「またフラれたの? 今年に入って何人目よ」
 体育の授業が終わり、教室に向かっている途中。隣を歩くエリナが体操着とジャージが入った袋をぎゅっと抱えこむようにしながら笑う。
「さぁ。まだ三人くらいじゃない?」
「まだって。もう三人目でしょ」
「それは、考え方の問題。まだって言っといたほうがポジティブでしょ?」
 おどけたようにそう言うと、エリナは笑うのをやめて綺麗に整えられた眉を寄せた。
「まぁ、どっちだっていいけど。また大学生の彼氏探すの?」
 エリナが手にした袋を抱えなおしながら、呆れ顔で訊ねてくる。
 エリナとあたしは高一のときから仲が良くて、あたしの男の人の好みとか付き合い方を一番よく知っている友達だ。
「いい機会があれば。別に急いで探そうってわけじゃない」
 あたしが答えていると、エリナが制服のポケットからスマホを取り出した。あたしとの会話を中断してスマホをチェックするエリナの頬が、ほんの少し緩む。
「彼氏?」
 その横顔を見遣りながら訊ねると、エリナがあたしににやけた顔を向けた。それからふと思いついたように口を開く。
「一個上でよかったら、彼氏の友達で紹介できそうな人いるか聞いてみようか?」
 エリナに問われて、少し迷う。
「エリナの彼氏って高三でしょ? 受験生なのに、彼女とか作ってる暇あるの?」
「さぁ、一応聞いてみるだけ聞いてみるよ」
 エリナの彼氏は他校の高三で、写真でしか見たことないけどそこそこイケメンだった。
 まぁ、機会があるなら紹介してもらってもいいか。軽い気持ちで、エリナの申し出に頷く。
 それを確認すると、エリナはあたしから視線をそらして熱心にスマホで何か文字を打ち始めた。
 彼氏とのやりとりに熱中しているエリナの隣で、あたしはしばらく手持ち無沙汰になる。
 ジャージの入った袋を抱える腕の力を強めたり緩めたりしながらエリナの横を歩いていると、教室に向かう階段の前までたどり着いた。
 スマホを注視しているエリナが躓かないか勝手にひやひやしながら一歩段を上がったとき、突然どこかから大きな声がした。
「まおちゃーん!」
 え、あたし――!?
 自分の名前が聞こえてきて、あたりをきょろきょろと見渡すけれど、周囲に知り合いらしき人はいない。けれど、周りの反応を見る限り、他に「まお」っぽい人もいなさそうだ。
「まおちゃん、こっち、こっち! 上だよ!」
 きょろきょろしていると、また大きな声がする。その声に導かれるように顔を上げると、見覚えのある男子生徒が二階上の手摺から思いきり身を乗り出してあたしに向かって手を振っていた。
「やっぱりまおちゃんだ!」
 男子生徒があたしを見て、にかっと笑う。
 目を細めてその顔をよく確かめたあたしは、彼が昨日川原でしつこくあとを追いかけてきた男の子だということに気がついた。
 同じ高校だったんだ……。
 彼を見上げるあたしの顔が歪む。
「まおちゃん、今日は河川敷行く?」
 あたしが顔を歪めていることなど全く気付いていない彼は、無邪気に笑いながら話しかけてくる。相変わらず、声が大きい。 
「まおちゃーん、聞いてる?」
 彼があんまり大きな声を出すものだから、周りを歩いている他の生徒達があたしに好奇の眼差しを向けてくる。
「真音、知り合い?」
 スマホを弄っていたエリナも、顔をあげて怪訝そうに眉を寄せていた。
 何なの、あいつ。
 あたしは手摺から身を乗り出している彼を下から睨みつけると、エリナの手を引いて早足でその場を去った。彼の姿が見えなくなると、エリナが興味津々な目であたしを見てくる。
「ねぇ、今の子誰? 真音、年下には興味ないんじゃなかったっけ?」
「何で年下だってわかるのよ」
 興味深げに見てくるエリナをじろっと見返すと、彼女が口角を引き上げた。
「だって、あの子がいた階って一年の教室しかないもん。二、三年はめったにあの階に行かないよ」
