「渡辺さんって、いつも平和そうよねー」


『まただ・・・・・・』


昼休み、私は女性陣と静かに休憩室でお弁当を食べていたら、いわゆるお局様からいつものお言葉が始まった。
彼女の表情は困ったように眉をひそめているようで、その声には嘲笑が含まれていることくらい分かる。


「あまり苦労してないっていうのが表情とかに表れるのかな、羨ましい。
ま、そんなに若いんじゃ世の中の厳しさを知れって方が無理だよね。
ごめんなさいね、仕方が無いことだけど大人としては貴女のために指摘するのも必要だと思って」

「いえ・・・・・・」


私、渡辺由香は少しだけ困った笑顔を浮かべて小さく答える。
そんな私を見て、彼女は何故か満足げだ。


「私なんてやっと結婚の決まった彼と結婚式の打ち合わせをしたいのに、仕事が忙しくて私がほとんどやってるの。
こっちだって仕事が忙しいのにさ。
あげく向こうの両親がいちいち連絡してきて、面倒ったらありゃしない。
そういうのも全て上手くこなしちゃうから任されるのは分かるんだけど」

『単にのろけたいだけじゃない』

周囲もいつもの事だとうんざりしているのだが、彼女の機嫌を損ねれば仕事を多く割り振られたり上司にあること無いことを言ったりするので、みんな当たり障り無く過ごしている。

そして、私には毎回会う度にのんきだの、苦労を知らないなどと、何故かそういうお小言が飛ぶ。
彼女はひとしきり喋って鬱憤を晴らしたのか、それとも何かを満たしたのか私の側を離れていった。
いなくなって元のように休憩室で、他の女性達は視線だけで会話をしているようだ。
また静かな休憩室に戻る。
私は味のしなくなったお弁当を、急いで口に運んだ。








「ただいまぁ」


古い一軒家。
玄関ドアを開けると、溜まっていた冷たい空気が家の中から外に出て行くような気がした。

電気をつけ軋む廊下を歩き、エアコンと石油ファンヒーターなどの暖房を入れる。
自室で上着をハンガーにかけまずはパソコンの電源を入れ、あるサイトを開きログインボタンを押した。
画面には開始時間前という表示がされている。
それを終え、私はダイニング隣の和室へ向かう。




「お母さん、お姉ちゃん、ただいま」

そういって仏壇に手を合わせた。


あまり広くはないが、この古い一軒家に住んでいるのは私だけ。
父は私の小さい頃に離婚して、今は一体どこで何をしているのか私は知らない。
生きているか、死んでいるのかすらも。




姉は・・・・・・夫だった人に殺された。


『優しい人なの』

そういってある男性と交際しているのだと話をしてきた姉は、母と私にその相手を会わせることなく家を出て、しばらくして結婚したと突然連絡があった。

旦那さんを紹介してと私が言っても、彼は気むずかしい人だからと断られた。
せめてどんな人か教えて欲しいと言っても断られる。
時折家に戻ってきて一緒に食事をしようと言ったが一度も戻らず、こちらから一方的にかける電話でしか姉と話すことが出来ない。
それも必ず出るわけでは無い。
夜は忙しいから掛けてこないでと断られ、その頻度すら減っていった。

母も私も流石に不安になっていた。
姉の態度がどんどん変わっていったからだ。




私は姉からなんとか家の住所を聞き出し、約束も取り付けず会いに行った。
驚くほど古びた二階建てのアパートの一室が、姉の新居だった。
名前も書かれていないドアのブザーを押すと、灰色のドアが開いて人が出てきた。
そして私は呆然とした。

周囲でも可愛いと評判だった姉の面影は微塵も無いほど痩せ、姉の顔色は悪く、そして酷く腫れた状態だったのだ。


私はすぐに姉が夫から、ドメステックバイオレンスを受けていると確信した。
そうではなければこんな状態になっているはずが無い。

『お姉ちゃん帰ろう!
顔も酷く腫れてる!
叩かれたの?殴られたの?!
こんなの酷いよ!!』

『ダメよ、あの人が一人になってしまう』

姉は腫れた顔で横に振る。

『その前にお姉ちゃんが死んじゃうよ!』

『あの人が怒るのは私のせいなの、私がいたらないから。
私がきちんとやれていれば優しい人なのよ』

姉はあくまで静かにそう言った。


その後も私は心配で何度も家に通うと、こう姉に言われた。

『もう二度と来ないで。
貴女が来ることを知って彼の怒りが酷くなった。
全部貴女のせいよ』

姉は腫れた目で私を睨み、古びたドアを閉めた。

「お姉ちゃん!
開けて!お願いだから!!」

そう叫びながらドアを叩いてもドアは開かない。
私はしばらくそれを繰り返したが反応は無く、隣の男性が迷惑そうにドアを開けて睨んできたので辞めざるを得なかった。

それが姉と会った最後になる事など思わずに。



私はすぐに警察へ相談に行った。
姉がDVに遭っている、助けて欲しいと。
私が必死に状況を訴えても、目の前の警察官の表情は一切変わらない。
本人が一緒に来ないと無理だ、そもそもそれが本当なのかもわからない。
どうしてもというなら姉を連れてこいと実質門前払いされた。
その後何度も警察に行ったが、迷惑だといわんばかりの冷たい対応が続き、私は絶望していた。

だれが姉を助けてくれるのだろう。
姉に電話を掛けたら着信拒否されていた。
家に行っても出てきてはくれない。
私の手は振り払われてしまったというのに。

母は姉のことを心配し、鬱病になった。
私は高校を卒業し念願の正社員になれたばかりで、色々な事が一杯一杯だった。


*********


そんなある日の深夜、寝静まった自宅に電話が鳴り響いた。
私は何か嫌な予感がしてその電話を取る。
そこから聞こえてきたのは男性の声。

『渡辺さんのご自宅ですか?
下野警察署の松本と申します』



私と母はタクシーでその警察署に駆けつけると、松本と名乗る年配の警察官に警察署の地下に連れて行かれ、一番奥の部屋に案内された。

そこのドアには霊安室と書かれていた。

何故霊安室に?
もしかしてお父さんだろうか。
いやわかっている、私はここに何があるのかを。

警察官がドアを開け私達は中に促された。
電気で明るいがなんの色もない冷たいその部屋の簡易なベットには、人が寝ていた。
長いスカートから真っ白な脚が見える。
私達がそのベットの側に行くと顔にかけられていた布を、警察官が無表情のままめくった。



