電車を降りて、駅の改札を抜ける。
 自宅のある方向へ足を一歩踏み出したとき、聞き覚えの声があたしを呼び止めた。
「まおちゃん!」
 声だけでそれが誰だかわかったから、あたしは振り返らずに歩を進めた。
 川原で走ったときに軽く捻挫した足がまだ痛むから、あまり速くは歩けない。それでもできる限り速く歩いてその場を立ち去ろうと努力したのだが……。
 明るい声と軽快な足音は、あっという間にあたしに追いついてくる。
「まおちゃん、今帰り?」
 あたしの隣に並び横から顔を覗き込んできたのは、やっぱり古澤柊斗だった。
「部活は?」
 顔を見ずに問いかけると、彼がへらりと笑う気配がする。
「今日は休み。まおちゃん、足大丈夫?」
「昨日よりはマシ」
「そっか。でも、せっかく会ったから家まで送ってくよ。ケガさせちゃったの、俺だし」
 ケガさせちゃった――?
 昨日は「まおちゃんが勝手に転んだ」なんて言ってたくせに。 
 ちらり、と今日初めて古澤柊斗の顔を見上げると、それに気づいた彼がにこっと笑った。
 送ってくれなくたって、一人で帰れる。そう言おうと思ったのに、彼の笑顔に不意を衝かれてしまって言葉が出なかった。
 あたしが拒否しないのをいいことに、彼は特に何をするわけでもなく、ただにこにこ笑いながらあたしの隣をついてくる。
 一応送ってくれてるつもりなんだろうけど、車や自転車から守ってくれるわけでもないし。基本的には何の役にも立っていない。
 それなのに、古澤柊斗が歩く自分の右側が妙にそわそわとして落ち着かなかった。
「昨日、兄貴に詩音さんと会ったこと話したんだけど。俺とまおちゃんが知り合いだってことに、兄貴も驚いてたよ」
 家が目前に迫った頃。古澤柊斗が何かを探すように遠くへじっと目を凝らしながら、そんな話題を口にした。
「詩音さん、たまにうちに遊びに来てるけど、いつ見てもすげー美人だよね」
 そう言って笑う彼に、おそらく他意はない。それに、姉が「美人」であることは改めて他人に言われなくたってあたしが一番よく知っている。
 だけど、少し空を見上げるようにしながら姉のことを「美人」だと褒める古澤柊斗の言葉が、あたしの勘に触った。
「それは、あたしと比べてって意味?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
 古澤柊斗が困っているのがわかる。その困った顔が、余計にあたしを苛立たせた。
「どうせ、あたしとお姉ちゃんはできが違う」
「そんなことないって。真音ちゃんだって……」
「気を遣わなくていいよ。あたしはお姉ちゃんみたいに美人じゃない」
 あたしが皮肉っぽく笑うと、古澤柊斗が眉尻をさげて口を閉ざした。
「ほら、あんたも認めてるじゃん。あたしはお姉ちゃんと違ってブスだって」
「そんなこと思ってないって」
「わかってるよ。こないだも言われたところだから。近くで見たらブスだって」
 この前の河野達の言葉を少し脚色して言うと、古澤柊斗がますます困ったように眉を下げる。
「そんなひどいこと、誰が言ったの?」
「さあ?」
 ほんとうは、古澤柊斗の言葉にあたしを貶める意図なんてなかったことはわかってる。古澤柊斗は、素直で単純だから。彼はただ純粋に、姉が「美人」だという誰もが抱く客観的な感想を述べただけ。それなのに、その言葉を捻じ曲げて受け取って皮肉まで言ってしまうあたしは、我ながら性格が悪いと思う。
 最近は人からの評価なんて気にしてないフリができるようになっていたのに。どうしてか、古澤柊斗の言ったことが勘に触って、黙って我慢することができなかったのだ。
 あたしのせいで、古澤柊斗との間に気まずい空気が漂う。
 自宅まであと数メートル。きっちり家の前までついてこなくたっていいのに。
 そう思い始めたとき、自宅の玄関のドアが開閉して、靴のヒールがタイルをコツコツと叩く音がした。
 自宅の前に辿りつくと、姉が玄関の横のプランターに水をやっていた。
「あ、詩音さん」
