嫁入り当日。椿は初めて高価な着物と髪飾りに身を包み、化粧を施した姿で藤堂家を後にした。あくまで『百合子』として嫁ぐため用意された物ばかりだが、どうしても慣れない。居心地の悪さに顔をゆがめながらも、紫月家の家に着くまで馬車に揺られていた。
 紫月家の屋敷は、藤堂家より数倍も広い場所にあった。塀に囲まれて屋敷の外観は見られないが、向こうから風に乗って流れてきた紅葉の葉が椿の前で優雅に舞う。その光景に思わず息を呑んだ。家の外に出たことがない椿にとって、目に映るものすべてが美しい。

(なんて素敵な光景……外の世界は、本当に美しいのね)

 しばらくして、門の前で馬車が停まった。使用人に言われたように降りると、すぐに藤堂家の屋敷に戻る準備に入った。

「つば……百合子お嬢様、旦那様の命により、我々はここまでとなります」
「構いません。ここから先は私一人で参ります。……皆さま、どうかお元気で。今までお世話になりました」

 小さく微笑む椿に、使用人たちは泣きそうになるのをぐっとこらえながらその場を後にする。彼らの後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、いよいよ紫月家の門を叩いた。
 次第に大きな音を立てながら扉が開かれると、目の前には椿よりも小さな女の子の姿があった。青に美しい金の刺繍が施された着物を着た少女は、頭に狐のような耳がついていた。

(可愛らしい耳……これが妖狐というあやかし?)
「藤堂百合子様、ですか?」
「は、はい」
「……ふーん」

 じっと見てくる妖狐の少女は、幼い顔立ちにしては大人びた声をしている。しばらく品定めするように見てくるので、椿は思わずたじろいてしまう。

(もしかして、もう気付かれた……!?)

 やせ細った体格は着物で隠せても、挙動や言動は演じるしかない。特にあやかしは人の心を悟るというし、もしかしたら自分が百合子でないことに気付いているのかもしれない。

「そこまでにしておけ」

 するとそこに、濃紺の着物姿の男がやってきた。奇妙な面を被った男から放たれる凄まじい妖気は、無能な椿にもひしひしと伝わってくる。彼こそが、鬼神なのだと。

「紫月家当主、柊羽だ。君が『幸運の異能』を持つ藤堂の娘か?」
「……はい。百合子と申します。今日からお世話になります。……旦那様」
「……さっさと入れ」

 柊羽はすぐに踵をひるがえし、屋敷へ戻っていく。妖狐の少女が「門を閉めるので早くしてください」と急かしてくると、椿は慌てて柊羽の後を追った。

 屋敷はとても洗礼されていた。どこも綺麗に掃除されていて、塵一つ見つからない。
 来客用の座敷に通された椿の前に、柊羽は婚姻届を置く。

「これに記入を。結納金はすでに藤堂家に渡してある」
「ありがとうございます」

 一緒に渡された万年筆を手に取って書き進めるも、次には「椿」と書きそうになって思わず手を留める。その様子が不自然だったのか、柊羽が――面越しで表情はわからないが――不思議そうに首を傾げて問う。

「どうした、書き損じたか」
「……いえ、大丈夫です」
(もう本当の名前で書くことはないのね)

 寂しさを覚えつつ、慎重に「百合子」と書き終え、他の項目も埋めていく。その様子を柊羽はじっと見つめていた。

「終わりました。ご確認ください」

 書き終えた婚姻届を渡すと、柊羽がじっくりと内容を確認していく。なんとも気まずい空気が流れ、沈黙が続いた。しばらくして、柊羽は婚姻届を折りたたみながら立ち上げると、椿に言う。

「疲れただろう、しっかり休め」
「……え?」

 言われた言葉がすぐに飲み込めず、椿はキョトンとした顔で柊羽の後ろ姿を見送った。今まで奴隷同然のように働いてきた椿にとって、休めなどとの気遣いとは無縁だった。
 困惑する中、妖狐の少女に連れられて屋敷を案内される。最後に案内されたのは、椿のための部屋だった。

「何が必要なのか、主様にはわからなかったようで、最低限のものしかご用意できませんでした。足りないものがあればすぐに手配しますのでお申しつけください」
「足りないものって……」

 文机に簡易照明、化粧台に化粧道具、真新しい布団だけでなく、普段使いと外出用の着物が数点。さらに部屋を彩っている美しい花たちが活けられた花瓶。これ以上、何を望めばいいのだろう。

(綺麗な布団で毎日眠っていいの? 薄暗い場所で書きものをしなくていいの? こんな私に……化粧道具なんて勿体ないわ)

 驚きの余り言葉が出ない椿に、妖狐の少女は続けた。

「ここにあるものはすべて、人付き合いの悪い主様が自ら選びました。私も驚くばかりです。それほど、あなたの異能に期待をしているのでしょう」
「…………」

 そう言われてハッとする。この部屋にあるものはすべて椿にではなく、百合子に宛てられたものだ。それくらい、『幸運の異能』は喉から手が出るほど欲しいものだと実感した。
 無能な自分には、誰にも愛されなどしないのだ。

(期待しない、期待しない……)

 あくまで椿の役目は『百合子』として嫁ぎ、紫月家を探る。それが藤堂家のためになるのだと言われてきたじゃないか。

「不足など何もありませんわ。旦那様に御礼を言わないといけませんね」

 姉が社交の場では人当たりの良い面をしていてよかったと、改めて思った。もし家での傲慢さが目立つようであれば、椿は演じられなかっただろう。ただ、妖狐の少女は素っ気なくじっと見つめてくる。表情が硬かっただろうか。

「と、ところで、あなたのお名前は?」
「え? 私の、ですか?」
「ええ。このお屋敷で暮らしているのでしょう? わからないことばかりだから、教えて欲しいの。それに、せっかくお名前があるのだから、『あなた』と呼ぶのは寂しいわ」
「……私は、テマリといいます。どうぞよろしくお願いします。奥様」

 どこか恥ずかしそうに視線を逸らした妖狐の少女。後ろでふわふわのしっぽが嬉しそうに揺れていたのを見て、椿はふいに笑みがこぼれた。