 言われてみれば、確かにそうだったかもしれない。
「ねぇ、誰あの子?」
 エリナにしつこく訊ねられて、顔をしかめる。
「知らない。川原にいたら、なんかなつかれた」
「何それ。犬?」
 エリナが面白がってケラケラと笑う。
「そうかも」
 そう答えて、あたしは小さく肩を竦めた。


***

 その日の放課後。私は彼氏と待ち合わせしているというエリナと駅前で別れた。
 自宅の最寄り駅までは、電車に乗って十五分くらい。すぐに帰ってもすることがないから、あたしは一人で駅前をうろうろとしていた。
 昨日までなら川原に行くという最高の時間潰し方法があったけど、またあの変なやつに会いたくない。
 コーヒーでも飲んで帰ろうかな。そう思っていたとき、後ろから声をかけられた。
「真音ちゃん?」
 振り返ると、そこには背の高い茶髪の男の人が立っていた。その人に確かな見覚えがあるのだけれど、名前がぱっと頭に浮かんでこない。目を細めてしばらく考えていると、彼が困ったように眉を寄せた。
「覚えてない? 去年卒業したけど、真音ちゃんと同じ高校のバスケ部だった……」
 彼がそこまで言ったところで、ようやくあたしはその人の名前を思い出した。
「コージ先輩」
「そうそう、思い出した?」
 指差しながらその名を呼ぶと、彼がふっと優しげな目をして笑った。
 コージ先輩は、あたしが高校一年生だったときにバスケ部の副キャプテンを務めていた二つ上の先輩だった。
 一年生のときのクラスメートがたまたま男子バスケ部のマネージャーをやっていて、そのときに部員を何人か集めて合コンめいたものをしてもらったことがある。コージ先輩とはそのときにちょっと親しくなって、三、四回学校帰りに二人だけで遊びに行った。
 二人でいるときは優しくて好印象な先輩だったけど、当時受験生だった彼は勉強が忙しそうで。付き合うとかそういうことはなく、特に恋愛関係に進展することもないまま、先輩は卒業していった。
 卒業してからは一度も会ったことがなかったから、先輩と顔を合わせるのはひさしぶりだ。制服じゃないコージ先輩の見た目は、高校生の頃より格段に大人っぽくなっている。
「ここで何してるんですか?」
「大学が近いから今この近くで一人暮らししてるんだ。たまにだけど、土日には高校の部活の練習見に行ったりしてる」
「そうなんですか。あたし、この駅地元なんです」
「そうだったんだ? お互い毎日駅使ってんのに、今まで全然会わなかったのが不思議なくらいだな」
「ですね」
 コージ先輩が笑う。見た目は変わっても、その笑顔は高校生のときとあまり印象が変わらなかった。
「真音ちゃん、一人で何してたの? 誰かと待ち合わせ?」
「いえ。暇だから、駅前ぶらついてたんです。ちょうどコーヒーでも飲もうかなぁって思ってたところで」
「そうなんだ。じゃぁ、俺んちすぐそこだから遊びに来る?」
「え?」
 コージ先輩に軽い口調で誘われて、ちょっと戸惑う。困っていると、コージ先輩が噴出すように笑った。
「そんな顔すんなって。ひさしぶりに会ったから、ちょっと話したいなぁって思っただけだよ。俺んちでなんか飲まない?」
 ひさしぶりに会ったかと思えば「遊びに来る?」なんていうから、ちょっと警戒してしまったけれど。あたしが自意識過剰すぎたらしい。
「あぁ、そうですね。それだったら……」
 口元に笑みを浮かべて頷くと、コージ先輩は「こっち」と言って歩き始めた。駅を越えて家とは逆方向にはあまり行ったことがないけれど、彼に着いて五分ほど歩く。
「ここ、俺んち」
 コージ先輩が、ポケットからキーケースを取り出してエントランスの鍵を開ける。連れて来られたアパートは三階建てで、こじんまりとした綺麗な建物だった。
「ここ、エレベーターないんだ。俺んち三階だから、階段頑張って上がってね」
