葵が立ち止まって息を止めていると、一匹の鯉が池の中でパシャリと跳ねる。その音に振り向いた御蔭が、太鼓橋の袂にたたずむ葵に気が付いた。
「こんな雨の中、どうしたのですか?」
 御蔭が、いつもと変わらぬ様子で葵に話しかけてくる。
 全身すっかり濡れ鼠だというのに、まるでなにも気にしていない御蔭に、葵は速足で近付いた。
「御蔭こそ、雨の中、何をしているの。こんなに濡れて、風邪をひくわ」
 葵が傘を差すと、御蔭の右の目が葵をやさしく見下ろしてくる。
 鈍色の空の下、御蔭の澄んだ青の瞳が、そこだけ唯一の晴れ間のようにも見える。それをじっと見つめる葵に、御蔭がふっと笑いかけてきた。
「私は大丈夫ですよ。ただ少し、この雨で、池の鯉たちが心配で……」
 御蔭がそう言って、池のほうに視線を動かす。
 御蔭の言うように、十日続く雨で池の水は嵩を増し、今にも溢れ出しそうなところをぎりぎりで堪えていた。
 この池の中で、鯉たちはどうしているのだろう。先ほど一匹跳ねるのを見たが、ほかの鯉たちは水底で静かに身を潜めているのだろうか。
「それにしてもやみませんねえ、雨」
 池の水面を心配そうに見つめながら、御蔭がつぶやく。
 左目を覆う白布も、着流しもずぶ濡れにして、白銀の髪の毛の先から水を滴らせながら、それでも御蔭が気にするのは池のこと。
 胸の奥がざわつくのを感じて、葵は傘の柄をぐっと握りしめた。
「このままやまなくていいわ。雨なんて……」
 竜堂家が、美雲神社の外の人々が、池の中の鯉が。誰がどう困ろうと、葵には関係のないことだ。
 決して清くはない、葵の気持ち。雨音に消されるほど小さくつぶやいたはずが、
「そうですねえ」
 なぜか、御蔭は葵の声をしっかりと掬いあげていた。