『娘さんの、姉の、由美さんで間違いありませんか?』


母はその場で倒れた。
警察官が声をかけているようだが私はそれを視線の端で見て、視線を前の人に向ける。
横たわっている女性らしきその顔は、羨ましいほどに可愛かった姉の顔では無かった。

しかし、何度もあの古びたアパートで会った時、殴られ見慣れている顔だった。
私は俯いて声を絞り出した。

『・・・・・・姉です』





姉の夫は傷害致死の罪で捕まった。

姉の夫を私と母が初めて見たのは、裁判所の法廷だった。
裁判官の前に立たされたその男は、暴力などとは無関係の人が良さそうな風貌で、受け答えはボソボソとした声。
だが、その男が裁判で話すことは、自己保身と姉への罵倒ばかりだった。


全てあの女が悪い。

しつけの一貫だった。

死ぬとは思わなかった。



そんな裁判を見て、母は、

『私が悪かったのよ、全て私が悪かったの』

そう言った。

そんなことないよ、悪いのはあの男だよ、と言っても、虚ろな表情の母の心には届かなかった。



それからはめまぐるしい日々だった。
警察での手続き、姉の葬儀、母の病院への付き添い、裁判に関わる事。
その当時の事はあまり記憶にない。



そしてしばらく経ったある日、会社で仕事をしていたら携帯に電話があった。
警察です、という言葉で、私の心臓が、ばくり、と大きな音を立てた。
この感じを覚えている。
だってそれは。

『あなたのご家族と思われる遺体が発見されました』



私が仕事に行った後、母は近くのマンションから飛び降り自殺をした。

非常に精神が不安定だった母を家に一人にするのは心配だったが、既に姉のことでかなり会社を休み、もうこれ以上休める状態では無かった。



今度は母に会うため、たった一人で警察署の霊安室に行ってから、やはり当時のことはあまり覚えていない。

こんな事が続いたというのに周囲の私を見る目が想像以上に厳しくて、私はその視線や声に怯えながら、母をひっそりと荼毘に付した。
祖父達の眠るお墓には姉と母の遺骨が入り、もうこれ以上こちらに入ることは厳しいですとお寺の職員さんに言われ、私の場所はここに用意されていないのだと遠回しに言われているような気がした。

そんな母が唯一残してくれたこの家に、私は今、独りで住んでいる。


*********


「ポンポンポン!」

パソコンから音がして、私は我に返ると慌ててそちらに向かう。
この音は相手がログインして待機しているのを知らせる音だ。

今日は夜の9時から30分間の予定。
これが今、私の唯一の支えになっていた。




『宿り木カフェ』

-「このカフェで少し心を休めてみませんか?」-



というキャッチフレーズの書かれたサイトを見つけたのは、一ヶ月ほど前のことだった。

心が辛い、心を休めたい、愚痴を聞いて欲しい、そんな言葉をネットの検索欄で打ち込んでいたら、このサイトに行き着いた。

『宿り木カフェ』なんて名前がついているが、ようは話を聞いてもらう『客』と話を聞く『スタッフ』を繋ぐ変わったサイトだ。

それも、客は女性のみ、スタッフは男性のみという事で、一瞬怪しいサイトなのではと思ったけれど、色々注意書きを読んで気がつけばお試し通話をしてしまっていた。

本来の私なら怪しくて踏み出さなかったかも知れない。
でも、何かにすがりたい、聞いて欲しいと必至に思っていた。
それほどに私は疲れていたのだ。


そのカフェを使うにはまず会員登録が必要で、何を話したいか、どういう現状なのかという事を記入し、どのようなスタッフを希望するのか記入する。

サイトの注意書きには、スタッフは必ずしもご希望に添えるわけではありません、との注意書きがあったのだが、

『50代くらいの人、家族を事故か事件で無くしているけど穏やかな人』というリクエストをつけた。

そして今、私はネットの向こうにいるこの人と話すのを心待ちにしている。

私は時計を見て、昔から使っているお気に入りのマグカップに入れたコーヒーをパソコンの横に用意し、ヘッドセットをつけた。






『お帰り、由香ちゃん』

「ただいま~」

9時のスタートと同時に、優しい声が私の耳に届く。

私はその声にホッとしてようやく力が抜けた。

本来ここではニックネームでも良いのだが、話すうちに本名で呼んで欲しくなって本名に変更した。

今ヘッドセットの向こうから聞こえる声の主は50代会社員の人で、奥さんを数年前交通事故で亡くしたのだと最初の自己紹介で聞いた。

子供はおらず、一人暮らしとの事だった。




この『宿り木カフェ』の利用には色々なルールがある。

①利用は一回30分を20回まで。

初回は30分自己紹介として無料分がついてくる。

20回以降の利用は新たな申請となり、同じスタッフを指名することは絶対に出来ない。

②お互いのプライベートな連絡先の交換、及び会う等のこのサイト以外での接触行為は禁止

あくまで一時やすらぐだけの場所、このカフェに、そしてスタッフに依存させないようにする為との事だった。





『さて、今日は会社で何かあったのかな?』

「え?わかるの?」

『うん。ただいま、の声の雰囲気が凹んでいる時のだった』

ははは、という笑い声に、私の心がほわっと温かくなる。
いまこの向こうには、私の事を心配してくれる人が居るなんて不思議だ。
会ったことも無い人なのに。



「昼休み、うちは同じ部署の女性全員でご飯を食べるんだけど、そこでお局さんが私のことを平和そうだの、苦労してないよね、とか一方的に言ってきて」

『それはまた、おつむの弱そうな女性だねぇ』

心底呆れたような声に思わず笑いがこみ上げた。


「自分は不幸、苦労してるってのをアピールするの。
でもノロケを言いたいんでしょ?って思う事も多くて」

『うん』

「私の事、何にも知らないのに。
不幸自慢なら私、あの会社の誰にも負けないと思う」

『不幸自慢大会か、殺伐としそうだなぁ』

だよねーと返し、私は続ける。

「私の事情を話したら、知らない人は絶対みんな引くと思うの。
別にどうして欲しいわけでも無ければ、同情が欲しいわけでも無いし。
暗い顔してても仕方ないから普通に振る舞ってるだけなのに、なんでこんな言われかたをしないといけないんだろう。
仕方なく話す時もあるけど、みんな聞かなきゃ良かったって顔するよ」