 笑って言うコージ先輩に、あたしは黙ってついて歩いた。

 部屋のドアを開けると、そこからは部屋に向かって短い廊下が伸びていて、部屋と廊下のちょうど境目のところに小さめで使い勝手が悪そうな小さなキッチンがあった。狭い流しとコンロがひとつあるけれど、使われている気配もない。
 あたしがきょろきょろとしていると、コージ先輩は「ちょっと汚いけど……」と苦笑いを浮かべながら、ベッドの上に散らばっていた洋服をすばやく片付けた。
「全然、すごく綺麗ですよ」
 お世辞ではなく本気でそう言うと、コージ先輩はベッドの上に置いてあった丸いクッションを床に放り投げた。
「座り心地は悪いと思うけど、よかったらこれ使って」
 床に置かれたクッションを指差しながら、コージ先輩が飲み物を取りに行く。
「あ、ごめん。コーヒーちょうど切らしてて、お茶とコーラしかないや」
 キッチンの戸棚と冷蔵庫を開けたあと、先輩がぼやく。
「じゃあ、コーラください」
 コージ先輩の背中に向かってそう言うと、彼はコップに氷をたっぷり入れてあたしの前にコーラを出してくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
 目の前に出されたコップを両手で軽く持って小さく頭を下げると、コージ先輩がくすっと笑った。
「真音ちゃん、前より遠慮深くなった?」
「あたし、去年はそんなに図々しかったですか?」
 ちらっとコージ先輩を横目で見ると、彼が笑いながら首を横に振った。
「いや、そういう意味じゃなくて」
「ひさしぶりに会ったら、先輩前よりかっこよくなってるし、ちょっと緊張気味なんです」
「はは、なにそれ」
 半分本音、半分社交辞令で言ってからコーラをひと口飲むと、コージ先輩が目を細めてふっと笑った。
 先輩の笑顔は、高校生の頃と印象が変わらない気がしてたけど。たった今目にしたその笑顔は、あたしの記憶の中にある高校三年生の彼よりも大人っぽくて、一瞬ドキリとする。
 今のコージ先輩は、制服を着てあたしの隣にいた彼も肩幅がしっかりして確実にひとつ大人になっていて、机の上に置かれた手だってあの頃よりもずっと頼りがいがありそうだ。
 高校生と大学生。たった一年のことなのに、こんなにも雰囲気が変わるんだ。ぼんやりとコージ先輩を見ていると、彼が不思議そうに首を傾げた。
「どうかした?」
「いえ、別に」
 あたしは慌ててコージ先輩から顔をそらすと、視線を床に落とした。あたしが顔をそらしたことで、部屋の中が何だかシンと静まり返る。
「せ、先輩。大学でもバスケやってるんですか?」
 気まずい空気を自ら作り出してしまったあたしは、頭をフル回転させて話題を振った。
「あぁ、部活入ってるよ」
 コージ先輩があたしの質問に答えてくれる。
 それからあたしは、彼が通っている大学についてや部活の話を聞いた。それに加えてバイトもしているというコージ先輩の大学生活は、キラキラしていて華やかで楽しそうだ。
「真音ちゃんは? 最近どうしてんの?」
 自分のことを一通り話し終えたコージ先輩が、頭を軽く横に傾ける。
「たいしたことはしてないですよ。毎日学校行って、適当に授業聞いて。部活もやってないから、放課後は誰かと遊ぶか真っ直ぐ家に帰ってます。平凡な日常です」
 苦笑いを浮かべながら答えると、コージ先輩があたしの顔を覗き込むようにほんの少し顔を近づけてきた。
 コージ先輩から、高校生のときは感じたことのなかった香水の香りがほんのり漂ってくる。それは、つい最近ラインで別れを告げてきた元彼の香りとよく似ていた。
 爽やかでちょっぴり甘くて、それでいてきつすぎない。あたしは元彼のその香りが好きだった。近づいてきた先輩の気配とその香りに、少しだけ頭がくらくらとする。