 姉の姿を見つけた古澤柊斗が、嬉しそうに彼女に声をかける。その声であたし達の存在に気付いた姉は、デザイン重視であまり水の入らないジョウロを片手に振り返った。
「真音、おかえりなさい。今日も柊くんと一緒だったの?」
 姉が古澤柊斗に視線を向けながら、にっこりと微笑む。
「一緒っていうか、こいつが勝手についてきただけ」
 あたしは古澤柊斗の肩を軽く押すと、彼にチラリと一瞥を投げてとっとと帰るよう無言で促した。
 だけど、この前と同様に姉のことをきらきらとした眼差しで見つめている彼は、あたしの「帰れ」の合図に気付かない。
 姉はいつまでも立ち去ろうとしない古澤柊斗に愛想よく笑いかけると、玄関のドアに視線を投げながら彼に誘いかけた。
「柊くん、よかったら上がっていく?」
「は? 何で――」
「いいんですか?」
 眉をしかめるあたしの隣で、古澤柊斗が嬉しそうに目を輝かせる。
「どうぞ。今お母さんが買い物に行ってるから、たいしたおもてなしはできないけど」
 姉は古澤柊斗ににこりと笑いかけると、彼を家の中に招きいれた。

「クッキーあるから、食べる? 柊くんは、コーヒーと紅茶どっちがいいかな?」
 古澤柊斗をリビングのソファに座らせると、姉はキッチンへ向かってお客様用のカップを用意し始めた。
 別に、クッキーも飲み物も出さなくていいのに。
「あ、どっちでもいいです」
 胸の前で腕を組みながら不機嫌な顔をして立っているあたしの前で、ソファに腰掛けた古澤柊斗が遠慮がちに答える。
「なに、のこのこ上がりこんでんのよ」
 キッチンに立つ姉の後ろ姿を夢見心地で眺めている古澤柊斗を横目に睨む。けれど、今の彼にはあたしの嫌味も嫌味として耳には届かないらしい。
「だって、詩音さんに誘われたから」
 姉の背中を見つめながらうっとりと答える古澤柊斗に、あたしは無言で眉をひそめた。

 しばらく待っていると、姉がクッキーと紅茶を運んできた。
「不機嫌な顔してどうしたの、真音。そんなところに立ってないで座ったら?」
 姉に言われて、あたしはしかめ面を保ったまま、一人分のスペースを空けて古澤柊斗の隣にドスンと腰をおろす。
 姉はあたしを見て苦笑いを浮かべると、運んできた紅茶のカップを古澤柊斗の前に差し出した。
「なんか、わかりにくい子でごめんね」
 わかりにくい子――?
 古澤柊斗に弁解するように言った姉の言葉。
 実際そうに違いないのだろうけど、できのいい姉に言われると、バカにされているようで、あまりいい気がしない。
 唇の端をあからさまにきゅっと引き下げると、それに気づいた姉が困ったように片眉を下げる。
 姉はそれ以上あたしの機嫌を窺うことはやめると、自分もソファーに腰掛けた。

「だけど、柊くんと真音がこんなに仲良いとは思わなかった。今日も家まで送ってくれるなんて、もしかして二人は付き合ってるの?」
 紅茶をひと口飲んだ姉が、カップを置きながら古澤柊斗に微笑みかける。
「は? お姉ちゃん、何言ってんの!?」
 突拍子のない姉の発言に、思わずソファから転げ落ちそうになる。前に身を乗り出しながら姉の言葉を否定しようとするあたしの隣で、意外にも古澤柊斗は冷静だった。
「あ、全然」
 いつものようにへらりと笑いながら、姉の言葉をあっさり否定する。
「最近、偶然に知り合ったんです。まおちゃんがケガしてるから送ってきたけど、付き合うとかそういうのではないですよ。だってまおちゃん、年下には興味ないし」
 姉にきっぱりとそう言いきった彼が、あたしを振り向いて「ね?」と確認するように笑う。
「う、うん。よくわかってるじゃない」
 彼の言葉に頷いたものの、満面の笑みであたしとの恋愛関係を完全否定されると、それはそれで少し複雑だ。
「真音、年下には興味ないんだ?」
「まおちゃん、一日でも年下のやつには興味ないらしいですよ」
 姉が何か言うと、古澤柊斗がすかさずそれに答える。
「一日でもって……それはまた極端ね」
 姉があたしをちらっと見て、苦笑いする。
 あたしが年上が好きなことなんて、姉に知られたくないのに。余計なことを喋る古澤柊斗にちょっとムカついた。
「早く帰れば?」