そうなのだ。

興味本位なのか、何があったのかとか、ご両親は?とかしつこく聞いてくる人がいる。

だから仕方なく事情を話したというのに、話してその後に広がる空気の重いこと。
そんな重い話を聞くつもりじゃなかった、そうなら話してくれなければ良かったのにと責任転嫁するような言葉すら言われたこともある。
別に私はあなた達に、何も望んではいないのに。



『無理だよ、大抵の人は特殊な不幸に慣れていないから』

「年とってる人でもだよ?」

『もしもそういう経験があったとしても、同じような境遇の人に上手く対応出来るかは別だからね』

「情けないな、それ。
空気読んでそれ以上突っ込まないで欲しいのに、聞くだけ勝手に聞いておいて、言わないで欲しかった、みたいにされるの腹が立つよ」

『よくあるよねぇ』

「ヒロさんにもやっぱりあるの?そういうの」

今相手をしてくれている人は、ヒロさんというニックネームだった。
本名から取っていると教えてくれたけれど、名字からか、名前からはわからない。


『それはあるよ。
今でも仕事の相手先とかで、ご家族は?奥さんはこの飲み会怒りませんか?とか。
そもそも無理矢理誘っておいて奥さん怒りませんかって質問も意味が分からないけど。
知ってる部下があわあわしていて申し訳ないくらいだよ』

「どう返すの?」

『妻は事故で亡くなって今は独り身なのでって言うよ。
だいたいへらへらしてた相手の顔が凍り付くね。
今はそれを苦笑いしながら言えるだけの余裕は出来たけど』

「・・・・・・奥さんが亡くなった当時はどうだったの?」

『そうだなぁ・・・・・・いわゆる抜け殻、だったよ。
なんせ目の前で妻が轢かれたからね。
今でもその時のことは鮮明に思い出せる。
事故の後、妻の葬式とか色々自分が一人で動いてこなしたんだけど記憶にないんだよね。

会社も葬儀の翌日何故か普通に行っちゃったけど、少ししてからガツンと落ちて、食事もせずまともに寝ることもせずに過ごしてしまって。
気がつけば病院のベットの上だったよ。
会社が私の無断欠勤を心配して警察に連絡して、警官が家で倒れている私を見つけてくれてねぇ』

「うわぁ・・・・・・。
会社の人が連絡してくれて良かった。
確かに私の時もとりあえず仕事は行ったけど、当時のことはあまり記憶無いなぁ」

『普通に過ごしてしまったりするから、周囲は割と平気なんだ、大丈夫なんだと誤解しやすいよね』

「そうそう!
後で友人達にも、お葬式でもしっかりしてたよ、なんて言われたけどあまり記憶無いし。

色々な事があったその時は友人も優しいけど、段々私がどういう状態になったのか、本当はみんな忘れている気がする」

『むしろ、いつまで過去を引きずっているんだ、なんて言われたり』

「そうなの!」

このやりとりが本当に嬉しい。

こんなこと、誰にも話せなかった。
それを理解して、同じ苦しみや切ない思いを味わい、同じ感覚を持った人と話せている、それがただ嬉しかった。




『そろそろ時間だね』

気がつけば9時半まであともう少し。
スタッフとの都合が合えば一時間というのも出来るが、それは事前予約が必要だ。

もう少し話したい。

いや、もっと話したい。

30分なんてあっという間だ。



「また次の予約入れるね」

『うん、さっき日程を更新したからサイトを確認してね』

「じゃぁ、お休みなさい、お父さん」

『あぁ、ゆっくりお休み、由香』

画面に通話終了の文字が出る。



通話が終わる時はいつもこうやりとりをする。

父にお休みを言った記憶も、言われた記憶もない私には、こうやっておままごとをするだけでも嬉しかった。


私は『宿り木カフェ』のスタッフ一覧からヒロさんのページを出し、日程をチェックする。


「もうそんなに残りの回数無いし、一週間後かな」

私は予約ボタンを押した後、表示された残り回数を見てため息をついた。


*********


「渡辺さん、今度の会社のイベント、参加で良いのよね?」

仕事中、お局さんが私のデスクにやってくると、にこにこと話しかけてきた。

「すみません、その日は休みを頂いていて不参加なんです」

そう私が答えると、あからさまに不愉快そうな顔をした。

「え?不参加?
せっかく社内の交流を円満にしようという部長からの提案なのに不参加なの?」

知っていますよ、人を集められなかったら貴女の評価が落ちるから、それを怯えて必至に人を集めていることくらい。

そんな気持ちを押し殺し、私は静かに答える。

「その日は墓参りなんです」

「あら、どなたの?」

そんなこと聞かないで、そうなの、とか言ってやめておけば良いのに。

でも、答えたら彼女がどんな反応をするのだろうか。
私は答えを返してみることにした。

「母と姉の、です」

「あ、あら・・・・・・」


わかりやすいほどに、お局の顔が困惑の色を浮かべている。


「で、でも、お父様がいるんでしょう?」

「父は私の物心付く前に離婚したのでいませんし、どこにいるのかも知りません」

お局の表情が凍り付いている。
私はただ淡々と話した。
もしかしたら睨んでいたのか、それとも笑みでも浮かべていたのか。

そんなことまで、この人に気を使う必要も無いと思っていた。


「そうそう、次の人に確認取らないといけないから!
お仕事邪魔してごめんなさい!」

そう一気にまくしたてると、お局様は足早に立ち去った。


いい気味だ。
これで少しは自分の考えが浅はかだと思い知ればいい。
私は彼女がこれで少しは良い方向に変わるのではと、淡い期待を持っていた。









「渡辺さんの、私不幸なんですって雰囲気、あまり良くないんじゃない?」


数日後、昼休憩も残り時間もわずかなので歯を磨こうとトイレに入ると、鏡を陣取っていたお局に開口一番そんな事を言われた。

私は突然訳の分からない事を言われ、その場に立ちすくむ。


「家族いません、アピール、同情を買いたいのもわかるけど、それじゃ人として成長しないわよ?
きっと天国のお母様達も嘆かれているわ」

彼女の顔は、心底私を哀れんでいた。

私は呆然としたまま、彼女が取り巻きと一緒に私の横を通って立ち去ろうとしているのに、何かを言い返すことも出来なかった。


苦しい。


どくどくどく、と酷い心臓の音が身体中に響き渡り、腹の奥底から何かが沸き上がり、吐きそうになる。




・・・・・・何も、何も知らない癖に!!!!!