「真音ちゃん、今彼氏いるの?」
「え?」
 コージ先輩を見ると、彼は一年前よりも大人びた顔で微笑んでいた。
「あぁ、いたんですけど……、つい最近別れちゃって」
「へぇ、その彼氏もったいないことするよな。てことは、今だったら俺にも見込みあったりすんのかな」
 コージ先輩が本気かどうかよくわからない目をして、あたしに囁きかけてくる。彼から漂う元彼とよく似た香水の香りが、相変わらずあたしの頭をくらくらさせる。
 このままだとコージ先輩に流されそうな気がして、あたしは目の前のコーラの残りを一気に飲み干すと立ち上がった。
「先輩、ごちそうさまでした。あたし、そろそろ帰ります。これ、どこに片付けたらいいですか?」
「あぁ、それは俺が片付けるからいいよ」
 氷が残ったコップを右手で持ち上げようとすると、コージ先輩がそれを遮るようにあたしの左手をつかんだ。一瞬動揺したあたしの右手は、テーブルの上のコップをつかみそこねて、思いきり横に弾いてひっくり返してしまう。
 ガシャンと小さな音を立てて、残っていた氷とコーラの混じった水がコップから溢れる。それがテーブルと床を濡らした。
「あ、すみません……」
「いいよ、大丈夫」
 倒れたコップを前にあたふたとするあたしを落ち着かせ、コージ先輩が布巾を持ってくる。
「あたし拭きます」
 あたしは彼の手からほとんど強引に布巾を奪い取ると、零れた氷と水分を可能な限り綺麗に丁寧に拭き取った。
「本当にすみません」
 布巾を手に謝るあたしを見て、コージ先輩がくすっと笑う。
「そんな謝らなくてもいいよ。それより、真音ちゃん。ちょっとスカート濡れてる」
 彼はもうひとつ持ってきていた布巾で、あたしの制服のスカートを軽く拭いてくれた。それから優しい目であたしを見つめると、頭の上に大きな手の平をぽんっと軽く載せてくる。その仕草にドキリとして頬を赤く染めると、コージ先輩がまたくすっと笑った。
「真音ちゃんって、可愛いよね。それに、去年よりちょっと大人っぽくなった」
 彼の言葉に、頬から熱が伝わって耳たぶまでが熱くなる。
「そんなこと……」
 ちょっと大人っぽくなったのも、去年より魅力的になったのも、あたしではなくコージ先輩のほうだ。
 顔を赤くしながら首を横にふると、コージ先輩の香水がふわりと漂ってきて、柔らかい唇の感触があたしの否定の言葉を遮った。
「コージ先ぱ……」
 唇から柔らかな感触が離れていったかと思うと、今度は爽やかな甘い香りに全身が包まれる。気付くとあたしは、コージ先輩の腕に抱きしめられていた。
「真音ちゃん、こうやって抱きしめたら小さいね」
 コージ先輩があたしの耳元に唇を近づけてくる。広い胸とかっちりとした両腕、それから香水の香りに包まれて、頭が勝手に元彼に抱きしめられているような錯覚を起こす。
「もう一回、キスしていい?」
 コージ先輩が耳元で囁く。
 爽やかな甘い香りにくらくらとして、あたしはほとんど無意識に彼の腕の中で頷いていた。
 指先であたしの顎をつかんで持ち上げたコージ先輩が、ほんの少し頭を横に傾けて、あたしの唇を塞ぐ。
 無抵抗のままにコージ先輩のキスを受け入れていると、彼の手がスカートの裾を上げ、さり気ない動きで太腿を撫でてきた。
「いや……」
 あたしは、そんなつもりじゃない……。
 びっくりして唇を離して身を引こうとすると、コージ先輩の腕があたしを捕まえた。
「去年は受験で忙しくて言えなかったけど、実は俺、真音ちゃんのこといいなってずっと思ってたんだ。今さら、もう間に合わない?」
 コージ先輩に耳元で囁かれて、ドキリとする。
「コージ先輩……」
 去年、コージ先輩と二人で遊んでいた頃、あたしも彼のことを少しだけいいな、とは思っていた。
 でもコージ先輩からは、あたしに対する好意はあまり感じられなくて。遊びに誘ったのだって、たしか二回目以降はあたしから。
