男装喫茶部の活動は加熱していた。
 各々が学内演劇の主演の座を勝ち取るため、放課後の喫茶室は連日予約でいっぱいだった。表向き堂々と喧伝できないことから、自然とリピーターへの招待状という形がとられた。
 夜半月七夏扮するナナがその日の業務を終え、片付けをしていると水景が現れた。

「お疲れ様。最近頑張ってるじゃん」
「ん〜? そうだね」
「なにかきっかけでもあった?」

 水景は露骨に探りを入れてくる。

「別に〜」

 七夏からしてみれば、水景に打ち明ける義理はなかった。

(淑乃ちゃんは頑張り屋が好みのタイプだって言ってたもんね。淑乃ちゃんを手に入れるまではいつもより頑張っちゃおうかな)

 途方もない永遠の努力に比べれば、期限付きの努力は簡単なことのように思えた。

(でも、淑乃ちゃんも主演狙いに参加してるんだよね。本気出したあたしが急に人気出て主演になっちゃったら、淑乃ちゃんは困るのかな?)

 元芸能人である七夏には、少し本気を出せば他の候補者に勝てるという自信があった。

(そもそもどうして淑乃ちゃんは主演狙いに参加したんだろう……?)

 男装喫茶部の活動にも当初否定的だったあの淑乃が、男装の主演の座を狙う意図が七夏には分からなかった。



「わたし、夜半月先輩には負けません」

 七夏にとってそのライバル宣言は、不意打ちでしかなかった。
 それは金曜日の放課後のことで、帰宅しようとしていた七夏が今から喫茶室業務に向かうところだったらしい白砂樹里亜と鉢合わせした階段での出来事だった。校舎の一番端に位置するこの階段は人通りが少ない。

「……あたしが相手なの〜?」

 正直言って、淑乃に夢中な七夏からしてみると樹里亜はただの後輩であり、意識の外からの投げかけにただただ驚いた。確かに人気急上昇中のジュリは主演狙いのダークホースだと思えたが、敵視するほどの相手ではないと思っていた。要するに、「淑乃ちゃん以外の有象無象の一人」でしかなかった。

「そうです。学内演劇のことですけど――いえ、それだけじゃないですね。波止場先輩の隣に立つのは、わたしです」
「? なんのこと?」

 七夏は首を傾げた。隣に立つ、とはどういうことだろう。そのとぼけた態度が樹里亜の神経を逆撫でしたのは言うまでもない。樹里亜はいつになく苛立ちの色を声に滲ませて答えた。

「世界でいちばん波止場先輩のことを愛しているのはわたしです!」

 その必死さは、七夏には伝わらなかった。数拍置いてようやく、七夏は納得する。そういえば自分と水景は「お似合いの絵になる二人」なのだった。樹里亜は七夏と水景が恋愛関係にあるのではないかと誤解しているらしい。

「……あ〜。あたし、別に水景とは付き合ってないけど……」
「でも……」

 本人が否定するのに樹里亜はなぜ食い下がるのか。七夏には心当たりがあった。

「水景の方はあたしのこと好きなんじゃないかってこと?」

 七夏の他人事すぎる言い方に樹里亜は眉をつり上げる。

「分かってるなら振ればいいじゃないですか!」
「あたしに言わないでよ〜。水景は聞き分けの悪い子なんだよ」
「そんな言い方……!」

 問答に飽きてしまった七夏はくるりと背を向ける。

「あたしは別に水景のこと好きじゃないし、水景と付き合うつもりもないから白砂さんの勝手にしてよ」

 なにか言おうとする樹里亜を躱し、七夏はその場を立ち去った。
 まだ明るい午後の帰路、七夏は白いセーラー襟の胸元を彩る深紅のリボンタイに触れた。すべらかなシルクで織られたそれは、七夏にとって大切な宝物だ。

(淑乃ちゃんのリボンタイ……こっそり交換しちゃったけど、きっと気づいてないよね)

 淑乃が喫茶室業務の後にティーカップを取り落としたあの日――七夏は既に、一人でリボンの誓いを果たしていた。つまり、淑乃本人には無許可で互いのリボンの交換を行っていた。

(淑乃ちゃんの胸元にあるリボンは実はあたしのだなんて――ちょっとロマンチックじゃない?)

***

「今日はありがと! また来てくれると嬉しいな」
「はい、ジュリくん。私もまた、ジュリくんとお話ししたいです」
「待ってるぜ〜」

 本日の来客の退室を見送り、ジュリは片付けを始めた。

(今日のお客さんも『城ケ崎先輩』の話をしてたな……そんなに有名な人だったのかな)

 テーブルの上を整え、ジュリは食器を運んで部室近くの給湯室で洗い物に着手した。
 城ケ崎先輩の話は、日記ノートには記していない。今のところ共有が必要なことだとは思わなかったからだった。

(樹里亜は城ケ崎先輩のこと知ってんのかな)

 本日の来客から聞いた城ケ崎先輩に関する情報。どうやら彼女は「モテ散らかしては彼女をとっかえひっかえする恋多き人」だったらしい。

(いったいそのうち何人が本気の恋の相手だったんだろうな)

 確かに女子にモテたり、ちやほやされることは気分がいい。ジュリにとって男装喫茶という活動は楽しいものだった。自分が表に出られる貴重な機会だったし、大事な心に踏み込まれぬよう、適度にはぐらかして距離を取り続ければ恋愛の煩わしさも味わわずに済んだ。
 だからといって恋人をコロコロ変える城ケ崎碧の心境には共感できない。

