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 山間を走る電車に揺られ、徐々に建物が増えてきた景色を眺めていると、目的地のアナウンスが聞こえてきた。
 隣を横目で見る。彼女らしくない大人しさだった。開いたスマホの画面は、先ほど見えた時と同じ画面のままだ。その上で二本の指が行き場を無くして彷徨っている。
 やっぱり、彼女でも緊張とかするのだろうか。

 彼女の父親はドラマのロケ地やアニメの聖地で有名な飛騨高山で土産物屋を営んでいるらしい。彼女は姿すら覚えていないとのことだが、旧姓さえ分かれば後はしらみつぶしに探していけば見つかるはずだ。
 僕が彼女に付いてきても良かったのだろうか。そんな心配は杞憂で、むしろ彼女は僕を引っ張ってでも連れてくる気だったらしい。

 なぜ、今さら父親に会いたいのか。彼女の心意は知れない。
 彼女は我慢の振り分けを選ばせてもらえていない。生まれつき、他の人と違うことが多すぎる。それでも、彼女は周りを疎ましく思ったり、羨ましがったりしない。少なくとも、その姿を他の人には見せていない。もちろん、僕にも。
 尊敬という言葉で表していいのだろうか。僕は彼女のことが素直に凄いと、知れば知るほど思う。非凡な言葉だけど、一番適切な気がした。
 大人で関心出来る人はたくさんいるけれど、同年代でここまで自分との差を思い知らされることは初めてだ。僕が彼女の境遇ならば、とてもじゃないがここまで出来た人間になっていなかったと思う。

 電車を降り、空を仰ぐとどんよりとした雲が一面にかかっていた。空気もどこか湿っている。
 駅の周辺は思ったよりも外国人が多く、それなりに賑わっていた。土産物屋と言うのだから、駅の近くだと思うのだけれど、彼女は電車を降りてからもどこかぼんやりしたままだ。一体、何を考えているのやら。
 彼女の手を引いて歩きだす。

「あっ……」

 小さく漏れた彼女の声は聞かなかったことにした。しらみつぶしで土産物屋に入っては、店員に彼女の父親の旧姓を名乗る人物がいるか聞いて回る。
 途中から小雨が降って来た。ぽつぽつとしたもので、まだ傘を買うような雨脚ではなかったから、そのまま探し続けた。
 その間、僕と彼女の間にこれといった会話は無い。不思議な気分だ。初めて見る彼女に戸惑いはあるが、嬉しくもあった。

 彼女の父親が見つかるまで、案外時間はかからなかった。
 駅から外れた商店街の一角にぽつんと存在する小さな土産物屋。店に入り、レジ前でテレビに目を向ける男性を一目見て、気が付いた。猫のようなシャープな瞳が、彼女にそっくりだったから。
 父親と思しき男性は店内にいる客に目もくれず、皺の刻まれた口元をぽかんと開けて画面のアナウンサーに魅入っている。よく見ると、唇の色素が薄い。

