放課後。エリナと一緒に昇降口を出ると、校庭でそれぞれ練習をしている運動部員達の姿が視界に入った。
 校庭の右奥を使っているのが野球部、手前がラグビー部、それから左奥がサッカー部。その中に偶然、恭介の姿を発見する。
 ボールを蹴っている彼の様子をなんとなく見ていると、そこに古澤柊斗が駆けてきた。遠目なのに彼が恭介にへらへらと笑いかけているのがわかる。
 数日前にうちに上がりこんで姉と楽しげに話していた彼のことを思い出したあたしは、急に不愉快な気分になった。遠くにいる彼を見つめて、顔をしかめる。
「真音?」
 しかめ面でサッカー部の練習を、というよりは古澤柊斗個人を睨んでいると、エリナが指先であたしの肩を軽く叩いてきた。
 振り向いたあたしの顔を見たエリナが苦笑いを浮かべる。
「どうしたの、不機嫌そうな顔して」
「ちょっとね」
 エリナから視線を外して、もう一度古澤柊斗の方をちらりと見遣る。
 見えたのはやっぱり、恭介と話しながらへらりと笑う彼の横顔。
 あたしの視線の先を追うように、エリナが校庭へ顔を向けるけど……。彼女は、あたしが何を見ているかまではわからなかったらしい。すぐに校庭から視線をそらすと、またあたしの顔を見た。
「そういえば、この前いきなり声かけてきた人とはどうなったの? あとで報告してって言ったのに、何も教えてくれてないじゃん」
「いきなり声かけてきた人?」
 誰だっけ。
 あたしは古澤柊斗からエリナに視線を移すと、首を傾げた。
「ほら、放課後声かけてきた背の高い人いたじゃん。見た目はそんな悪くなかったでしょ」
「あぁ……」
 そこまで言われてようやく、この前体育館裏にあたしを呼び出した河野の顔を思い出す。
 コージ先輩のバスケ部の後輩。
 彼が突然声をかけてきたのはあたしに好意があったからではなくて、コージ先輩の話を聞いて仲間内の賭けのネタにしたかっただけ。
 そんなムカつくこと、わざわざエリナに報告したくもない。
「どうもならないよ。あんなやつ、論外」
「あぁ、やっぱ真音は年上じゃないとダメかあ」
 嫌な記憶を思い出して不快な気持ちになったいると、何も知らないエリナがそう言って笑った。
 年上じゃないと、というか。あんなやつ、それ以前の問題だ。
「それで、別れた元彼とはその後音信不通のままなの?」
 エリナがあたしの顔を窺うように覗き見ながら、躊躇いがちに訊ねてくる。
「元彼……、あぁ、そうだね。連絡はもうとってない」
「そっか。この前の人の告白断ったのは、元彼が忘れられないからではないんだ?」
「うん?」
 エリナから確かめるように問われたあたしは、彼女の質問の意図がよくわからず曖昧に頷いた。
 元彼か。そういえば、あたしは彼のことが結構好きだったはずだ。
 元彼によく似た香りを纏ったコージ先輩にほだされて、一刻も早く忘れてしまいたい過ちを犯してしまうくらいに。
 それなのに、少なくともここ数日は、まだ別れて日の浅い元彼のことを一度も思い出していない。
 今までのあたしだったら、別れた彼氏に対する未練がしばらく消えなくて。次の彼氏ができるまで、スマホに残っている連絡先やメッセージを見てはため息をついたりすることも多かったのに。どうしてだろう……。

「集合!」
 そのとき、サッカー部に号令がかかった。
 それまでボールを蹴って個人練習をしていた部員達が、部長と思われる男子生徒の元へと一斉に駆け寄っていく。
 さっきまでへらりと笑っていた古澤柊斗も、恭介と並んで少し表情を引き締めていた。彼の黒髪が、走るリズムに合わせて軽やかに揺れ動く。その横顔が川原で全力疾走の勝負をしたときの彼の姿と重なる。
 あぁ、そういえば。元彼のことを少しも思い出さなくなったのは、古澤柊斗と思いきり走ってからだ。
 生温い風が、彼を見つめるあたしの頬を掠めながらすっと通り過ぎていく。軽く髪をかき乱すその風に目を細めたとき、エリナに呼びかけられた。
「真音ー?」
「あ、うん?」
「どうしたの、さっきからぼーっとしてばっかりだけど」
「そうかな」
 エリナに笑われて、薄く笑い返す。
「元彼の話題とか出しちゃってごめんね。それでいろいろ思い出した?」
「いや、全然。そんなんじゃないよ」
 心配そうな目であたしを覗き込むエリナに即答すると、彼女はほっとしたようだった。
「だったら大丈夫かな」
 独り言のようにぼやいたエリナが、ポケットからスマホを取り出す。
「大丈夫って、何が?」
 スマホをつかんだエリナの手元を覗き込むようにすると、彼女があたしを見上げてにっこりと笑った。
「男の紹介。前に言わなかったっけ? あたしの彼氏の知り合いで紹介できそうな人いるか聞いてみるって」
「あぁ、そういえば言ってたね」
 笑顔のエリナに対して、あまりテンションの上がらない声でそう答える。