私の中の何かが切れた。


必死に、必死に我慢してここに勤めてきた。
姉が、母が亡くなってもしがみついていた正社員というこの仕事に。

でも、もう無理だ。




私はトイレを出ると、もの凄い足音を立てて席に座って隣の同僚としゃべっているお局の側に行き、鬼の形相で見下ろした。

「あなたに何がわかるんですか?
家族を殺されたことでもあるんですか?
血まみれの親の遺体を見たことがあるんですか?
私が墓参りで行けないと言ったら、貴女がしつこく聞いてきたから答えただけでしょう?

つい数日前まで私を苦労知らずだって笑ってて、家族が居ない事を知った途端、私は不幸面してるって何ですか!
一体どんな頭してるんですか、貴女!?

少しでも・・・・・・私の苦しみを味わってみろ!!!!」

泣きながら私は喚いた。


・・・・・・そう、叫びたかった。


そんな風に、あの女に言えたのならどんなに良かっただろう。




必死に今まで我慢していたことが、あんな女のために全てを失うなんて馬鹿な事、してはいけないと、もう一人の私が必死に引き留めた。


なんで私はこんなに苦しまなくてはいけないのだろう。

神様、私は何かそんなに悪いことをしたのでしょうか。

楽しい事なんて、幸せな事なんて私には何も無い。



私は呼吸が苦しくなり、段々息を吸い込めず、意識が朦朧としてきた。

誰か助けを呼ばなければ。

だけれどその意識を保つことも出来ず、そのまま気を失った。


*********


目が覚めたのは病院のベットの上だった。
あぁそういえば先日ヒロさんも話していたな、気がつけば病院のベットだったって。
ぼんやりと思い出すのはそんな事。

そして先ほどまで起きていた事を段々と思いだし、涙でも出るのかと思ったけれど、やはり涙が出ることもなく、私はただぼおっと天井を見ていた。


「渡辺さん入りますよ」

女性の声がしてゆっくり視線をそちらに向けると、看護師がカーテンを開けて入ってきた。
看護師は何かを手に持ったまま、

「会社で倒れられたのでこちらに搬送されました。
診察した医師が、頭を打っているようなので検査入院して欲しいとのことなのですがどうされますか?」

「・・・・・・明日、退院出来ますか?」

「はい」

「ならお願いします」

そういえば会社でいつも簡単な健康診断をするだけだ。

脳なんて見てみてもらった事も無いし、きちんとみてもらうのもいいかもしれない。
健康保険がきくといってもそれなりの出費は出るだろう。
予想外の出費は正直痛い。
だが、あまりに疲労していて、このまま家に帰ってもまた倒れそうで怖かった。
帰っても一人だけ。
きっと会社の人が心配して警察に連絡してくれるなんて事は期待できそうに無い。


「では入院の手続き書類にご記入をお願い致します」

私はだるい身体を起こし、目の前に差し出されたその書面を見て、渡されたボールペンを持つとゆっくりと記入し始めた。

しかしある場所で書くのが止まった。
そこは身元保証人という欄だった。

「あの、ここに書かないと入院できませんか?」

「・・・・・・もし一人暮らしでしたら、ご実家でも構いませんよ?」

「いえ、家族が誰もいないんです」

そう返しても看護師は特に表情も声も変えなかった。

「ではご親戚を」

「いえ、いません、誰も」

私の言葉に、看護師が黙る。
彼女は特に眉間に皺を寄せることもなかった。

「わかりました。
検査入院ですし、この書類で大丈夫か入院窓口とかけあってみます」

「お手数かけます」


淡々と看護師はそう言うと、書類を持って出て行った。

「家族や親戚が居ないと入院すら出来ないなんて、世知辛い世の中だなぁ」

家族がいないことでの不利益は沢山受けてきた。
今の会社に入る時に、身元保証人を書かされた。
その頃は母が生きていたので良かったが、会社もその後を知って特に何も言ってこない。
もしも誰もいなかったとしたら、どうなっていたのだろう。



「ヒロさんと話すのが今日や明日じゃなくて良かった。
連絡しないで出なかったら、心配してくれたかな」

私はそう呟いて毛布を頭まで被った。
泣きたいのに、やはり涙は出なかった。





翌日、事情を知っている上司が見舞いに来て私から事情を聞くと、少し黙った後、数日休んではどうかと提案された。

無給になるのに会社側から休めなんておかしな話だ。
その間に会社側があのお局に説教をするなんて事はありえないだろう。

上司は居心地悪そうに私と会話をするのを悩んでいたようだが、部署を移動して心機一転するといいと言い出した。

なんでお局が移動するんじゃなくて、私が移動なの?
なんで私だけが悪いみたいな感じなの?
そう思うのに抵抗する気力は失せ、二度と顔を見たくなかったので私は、上司の提案をどちらも承諾した。

もう心から疲れていて、何かを深く考えることなんて出来なかった。



私は家に戻り、早々に『宿り木カフェ』の予約変更手続きをした。
明日の30分の予定を二回分合計一時間に出来ないかと。
本来こんな直前の変更は出来ないが、相手のスタッフがOKすれば可能になる。
私はダメ元で返信を待った。