 隣に座る古澤柊斗を睨みながら冷たく言うと、姉があたしを制する。
「真音」
 眉を寄せて、少しきつい強い口調であたしの名前を呼ぶ姉。そんな表情をするときですら、姉はとても美しかった。
 姉と古澤柊斗は、それからしばらく、当たり障りのない会話を続けた。
 姉と話す彼は、きらきらとした眼差しでじっと彼女を見つめ続けていて、隣にいるあたしが座る位置をずらしても、退屈そうにため息をついても、ちらりともこちらを見ようとはしない。
 あたしもあたしで、退屈なら二人を置いて部屋に上がればいいのだけれど、なぜかそういう気持ちになれない。
 綺麗に微笑む姉と明らかに彼女だけしか視界に入れていない古澤柊斗の会話に、終始眉を寄せたまま耳を傾けていた。

「じゃぁ、私はそろそろピアノの練習があるから部屋に戻ってもいいかな?」
 三十分ほど経って会話が途切れると、姉がリビングの掛け時計を見ながら腰を上げた。
 やっと、姉と古澤柊斗との無駄な会話が終わる。そう思うと、ずっと眉間に集中しっぱなしだった力が緩む。
 立ち上がった姉は、自分が飲んでいた紅茶のカップを持ち上げると、それをキッチンに下げるついでにあたしと古澤柊斗のカップの中身を確かめた。
 ずっと眉間に皺を寄せながら話を聞いていたあたしのカップの中には、ほとんど口をつけないまま冷めてしまった紅茶がたっぷりと残っている。けれど、古澤柊斗のカップの中身は空っぽだった。
 姉を前にした緊張で喉でも渇くのか、古澤柊斗は会話の間中何度も紅茶を飲んでいた。
「時間があれば、柊くんはゆっくりしていってね。紅茶のおかわり飲む?」
 空になったカップから視線を上げた姉が、古澤柊斗に微笑みかける。その瞬間、彼の耳がわかりやすいくらいにカーッと一気に朱に染まった。
「淹れてこようか?」
 古澤柊斗がおかわりを求める前に、姉が彼のカップに手を伸ばす。そのとき何を思ったのか、彼がカップを持って勢いよく立ち上がった。
「あ、いえ。もう大丈夫です」
 耳朶まで真っ赤にした古澤柊斗が、姉に向かって大袈裟なくらいに大きく左右に首を振る。
「そう? じゃぁ、これはもう下げておくわね」
 姉はクスリと笑うと、古澤柊斗が手にしているカップに手を伸ばした。姉の指先が、カップをつかむ彼の手の甲に軽く触れる。ただそれだけのことなのに、古澤柊斗は耳を真っ赤にして完全に硬直してしまっていた。
 ガチガチになっている彼の手から、カップが滑って床に落ちる。激しく床と衝突したカップは、古澤柊斗の足元で粉々に壊れた。
「柊くん、大丈夫?」
「あ、すみません……!」
「待って、柊くん。ガラス危ないから、そのまま動かないで」
 姉が、焦って動こうとする古澤柊斗の腕をつかむ。姉に触れられた古澤柊斗は、こんな状況だっていうのに、既に真っ赤に染まった耳をさらに赤くしていた。
 なんなの、そのあからさまな反応は。
 姉のことを全力で意識している古澤柊斗に、なんだかモヤモヤしてしまう。
 だけど……、床にしゃがんだ姉が、白くて細い指でカップの破片に触れようとしているのが、ふと視界に入ってハッとした。
「待って、お姉ちゃん。触っちゃダメ。指怪我したらいけないから、あたしが拾う」
 すんでのところで姉の白い手をつかむと、彼女があたしを見上げて眉を下げる。
「でも……」
「お姉ちゃんは掃除機とってきて。あと、念のためにガムテープ」
「わかった」
 姉が少しでも指に怪我をすると、母がうるさい。そのことをよく知っている姉は、申し訳なさそうな顔をするものの、必要以上あたしに反論しなかった。
「ありがとう、真音」
 そう言って、当たり前のことみたいに微笑むと、ゆっくり立ち上がって掃除機を取りに行く。その間に、あたしは新聞紙とゴミ袋を持ってきた。
 カップの破片を手で拾い集めて、ゴミ袋に入れる前にそれらを新聞紙で包む。
 しばらくすると姉が掃除機を持って戻ってきた。
 カップの破片が飛んでいる可能性がある場所には全て掃除機をかけ、仕上げに床にガムテープをペタペタと貼って細かな破片を取り除く。