 コージ先輩は、会えばいつも優しかったけど、遊び友達の後輩のひとりとしか認識されていない。そんな感じがしたから、そのうち自分からコージ先輩を誘わなくなった。
 コージ先輩が卒業してからは、その存在すらすっかり忘れてしまっていたほどで、顔を合わせることも連絡することもしなかった。
 でも、もしかして今なら……。あたしとコージ先輩はうまくいくのかな。
 腕の中で戸惑うあたしの耳元で、コージ先輩がくすっと笑う。思わず小さく身震いすると、彼がまたくすっと笑った。
「やっぱ真音ちゃん、可愛いよね」
 首筋にキスを落とすコージ先輩の香りが、あたしの鼻孔を擽る。その甘い香りに、思考が途切れそうになるほど頭がくらくらとした。
「真音ちゃん……」
 コージ先輩があたしを呼んで、至近距離で微笑む。
 一年前より大人っぽくなった彼の笑顔に、確実にドクンと胸が高鳴る。元彼と別れたばかりだけれど、コージ先輩が好意を持ってくれているのなら彼と付き合ってもいいかもしれない。
 大人しく目を閉じると、この先の行為へ進むための合意を求めるように、コージ先輩の唇があたしの唇にそっと触れた。


***

「だから、そういうことは言ってないだろ!」
 怒気を含んだ声に驚いて目を覚ます。
 仰向けに寝転がったあたしの視界に映るのは、見慣れない天井。素肌に直接薄いシーツが触れていて、自分が下着しか身に付けていないことに、はたと気がつく。
 片肘をつき、額を押さえながら上半身を起こすと、不機嫌な声で誰かと電話しているコージ先輩の背中が見えた。
 そうだ、あたし……。
 その背中を見つめながら、あたしは自分がしたことをゆっくり思い出す。
 どれくらい寝ていたんだろう。
 窓の外を見ると、空は薄暗くなり始めている。
 スマホを耳にあて、聞いたことのないような怒った声で話すコージ先輩は、おそらくあたしが目を覚ましたことに気付いていない。
 ベッドに座ったあたしは、素足を床につけると、すばやく着替えを済ませた。
「だから、人の話聞けって……。あ、おい! リサっ!」
 通話が切られたらしく、コージ先輩が手にしたスマホに向かって舌打ちする。
 リサ……?
 その名前に首を傾げたとき、コージ先輩が後ろを振り返った。
 着替えてベッドに腰掛けているあたしを見たコージ先輩は、手にしたスマホをジーパンのポケットに押し込みながら少し気まずそうな表情を浮かべた。
「あ、真音ちゃん。起きたんだ?」
 あたしは小さく首を縦に振ると、コージ先輩に訊ねた。
「どうかしたんですか? 何か、怒ってたみたいだけど」
 押し込まれたスマホの行方を気にするように見遣ると、コージ先輩が気まずそうに首筋を掻く。
「あー、ちょっとね……」
 彼は言葉を濁すと立ち上がって、ベッドに腰掛けるあたしの隣に座りなおした。
「それより真音ちゃん、これからどうする?」
「帰ります。そろそろ暗くなってきたし」
 窓の外の様子を伺いながら立ち上がると、コージ先輩があたしの手をつかんだ。
「送ってくよ」
「ありがとうございます」
 嬉しくなってはにかむあたしに、
「ねえ、真音ちゃん。これからも、たまに会えない?」
 コージ先輩がそんなふうに誘ってきた。
 たまに……? 付き合おう、じゃなくて……?
 コージ先輩の言葉に小さな引っ掛かりを感じて、ほんの少し眉をひそめる。
 そんなあたしの表情の変化に気付いていないのか、コージ先輩は笑って言葉を続けた。
「実は俺、今彼女とあんまりうまくいってなくて。最近ちょっとイラついてんだよね。真音ちゃんも彼氏いないならちょうどよくない? また、高校のときみたいに遊ぼうよ」
 何の悪びれもなく笑うコージ先輩を見下ろしながら、あたしは自分の顔が少しずつ引き攣っていくのがわかった。
 何それ……?