朝起きるとメールボックスには『宿り木カフェ』からのメール。
中を見れば、一時間に変更できました、との内容を見て安堵した。


*********


『おかえり、由香ちゃん』

「ただいま。でも今日は仕事に行ってないの」

『え?』

「というか数日前から会社行ってない。
あ、辞めたんじゃないの。
一応今週末まで休みにしたの」

『何か、あったのかい?』

本当に心配している声に、久しぶりに緊張感が緩む。
こんなにも自分を大人が心配してくれる、それはとても私の心を落ち着かせてくれた。


私はお局に言われたこと、それを言い返せなかったこと、会社で倒れて検査入院したこと、上司から少し休むように言われたことなどを話した。

話しながらヒロさんは、優しい声で相づちを打ってくれた。




『そうか・・・・・・。検査結果は?』

「一応大丈夫だったよ。
血圧低いとか、貧血気味だから食生活きちんとしなさいって言われたけど」

『それは良かった。
食生活に関しては私もメタボだと会社の健康診断で言われたばかりだよ』

「ヒロさんってお腹出てるの?」

『出てるよ。おもいきりおじさんだと思うよ?
由香ちゃん、もしかして何か勝手に格好いいと想像していたんじゃないかい?』

「うん、ダンディーな感じかなって」

『きっと由香ちゃんの想像と現実は相当に乖離していると思うね。
いやぁ想像って良いように変換してくれるものだ、ありがたい』

真面目な声でそんな事を言うヒロさんに、私は笑ってしまった。

あぁ、ヒロさんと話し始めてから私、ちゃんと笑えている。
私はヒロさんに聞いてみることにした。


「疑問なんだけど」

『うん』

「お局は何でわからないのかな。
どうしてあんな酷い事、言うのかな。
きちんと考えてみれば、相手がどう思うかなんて分かると思うのに」


疑問だ。
なんであんなにも身勝手な人間がいるのだろう。


私の投げた質問から少し間があって、そうだなぁ、とヘッドフォンからヒロさんの声がする。

『簡単にいってしまえば可哀想な人、なんだよね』

「可哀想な人・・・・・・」

『想像力、共感力っていうのかな、そういうのが欠落しているんだろう。
彼女の中では彼女の考えが正義で、彼女が自分の言動や行動をおかしいと思う事はまず無いんだ。
由香ちゃんは彼女からすれば、その、こういう言い方は良くないとは思うんだが、見下しやすい便利な相手だったんだよ』

少し躊躇したようなヒロさんの声に、私は、気にしないで話して、と伝える。
それは薄々というか分かっていたけれど気づき無かったことだから。

『彼女としては、自分は他の人より大変で辛い状況にいる、と言って他の人より上の立場になりたいんだ。
ところが由香ちゃんが予想外に苦労している事を知ってしまった。
それでは自分より上になってしまう。
だから、あの子は悲劇のヒロインぶってる、とか言って下になるように誹謗中傷しだすんだよ。
そうしないと彼女のプライドが傷つくからね』

「・・・・・・あぁ、うん、ほんとそうだと思う」

『そういう人間はね?
例えば家族を亡くしたばかりの人間に、早く立ち上がれ、弱い人間だとか平然と言う。
でもいざ自分がそういう立場になれば、それはもうこの世の終わりのように叫んで回るのさ。
何でだと思う?』

「初めて苦しみを知ったから?」

『そうだね、それもある。
でもそういう人間はそういう事があると、自分は特別な人間になれた気がするんだ』

「どういうこと?」

『こういう悲劇をうけた自分は特別なんだと、錯覚するんだよ。
だって、みんな優しくなるからね。
ある意味一気に注目を浴びる。
だから何をしても、何を言ってもいい、と思いやすいんだ。

そしてそれを周囲に当然のように振りかざす』

「身勝手じゃない、そんなの」

身勝手すぎる。
私はそんな事で注目を浴びたいなどと思った事は一度も無い。
むしろ目立ちたくなくてひっそりとしているつもりだ。

『ようはね、元々自分に自信が無いんだよ、彼女は』

「私だって無いよ?」

『由香ちゃんは自分の足でしっかり人生を歩いている。
その歳で色々な事を抱えているのに。

でもそういう人間は何か他人に胸を張っていられる事が無いから、自分に悲劇が起きた時、自分はとても可哀想な人であることが、自信になるんだよ』

「そんなの」

馬鹿馬鹿しい。

私は言葉を続けた。
なんで悲劇や悲しみが、自分に自信を持たせることになるのだろう。



「悲劇や悲しみで得る自信なんていらない」


周囲に言われるのだ、21歳とは思えない、しっかりしてるって。

自分で好きでこうなった訳じゃ無い。

生きて行くにはそうするしか無かっただけだ。

だから同じ歳の子が脳天気に遊んで、親のことを馬鹿にしたり、それでいて親の拗ねかじって生きている姿を見ると、自分は必死に生活をやりくりして、周囲の冷たい目にも耐えて生きているのが馬鹿馬鹿しくなる時だってある。


私だって、そちら側に行きたかった。


『本当だね・・・・・・』


これは経験したことのある人しか分からない事なのだろう。
ヒロさんの声はそういう雰囲気を感じさせた。




「お局、変わることは無いのかな」

『無理だと思うよ。
それにね、こういう時は相手を変えようではなくて、自分が変わる方が早い』

「だってむかつくんだもの」

『うん、むかつくね』

「それでも私が変わらないといけないの?
部署も私だけが変えられるんだって。
お局はそのままなのに」

『そりゃぁ会社としては移動して間違いなく文句を言う彼女より、若い由香ちゃんの方が変えやすいよね』

「あの人、仕事が凄く出来る人では無いのに、会社からすれば私より少し長く居るってだけで私は下になるんだね」

『よほど人を切ることに慣れてる会社じゃなければ、どの会社でも無理だよ』


「結局私が変わらないとダメなんだ。
なんか納得いかない」

間違いなく彼女の方が間違っているのに。

お局のことを本当は嫌がっている人も多い。
でも誰も何も言わない。
波風をこれ以上立てないように、やはり自分が変わるしかないのだろうか。

『例としてはあまりよくないけど、この道を進みたいのに目の前に大きな穴がある。
向こうに行くには遠回りの道しかない。
由香ちゃんは目の前の穴を埋める方を選ぶ?
それとも遠回りになるけど穴の空いていない他の道に行く?』

「そりゃ他の道行くけど・・・・・・」

『納得出来ないのはわかるよ。
でもね?先に進むには、そういう相手をかわすことも必要なんだ』

「結構色々頑張ってるけどな」

『そうだね由香ちゃんは頑張ってる、十分なくらいに』

わかっている。
今までそうして生きてきたのだ。
正面から訳の分からない人間にぶつかっても意味が無いことぐらい。
でも何度も何度もこちらが耐えたり頑張って道を変えれば、愚痴くらい言いたい。


