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「……天満」

 声が聞こえた。
 水の向こう側から。こちらの名を呼ぶ、聞き覚えのある声。

「天満!」

 ざばり、と水が捌け、体が持ち上げられる感覚があった。目を開けば、視界いっぱいに広がったのは赤紫色の空。雲が(まば)らに広がり、オレンジ色に輝いている。朝方か夕方か、どちらなのかはわからない。

「おい。しっかりせえ。息してるか!?」

 ばしばしと容赦なく頬を叩かれて、嫌でも目が醒める。こんな乱暴な起こし方をするのは一人しか思い当たらない。
 やめろ、と声に出そうとしたところで、先に咳が出た。ついでにいくらか水を吐き出す。しょっぱい味が口に広がり、それが塩水であることに気づく。

「……なんや。ちゃんと生きてるやんけ」

 何か文句でも言いたげなその声は、しかしどこかホッとしたような音を含んでいる。
 ようやく咳がおさまった天満は、改めて目の前にある顔を見上げた。予想通り、精悍な顔つきの男がそこにいた。爽やかさのある短い髪が、今は水に濡れている。

「兼嗣……。お前がここにいるってことは、ここは現世なのか?」

 全身が水に浸かって冷たい。ここは、海なのだろうか。

「せや。お前はちゃんと生きて戻ってきた。御琴が言ってたんや。お前は海から帰ってくるって」

 兼嗣はそう言って、横の方へ視線を送る。釣られて天満もそちらへ目を向けると、遠くに見える砂浜に、御琴と、あの家の者たちが並んでいた。彼らは不安げな眼差しをこちらに送っていたが、兼嗣が親指を立てて合図すると、途端に緊張の糸が切れたように破顔する。
 そんな彼らの隣には、大きな岩が立っているのが見えた。波打ち際に立つそれは見覚えがある。おそらくは弁天島(べんてんじま)と呼ばれる大岩だ。出雲大社から西へ行った先にある海岸に、それは存在する。

「弁天島があるってことは……ここは稲佐(いなさ)の浜か」

 天満はそう呟きながら、太陽の位置を確認する。それまで顔を出さなかった白い光が、海とは反対の方角からようやく昇り始める。
 東から日が昇る。それは夜が明け、新しい朝が来たことを告げていた。

「結局、最初から最後まで爺さんの思惑通りだったってことか」

 してやられた、と天満は肩を落としながら、あの老人が最後に言っていたことを思い出す。

 ——あまり右京を神格化するでないぞ。あれも所詮は一人の人間。人並みに傷つきやすい心を持つ、か弱い娘だ。……そして、儂もな。

 あれは一体どういう意味だったのだろう。今となってはもう確かめようのない時治の真意に、天満は思いを馳せる。そんな彼の隣から、兼嗣が言った。

「あの爺さん。憎たらしい性格しとったけど、ほんまは意外と寂しがり屋やったんやろな」

「え?」

 思わぬ指摘に、天満は目を丸くする。

「あんな一匹狼みたいな奴がなんであれだけの人間をそばに置いてるんかって不思議やったけど、あの取り巻きたちが爺さんを慕ってるの見てたら、なんとなくわかったわ。あんな爺さんでも、自分のほんまの部分を曝け出せる相手は必要やったんやろな。本家の人間にはどう思われてもええけど、身近な人間にだけは真実を知っといてほしかった。自分が死んだ後も、自分のことをちゃんと覚えててくれる存在がほしかったんやろ」

 その言葉に、天満はかつて右京が言っていたことを思い出す。

 ——人は死んでも、それで終わりじゃない。誰かがその人のことを覚えている限り、心の中で生き続けるんだ。

 彼女は自分が死んだ後、天満に灯籠を流してほしいと言った。死者の魂を慰めるための灯籠流しだ。
 そして、彼女は自分の死の真相を、あらかじめ時治に打ち明けていた。おそらくは時治が二十年後にどんな行動を取るかもわかった上で。

「……なんだ。俺たちの身内は、不器用な奴ばっかりなんだな。あの爺さんも、右京さんも」

 二人とも、誰かに託したかったのかもしれない。
 自分が生きていた証を。
 嘘偽りのない本当の姿を。
 誰かの心の中に、生き続けると信じて。