ヒミにはイトという妹がいた。彼女は絵描きを夢に見ていた。

 だがある日、イトは病に倒れた。目の病気だった。それはとても深刻なもので、放って置けば失明は免れず、最悪の場合生命の危機に瀕するらしい。だからと言って治療もできない。妹は残された時間の中で期限付きの光に縋って生きていくほかなかった。

 なぜ絵描きを志す者にとって最も必要な部分なのか。

 ヒミは妹の病を憂いた。そして、どうか病が消え去るようにと彼女の瞳を凝視し続けていると、イトの病は治った。
 代わりに彼女の景色から色が消え失せていた。絵描きにとって重要な色彩がなくなり、世界は輪郭だけで形成されるようになった。
 色彩監極(カラフルヘブン)はそのときに発現していた。色彩監極(カラフルヘブン)が病から色を奪いつくして無力化し、さらに瞳からも色彩を奪っていた。

 イトは生きながらえた。が、その時間のほとんどを泣くことに費やした。
 ある日泣くことにも疲れたイトが、呆然と虚空を見つめていた。

「死にたい」

 ぽろっと吐き出した言葉に、ヒミは酷く動揺した。それからも妹は口癖のように「死にたい」と言うようになった。

 責め立てられているようだった。
 未来を奪った自分に対しての呪いのように感じた。

 ヒミは気が付いたら家を出ていた。


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「私は妹の未来を奪って、逃げたんです。ダメな姉です」

 ロウは返す言葉もなく、ただ黙って彼女の告白を聞いていた。

「だからこの温室は、私の贖罪(しょくざい)の部屋なんです。きっとイトが見ている景色も、こんなものでしょうから」

 寂寥(せきりょう)を孕んだ音色だった。

 ロウは言葉を探して紡ぐ。

「君のしたことはきっと正しかった」

 彼女用の言葉などなくて、それはえらく汎用性の高い、挨拶みたいな言葉になってしまった。

「いや、すまない。僕がそんなことを言ったとて、君の気持ちが楽になることなどあるまいに。寧ろ、ずっと君が悩んできた時間への汚辱に成り得る言葉だった。撤回する。だが、君の悔恨を軽視したつもりはないんだ。どうか信じてほしい」

 ロウの切実な思いに、彼女は首を振る。ミルクチョコレートの髪がふわりと舞う。

「嬉しいですよ。こんな過去に、言葉を頂けて」

 それは強がりだったのかもしれないし、思いやりだったのかもしれない。どちらにせよ、傷だらけの彼女が気を遣っている事実に、ロウは心を痛めた。

「いろいろ話して疲れましたね。ご飯にしましょうか」


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 ヒミはご飯を作ってくれて、夜のとばりが落ちる前に体を拭いてくれた。

 彼女はよく話した。そのほとんどが妹についてだった。とても好きなのだ。恨まれているかもしれないのに、好きであることはやめられないようだった。しかし一方でそれは、自傷しているようにも思えた。それだけ優秀で世界にとって必要とされている妹の未来を奪ってしまったのは私だと、言外に言っているように。

 色彩監極(カラフルヘブン)についても教えてくれた。

「お気に入りのものはだいたい透明にしちゃいましたね。見入ってしまうとどうもダメで。でも、凝視しなければ大丈夫なんですよ。一瞬目に入ったくらいなら。だからサングラス越しに少し見るくらいなら大丈夫なんです」

 言われてみればベッドも枕もカップ&ソーサーも透明ではなかった。

「サングラスは?」
「サングラスは通過点なので、見つめていることにはなりませんから」
「へえ。あ、でも服は透明にならないんだね」

 ロウは自分の言葉に固まった。女性に対してなんてことを言ってしまったのかと後悔した。

「透明になりましたよ」
「そ……うなんだ」
「自分のお気に入りの服はほとんど透明になっちゃったんで、妹の服を借りました。と言うか家を出るときに無意識に持って来ちゃいました。だから今着ているのもイトの服なんですよ」

 そう言って両手を肩の位置まで上げて服を見せてくれた。華奢な体を強調する、ハイゲージニット。

 ヒミから欠伸が漏れる。つられてロウも欠伸をした。

「一緒に寝ますか?」

 ロウは困った。ベッドが一つしかないのだ。本当ならロウがソファを借りて寝ればいいのだが、今は動くこともままならない。かと言ってヒミにソファを薦めるのも憚られる。

「冗談ですよ」

 彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべていた。サングラス越しにでもそれはよくわかった。

「でも、もう少しだけ、傍で話していて良いでしょうか?」
「ああ。僕も君の話には興味がある」
「ありがとうございます」

 夜通し話し続けるのだろうかと思ったが、彼女は疲れてそのまま寝てしまった。ロウは寝息を立てる彼女にそっと布団を掛けて、自分も眠った。