「あたしの彼氏と高一のときに同じクラスだった人らしいんだけど。半年くらい前に彼女と別れたんだって。彼氏情報によると、性格明るくてわりとイケメンらしいよ。真音がよかったら、その人に連絡先交換できるか聞いてくれるって」
「うん」
 エリナからその人の詳しい情報を聞いても、やっぱりあたしのテンションはあまり上がらなかった。ただ頷くだけで薄い反応しか示さずにいると、エリナが心配そうに眉尻をさげてあたしの顔を覗き込んできた。
「真音、あんまり乗り気じゃない?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
「嘘、いつも年上の男の人との合コンの話題のときはもっと乗り気だもん。やっぱり、まだ少し元彼のこと引きずってるんじゃない?」
「うーん、そういうわけじゃないんだけど……」
 いつもなら年上の男を紹介されるっていう話にはすぐ飛びつくあたしが、今はエリナの誘いにうまく乗りきれない。だけど、そのことを説明ができるような明確な理由があるわけでもない。
 ただなんとなく、気が乗らないのだ。
 歯切れの悪い返事を繰り返していると、エリナはそれ以上しつこくは誘いかけてこなかった。
「また気が向いたらいつでも言ってよ。彼氏に聞いてみるから。まずは、元彼のこと吹っ切らないとだね」
 エリナがスマホをポケットに戻しながら、あたしの肩を叩く。
 本当にもう、元彼に未練があるってわけではないんだけどな……。
 でもわざわざそれを口に出して説明するのは面倒だったから、あたしはエリナに曖昧に笑い返した。
 エリナと並んで校門を抜ける直前。何気なく校庭を振り返ると、練習を再開させたサッカー部員たちの集団の中にいる古澤柊斗の姿が目に付いた。
 いつもより真剣な顔付きでボールを蹴り上げている古澤柊斗をぼんやり見ていると、彼の足元に誰かが蹴り損ねたボールが転がってくる。
 彼は転がってきたボールを足で受け止めると、それがどこからきたのかきょろきょろと首を動かして探し始めた。
「柊斗ー、こっち!」
 古澤柊斗が手を振り上げながら、名前を呼んできた相手にボールを蹴り返す。それから、何の予告もなく、ぱっと思いきり破顔した。
 彼は最初から最後まで部活仲間のことを見ていて、その視線はチラリともあたしに向けられていない。それなのに、花が咲くみたいにぱっと笑った古澤柊斗の顔を見た瞬間、あたしの胸が大きな音をたてて震えた。
 あたし、おかしいかも。
 古澤柊斗から視線をそらすと、右手で拳を作ってそれを心臓の辺りにぎゅぅっと強く押し付ける。そこはドクドクと激しい音をたてて、尋常じゃないほど暴れ狂っていた。
「真音、どうしたの?」
 心臓に拳を押し付けて少し背中を丸めたあたしを、エリナが怪訝そうに見てくる。
 あたしは速くなり続ける鼓動を落ち着かせるようにぐりぐりと胸に拳を押し付けると、エリナを見上げて小さく首を横に振った。
「なんでもない」
 だって、あれは古澤柊斗だ。
 いつもへらへらしてて、空気が読めなくて、言動だって子どもみたいで。姉の前でバカみたいにデレデレしてて。そんなやつに、特別な感情を抱くはずなんてない。
 だから、おかしいのは絶対にあたしの心臓。こんなの何かの間違いで、きっとすぐに収まる。
 あたしは胸に拳を強く押し付けると、目を閉じてゆっくりと深呼吸した。

***

 エリナと別れてから自宅の最寄りで電車を降りたものの、あたしはなんとなくすぐに家に帰る気分になれなかった。
 だけど自宅の最寄り駅付近で行きたいところも特にない。
 気がつくと、あたしは結局、いつもの川原にやってきていた。
 川岸に向かって緩やかに下っていく土手の中ほどに立つと、川のほうからふわりと流れてきた風が、耳元で髪を揺らした。脱力するように、手にしていた鞄を地面にぽとりと落とす。
 走ろうか……。頭の隅っこでふと思ったけれど、いつものような無性に走りたいという衝動が、心からも身体からも沸き起こってこなかった。
 それに、この前捻った右足首がまだあまり本調子じゃない。
 空を振り仰いで息を吐くと、あたしは土手の上に腰を降ろした。足を前に投げ出すと、辺りに生えている草がスカートの下の素肌に当たってくすぐったい。
 そのうちそれに慣れてくると、あたしは背中の後ろに両手をついて、そのままごろんと横になった。
 ぶわっと、一瞬だけ草の匂いがする。あたしはその匂いを吸い込めるだけ吸い込むと、瞼の上に右腕を載せて目を閉じた。

***

「――ちゃん、まおちゃーん」
 遠くで呼ばれているような気がして、目を開ける。
 瞼の上に載せたままでいた腕を退けると、鼻先が今にもくっつきそうなくらいに誰かの顔があたしに接近していた。