「こういうのをね、友達には話せないの」

『うん』

「最初はあんなに何でも話してって言ってたのに、しばらくするとまだ落ち込んでるの、って面倒そうなのがわかりやすく伝わってきて」

『私の時もそうだったよ』

「やっぱり?」

『入院先に会社の人事部の担当者が、ところでいつ復帰ですか?って聞きに来たよ、体重が落ちて点滴でなんとか生きてた私を見ながらね』

「殴ってやりたい、そいつ」

『ありがとう』

はは、という笑い声に、どれだけの苦しみをヒロさんは一人で乗り越えて来たのだろうと思った。

「きっと会社に戻っても、またお局、私の悪口を言いふらしていそう」

『うん、その可能性は高いね』

「どうしたらいいかなぁ」

『どうもしなくて良いよ。
あぁいう人間とは関わるべきじゃない。
ひたすら接触は最小限に。
せっかく部署も変わるんだし。
嫌な話が聞こえてきたら、可哀想な人だなって心底哀れめばいい』

「そっかぁ、それしかないのかぁ」

結局私がまた我慢し、かわす日々が始まる。

でも今の会社は私の学歴にしては給料は悪くない。

これがせめて短大でも出られていたら違ったのだろうが、うちの財政状況では諦めざるをえなかった。

ふと入院するときのことを思い出した。

「そうそう、入院した時、身元保証人書けって言われたの。
家族も親戚も誰も居ないって言ったら、看護師さんがかけあってくれたみたいで無しで済んだよ。
今度入院する時も言われるのかな、ダメだと入院できないのかな」

『あぁ、昔よりは厳しくなくなったなんていうけど、病院も金を取りっぱぐれたくないから、保険が欲しいのはわかるんだけどね』

「その人が払うとは限らないじゃない」

『書かせることに意味があるんだよ』

「変なの」

『昔からのやり方をそう簡単には変えられないからね』

私は側に置いていたコーヒーを飲みながら、その後もひたすらヒロさんとしゃべった。

今日は一時間だから沢山話せるなんて始まる時は思ったけれどあっという間。
結局終わりに感じる、この寂しさはいつでも一緒だ。
むしろ回数を重ねるにつれて大きくなっている。



『そろそろ時間だね』

「うん・・・・・・」

『そろそろ残り回数もわずかだよね』

「うん。またヒロさんを指名出来れば良いのに」

『ここは同じ人間は二度とスタッフとして対応しないようになってるけど、それが良いんだよ。
あくまでここはお茶でも飲みながらスタッフと話して一休みする場所だからね』

「うん・・・・・・」

『ほらほら、これが終わったら早く寝るんだよ?』

お父さんがいたらこうやって注意してくれるものなのだろうか。

「寝る、多分」

『困った子だね』

こうやって困ったような声が聞けるのが嬉しい。
親を困らせたい子供というのはこんな感じなのだろうか。
困らせて、それでも構ってくれるとその愛情を感じるために。

だけれどここは金銭で成り立つ場。
親が子に示す愛情では無い。
わかっているからこそ、その優しさが寂しい。

「なるべく早く寝るよ。
じゃぁまたね、お父さん」

『あぁ、お腹を出さないで寝るんだよ。
風邪なんて引いたら心配で眠れなくなるからね』

少し笑いを含んだ声で、通話は切れた。



私はヘッドセットを頭から外し、コーヒーの入ったマグカップを持ち、一口飲んだ。

終わった後は満足感と、そして寂しさがいつも襲ってくる。

あくまでここはカフェ、休憩する場所。
ずっと居座る場所では無い。

わかっていても、この寂しさは簡単に消えなかった。


*********


週が開けて月曜日、私は違うフロアの違う部署に異動した。
そこは初めて移動した部署で男性が多く女性の人数は少ないのだが、男性と肩を並べバリバリ仕事をしていた。
以前の妙にだらけモードで女性ばかりでつるんでいた部署とは違いすぎて驚く。
でもこの新しい部署は変な女性同士の気遣いが不要で仕事に打ち込めば良いので、本当に気が楽だった。





しばらくして残業のあったある日、部署に残っている人達にお茶でも出そうかと他の残業している数名にリクエストを聞いて給湯室に向かっていた時のことだった。

「渡辺さんって子、そっちの部署にいるんでしょ?」

突然耳に飛び込んできたのは、あのお局の声だった。

なんで前の部署とは全くフロアの違うここにいるのだろうか。
私は慌てて、声だけ聞ける場所に身を隠した。

「あの人、私に酷い事して飛ばされたのよ、聞かされてる?
聞かされてないわよね、そっち大丈夫なの?」

呆然とした。

お局が話しかけている相手は同じ部署の女性だった。

新しくこの部署でやっていけるかと思ったのに、こんな事が起きていたなんて。

「大丈夫って何が?」

部署の女性が不思議そうに返している。

私は怖くて仕方なかった。
どうしよう、お局のせいで誤解されてしまうのでは無いだろうか。
自然と身体ががたがたと震えていた。

「なんていうの?あざといじゃない、あの子」

その言葉に、私は手を握りしめ、給湯室の外で固まった。

何もあざといことなんてしたことないのに!

どうして、どうしてあの人は私をそんな風に嫌うの?!


苦しさで俯いた時、目の前に男性の靴が見え、私は驚き顔を上げた。

そこには同じ部署で私より年齢が上の男性が人差し指を口に当て、給湯室の入り口から死角になっているこの場所で給湯室に視線を向けた。


私は怖くなった。

お前の事は知っているぞ、酷いヤツなのだろう、という証拠でも押さえたいのだろうか。
もうこの会社にいる人全てが私の敵、私の事を嫌っているように思える。
だって、私を守って得する人はきっと誰もいないのだから。


「あざとくなんかないわよ、ほんと素直で良い子よ?渡辺さん」

私は顔を上げた。

同じ部署の女性の言葉が私には信じられなくて、聞き間違いかと思った。


「まだ移動してきたばかりだもの、あの子の本質はわからないわよね。
騙されないでって言いたかっただけ、心配だから」

「あら、私、人を見る目はあるのよ?
ところで何の用事でわざわざこのフロアに来たの?」

「え、あぁ、あの子が私の悪口を勝手に言いふらしているじゃないかと気になって。
言ったでしょ?あざとい子だから。
親に捨てられて、家族もいないってお涙頂戴の迫り方してたら困るでしょ?」