 あぁ、そうか。今の電話の相手――、リサって。そっちがコージ先輩の本命だったんだ。
 ひさしぶりに会ったあたしのことがずっといいと思ってたなんて、少しおかしいと思った。
 嘘しかない優しい言葉でたぶらかしておいて。本当はただ、彼女とのケンカで心に溜まった鬱憤を晴らしたかっただけってことか。
 元彼の香りに似たコージ先輩の香りに唆されて、流されてしまったあたしがバカだった。でもそれでも、コージ先輩なら付き合ってもいいかなって。その覚悟はあったのに。
「真音ちゃん、いいよね?」
 コージ先輩が、あたしを見上げて甘い声で囁く。
「いいわけ、ないじゃないですか……」
 きゅっと唇を噛むと、あたしは彼の手を振りほどいて部屋を出た。送ると言ったくせに、コージ先輩はあたしを追いかけては来なかった。
 当たり前だ。だって彼は、あたしのことが本気で好きなわけじゃない。
 それなのに、勘違いしたのはあたし。
 まだ何も始まってなかったんだから、これくらいで傷ついたりなんかしない。だけど利用されたと思ったらものすごく悔しくて、言葉にできない感情で心の中がもやもやとした。

 コージ先輩の家を出たあたしは、気付くと家の近くの川原にやってきていた。
 辺りはもう薄暗くて足元が見えづらかったけど、気にせず河川敷の土手を下る。
 いつもと変わらず穏やかに流れる川を見つめていると、微かに湿り気を含んだ涼しい風が頬を掠めた。
 コージ先輩の家を出てから心の中に燻っているもやもやとした感情は、まだ消えない。
 誘われるままについていって、勝手に勘違いしたのはあたし。だけど、コージ先輩に惑わされたのは、彼から元彼によく似た匂いがしたせいだ。そう思うと、なんだか複雑な気持ちになる。
 元彼から音信不通にされて、ライン一本で簡単に別れを告げられたときは、悔しくて腹が立っても涙は出てこなかったのに。よく似た香りに簡単に惑わされてしまうくらい、あたしは元彼のことが好きだったんだ。いやでも、そのことを思い知らされてしまう。
 目を細めて頬に風を受けながら、走りたい……と。無性にそう思った。
 肌をくすぐるこの風の向こうまで一気に駆け抜けることができたら、あたしの胸に巣食う灰色の雨雲みたいなもやもやは、綺麗さっぱり消えるだろうか。
 あたしは持っていた鞄を放り投げると、足元の土を均してスタートの位置を決めた。
 目を閉じて一呼吸すると、自分の中の「今だ!」というタイミングで走り出す。
 髪がたなびき、スカートが大きく翻る。ローファーの固い靴底で地面を蹴って、ただ無心に全力で走った。
 もうこれ以上はスピードを保って走れない。そう思った瞬間に、あたしは走るのをやめて膝に手をついた。
 じんわりと、額に汗が滲む。
 川原を抜ける風がその汗を冷やして通り過ぎていくのが、心地いい。膝に手をついて肩を上下させながら深い息をつく。そのとき、
「やっぱ、はやっ!」
 河川敷の土手の上から、またそんな声が聞こえた。
 嫌な予感がして土手を見上げると、やはりそこには昨日と同じ白のTシャツに黒のスウェット姿の男の子が立っていた。
「ちょっ……あんた、一体どこから湧いて出たわけ?」
 あたしが川原に着いたときも走り出したときも、近くに彼の姿は見えなかった。
「ん? その辺」
 彼は手首をくるくると回して適当に周囲を指し示すと、一気に土手を駆け下りてきた。
「今日は帰ってくるの遅かったんだね」
 傍に駆け寄ってきた彼が、無邪気に笑う。
 真っ直ぐ帰れば、今頃何事もなく家で過ごしていたかもしれないのに。遅かった理由は、コージ先輩の家に寄っていたから。
 彼の笑顔の無邪気さ加減は、自分がさっきコージ先輩の家でしてきた行為からはあまりにかけ離れていて。あたしはなんとも言えない気持ちで顔をしかめた。
 無言のままスタートをした場所まで引き返して鞄を拾うと、ちらっと彼を見る。
「あんたこそ、遅くまで何してんのよ」
 不機嫌な声だけど一応そう訊ねてみたら、彼が嬉しそうにへらりと笑った。
「俺は自主トレ。その辺走って、ちょうどこの川原まで戻ってきたとこ」
「あ、っそ」
 短くそれだけ返して、ひとりで土手の方に歩き出す。
 彼との会話はそこまで。あたしとしてはそのつもりだったのに、何を勘違いしたのか彼はあたしを追ってきた。そして馴れ馴れしく横から話しかけてくる。
「まおちゃんって、やっぱり陸上やってるの?」