「ひっ……」
 息を吸い込むような声にならない悲鳴とともに、目の前の誰かをひっかくように思いきり叩く。
「い、った」
 小さく悲鳴をあげた誰かは、あたしの手が当たった頬をさすりながら少しだけ後ろに退いた。
「ひっかかなくたっていいのに……」
 ぶつぶつと文句を言いながら、一度は後ろに退いたその人物が再びあたしに近づいてくる。
「こんなとこで寝てたら風邪ひきそうだから、起こしてあげたんだけど」
 不満気に唇を尖らせて上からあたしの顔を覗き込んできたのは、古澤柊斗だった。部活が終わってから走りに来たのか、黒のスウェット姿で身軽な格好をしている。
「川原で昼寝って気持ちよさそうだけど、あんまり遅い時間まで制服姿の女子高生が一人で寝てたら危険じゃない?」
 古澤柊斗があたしの顔を見下ろしながら、にかっと笑う。かなり近い距離にある古澤柊斗の笑顔に、心臓がトクンと震えた。それは、さっき校庭で彼の笑顔を見たときの震えとほとんど同じ類のものだった。
 年下のくせに。何の計算もなく向けられる彼の笑顔に、変に感情を揺さぶられている自分が悔しい。
 あたしはできるだけ無表情で古澤柊斗の顔をじっと見ると、自分の心臓の震えを誤魔化すために彼の鼻先に真っ直ぐ手を伸ばした。それから親指と人差し指でその鼻先を力いっぱいぎゅぅっと摘む。
「ふっ……?」
 急な襲撃に驚いたらしい古澤柊斗が、大きく目を見開いて、鼻を摘むあたしの手首を押さえながら息苦しそうにふがふが言う。その様子が面白くて指先にさらに力を入れて鼻を摘んでやると、彼が顔を赤くしてちょっとだけ涙目になった。
 しばらくその顔を楽しんでから指を離すと、古澤柊斗が少し充血した目であたしを軽く睨んできた。
「まおちゃん?」 
「あー、ごめん。おもしろかったから、つい」
「まおちゃん、ひどい」
 あたしが笑うと、古澤 柊斗は不服そうな顔をして「死ぬかと思った」と小さく呟いた。
「大袈裟」
 年下のくせに、あたしの感情を揺さぶったりするから仕返しだ。
 あたしは息を吐くようにふっと笑うと、古澤柊斗の肩を押しのけて立ち上がった。
 空はここへやってきたときよりも暗くなっている。少し寝転がったつもりだったのに、あたしは随分と長いこと寝ていたらしい。
「あたし、帰る」
 スカートについた草を手で払って、無造作に転がしたままになっている鞄を拾い上げる。土手を上がって家に向って歩き出しかけたとき、古澤柊斗があたしを呼び止めた。
「まおちゃん」
 振り返ると、彼が追いかけてきてあたしの隣に並ぶ。
「ケガ、もう大丈夫? 足と、それから……」
 古澤柊斗が鞄をつかんだあたしの左手に視線を向ける。その人差し指にはもう、彼に貼ってもらった絆創膏は巻かれていなかった。
「あー、指はたいしたことなかったし。足も、もうほとんど平気」
 この前傷めた右足首をくるりと回すと、油断していたところに、ぴりっと軽い痛みが走った。
 普通に歩いたり走ったりできるけど、急に無理やり動かすと、たまに痛みを感じるときがある。足首に走った痛みに僅かに眉をしかめると、それに気づいた古澤柊斗が妙に嬉しそうにあたしの顔を覗き込んできた。
「まおちゃん、送っていこうか?」
 にやりと笑う彼の狙いがなんなのか、すぐにピンとくる。
「いらない。前にも言ったでしょ? 下心見え見えなんだって。あんた、なんでもすぐに顔に出る」
 古澤柊斗の目的は、偶然を装って姉に会うこと。あたしの足の怪我なんて、本気で心配なんかしていない。
 冷たいまなざしを向けるあたしに、古澤柊斗がへらりと笑い返してきた。
「どうせまおちゃんにはバレてるんだし。この際もうオープンにいこうかなと思って」
「は?」
「まおちゃんのこと家まで送っていってもいい? もしかしたら、詩音さんに会えるかもしれないから」
 古澤柊斗がにこにこと笑いながら、堂々と言ってのける。
 彼が姉への下心を誤魔化したり、隠そうとしたら、あたしにも対抗のしようがいくらでもあるのに。笑顔でこうもはっきり認められてしまうと、どう反応すればいいのかわからない。
「あたしのお姉ちゃんは、あんたの兄貴の彼女でしょうが」
 古澤柊斗のことだから、もしかしたらその辺のとこをうまく理解できていないのかもしれない。だいたい、出会ったときから距離感おかしかったし。
 呆れ顔でそう言ってやると、彼はへらりと笑いながら小さくひとつ頷いた。
「そうなんだけど。詩音さん、すげー綺麗だし。初めて出会ったときの衝撃が忘れられなくて。兄貴の彼女ってわかってても気になるんだもん」
「それは、憧れみたいな感じで?」
 あたしが瑛大くんに対して大人の男の人の魅力を感じるように、古澤柊斗も姉に憧れを抱いてるんだろうか。そう思って訊ねてみたら、彼は眉を寄せて小さくうなり声をあげながら悩み始めた。
