「本当に行くんですか?」

 ロウの背中にヒミが語り掛けた。

「君が言い出したのだろう」
「それはそうですが」
「怖気付いたのか?」
「お、怖気付いてなんか……! ……います」

 ロウは息を吐いてヒミの手を取った。

「怖気付いていて良い」
「え?」
「臆病なくらいでちょうどいい。平気なふりなんかしなくていい。いずれにせよ、包み隠さない心で会いに行った方が良いだろうさ。妹さんには」

 ロウがそう言うと、彼女は大きく頷いた。握り返された手から決心が伝わって来た。

 あれからヒミはロウの背中を見つめた。瞳と同じように、羽が戻るかもしれないと。その予想は当たった。捥がれた傷跡から色彩が奪われ、羽が生えて来たのだ。

「それにしても、私、勘違いしていたんですね」
「なにを?」
「あまりに綺麗に奪ったから背中の傷が綺麗な色をしているんだと思っていましたけど、もともとロウさんの羽が綺麗だったんですね」

 ロウの背中にはカーニバルレッドにエメラルドグリーン、そしてピーコックブルーの三色のガラスが何本も突き出すように生えていた。羽と言うにはあまりに鋭利で、風を掴むのには向いていない。ロウが持つ硝子監束(ガラスチェック)は羽を使った移動能力ではあるが、飛んでいくわけではない。行きたい場所までの距離を奪って羽に閉じ込める。それによってワープのようなことができるのだ。

「温室のガラスを借りるよ」

 壁に向かって歩き始めた。
 ロウがガラスをコンコンと叩いて、それから自らの羽で触れた。羽の尖端が触れたところから徐々に色が付き始め、カーニバルレッド、エメラルドグリーン、ピーコックブルーの三色が一面を満たしていった。ステンドグラスのようになったガラスを見て頷く。

「良さそうだ。手を握って……大丈夫かい?」

 緊張した面持ちのヒミに声を掛けた。臆病なくらいが良いとは言ったものの、それほど不安なら日を改めても良い。

「はい。私、覚悟しました。イトに会いに行って、もしあの子がまた死にたいと言っても、傍にいます。死にたい気持ちを否定しません。もう逃げません。私とこの温室のために、ロウさんが自分の温度をレドさんにあげたように」

 彼女の思いが掌を伝わってロウに届いた。

「そう言えば訂正しなければ。君は充分にやさしいよ。あのときはレドの気持ちを僕に向けさせるためにあんなことを言ったが」
「いえ、実際私はやさしくありませんでした。罪悪感から逃れるために、自棄になっていただけです。でも今は違います。自虐ではなく、献身でもって迎え撃ちます。イトの運命ごと」

 大丈夫そうだ。ロウはそう思って硝子監束(ガラスチェック)の中に飛び込んだ。


※  ※  ※  ※


 辿り着いたのは絵画教室の庭だった。

「まだ……描いていたんだ」

 口を開いたまま、ヒミはよろよろと絵画教室の窓の方へ歩いて行った。
 指定した行先はイトの元だった。どこに着くかの詳細はわかっていなかった。だが、彼女の傍に転移したわけだから、きっとこの中で絵を描いているのだろう。

「す……すごい!」

 ヒミは静かな歓声を上げた。

「ロウさん! 見てください! あれ!」

 ロウが窓から中を覗き込むと、たくさんの絵が飾られていた。その中にイトの名前があった。
 彼女が描いた絵は、白と黒の濃淡だけで作り上げられた緻密で繊細な絵だった。『世界の輪郭』と言うタイトルが付けられている。色彩のない世界で、彼女は彼女だけが観測した世界の輪郭を描写していたのだ。

「あれ? お姉ちゃん?」

 声を掛けられて、ヒミはビクッと弾けた。ぎこちなく、声が聞こえた方を向くと、そこにはヒミより少し背の高いスレンダーな女性が立っていた。

「イト?」
「うん。え、って言うかなんで家じゃなくてここ? どうやって来たの?」

 とても自然な声色だった。久しぶりに会ったと言う感動もなければ、特別な嫌悪もない。昨日まで普通に会っていたかのような……いわゆる——家族に向けられる声だった。

「あ、こちらの、ロウさんの硝子監束(ガラスチェック)っていう能力でワープして来たの」
「へえ、そうなんだ。お姉ちゃんの彼氏?」
「な……なああ!?」

 うろたえるヒミを見て、ロウは笑えてきてしまった。心配して損をした。安堵が零れる。

「そうだよ。イトさん、よろしくね」
「ちょ、あぁ!? ロウさん! 悪ノリしないでください! 私たちまだ(・・)そんな関係じゃ——」
まだ(・・)?」

 イトがニヤニヤと笑みを浮かべていた。

「のぉおおお!」

 頭を抱えて振り乱す。そんなヒミを見て二人は腹を抱えて笑った。
 ひとしきり笑ってからイトは、色を正してヒミを見つめた。それからヒミのサングラスに手を掛ける。

「わたしを見つめるときは、もういらないよね」

 彼女からはもうこれ以上色彩を奪えない。

「お姉ちゃん。お帰り」
「ただいま」
「あのね。その、あのときはごめん。お姉ちゃんはわたしの病気を治してくれたのに、泣いちゃって」
「私こそ寄り添えなくてごめん」
「仕方ないよ」

 イトは笑った。

「それにしてもお姉ちゃんの瞳、綺麗だよね」
「色が見えるの?」
「お姉ちゃんのだけね。そっか。その中にわたしの色も病気も在るんだね」
「う、うん」

 気まずそうな声だった。しかしイトは明るく提案する。

「わたしの色はこれからもお姉ちゃんが持っていてよ。返さないで。その代わり、お姉ちゃんがくれた色はわたしがこのまま貰っちゃうね」
「そんな……色って言ったって」
「知らないの? 無色透明に彩られた世界の美しさを。どんな色だって在るよ」

 そう言って彼女は教室の掃き出し窓を開けて中に入った。ヒミとロウはそれに続いた。先ほど見た絵画を通り過ぎて案内された場所には、イトの絵がたくさん飾られていた。その絵画たちが訴えている。先ほどの彼女の言葉が強がりではないと言うことを。

 二人は言葉を失くして見渡した。それはとても色彩豊かなものばかりだった。ヒミの瞳の極彩色を紙の上にぶちまけたような世界が広がっていた。

「う……うう……」

 ヒミは感涙していた。奪われた色彩の中で、おそらくすべてが透明に見えたであろう絵の具を使って描かれたそれらは、まさに運命に抗う色彩だった。

「君は奪っただけじゃない。同時に与えてもいたんだ。僕に光をくれたみたいに」

 その言葉に、向かいに立ったイトが何度も頷いた。
 ヒミは遅れて、はにかんで、ためらいがちに頷いた。
 彼女の極彩色の瞳は、無色透明の涙に彩られて輝いていた。