物じゃないんだけど。それにお姉ちゃんがいつも家にいるってわけじゃないからね。ていうか、古澤柊斗! あたしは『頑張れば?』とは言ったけど、こうもしょっちゅううちに来ることまでは許可してない」
 不機嫌な声で言って、古澤柊斗を睨む。だけど彼はそんなことはちっとも気にならないらしく、あたしの言葉を無視して恭介を見た。
「あ、詩音さんは俺の兄貴の彼女だから。もし恭介が惚れても、絶対に見込みないよ?」
 自分のことを棚にあげて恭介に釘を刺す古澤柊斗に、呆れてため息が漏れる。
「それ、あんたが言うことじゃないでしょ」
 すかさず突っ込むと、古澤柊斗が「そっか」と笑う。
 バカじゃないの。
 そんなやりとりをしているうちに、あとからついてくる彼らを追い払うことに疲れてくる。そのうちあたしは、彼らに何か言うことを諦めた。
 家に着くと、買い物に出かける母と玄関でちょうど入れ違いになった。
 母はあたしが連れてきた二人の男の子をじっと見ると、
「お姉ちゃん、もうすぐピアノの試験があるみたいだから。練習が始まったら邪魔はしないようにね」
 と、ひとこと釘を刺して出かけていった。
「詩音さん、いるんだ」
 出かけていく母を見送ったあと、古澤柊斗が二階へと続く階段を見上げながら嬉しそうに笑う。
「練習始まったら邪魔すんなって」
「うん、わかってる」
 あたしが母の言葉を繰り返すと、彼が二階を見上げながら頷く。その顔を見る限り、本当にわかっているのかどうかかなり疑わしい。
「一応ジュースくらいは出してあげるから、あんた達は先にあたしの部屋にでも上がっといて。階段上がって、二つ目の部屋。ドア、開いてると思う」
 嬉しそうに口元を緩めて階段を見上げている古澤柊斗を軽く睨みながらそう言うと、彼は早速頷いて、遠慮なく階段を上り始めた。その姿を呆れ顔で睨んでからキッチンへ向かおうとすると、恭介があたしを呼び止める。
「まおちゃん、トイレ借りていい?」
「あぁ、だったらあっち」
「まおちゃん、俺は上がっといていいんだよね?」
 廊下の奥を指差して恭介にトイレの場所を教えていると、古澤柊斗が階段の真ん中辺りから手摺越しにあたしを見下ろしてきた。
「どうぞ、勝手にして」
 あたしが答えると、彼はにかっと笑ってまた階段を上がっていく。
 二階へと消えていく彼の背中を見上げてため息をつくと、あたしはキッチンへ入った。
 冷蔵庫を開けるとオレンジジュースがあったから、とりあえずそれを三人分コップに注ぐ。それだけじゃ淋しいから、余っていたクッキーやスナック菓子をお皿に出した。
 それからお盆を探すためにキッチンの戸棚を開ける。普段あまりキッチンに出入りしないから、こういうときに必要なものがどこにあるのかわからない。
 あちこち棚を開けてお盆を探し回っていると、トイレを済ませた恭介が廊下からこっちを覗き込んできた。
「まおちゃん、俺も部屋行ってていいの?」
「あぁ、どうぞ。階段上がって二つ目の部屋ね」
「柊斗がいるからわかると思う」
 恭介は小さく頷くと、すぐに顔を引っ込めた。
 恭介を見送ってしばらくしてから、ようやくキッチンの端っこの戸棚でお盆を見つけた。
 ジュースとお菓子の皿を載せると、それを持って二階に上がる。