 それからしばらくして考えるのをやめると、あたしを見てにかっと笑う。
「憧れてるのもあるけど、同時に好きでもあるのかも。ひとりの女の人として」
「あっそ」
 古澤 柊斗は姉のことが好き、なんだ――。
 躊躇うことなくはっきりと告げられた、姉に対するそれは、憧憬の念ではなくて恋愛感情。
 脳がそれをゆっくりと処理していくのと同時に、咥内が何とも言えない苦い感情に侵食されていく。
 あたしはそれをぐっと喉の奥に流し込むと、唇を固く引き結んだ。
「ついてきなよ」
 ボソリと言うと、古澤柊斗がきょとんとした顔で瞬きをする。
「家まで送らせてあげる」
「え。まおちゃん、やっぱり足痛い?」
 たったいま、姉に対する気持ちをはっきりと断言したばかりのくせに。この流れであたしの言葉の意図が理解できないなんて、古澤柊斗はちょっとズレてる。
「オープンにいくことにしたんでしょ? たぶん、お姉ちゃんももう帰ってきてる」
 もう少しわかりやすい言い方をしてやると、古澤柊斗の表情がぱっと明るくなった。彼をそうさせるのが姉だと思うと、また口の中が苦くなる。
「いいの?」
「いいとか、悪いとかじゃない。あんたのバカさ加減に呆れたの」
「ありがとう、まおちゃん」
 そっぽ向いて先に歩き始めたあたしのあとを、古澤柊斗がヘラヘラ笑いながらついてくる。その構図は送ってもらっているというよりもむしろ、散歩に連れ出してもらった犬が尻尾を振りながら飼い主の後を追いかけてきているというのに近かった。
 鼻歌でも歌い出しそうな、古澤柊斗のニヤけた顔が鬱陶しい。それなのにあたしは、偶然でもいいから姉に会いたいという彼の浅はかな望みを叶えてやろうとしている。
 気持ちと行動の矛盾、それに何より自分の偽善に本当は腹が立っていた。
 ささくれだつ心を紛らわせるように、前に出す足をいつも以上に一歩一歩強く踏み締める。右足を踏み込んだときに不規則に感じる痛みが、家に辿り着くまでのあたしの心を助けてくれた。

 古澤柊斗を引き連れて玄関のドアを開けると、大き目な男物の靴が、瞬時に目に飛び込んできた。
「あ……」
 たぶん、ではなくて絶対に、瑛大くんが遊びに来ている。
 ドアを半分だけ開いたまま古澤柊斗を中に入れるかどうか迷っていると、あたしの気配に気付いた母がリビングから顔を出してきた。
「真音、おかえり。あら、お客さん?」
 これまで何人も彼氏ができたけど、あたしはその中の誰一人として家に連れてきたことがない。
 後ろに立つ古澤柊斗の姿を目ざとく見つけた母は、あたしに対して怪しむような視線を向けた。
「高校の後輩。で、瑛大くんの弟」
「瑛大くんの?」
 瑛大くんの名前を口にした瞬間、あたしを怪しむように見ていた母の眼差しが穏やかになる。
「はじめまして。古澤 瑛大の弟の柊斗です」
 古澤柊斗がにこりと笑って頭をさげると、母は急に笑顔になって、あたしなんか押しのける勢いで彼を家の中に招き入れた。
 母に誘導されている古澤柊斗のあとについて遅れてリビングに足を踏み入れると、そこで姉と一緒にお茶を飲んでいた瑛大くんが驚いたように振り返る。
「柊。お前、こんなとこで何やってんの?」
「柊くん、いらっしゃい。柊くんは最近真音と仲がいいみたい。この前も、ケガした真音のこと家まで送ってきてくれたの」
 瑛大くんと隣り合うようにしてソファに座っていた姉が、古澤柊斗に声をかけたあと嬉しそうに瑛大くんに笑いかける。
「へぇ。だけど柊。人の家に上がるのに、自主トレ用のスウェットはないだろ。もうちょっとマシな格好してこいよ」
 呆れ顔の瑛大くんからそんな指摘を受けて、古澤柊斗が頭を掻きながらへらりと笑う。
「うん、ちょっと想定外だったから」
「まぁ、いいじゃない。柊くんも真音も座れば?」
 姉に笑顔で促されて、古澤柊斗とあたしは姉と瑛大くんの前に向かい合うようにして座った。
「真音ちゃん、柊と同じ高校なんだってな。迷惑かけてたらごめんね」
 向かいに座ったあたしに、瑛大くんが優しく笑いかけてくる。
「迷惑なんてかけてないよ。ね、まおちゃん」
 身を乗り出して主張してくる古澤柊斗を死んだ魚みたいな目で見たら、瑛大くんが軽く握った右手を口元にあてながらクスクスと笑った。
「ほら、やっぱり柊が一方的に纏わりついてるんだろ。真音ちゃん、今日も柊の川原での自主トレに付き合わされてたの?」
「いえ、今日は――」
「川原での自主トレ?」
 瑛大くんに答えようとしたら、姉が興味深そうに話に割り込んできた。
「そう。この頃、真音ちゃんと一緒にたまに走ってるんだって」
「そうなんだ。真音、小さい頃から走るの速かったもんね」