 気まぐれに余ったパンをやってしまったがために、またエサがもらえると勘違いして懐いた犬みたい。声なんてかけるんじゃなかった。今さらながら、後悔する。
 無視していてもしつこく話しかけてくるから、「やってないよ」と面倒くさそうに答えた。
「ほんとに? でも、昔はやってたんじゃないの?」
 ひとつの質問を消化したと思ったら、間髪空けずにまた次の質問が投げかけられる。
 仕方がないから、少しだけ相手をしてやろうと腹を括った。
「昔もやってない」
 やっぱり面倒くさそうに答えると、彼が大きく目を見開いた。
「えー、もったいない。速いのに。うちの学校の陸上部にでも入ればいいじゃん」
 あたしの隣で、なぜか彼が本気で残念がっていた。
「走るのは、別にそんなに好きじゃない」
「えー? そんなふうには見えなかったけど」
 無感情な声で答えたあたしの横顔を、彼が疑わしそうな目で見てくる。
「ただ、スカッとしたいだけだよ。毎日やなこと多いから。走ってると、一瞬だけやなこと全部忘れられる」
「それって走るのが好きってことなんじゃないの?」
 彼があたしを見ながらへらりと笑う。
「うるさい」
 空気が読めないくせに、変なところで妙に鋭い。
 あたしは半ば外れてはいないその言葉を肯定したくなくて、へらへらと笑う彼を横目で睨んだ。
 そう、半ば外れてはいない。昔はたしかに、走ることが好きだった。中学に入った頃までは。

 特に何か特別な努力をしていたわけではないけれど、あたしは子どもの頃からずっと走るのだけは速かった。五十メートル走のタイムはクラスの中でいつも三番以内に入っていたし、運動会があるとほぼ例外なくリレー選手に選ばれた。
 見た目の華やかさ、ピアノの才能、頭のレベル。そのどれでも姉には勝てなかったけれど、走る速さだけは絶対に姉に負けたことがなかった。
 それでも、足の速さを生かして陸上部に入りたいとか、もっと筋力を強化して将来は陸上で進路へ……、なんていう願望を抱いたことは一度もない。
 だだ、走っているときの心地よさを。身体が風と一体になって遠くまで吹き抜けるような、その感覚さえ感じられればそれでよかった。
 そんなあたしが「走ることが好き」だと素直に言葉にできなくなったのは、中学一年生の後半。冷たい風が吹き荒れる寒い季節に行われた、学校のマラソン大会がきっかけだった。
 マラソン大会前の体育の授業内容はほぼ毎回長距離走。授業では、実際のマラソン大会のコースを走ってみるという実践的な練習も数回行われた。その度に上位を独占するのは長距離専門の陸上部員。
 マラソン大会本番も彼らが上位を占める中、練習よりも調子よく軽快に走り続けたあたしは、学年女子全体の五番目でゴールした。  
 体育の授業で練習したときは、どんなに順調でも十位ギリギリくらい。だから、五位に入れたことはとても嬉しかった。
 実際に、陸上部でもないあたしが五位入賞だったのはものすごい快挙で、体育の先生から直接お褒めの言葉をいただいたくらいだ。
 家で日常的に褒められるのは姉ばかり。だけど、マラソン大会五位という成績は両親だって絶対に喜んでくれる。
 嬉しくて楽しみで、ワクワクすらして。ゴールしたときに手渡された「五位」の四角い紙を握り締め、走って家に帰った。
 家に帰ると、一足早く帰宅していた姉が母に彼女のマラソン大会の順位が書かれた紙を見せていた。
「詩音、頑張ったわね」
 あたしがリビングのソファに鞄を下ろしていると、笑顔の母が姉の肩を軽く叩いた。
 五位の紙を握り締めて二人に近づいていくと、母がやけに嬉しそうにあたしに姉のマラソン大会の順位を見せてきた。
「お姉ちゃん、今年のマラソン大会は八七位だったんだって。百位以内なんて初めてだし、去年から二十番以上も順位が上がったのよ。すごいでしょ」
 八七位……? どうしてそれくらいで母は大喜びしているんだろう。
 あたしはそれが不思議でしょうがなかった。
 八七位でこんなに褒められるんだから、五位のあたしはどれだけ褒められるだろう。
 あたしは少しドキドキしながら、手にしていた順位の紙を母に見せた。
「あたし、今日五番だった」
 差し出した紙を母が受け取る。
「へぇ、すごいじゃない」
 五位の紙を見て笑った母が述べた感想は、たったそれだけだった。
「え……?」
 だってあたし、練習よりもずっと調子良く走れて、学年女子で五位だったんだよ。先生だって、「すごい快挙だ」って声をかけてくれたんだよ。
 それなのに。もっとほかに、何かないの……?
