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紫月柊羽は孤独な鬼だった。
先代の当主である父親がとある争いに巻き込まれ、母親とともにこの世を去ったのは、柊羽がまだ七歳になった春のことだ。途端に家族を失い、父を慕っていた一族の幹部らはなんとか柊羽を立派な当主にさせようと必死だった。
人間と共生する世界でも、特にあやかし同士の争いでは権力だけでなく、けた外れの妖力を保持することは最低条件である。柊羽は幼い頃より妖力が高く、秀才だったこともあってなんとか現在の位置は守りきれたが、それを保てるほどの妖力が尽きるのは時間の問題だった。
そんな中、藤堂家に『幸運の異能』を持った娘が生まれた噂が流れた。幹部の一人がある日、幼い柊羽を連れて藤堂家の前を通った際、伯父叔母らしき者と一緒に笑い合っている少女がいることに気付いた。
これはチャンスなのでは、と柊羽に『あれが「幸運の異能」の持ち主ですよ』と伝えたが、柊羽は冷めた目で一蹴した。
『あのどす黒いもののどこが?』
元々、紫月家の鬼に宿る赤い瞳は妖気を感知できるのだが、柊羽はその感覚がどの鬼よりも異常だった。そのため特殊な面をつけて生活を強いられていた柊羽は、面でも抑えきれないほどの不気味な妖力を悟っていた。幹部の一人が気付かないのは、所詮それまでのことだが、柊羽の言葉が正しいのは今までの経験上、外れたことはないため、すぐに謝罪した。
(異能などに頼りたくはないが、あの娘は嫌な予感がする。それより――)
ふと、視線をずらした先に、屋敷の窓を磨く少女の姿を捉えた。六歳くらいだろうか、『幸運の異能』を持つ者と似た顔立ちをしていたが、使用人と同じぼろ生地の着物を着て、窓を磨いては拭き残しがないか注意深く見ている。柊羽の目にはその姿が健気で、眩しく映った。
(あの子、いい顔しているな)
彼女の表情と、内からあふれている優しい妖力から好印象ではあったが、紫月家の当主である以上、簡単に声をかけるのは憚られる。幹部の一声でその場を後にして以来、藤堂家に近付くことはなかった。
――あれから十年の月日が流れ、いよいよ紫月家も限界だった。
幹部らの必死の提案により、藤堂家との縁談を持ちかけることに成功したものの、柊羽は百合子との結婚に不服そうな顔をした。
頭に浮かぶのは、懸命に掃除をしていた、名前も知らないあの少女の姿だ。
(間違ってあの子が代わりに来ないかな)
そんなありえないことまで考えていたある日、こっそりと潜入させていた使いから、姉の百合子が拒否し、代わりに双子の妹を嫁がせるという、なんともふざけた報告を受けた。
双子の妹の写真を受け取った柊羽は目を輝かせた。自分が望んでいた、あの少女だったからだ。
少女は椿というらしい。雪の中で咲かせる、忍耐強く心の強さを持つ花の名にぴったりだと思った。
そして、椿が紫月家へ嫁いだ秋のはじまり。
初めて対面した際、柊羽は藤堂百合子と名乗った椿との対面は、呆気を取られたものだった。
この世では、複数の妖力を持っている者がいてもおかしくはないが、椿には『幸運の異能』と呼ばれる異能力の上に、どす黒い不穏な妖気がまるで強引に被せたような状態でまとわりついていたのだ。
(これは不味いな)
事前の調査で、椿が嫁いでくることはわかっていたが、まさか意図的に封じられていたとは。
幸い、紫月家の敷地内には不純なものを祓う結界が張られている。案の定、椿を屋敷に入れた途端、黒い靄は消えていった。追加の調査は必要だが、今は屋敷内で椿をゆっくりさせるのが先決だと判断した。
しかし、何かあったときのために婚姻届だけは出しておこうと、用意していた婚姻届けを書かせたものの、椿は自分の名前ではなく、姉である百合子の名前を書いた。
門の前で名前を問うたときも、悲しそうな顔をしていたのを思い出す。てっきり実家から離れたことが寂しかったのかと思ったが、どうも違うらしい。ひとまず書いてもらった用紙は受け取ったものの、役所への提出は躊躇っていた。
(これは意地でも話そうとしないな……)
柊羽は内心、頭を抱えた。面のせいもあって、人付き合いが苦手な柊羽は、結婚の話が上がってすぐに耳にたこができるほどテマリに「ちゃんと面と向かってお話すべきです!」と指摘されていたのだ。かといって、真剣に姉を演じ切ろうとする反面、冷酷な鬼神に怯えている様子が椿から感じ取れたことで、さらにどう接していいかわからなくなってしまった。無意識に避けてしまうのも、恥ずかしさ所以である。
せめて贈り物をできればと、椿に合いそうな着物を何着か用意し、テマリ経由で渡していた。たまに見かけたときに柊羽が選んだ着物を着ている椿を見て、心なしか嬉しく思った。好きそうな甘味を買っては半ば強引に押し付けても、テマリと仲良く食べているのを見かけて、その光景が微笑ましいと、あわよくば、近付きたいとすら思ってしまった。
そのとき、柊羽は決意した。
(いつか、本当のことを話す時が来たら)
何年先になるかわからないが、本当の名前を書いて出そうと決めた。それまでこの用紙は、彼女の身を守るための保険にしか過ぎなかった。