 姉があたしを見て、眩しげに笑う。自分のほうが、あたしよりも凄いものをたくさん持っているくせに。あたしのことをどこか誇らしげに話す姉の笑顔が、あたしの胸を苦しくさせた。
 姉と瑛大くんは、しばらくの間あたしと古澤柊斗に共通しそうな話題をいろいろと投げかけてくれていた。
 だけど時間が経つうちにだんだんと二人にしか通じないような話題がどんどん増えてきて、あたし達は二人の会話から置き去りになる。
「だって、それは瑛大くんが――」
 笑いながら、ごく自然な動きで瑛大くんの肩や腕に触れる姉の手。瑛大くんの隣で終始笑顔を絶やさない姉を見ていると、彼女が本当に彼を好きだということが誰の目にも明らかに伝わってくる。
 姉が瑛大くんに向ける眼差しは、あたし達家族に向けられるものとも、古澤柊斗に向けられるものとも全く違う。姉と瑛大くんと向かい合わせに座っているのに、あたし達はまるで、透明な空気だ。
 姉のことが「好き」だと言った古澤柊斗は、自分の兄の隣で幸せそうに笑う彼女を目の当たりにしてどんな感情を抱いているんだろう。
 気になって、隣の古澤柊斗の様子をそっと窺う。
 ふと垣間見えた古澤 柊斗の横顔に、あたしははっと息を飲んだ。
 普段へらへらした顔で笑っているくせに。彼の深い黒の瞳は、瑛大くんと話す姉の顔を切なげにじっと見つめていた。
 あまりにも真っ直ぐなその眼差しが、あたしの胸を騒つかせる。
 古澤柊斗の姉に対する想いはただの憧れなんかじゃない。姉を見つめる彼の眼差しが、言葉なんかよりもずっと、その本気度を物語っていた。
 古澤柊斗は、姉が自分の兄の彼女だとわかっていて。姉と自分の兄の親密さをも理解していて。それでも、姉のことが好きなのだ。
 心臓から身体の細部に流れていく血液が、ドクドクと激しく音をたてるのを感じる。指先が勝手に震え始めて、あたしは膝の上で両手をぎゅっと強く握り締めた。
 そのとき、それまで黙って姉を静かに見つめていた古澤柊斗が不意に立ち上がった。
「俺、そろそろ帰ろっかな」
 姉と瑛大くんが、ようやくあたし達の存在を思い出したかのように、こちらに視線を向ける。
「俺ももうちょっとで帰るよ。柊も、それまで居させてもらったら?」
「いや、先に帰る。自主トレの途中だったし、川原寄りたいから」
「だったら、何で来たんだよ」
 呆れ顔で言う瑛大くんに、古澤柊斗がへらりと笑い返す。いつもどおりへらへらしてるのに、あたしにはその顔が今にも泣き出しそうに見えて仕方ない。
「兄貴はまだゆっくりさせてもらいなよ。詩音さん、お邪魔しました」
「またね、柊くん」
 古澤柊斗がどんな目で姉を見つめていたか。彼を見上げてにこやかに笑う姉と瑛大くんは、あの眼差しの純粋なまでな真っ直ぐさに少しも気付いていない。
 古澤柊斗は珍しくちょっと強張った顔で二人に頷くと、玄関に向かって歩いて行った。
「真音。柊くんのこと、玄関まで見送ったきたら?」
 姉に言われて、ぼんやりと座っていたあたしは慌てて古澤柊斗を追いかける。
 玄関で靴を履いている彼の背中は淋しげで、彼を家に連れてきてしまったことに罪悪感を覚えた。
「なんか、ごめん」
 ドアを開けて出て行こうとする古澤柊斗の背中に向かってぽつりと呟くと、振り返った彼がいつもより脱力した雰囲気でへらりと笑った。
「どうしてまおちゃんが謝んの? 見え見えの下心で、まおちゃんについてきたのは俺のほうだし。自業自得」
 古澤柊斗は最後にもう一度へらっと笑うと、あたしに手を振って帰って行った。
 彼が出て行くとき、ドアの隙間から灰色の空が見えた。閉じていくドアに向かって手を振り返しながら、今にも雨が降りそうだとぼんやりと思った。

 古澤柊斗を見送ったあと、あたしはリビングには戻らずに二階の自分の部屋に上がった。
 カーテンを閉めようと窓に近づくと、かなり遠くでチカッと空が小さく光る。窓を開けてみると、光からはだいぶ遅れて雷鳴が轟いた。
「雨、すぐ降るかな……」
 窓を閉めて小さく呟く。それから五分も経たないうちに、雨粒が窓を濡らし始めた。
「降ってきた」
 カーテンを捲って窓の外を見ながら、少し前に帰って行った古澤柊斗のことを思い出す。
 あたしの家から彼の家までは歩いて三十分くらい。そう聞けば遠そうに思えるけど、わざわざ駅を経由して電車で来るよりも徒歩のほうが案外近い。
 以前、瑛大くんがあたしにそう言っていた。
 空を覆う雨雲は分厚くて、きっとこの雨はこれからもっと強くなる。
 まだ、その辺を歩いているかも。
 淋しげに玄関から出て行く古澤柊斗の後ろ姿を思い出しながら、ドタバタと大急ぎで階段を駆け下りる。傘立てからビニール傘を一本つかむと、あたしはほとんど衝動的に家を飛び出していた。
 家を出たときは頬に軽くあたる程度だった弱い雨は、すぐに横降りになり、短時間で強い雨へと変わっていく。