「どうしたの?」

 入口で立ち尽くす僕に彼女が見上げる。
 彼女が気づいているはずはなかった。だから、こんなにも似ているのに、とは言えない。

「……何でもないよ」

 店内にいた他の客が出ていくのを見届け、僕は彼女に耳打ちをした。

「秋永さんが尋ねた方が良い」

 彼女は不思議そうに首を傾げていた。でも、僕の出る幕はない。今から、僕は完全な部外者なのだから。

「あの……、」

 彼女が声をかけると、男性は肩をぴくっと動かし、すぐさまテレビを消して彼女へ向き直る。

「はいはい、どうかしました?」

 飲食店の自分の両親と比べると、お世辞にも良い接客には思えなかったけれど、そんなことを気にしているのは僕だけだ。

「少しお尋ねしたいことがあって。えっと、ここら辺に貝住さんという方はお住まいじゃないでしょうか?」

 ここまで僕が口にしてきた一言一句を真似る彼女。

「貝住は私ですけど……。ここいらじゃ多分、私だけだと思いますよ」

「えっ……」

 彼女が言葉を詰まらせ、助けを求めるように僕を見る。チラッと、男性も僕に目を向ける。まさか目の前の少女が自分の娘だとは思わないのだろう。不思議そうな顔をしていた。

 僕は彼女に向けて、小さく頷いた。きゅっと彼女の口が固く結ばれ、男性に向き直る。
 店内のささやかなBGMが音を潜めた。ちょうど、終わり際だったのかもしれない。

「あの……! 急に変なことを言って申し訳ないんですが。……私、秋永音子と言います……!」

 珍しく緊張している彼女を僕は遠巻きに眺めることしか出来ない。

「あきなが……ねこ……?」

 男性が小さく復唱する。次第にシミの目立つ顔から波が引くように表情が失われていった。
 彼女は目の前の男性の戸惑う気配を感じたのか、急いで言葉を繋げる。

「私、多分ですけど、えっと、あなたの娘……だと思うんです。その、心当たりって、ありますよね?」

 男性は彼女の声が届いていないのか、ひたすら呆然と何かを呟く。驚き以外の感情をその表情から見つけるのは難しい。なぜか、僕の手のひらは汗でぐっしょり濡れていた。

何歳(いくつ)だ……?」

 不意に男性が顔を上げて彼女に聞く。その尖った瞳が、少し怖かった。

「ら、来週で十八歳になります。五月二十七日……!」

 正確な日付を聞き、男性は大きくため息をついた。下げた瞳が濁る。同時に彼を取り巻く空気が変わった気がした。彼女には申し訳ないけれど、今は顔が見えなくてよかったと思ってしまう。

「……帰ってくれ」

 男性はただ一言、そう告げた。

「えっ……?」

 男性が小さく舌打ちをする。

「なぜ、今さら顔を見せに来た? 何が目的だ? なんでここが分かった? あの女に言われてきたのか?」

 強い口調で男性がまくし立てるように早口で言葉を連ねる。

「え、っと……」

 表情の見えない彼女にとっては急なことだったのだろう。未だに男性の言った事がくみ取れていないようで、言葉を詰まらせる。

「……やっぱ、いい。理由なんてどうでもいいから、早く帰ってくれ」

 そう言い、男性は彼女に背を向け、再びテレビを付けた。ローカルなコマーシャルが場違いに明るい音楽を流す。

「わ、私……、あの、」

 もう、彼女の声は男性には届いていなかった。

「……ッチ。ったく、災難だ」

 じわっと彼女の瞳が潤んだ。きっと、本人も気づいていないだろう。でも、その涙が僕に言葉を衝かせるには十分な理由だった。

「あの……!」

 思った以上に声が出て、背筋が痺れる。
 何で、僕はこんなことをしているのだろう。部外者だと、自分に言い聞かせたばかりなのに。
 衝動的に動くのは全く自分らしくない。そんな熱い人間じゃないはずだ。僕は憶病で、弱虫で、いつも逃げて目をそらしてばかりなのに。

「少しくらい、話を聞いてくれてもいいんじゃないですか……?」

 男性は何も言わない。そうやって目を合わせないで、向き合おうとしない態度が、まるで自分を見ているようで無性に腹立たしい。

「あなたの娘がわざわざ、こんな遠いところまで会いに来たんですよ!? どうして、そうやって投げやりに突っぱねることが出来るんですか!」

 やっぱり、男性は何も言わないし、動かない。

「ね、ねえ……」

 気が付けば、彼女が弱々しく僕の袖を引っ張っていた。

「もういいよ。……帰ろ?」

「いいわけない……! 絶対……、こんなの間違ってる……!」

 この男性が過去に何があったのかは知らない。でも、そんなこと関係ない。彼女の母親と何があったって、関係のない彼女に向けていい態度じゃないのは、誰が見たって明らかだ。

「……頼む。金、やるから帰ってくれ」

 男性の言葉に耳を疑った。この男は、今何て言ったのだろうか。聞き間違いであってほしかった。

「今、何て……?」

「ここまでの電車賃でいいか? どっかに泊まってるなら、その分も払ってやる」

 本当にどうにかなってしまいそうだった。彼女が必死に腕を引いてくれていなかったら、飛び掛かっていたかもしれない。……この僕が?

「そんな話をしてるんじゃありません」

「……」

「彼女に謝ってください。それで、話を聞いてやってください」

「これ以上騒ぐなら営業妨害で警察呼ぶぞ?」

「呼んでもいいから……! はなしを――」

「ご、ごまんっ!」

 突然、彼女が大きな声で叫んだ。言葉の意味が理解できず、舌が泳ぐ。
 彼女の小さな手が、痛いくらい僕の腕を強く掴んで震えていた。

「五万でいいです……。そしたら、帰ります」

 彼女が静かに言う。

「な、何言ってんの……?」

「いいんだよ……。もう、いいの」

 男性は一度大きく舌打ちを鳴らし、ため息と共にレジから一万円札を数枚取り出す。まるで、お釣りのように銀トレーに乗せて、カウンターを滑らせる。

「……ありがとう」

 やっぱり目を合わせようとしない男性も、お礼を言う彼女も、何もかも間違っている。それでも、彼女が必死に涙を堪え、僕に訴えかけるから、もう何も言えなかった。僕は彼女の泣いてる顔を見たくなくて、彼女に引かれるまま、男性に背を向ける。

「……さようなら、お父さん」

 店を出る寸前、彼女は振り絞るように言った。握ったお札がしわくちゃになっている。するっと彼女の手が僕の腕を滑り、手を握った。
 果たして、僕はその手を握り返せていただろうか。
 僕と彼女は握った手を放すことなく、長い時間かけて宿に戻った。まだ、陽が高い時間の事だった。