 階段を上がってすぐの姉の部屋のドアはぴたりと閉じられていて、その隣のあたしの部屋はドアが開け放たれていた。
 そろそろ、姉のピアノの練習が始まるのだろうか。
 あたしはできるだけ足音を立てないように姉の部屋の前を通り過ぎると、自分の部屋に入った。
 けれど自分の部屋に一歩足を踏み入れたところで、立ち止まって小さく首を傾げる。
「あれ、古澤柊斗は?」
「さぁ? 俺が上がってきたときからいないけど」
 あたしの部屋の床に胡坐をかいて座っていた恭介が、首を捻る。
 恭介よりも先に二階に上がったはずなのに、なぜかあたしの部屋に古澤柊斗の姿は見あたらない。
「あいつ、どこ行ったんだろう」
 持って上がってきたお盆を机に置きながら呟いたとき、不意に隣の部屋のドアが小さく軋む音がした。
「じゃぁ詩音さん、練習頑張ってくださいね」
「ありがとう、柊くん」
 聞こえてきたのは、古澤柊斗と姉が話す声。まさかと思って廊下に出てみると、古澤柊斗が姉の部屋のドアを丁寧に閉めているところだった。
「あんた、勝手に何やってんのよ」
 声をかけると、ちょうど完全にドアを閉め終わった古澤柊斗があたしを振り返ってにこっと笑う。
 嬉しそうに口元を緩ませながらこっちに歩いてきた彼は、廊下に立っているあたしを部屋の中に引きずり込むとドアを閉めた。
 そして、床に胡坐をかいている恭介とあたしを交互に見ながら、気持ち悪いくらいにやにやとする。
「何?」
「俺、詩音さんとデートの約束しちゃった」
 怪訝な顔のあたしと恭介を前に随分と勿体ぶってから、古澤柊斗が幸せそうに笑う。
「は? デート?」
「いつ?」
 あたしと恭介が同時に驚嘆の声を上げると、古澤柊斗は口元に人差し指をあてて、少しだけ眉をしかめた。
「ふたりとも、声大きい! 詩音さんに聞こえる」
「なんで? デートの約束したんでしょ?」
「いちおうね」
 古澤柊斗は隣室の姉を気にしながらそう言うと、上機嫌で恭介の隣に腰をおろした。
「どこ行ったのかと思ったら、まおちゃんの姉ちゃんの部屋にいたのかよ」
「二階上がったら、詩音さんが気付いて部屋から出てきてくれたんだよ」
「ずるいな、俺もまおちゃんの姉ちゃん見たかった」
 表面上は悔しがる恭介に、古澤柊斗がへらりと笑い返す。
 古澤柊斗と姉がどういう経緯でデートする約束にまでこぎつけたのか。彼は詳しいことを何も話さなかったけど、おやつを食べながら終始嬉しそうだった。
「お姉ちゃんは、あんたの兄貴の彼女だよ? デートとか、何考えてんの? 瑛大さんから本気でお姉ちゃんのこと奪うつもり?」
「そこまで考えてはいないけど」
「じゃぁ、どういうつもりよ。お姉ちゃんに二股でもかけさせる気?」
 すっかり浮かれている古澤柊斗を見ていると、次第に苛立ってくる。
 身の程を思い知らせてやろうと意地悪な言葉をかけても、彼は呑気にへらりと笑うばかりだ。
「だって、まおちゃんが頑張ればって言ったんじゃん」
 古澤柊斗に言われて、あたしは言葉に詰まる。
 確かに「頑張れば」とは言った。言ったけど……。それは、好きな気持ちを諦める必要はないっていう、心情的な問題で。デートの約束をしろ、ってことじゃない。
 あたしの言い方が言葉足らずだったってこと……?