 古澤柊斗の家は、川原からあたしの家とは逆方向だと言っていた気がする。
 次第に強くなってくる雨で制服のブラウスが濡れて、肌に張り付いてくる。せめて着替えてくればよかった。そう思っても、今さらだ。
 雨の中、ビニール傘を握り締めて、あてずっぽうに古澤柊斗の家がありそうな方向へと走った。
 川原沿いの道を過ぎたところで、一年程前につぶれてしまってシャッターが下りたままになっている元は文房具屋だった店舗がひとつ見えてくる。その軒先では、突然の雨に見舞われて動けなくなった人が数人雨宿りをしていた。
「まおちゃん!」
 どこまで走っても見あたらない古澤柊斗を追いかけてそのつぶれた店舗の前も走りすぎようとすると、あたしを呼び止める声がした。立ち止まってきょろきょろと辺りを見回すと、つぶれた文房具屋の軒先で雨宿りをしている人たちの中に古澤柊斗の姿があった。
「まおちゃん、何やってるの?」
 軒先から出てきた古澤柊斗が、へらりと笑う。
「傘。雨、降ってきたから」
 雨に濡れ始めた古澤柊斗にビニール傘を突き出すと、彼がそれを受け取って、あたし達ふたりの上で開いた。
「ありがとう。でも、何でまおちゃんまで濡れてんの? 傘あるなら、挿してくればよかったのに」
 古澤柊斗がにかっと笑う。それはうちの玄関を出るときに見せた淋しそうな笑顔ではなく、いつもの古澤柊斗の人懐っこい明るい笑顔で。それを見たあたしはものすごくほっとして、意味もなく泣きそうになった。
「まおちゃん?どうしたの?」
 情けないくらいに顔を歪めたあたしを見て、古澤柊斗が焦ってあたふたとする。
「別に、なんでもないから」
 緩みかけた表情をきゅっと引き締めると、彼が困ったように眉尻を下げて、それからほっとしたように少し笑った。
「それよりまおちゃん、どうする? 傘一本しかないし、俺、まおちゃんちまで一緒に戻ろうか?」
 古澤柊斗があたしがこれ以上濡れない様に、挿している傘の角度を微調整する。
 彼に言われて初めて、一本しか傘を持ってこなかった自分の失態に気が付いた。それぞれ別の方向に帰るのだから、二本持ってこないと何の意味もない。家を出るときに焦りすぎて、全く気が回らなかった。
「ごめん、役立たずで」
「そんなことないよ。まおちゃんが傘持って来てくれて嬉しかったし」
 古澤柊斗はあたしを責めることなく無邪気に笑いかけてくれた。そのことに安堵する反面、申し訳なくもなる。
「いったんまおちゃんちに戻ろう。歩いて十分くらいだよね」
 古澤柊斗がすぐにうちへ引き返そうとしてくれたけれど、あたしは少し考えて首を横に振った。
 今戻っても、うちにはまだ瑛大くんがいる。そこにまた、古澤柊斗を連れて戻りたくはなかった。
「いいよ、戻らなくて。ここからちょっと行ったところにカラオケあるの知ってる? そこで雨宿りがてら、ちょっと服を乾かして帰る」
「あー、駅から離れてるせいで全然流行ってないとこでしょ? じゃぁ、俺もまおちゃんに付き合う。お客さん少ないから多少濡れてたって文句も言われなさそう」
 古澤柊斗はにこっと笑うと、あたしが濡れないように気を遣いながら身体の向きを変えた。
 小さなビニール傘の下。肩を縮めて雨を凌ぎながら、彼と一緒に並んで歩く。
 しばらく歩くと、あたし達は目的のカラオケ店にたどり着いた。
 受付にはメガネのおばさんが暇そうに座っていて、あたし達が声をかけると無愛想な態度で部屋番号が書かれたプレートを渡してくれた。
 目的は雨宿りと服を乾かすことで、特に歌うつもりもない。あたし達は部屋に入ると、あまり弾力のないソファに並んで腰掛けた。
「まおちゃん、何か拭くものいるよね。俺が走ってたときに肩にかけてたタオルならあるよ。今日はほとんど汗は拭いてないから大丈夫と思うけど……。臭いかな……」
 あたしが濡れた髪を手の平でわしゃわしゃとかき乱していると、古澤柊斗が持っていたスポーツタオルを顔に近付けて、すんすんと匂いを嗅ぐ。
 その姿をしばらく見つめたあと、
「貸して。ないよりはマシ」
 あたしは古澤柊斗の手からスポーツタオルを掻っ攫った。借りたタオルを髪にあてると、雨の香りに混じって、ほんのりと古澤柊斗の匂いがする。
 元彼やコージ先輩から漂ってきた、人工的に作られた香りとは違う。体臭とか、シャンプーとかそういうのが混ざった同い年の男の子って感じの素朴な匂い。それになぜかドキッとして髪を拭く手を止めると、古澤柊斗が不安そうにあたしの顔を覗き込んできた。
「ごめん。やっぱ臭い……?」
 臭いわけないし、どちらかと言えば元彼の甘い香水の匂いよりも安心する。
 でも、そんな恥ずかしいこと、古澤柊斗相手に言えるわけない。
「ぎり、アウト」
 ふいっと顔を背けながら答えると、古澤柊斗が
「えー。じゃあ、もう返して……」