 主にあたしがちょこまかと動いているあいだ、古澤柊斗はその様子をぼんやりと見ていた。
「柊くんも真音もケガしなかった?」
 割れたカップを綺麗に片付けた終えたあと、姉があたし達を見てそう訊ねる。
「大丈夫です。迷惑かけてすいませんでした」
「気にしないで。柊くんにケガがないならよかった」
 姉はぺこぺこと何度も頭を下げる古澤柊斗に笑いかけると、今度こそ自分の部屋に戻っていった。

 姉が出て行くと、急にリビングがシンと静まり返る。
 ちらっと隣を見ると、古澤柊斗は姉が去っていったドアをぼんやりとした顔で見つめていた。
 もう姉はリビングにはいない。それなのに、去っていた姉の名残を探してまだぼんやりとしている古澤柊斗に苛立ちが募る。
「いつまでもぼーっとしてないで、とっとと帰れば? 迷惑なんですけど」
「あ、そうだよね。いつまでも居座ってごめんね」
 なかなか動こうとしない古澤柊斗のほうを煩わしげに見ると、彼が笑いながら首筋を掻く。
「はい、これ」
 あたしはソファーの脇に置いてあった鞄を拾うと、へらへらし始めた古澤柊斗に向かって乱暴に突き出した。
「ありがとう、まおちゃん。あれ……?」
 笑いながら手を伸ばしてきた彼が、固く握りしめて横におろしていたあたしの右手に気付く。はっとして右手だけ背中に隠したけれど、遅かった。
「まおちゃん、そっちの手、怪我してない?」
 古澤柊斗が、鞄の代わりにあたしの右手をつかむ。
 彼に持ち上げられた右手を、指先を手のひらに押しつけるようにして一層強く握りしめたら、人差し指と中指の隙間からつーっと血が垂れてきてしまう。
「まおちゃん、手開いて」
 どうしよう。これは、ごまかせないな。
 しばらく右手に力を入れて抵抗してみたけど、古澤柊斗に無言でじっと見つめられて、あたしは仕方なく手を開いた。
 右手の人差し指にできた切り傷。それを隠すために握りしめていた手のひらの真ん中に、赤い血が付いている。
 壊れたカップの破片を新聞紙で包んで片付けていたとき、尖った破片が紙を突き破ってきて人差し指の先に刺さったのだ。
「さっき詩音さんに怪我がないか聞かれたとき、どうして何も言わなかったの?」
「だって、たいした傷じゃないし」
「たいしたって……。血、出てるよ?」
「そりゃ、血くらい出るでしょ」
「痛くないの?」
「別に。それよりもお姉ちゃんが指怪我したほうが、あとでいろいろと面倒だから」
「でも、手当とか……。詩音さん呼ぶ?」
「うるさいなあ。必要ないって」
 あたしは古澤柊斗の手を振り払うと、彼に鞄を押し付けた。 
 たいした怪我じゃないのに、古澤柊斗はあたしの血を見て、ものすごくおろおろしてる。
 あたしは、はぁーっとため息を吐くと、古澤柊斗の肩を押し退けて、廊下の収納棚に置いてある救急箱を取りに行った。
「まおちゃん、どこ行くの?」
 後ろから追いかけてくる古澤柊斗は無視して、廊下の収納棚の救急箱から絆創膏を取り出す。血の付いた手で包み紙から取り出した絆創膏のフィルムを剥がそうとしていると、あたしの背後に立っていた古澤柊斗がすっと腕を伸ばしてきた。
「貸して、まおちゃん。貼ってあげる」
「え? いいから、そんなの」
 突然、右手であたしの手をつかんで、左手で絆創膏を持った古澤柊斗に、後ろから抱きしめられるみたいな状況になる。
 背中が今にも古澤柊斗の胸にくっつきそう。だけど、そんな状況に焦ってしまうのはあたしだけで、彼のほうは少しも動じる気配がない。
 それどころか、
「よくないよ。詩音さんが怪我したらダメで、まおちゃんだったら怪我してもいいなんて。そんなの、全然よくない。まおちゃんの手だって大事でしょ」
 ちょっと怒った声で、そんなふうに言うから、胸がざわついた。
 あたしを背中から両腕を回したままの状態で、古澤柊斗が絆創膏のフィルムを剥がす。後ろに立つ彼がどんな顔をして、どんなつもりでそう言ったのかはわからない。けれど彼の言葉は確実にあたしの胸に刺さって、少し泣きそうになった。
 さっきまで姉のことばかり考えてぼんやりしていたくせに。姉のことしか視界に入っていなかったくせに。