 下手な励ましの言葉をかけたのは自分なのに、姉との仲が進展しかけて嬉しそうな古澤柊斗のことを、手放しでは喜べない。
 一時間程経つと姉の部屋からピアノの音が聴こえ始め、それを合図に古澤柊斗と恭介は帰っていった。
 だけど彼らが帰ってからも、あたしは古澤柊斗にイラついていて、それは夜になっても完全に解消されることがなかった。

***

 夕飯を食べたあと、ピアノの練習のために部屋にこもった姉を追いかけてドアをノックする。
 部屋から出てきた姉は、真横に唇を引き結んで立っているあたしを見て戸惑ったように眉尻をさげた。困った顔をしても整った姉の顔立ちが崩れることは決してない。
 綺麗なその顔をしばらくじっと見ていると、姉はますます戸惑った様子で、眉尻をさげたまま今度は首を横に傾けた。
「真音、どうかしたの?」
 姉のナチュラルブラウンの髪が、彼女の肩で軽く揺れる。
「お姉ちゃん、デートするの?」
 姉の動きのひとつひとつを凝視しつつ訊ねると、彼女が訝しげに眉をひそめた。
「古澤柊斗」
 あたしがその名前を口にすると、姉がようやく何かを理解したように小さく頷く。
「あぁ、柊くん。真音、それが気になって怖い顔してたの?」
「そうじゃないけど……」
「心配しないで。日曜日に一緒に出かける約束はしたけど、デートなんてたいそうなものじゃないから」
 姉が片手をひらひらと軽く振りながら、くすっと笑う。
「別に、心配なんて――」
「真音。心配するなら私じゃなくて、柊くんのクラスメートだよ」
「え?」
 誰かが見ているわけでもないのに、姉が口の横に右手をあてて声を潜めながら、可愛く目配せする。
「実はね、柊くんのクラスメートにクラッシックの好きな女の子がいるんだって。その子の誕生日にピアノのCDをプレゼントしたいけど、どんなのがいいかわからないから一緒に探してほしいって頼まれたの」
「ピアノのCD?」
「うん、そう。柊くんは弟みたいなものだし、そんなお願いされたら断れないでしょ?」
 姉はくすっと笑うと、「可愛いよね」と独り言みたいに呟いた。
「もしかしたら柊くん、そのクラスメートの子のことが気になってるのかも。でも、話を聞く限りまだ柊くんの片想いみたいだから、真音も諦めちゃダメだよ」
 その口ぶりからして、姉はあたしが古澤柊斗を好きだと勘違いしているらしい。
 どうして気付かないんだろう。あいつが好きなのは、お姉ちゃんなのに。
 クラッシックが好きなクラスメートの話なんて、あたしは一度も聞いたことがない。そんなの、お姉ちゃんとデートするための口実に決まってる。
 そんなのにころっと騙されるなんて。オメデタイにもほどがある。
 何も気付かずに二人で出かける約束を簡単に了承している姉に対して腹が立つと同時に、古澤柊斗への苛立ちも込み上げきた。
 あいつだってバカだ。
 姉は古澤柊斗のことを瑛大くんの“弟”としか思ってない。それどころか、二人で出かけることに対して、“デート”という認識すら抱いてない。
 それなのに「詩音さんとデートの約束しちゃった」とか。一人で浮かれてバカみたい。
 あたしは手の平をぎゅっと握り締めると、姉に背を向けた。
「真音?」
 姉が、無言で部屋を立ち去ろうとするあたしを呼び止める。
 だけど、あたしは姉を振り返らずに彼女の部屋を出て階段を降りた。

「真音、どこ行くの?」
 玄関で靴を履いていると、物音に気付いた母がリビングから顔を出す。
「ちょっと、コンビニ行く」
「こんな時間に? 明日じゃダメなの?」
「すぐ帰るから」
 あたしは眉をしかめている母に冷たい言葉をぶつけて家を出た。
 家を出たあたしは、近くの川原まで一気に走った。
 よく来慣れた場所とはいえ、人気のない夜の川原は薄ら寂しい。
 けれど川の水面が遠くの街灯の光に反射して時折輝いていて、それがとても綺麗だった。
 あたしは滑り降りるように土手を下ると、僅かに湿気を孕んだ空気を思いきり吸い込んだ。
 走って、気分を晴らしたい。
 胸を巣食う、姉と古澤柊斗に対するどうしようもない苛立ち。それを今すぐに取り去ってしまいたかった。
 吸い込んだ空気をゆっくりと吐き出すと、強く地面を蹴って真っ直ぐに駆け出す。
 暗くて足元の視界が悪いけれど、感覚だけを頼りに息が切れるまで一直線に全力で走った。
 数十メートル走ったところで呼吸が持たなくなって、足を止めて脱力する。
 膝に手をついて息を整えていると、川から吹いてくる涼しい夜風が、あたしの耳を、頬を、髪を掠めて抜けていった。
 いつもなら全力で走ったあとに風に吹かれると気分がスカッとするはずなのに。
 なぜか今は、全く気分が晴れない。
 苛立ちやもやもやとした濁った感情は、取り除かれるどころか、胸の奥深くに塵のように降り積もっていく。
 深く重苦しいため息を吐くと、その場に膝を抱えてしゃがみ込む。
 暗闇と夜風に包まれ、あたしはしばらく動き出すことができなかった。