 と、タオルを引っ張る。
「ムリ。まだ、濡れてる。言ったじゃん、ないよりはマシって。洗って返すよ」
 あたしは髪の毛とブラウスの肩をしっかり拭くと、古澤柊斗のタオルを手元にキープした。
「そのままでいいのに」
 古澤柊斗がそう言って、テーブルに置いてあるタッチパネルにおもむろに手を伸ばす。それを膝の上に載せると、あまり興味なさそうに触り始めた。
「暇だったら歌えば? でも、古澤柊斗は歌ヘタそう」
 あたしがテーブルに置いたマイクを一本横に押しやると、古澤柊斗が「えー、ひどっ」と笑う。
「そんな言うなら、まおちゃん、どうぞ」
 せっかく勧めてあげたのに、古澤柊斗はあたしが押しやったマイクをすぐに押し戻してきた。
「あたしは今、そういう気分じゃない」
 眉を寄せながら、タオルで拭いても生乾きなままの髪を撫でていると、急に小さな震えがきた。鼻がむず痒くなって、盛大なくしゃみがひとつ飛び出す。
 鼻と口を片手で押さえながらテーブルのティッシュ箱に手を伸ばすと、古澤柊斗がスウェットの上着を脱いであたしに少し近づいてきた。
「まおちゃん、寒かったらこれ着とく?」
 首を傾げながら問いかけてきた彼は、あたしが返事をする前に脱いだ上着を肩からかけてくれる。温かな感触にふわりと上半身が包まれて、あたしは小さく身震いをした。
「暖房入れよっか。ついでに何かあったかいものでも――」
 タッチパネルで食べ物のメニューを開いてあたしの顔を覗き込んだ古澤柊斗が、何か言いかけて途中で言葉をとめる。
「何?」
 不思議そうな顔をしてまじまじと人の顔を覗き込んでくる古澤柊斗を横目で睨むと、彼がへらりと笑った。
「なんかまおちゃん、いつもと感じが違う気がして」
「は?」
 慌てて目の周りに触れると、指先に黒っぽいものが付着する。
 最悪。雨に濡れて、メイクが落ちたんだ。
「目の周り、黒くなってる?」
 顔をしかめながら訊ねると、古澤柊斗が曖昧に首を傾げた。
「うーん、ちょっと? でもそんなにわかんないよ」
「最悪。ちょっとトイレ行ってくる」
「何で? 別にそんなに気になんないって」
 古澤柊斗が勢いよくソファから立ち上がったあたしの手をつかむ。
「あんたが気にならなくても、あたしは気になる」
 不思議そうに首を傾げながら無神経なことを言う彼を睨むと、あたしは一旦部屋を出た。
 部屋の一番近くにあった店のトイレの洗面所の鏡で、自分の顔と向き合う。
 古澤柊斗は気にならないと言っていたけど、そんなはずがない。
 鏡に顔を近づけてよくみると、雨でアイプチが取れた左目は完全に一重になっていたし、マスカラも落ちて目の下がパンダみたいに黒くなっている。
 マスカラだけでも、ウォータープルーフにしとけばよかった。
 苦々しく思いながら、トイレの洗面所に置かれていた綿棒で、できる限り目の周りの汚れを擦る。最終的に目の周りの汚れはあまり目立たなくなったけれど、メイクで誤魔化していた目はすっぴんになるといつもより倍小さくなって、何だか全体的に幸の薄そうな顔になってしまった。
 こんな顔で人前に出るのなんて、小学生のとき以来だ。メイクしてない顔で人前に出るなんて、裸で外出するくらい恥ずかしい。
 ため息を吐きながらトイレを出て部屋に戻ると、古澤柊斗があたしを振り返ってにかっと笑いかけてきた。
「まおちゃん、あったかい飲み物頼んどいたよ。何がいいかわかんなかったから、紅茶にしたけどいい?」
 テーブルにはいつの間にかティーカップが二つ。そこからは白い湯気がゆらゆらと昇っている。
 あたしは俯いて横髪で顔を隠すと、古澤 柊斗からちょっと距離をとって座った。そして顔を伏せるようにしながらテーブルのカップに手を伸ばす。
「あ、ミルクと砂糖いる?」
 メイクの落ちた顔をあまり見られたくなくて顔を伏せているのに、それに気づかない古澤柊斗が無遠慮にあたしの顔を覗き込んでくる。
「砂糖だけもらう。ていうか、あんまり近くで顔見ないでよ」
 砂糖を渡してきた古澤柊斗の顔を遠ざけるように手で払うと、彼がきょとんとした表情で首を傾げた。
「えー、何で?」
「メイクしてなかったら目小さいし、ブスが際立つから」
 ぼそりと低い声でそう言うと、古澤柊斗は前かがみになってあたしの顔をじっと覗き込んできた。
「だから、見ないでって言ってるでしょ! あんただってさっき、いつもと顔が違うって言ったじゃない」
 手の平で顔を覆いながら、指の隙間から古澤柊斗を睨む。
 だけど彼はきょとんとした顔で、あたしを見ながら小さく首を傾げた。
「何で? 確かに、いつもと感じが違うなーとは思ったけど。まおちゃん、メイクしてなくたってふつーに可愛いじゃん」
 古澤柊斗があまりに自然にそんな言葉をぶつけてくるから、ドキリとする。