「ふぅん、何も聞いてないわよ。
それに彼女のプライバシーを簡単に話すのもどうなのかしら。
で、用が終わったんならもういい?
私飲み物作りに来たんだけど」

「え、えぇ。
とにかく気をつけてね」

呆然としていたらその男性につつかれ、給湯室から出てくるお局に会わないように一歩下がった。

顔は見えなかったが、遠ざかる彼女の足音から非常に不機嫌だということがわかった。



「渡辺さん」

「あっ、はい!」

未だ起きたことが信じられなくて途惑っていると、その男性から声をかけられた。

「ごめんね、僕の分のお茶もお願い出来る?」

そう言って彼は笑った。

「・・・・・・はい」

私は何故か涙が溢れていた。

あのお局に酷い事を言われても泣かなかったのに。


そこに給湯室から先ほどお局と話していた女性が出てきて、私が泣いているの見ると驚き、男性に泣かせたのかと問い詰めだした。

私は慌てて理由を話した。
何もその男性は悪くないと。
そして二人に向き合うと、

「ありがとうございます」

と頭を下げた。

だって嬉しかったのだ。

「お礼言われることなんてしてないわよ?」


そういって軽快に笑う女性を見て、私はまた涙が溢れてきた。
それを見て、その女性が苦笑いして私の背中を撫でてくれた。
その手は服越しなのに温かさが伝わるようで、私は泣きそうになりながらまたお礼を言った。

まさかこんな事が起きるなんて思わなかった。
たった部署が移動したくらいで何かが変わるなんて。

私はようやく何かが動き出した気がした。


*********


『良かったねぇ』

「うん」

私はあの奇跡のような話をヒロさんに真っ先に報告した。
かなり熱っぽく話してしまい、喉が渇いてしまうのも忘れて話した。

宿り木カフェの回数券は残り2回。
せっかくなので1時間にして今日で最後にすることにした。
二回会えるチャンスを一回に決められたのも、会社での出来事が大きかっただろう。

「他の部署に異動したことは以前もあったし、別に部署が移動してどうこうなるなんて思ってなかった」

『それは珍しい方かもね』

「あの後も、部署の人優しいの。
怖いなって思った男性も、話すと優しくて」

『おや、気になる人でもできたかな?』

からかうような声に、私は本音を言った。

「気になる人はできたけど、でもね、やっぱり怖いの」

『怖い?』

「お姉ちゃんの事があったから」

『あぁ、そうか・・・・・・』

姉のことがあってから、男性というものが正直言えば信用出来なくなっていた。
姉も最初は優しい人だと言っていたし、法廷で見た最初の印象はとても暴力をふるいそうな男には思えなかった。
優しい人だと信じても、急に変わることだってあるのかもしれない。
そう思うと、結婚、いやそもそも彼氏を作ることも怖くなっていた。



『由香ちゃんは私をどう思う?』

「どうって?」

『優しい?怖い?』

「もちろん優しいよ!」

断言した。

こんなにもわかり合えた人は初めてだ。
そしてこんなに気持ち良く話せた人は初めてだった。

『もしかしたら、これは全て演技だと思った事は無いの?』

「えっ?」

急に思っていないことを言われビクリとする。
声がいつになく低く、冷たいように聞こえ、私は不安になった。

だってそんなこと思いもしなかったから。

こんなに何度も話したんだ、ヒロさんが演技をしている訳が無い。
そう思うのに、そんな風に言われたら自信が無くなってきてしまう。
だって私には人を見る目なんてものを持っているかなんてわからない。

『由香ちゃんはまだ若い。
お父さんもいなかったし、お姉さんの事もあるから、あまりに男性を見る目というか判断する材料や経験が少なかったり偏ったりしすぎていると思う』

「うん・・・・・・自分でもそう思う。
なんかもう私、一生一人で過ごしてもいいや」

あんな怖い人にひっかかる可能性があるのなら一人の方が良いと思う。
あのしっかりしていた姉ですらあんな酷い男を選んでしまったんだ、私にはまともに選べる自信が無かった。


『・・・・・・私はね、再婚しようと思っているんだ』

「えっ・・・・・・」

突然の話に私は言葉を失う。

再婚?

それってあんなに大切だと言っていた亡くなった奥さんを捨てるってこと?

『会社で知り合った人なんだけどね。
彼女は中途採用で私よりかなり若いけど、彼女のひたむきさに気がつけば心を動かされてしまって。
以前から交際を申し込んでいて、やっと少し前にOKをもらって交際を始めたんだ』

さっきからヒロさんは何を言っているの?
そんな事をして、奥さんの記憶は、奥さんへの愛はどうなるの?

『もう年齢も年齢だし、彼女との事は曖昧にせずに早くきちんと結婚について話をしようと思ってる』

「・・・・・・奥さんは?亡くなった奥さんは?
あんなに素敵な人はいないって私に話していたのは嘘だったの?!」

『いや、本当だよ』

「なんでそんなに大切だった人を忘れて他の女性を好きになれるの?!
おかしいよ!奥さんが可哀想だよ!!!」

「由香ちゃん・・・・・・」

裏切られた。

裏切られたんだ、私は。


同じ苦しみを味わって、そして私の事を理解してくれる人に出逢えたと心を許していたのに。
しかしヒロさんは私に妻のことが大切だと言いつつ、裏では他の女性を愛していたなんて。

本当だ、私に男性を見る目なんて全くないじゃない。
信用して心を開いていた相手からの裏切りにあうだなんて。
ここは心を休める場所じゃなかったの?