 それなのに、今頃になってあたしのこともちゃんと見ているようなフリをするなんて……。ほんと、ずるい。
「できた」
 あたしの指に丁寧に絆創膏を巻き付けた古澤柊斗の声が耳元で弾ける。
 その声音から、嬉しそうに笑う古澤柊斗の顔が容易に想像できて。あたしは顔を俯けながら、彼の胸を押し退けた。
「よかったね。けど、近い」
「ほ、ほんとだ。ごめん!」
 今さら気付いたのか、古澤柊斗が慌てて後ろに飛び退く。
 姉相手だったら、指先が手の甲に軽く触れただけで耳まで真っ赤になっていたくせに。あたしとの密着状態には指摘されるまで気が付かないなんて。よっぽど意識してなかったんだろうな。
 古澤柊斗との距離なんかをムダに意識してしまった、あたしのほうがバカみたいだ。
 こんなことで腹を立てるのは理不尽だとわかっているのに。古澤柊斗のことがムカつく。
「ねぇ、早く帰れば?」
「あ、うん。そうだよね」
 気まずそうに立っていた古澤柊斗が、あたしにへらりと笑いかけてくる。その顔を見ていたら、余計にもっとムカついた。
「ほんとに早く帰って」
 冷たい態度で古澤柊斗のことを玄関の外へと押し出そうとしていると、不意に二階の姉の部屋からピアノの音が聴こえ始めた。高音で速いメロディが流れ始めた瞬間、あたしに押されて家から出ようとしていた古澤柊斗が足を止める。
「詩音さんのピアノだ」
 古澤柊斗が、階段を振り返りながら口元を綻ばせる。
「だから、何? 早く帰れば」
 嬉しそうなその表情に訳もなくイラついたあたしは、立ち止まっている彼を全力で外に押し出した。
 無理やり玄関の外に追い出された彼が、不服そうに唇を尖らせながらピアノの音色が聴こえる二階の窓を見上げる。しばらく姉のピアノの音色に耳を澄ませたあと、彼があたしを見て幸せそうに破顔した。
「俺、詩音さんのピアノ、生で初めて聴いたかも。音色がすごく綺麗で、詩音さんそのものって感じする」
 姉のピアノを褒める古澤柊斗の嬉しそうな顔が、あたしの心を尖らせる。
「あんた、お姉ちゃんのことが好きなの?」
 イラついた声で訊ねると、古澤柊斗が「え!?」と驚きの声をあげて、大きく目を見開いた。その数秒後には、彼の瞳が戸惑ったようにうろうろと左右に泳ぎ始める。
 敢えて確かめなくたって、古澤柊斗の気持ちは姉の前でこれでもかというくらいにだだ漏れていた。
 それなのに問いかけたのは、一人でバカみたいに浮かれている古澤柊斗へのただの嫌がらせだ。
「わかりやす……」
 あたしが小さく鼻で笑うと、古澤柊斗は恥ずかしそうに目を伏せながら耳朶をほんのり朱に染めた。
「別に、そういうんじゃなくて──」
「知ってるよ。今日あんたがあたしのこと送ってくれたのって純粋な親切心からじゃないよね。もしかしたら、またお姉ちゃんに会えるかもしれないって思ったからでしょ?」
 真っ赤な耳で下手な言い訳をしようとする古澤柊斗の言葉を遮る。
「そんなことないよ。まおちゃんのことだって心配だったし」
 眉尻をさげながら取り繕ったように言う古澤柊斗のことが、本気でムカついた。
「何言ってんの? あんなにお姉ちゃんのことしか見てなかったくせに」
「そんなこと……」
「明日以降は、もし帰り道に出会っても送ってくれなくていいから。下心見え見え」
 軽蔑のまなざしを向けると、いつもは睨まれてもへらへらと笑っている彼が、叱られた子犬みたいにシュンと頭を垂れた。
「まおちゃん――」
 古澤柊斗が項垂れたまま何か言おうとしていたけれど、あたしは彼の言葉をそれ以上一言も聞きたくなかった。何か言いたげにしている彼をその場に残して、玄関のドアをバタンと乱暴に閉める。
 彼の姿が視界から消えても、あたしの胸に湧きあがる訳のわからない苛立ちはおさまることがなかった。
 仮に古澤柊斗が姉を好きだったとしても、そんなことあたしには関係ないしどうだっていいのに。
 ドアを押さえる右手の人差し指に巻かれた絆創膏をじっと見つめる。古澤柊斗がキツめに巻いてくれたその下の傷が、今になってズキズキと生々しく痛かった。