 今まですっぴんを曝した相手に冗談でも可愛いなんて言われたことがないから、恥ずかしくてひどく落ち着かない気持ちになった。
「嘘ばっかり。あたし、お姉ちゃんと全然違う」
 古澤柊斗の言葉を素直に受け止められずに反論すると、彼が不思議そうに首を捻った。
「嘘じゃないって。何でここで詩音さんが出てくんの?」
 今ここで、あたしが自分と姉を比較する意味がよくわからない。首を傾げながらあたしを見る古澤柊斗は、本当にそんなふうに思っているみたいだった。
「この前もなんか気にしてたみたいだけどさ。まおちゃんは、詩音さんと比べなくたって充分可愛いよ。でも、まおちゃんが詩音さんと自分を比べて落ち込んじゃう気持ちはちょっとだけわかる」
 見せないように顔を覆っていた手を外すと、古澤柊斗がへらりと笑う。
「まおちゃんも知ってるとおり、俺んちも兄貴のほうが出来がいいから、比べて落ち込むときもあるよ。でも結局比べたところでどうにもならないし。今のところサッカーだけは兄貴よりもちょっと自信あるから、そういうとこで俺なりに頑張ってる」
 自分が幸薄顔になっていることも忘れて目を見開くと、古澤柊斗が無邪気な顔をしてにこっと笑った。
「まおちゃんだって、ほんとは、詩音さんには負けないって思ってることがひとつくらいあるでしょ?」
「ないよ」
「あるじゃん。走るのとか」
 古澤柊斗に指摘されて、ドキリとする。
 彼の言うとおり、走ることだけは姉に負けないとずっと思っていた。今だって、全力で走れば嫌なことが全部吹き飛ぶ。
 でも、あたしと姉の関係はそう単純じゃない。
 あたしがどれだけ「負けない」と思っていたとしても、あたしたちの間には一生覆らない絶対順位(、、、、)が存在する。
 五位のあたしは八七位の姉に、どうやったって敵わない。
 暗い表情で黙り込んでいると、古澤柊斗があたしの顔を覗き込みながらにかっと笑いかけてきた。
「俺は、まおちゃんが走ってるところ好きだよ」
 まるであたしの憂鬱を見透かしたような彼の言葉に、胸がざわついた。
 どちらかというと感情表現の素直な彼は、何も考えていないようで、実はあたしよりもずっと物事を悟っているのかもしれない。
「年下のくせに生意気」
 笑顔の古澤柊斗を睨みながら呟くと、彼の眉尻がへにゃりと垂れた。
「え? 俺、何もしてなくない?」
「でも、生意気」
「まおちゃん、たまに言ってることよくわかんない」
 唇を尖らせて不服そうにしている古澤柊斗の横顔を横目で見ながら、ふと彼が姉を見ていたときの切なげな眼差しを思い出す。
 いつも思っていることがすぐ顔に出てしまう彼が、あのときだけは、溢れ出しそうになる感情をぐっと心の奥に押し込めるような。そんな()をしていた。
 いつもへらへらと笑っている彼や、今隣で不服そうに顔を歪める彼を見ていると、姉を見つめていたときのあの切なげな横顔が同一人物のものとは思えない。
「あんた、お姉ちゃんのこと本気なの?」
 ぽつりとそう訊ねると、古澤柊斗の顔が耳まで一気に赤くなる。
 やっぱり、わかりやすい。
 小さく鼻で笑うと、彼が恥ずかしそうに目を伏せる。
「まおちゃん、唐突すぎ……」
「今日は、瑛大くんいたからタイミング悪かったよね。あんたが本気なんだったら、あぁいうのはやっぱり結構きついと思う」
 好きな人が自分以外の好きな人のそばで笑ってる。そんな姿を目の当たりにして、平常心なんて保っていられるはずない。
 瑛大くんの横で幸せそうにしていた姉の顔を思い出しながら同情の言葉をかけると、古澤柊斗が困ったように笑った。
「うーん、だけどまぁしょうがないよね」
 そう言って笑う古澤柊斗の瞳が切なげに揺れる。それにつられて、あたしまでどうしようもなく切ない気持ちになった。
 うつむく古澤柊斗の沈んだ横顔が、きゅっとあたしの胸を締め付ける。
「本気で好きなら、あんたも少し頑張ってみれば? まあ、見込みは低いと思うけど」
 そんな言葉をかける気になったのはきっと、古澤柊斗が『まおちゃんが走ってるところ好きだよ』なんて。あたし自身を認めるような言葉をかけてくれたせい。
 それに、沈んでる顔は古澤柊斗にはあんまり似合わない。ちょっと空気が読めなくて、何があってもへらりと笑ってるのが、古澤柊斗だもん。
 励ましになっているかどうかもわからない無責任な言葉に、古澤柊斗はいつもの調子でへらりと笑っていた。
「ありがとね、まおちゃん」
 彼にそう言われた瞬間、胸の奥がきゅぅっと手の平で握りつぶされたみたいに苦しくなる。
 古澤柊斗はあたしのことを個人として認めてはくれている。だけど、彼にとっての一番はあくまでも姉だ。
 それがわかっていて「頑張れば?」と、無責任な言葉をかけた自分に、あたしは今さら少し後悔していた。