酷い。
ヒロさんも私を本当は見下したりしていたの?
人を愛せない可哀想な子だって。

私はそんな気持ちが溢れて飲み込まれそうだった。


『由香ちゃんは私が妻以外の他の人と結婚するのは反対なんだね?』

「当たり前じゃない!」

『それは私が幸せになることに、怒りを覚えているって事かな?』

ゆっくりというヒロさんの言葉に、私の思考が止まる。

ヒロさんが幸せになることに私が怒りを覚えている?
まさかそんな。
私が怒りを覚えているのは、あんなに大切だった奥さんを捨てることだ。

「違う!
ヒロさんが奥さんを捨てることだよ!」

『捨てるなんて事は無い。
私は亡くなった妻だって今も愛しているよ』

「そんなの嘘!」

『私はずっと亡くなった妻を抱えたまま、一人で生きていかないといけないのかい?』

その言葉にはっとする。

混乱している頭を必至に落ち着かせ、ヒロさんの言葉を考える。

あぁそうか、私はヒロさんには亡くなった奥さんだけを思って生きて欲しかったんだ・・・・・・。

ずっと苦しみを、悲しみを抱えたままで。

私を理解してくれる、私の理想の人のままで。


そんなことを言われるまで、私が深いところでそう思っていたなんて気がつかなかっただろう。


『由香ちゃん。
君は、私がずっと妻だけを思い、悲しく生きて、それでも前を向いて歩く人であって欲しいのだと思う。
それは理解出来る。
私も妻を亡くした後は、もう誰も愛せないと思っていた。
けど時間が経つに連れ、妻を忘れるのではなく、覚えたままでも進めたんだ。
だがこれは私が妻を交通事故で亡くしたからかもしれない。

由香ちゃんのように、お姉さんを殺されたり、お母さんが自殺したりという、私より遙かに若い時に遙かに大きなものを味わった君とは比べることは出来ない』

静かに話すヒロさんの声を、私は少しぼんやりと聞いていた。

『実は友人の一人にこの事を打ち明けたんだ』

「・・・・・・うん」

『同じように、裏切られた、と言われたよ』

「え?」

『お前はずっと彼女だけ思って必死に頑張ってると思っていたから、助けようと思えた。
でもその端では他の女を考えていたんだな、自分だけ幸せになるつもりだったんだなって』

言葉がない。

しかしそれはさっき私によぎったものと同じだ。
そう、なんでヒロさんだけ幸せになるの?と思ったのだ。

『彼からすれば、可哀想な私が良かったんだ。
それを助けている自分が良かったんだろう。
もちろんそれが全てだとは思っていないんだけどね。
遺族ならずっと悲しんでいるべきだという固定概念もきっとあったのだろう。
まぁ仕方のないことだ』

その声はとても寂しそうだった。
きっと、ちゃんと進めているのだと、ただ喜んで欲しかったのに、そんな風に返されて、ヒロさんはどんなに傷ついただろう。
私も先ほど言ってしまった、同じような事を。

お祝いすべきなんだろう、でもそう簡単には気持ちが切り替えられない。


『由香ちゃん』

「・・・・・・うん」

『君はまだ若い。本当に若い。
なのに他の人が味わわないほどの悲しみと苦労を経験してきた』

「うん」

『でもね、自分で悲劇のヒロインになってはいけない』

「そんなつもりないよ!」

『自分ではね。
でもね、自分で幸せになるのが怖い、今までの自分が変わるようで怖い、というのはあると思うよ』

どうなんだろう。
そんな事を考えた事が無かった。
ずっと私はこれ、だったのだから。

『きっと部署も移動して君には新しい風が吹き出した。
それをただそうなのだ、で済ましてははいけない。
もっと良い方向へ、君自身からも歩いて行かないと。
これまで、生きていくのにただ必至だったと思う。
でもこれからは自分を大切にして、幸せになる道を頑張って探して歩き出して良い頃だと思うよ』

「そんな」

『怖がってはいけないよ、由香』

少しだけ厳しい声。
私は初めて聞くヒロさんの声にびくりした。


『いいかい?
こんなネットの世界で少しの時間だけ巡り会ったけど、もしかしたら、私は君の背中を後押しするために、お母さんやお姉さんから託されたのかも知れない。
お父さんの代わりに叱って欲しいと。
そういう風に考える事は出来ないだろうか』

「お母さんと、お姉ちゃんが?」

『心配するのは当然だ、大切な娘、妹のことが。
こんなにも由香は良い子なんだから』

段々いつもの優しいヒロさんの声が耳に届き、私は涙が出てきた。

「私のせいで成仏できてないのかな」

『そういう訳じゃ無い。
私なら家族として心配で仕方ないだろうと思ったんだ』

「心配されてるのかな」

『もちろん』

間髪入れず、自信を持ったヒロさんの声に、何故か笑ってしまった。

「私、自分の幸せとかあまり考えたこと無かったの。
むしろ幸せなんて無いと思ってた。
辛いことばかりだし、なんか一杯一杯で」

『そうだよね』

「でも・・・・・ヒロさんですら若い彼女が見つかるのなら、私も誰か、見つかるのかな」

『何気に酷い事を言われてるねぇ。
でもね?案外人は見てる。
この私にも由香ちゃんは本当に良い子だとわかる。
だから、せめて一歩、自分だけのために、我が儘だなと思う事をしてごらん。
由香ちゃんはきっとそれくらいでも足りないくらいだ』

「そんなに褒めても何も出てこないよ?」

『私は正直に言っているだけだよ』

笑いを含んだ声に、私は何だかさっきわだかまっていた気持ちが少しずつ和らいでいた。

『これで由香ちゃんともおしゃべりも終わりだね』

時計を見ればあとわずか。
これで私はもう二度とヒロさんと言葉を交わせなくなる。
苦しいけど、後悔しないようにしなきゃいけない。
ヒロさんが進むその背中を少しで追いかけられるように。

「私、ヒロさんに出逢えて良かった」

ただ素直な気持ちを伝えた。

『私もだよ。
娘がこんなに可愛かったら、正直、結婚して欲しくはないな』

ため息混じりに言われ、私は笑う。

「ヒロさん」

『うん、ありがとう』

「幸せになってね」


『うん。
由香ちゃんも幸せになるんだよ』

「あのね」

『ん?』

「最後はいつもの親子ごっこじゃなくて、普通に終わりたいの。
良いかな」

『うん・・・・・そうだね、そうしよう』

「・・・・・・ヒロさん、お休みなさい」

『うん、お休み。
由香ちゃん、幸せになるんだよ、目一杯ね』

「・・・・・・はい!」

少し震える手でマウスを握ると、私から通話終了ボタンを押した。

名残惜しい気持ちでヘッドフォンを外すと、少しだけ目が潤んで画面がぼやけてきた。
もうあの人と話すことは二度と出来ない。
母と姉がきっと巡り合わせてくれた人。
その人が幸せになれという言葉は、母と姉の願いなのかも知れない。

「とりあえず、今度のお休みにウィンドーショッピングでもしてみようかな」

私は、母と姉の仏壇に今日の出来事を報告に行こうとパソコンの電源を切り、椅子から立ち上がった。