 あまりにあっさりとした母の反応に、失望を感じるより先に戸惑う。
 唖然としているあたしに気がついた姉が、
「真音すごいね! お母さん、十位以内はほとんどが陸上部の子なんだよ」
 とすかさずフォローをしてくれる。
 けれど母は、「そうなの、すごいわね。じゃぁ、これは記念にとっておかなくちゃ」と言って順位が書かれた紙をあたしに返しただけだった。
 父が帰ってくると、母は夕食の席で姉のマラソン大会の順位が去年よりも二十位以上上がったことを、まるで自分のことのように得意げに話した。
「お父さん、真音も五位で。真音のほうが私なんかよりずっとすごかったんだよ」
 母の話を聞きながら黙って箸を動かすあたしを、姉が健気にも気遣ってくれる。
 父はあたしを見て笑いながら褒めてくれたけど、正直もうどうだってよかった。気遣われて褒められたって、ちっとも嬉しくない。
 姉のマラソン大会での好成績に気分を良くした母が、普段より豪勢な夕飯を作っていたけど。その味も、いまいちよくわからない。
 それに、あたしにはもうわかっていた。速く走れたって、何の意味もないこと。
 どれだけ速く走れても、たとえマラソン大会の順位が五位じゃなくて一位だったとしても、家の中の一番は“お姉ちゃん”。
 例外なんてない。ただ、その一択なのだ。
 あたしがどれだけ頑張っても、どれだけ陰で努力をしても、姉とは肩を並べられない。そもそも、努力すること自体がムダなのだ。
 だって、あたしがどう足掻いたところで我が家の絶対順位(、、、、)は覆らない。 
 この先ずっと、永遠に。


「まおちゃん、今度はいつ走りに来るの?」
 ぼんやりと昔の思い出に耽っていると、隣を歩く彼が横からあたしの顔を覗き込んできた。
「さぁ、気が向いたら」
「じゃぁ、明日は?」
 気が向いたら、と答えているのに。彼はへらりと笑いながら、的外れなことを訊いてくる。
「だから、気が向いたらって言ってるでしょ。っていうかあんた、年下のくせに勝手なんだけど。タメ口だし、名前だって名乗らないし」
「あれ。俺、まおちゃんに名前言ってなかったっけ?」
 あたしの言葉に、彼が本気でとぼけた顔で首を傾げる。
「言ってないでしょ。人のことはタマとかミケとか勝手な名前つけてたくせに」
「そっか、そうだったっけ」
 彼のその反応にイラついて横目で睨む。彼はあたしが睨んでいることになど気付いてもいない様子で、またへらりと笑った。
「俺、古澤(ふるさわ)柊斗(しゅうと)
 彼が自分を指差しながら、人懐っこい顔で爽やかににこっと笑う。不覚にもその笑顔がほんの一瞬だけ可愛いと思ってしまったあたしは、自分を恥じて眉をひそめた。
「ふぅん」
「ふぅん、じゃなくて。まおちゃん、明日も来てよ」
 彼がそう言いながら、小さな子どもが親に何かをねだるときのようにあたしの腕をつかんで揺する。
「だから、気が向いたらって言ってる」
 気安く腕を揺すってくる彼の手を煩わしげに振り払うと、「もう帰る」と呟いて残りの土手を早足で登りきった。
「そっか。俺もそろそろ帰る」
 後ろをついて土手を登ってきた彼が、あたしが進むのとは反対方向を指差す。
「じゃぁ、また明日ね」
 彼が笑って、まるで仲良しの友達と別れるときみたいに馴れ馴れしくあたしに手を振ってくる。
 だから、明日は来ないって何度も言ってる……。
 あたしはいつまでも笑って手を振っている彼を軽く睨むと、無言のまま彼の前から立ち去った。