(本気の恋か。樹里亜は波止場先輩とやらにお熱だけど、それは本気なんかな)

 樹里亜と水景の会話を直接目の当たりにすることは叶わない。だから、身体を共有する同居人がどれだけ波止場水景を愛しているのか、その恋は真剣なものなのかは計りかねた。伝聞系でしかその様子を窺い知ることのできないジュリからすると、樹里亜が水景へ抱く好意は一過性のもののように思われた。例えるならば、薬を飲んで眠れば治ってしまう風邪のように。

(俺の本気の恋は――)

 ジュリが洗い物を終えて蛇口を閉めると、背後の気配に気づいた。振り向くとそこに立っていたのは、磐井れおなその人だった。

「ジュリくんおつかれ〜! こっそり近づこうと思ったのにバレちゃった」
「……ちわーす、れおな先輩……」

 れおなは肩で切り揃えたボブカットの髪を軽やかに弾ませながらジュリの目の前まで近づいてきた。ジュリの鼓動は早鐘を打つ。もう一人と共有された身体とはいえ、今高鳴る心臓はジュリのものだった。

「業務終わったとこ? 最近頑張ってるね〜」
「まあ、演劇に立候補したんで……」

 正確には樹里亜が、だが。それでも部活動が盛んになれば自分の出番は増えるので、ジュリにとって損なことではなかった。

「れおな先輩は、なんで主演狙ってるんすか? 波止場先輩のことも応援するって言ってたのに」
「おやおや、それはジュリくんもでしょ?」
「俺っていうか……樹里亜がだけど」

 しかも樹里亜は主演ではなく、水景との共演狙いだという。

「ふふ、それぞれ事情があるんだね」
「れおな先輩の事情は?」
「秘密だよ〜」

 いたずらっぽい笑みを浮かべ、れおなは自らの口元に人差し指を押し当てる。どうやら男装喫茶部は秘密の多い集まりらしい。

「……れおな先輩は、主演争いに負けたら悔しい?」
「ん? そうだね〜。今まで頑張ってきたことは無駄じゃなかったって思いたいもんね」
「……」

 れおなはときどきこうして静かに微笑むことがある。背の低い彼女を見下ろすと、きれいな髪の流れや長くカールした睫毛が印象的で……ジュリはドキドキせずには居られない。

「ん? どうしたの、ジュリくん」

 じっと見つめられていることに気づいたれおなは顔を上げ、上目遣いでジュリを見る。

「れおな先輩、俺……」

 そのかわいらしさに余計なことを口走りそうになったとき、れおなは遮るように言葉を発した。

「あ! ジュリくん、地毛がはみ出てる!」

 れおなはジュリのウィッグから地毛がこぼれていることを指摘した。

「どれどれ、れおな先輩が直してあげようか?」
「いや……いいよ。今ウィッグ外されたら、樹里亜と交代しちゃうんで。前後不覚になったられおな先輩も困るでしょ」
「そっかー! また今度髪のまとめ方教えてあげるね」

 手を振ってその場を後にするれおなを見送り、ジュリはため息をついた。

「俺、なんか距離取られてる?」



 慌ただしい一週間が過ぎていった。
 学内演劇主演争いの投票期間は残り7日となり、男装喫茶部の面々は少なからずそわそわしていた。土曜日のミーティングを除き、一堂に会することのない部員たちではあったが、廊下や食堂ですれ違うとき互いの間には奇妙な気まずさが生まれた。
 とはいえ学生の本分は勉強であり、11月に控えた定期試験前の校内にはそれでなくともピリピリとした緊張感が漂っていた。

「あー、今回の英語ヤバいかも! マジ分かんない!」
「先生捕まらん! 質問したいところあんのに……」
「ねえ川嶋さん、ここ分かる?」

 不意に話を振られ、淑乃は呼ばれた方へ顔を向けた。

「はい?」
「次のテストの範囲の英語! 教えてくれない? このページなんだけど……」
「ああ、それでしたら……」

 淑乃はさらりと要点をまとめて伝える。

「ありがとう! 助かった〜!」
「いえいえ」

 何度も頭を下げる級友に、大したことはないと手を振って応える淑乃。

「実はさぁ、川嶋さんってちょっと近寄りがたい人かな? って思ってたんだよね」
「ちょ、それ言う必要ある? ごめんね川嶋さん、この子遠慮がなくて」

 淑乃は愛想笑いを浮かべたまま二人の話の流れを待つ。

「でもね! 話してみたらそんなことなかった! まあ話しかけようって思ったきっかけは、最近の川嶋さんのテストの順位見て、教わりたいな〜って思ったからなんだけど……」
「お役に立てて光栄ですわ」

 そう言われては悪い気はしない。

(わたくしが勉強を頑張ろうと思えたのは、磐井さんのおかげですわ)

 親に指示されてやるよりも、自らの意思で勉学に励む方が楽しいし身についた。その動機を与えてくれたのは、他でもない磐井れおなだった。

(磐井さん。わたくし、必ずやあなたの隣に立つのにふさわしい自分になってみせますわ)

「ところでさ。そんな川嶋さんに折り入ってご相談なんだけど……」

 れおなへ想いを馳せていた淑乃は、眼前の級友へ意識を戻した。

「なんでしょう?」
「よかったら今日の放課後、一緒に勉強会しない?」
「それは、ぜひ――」

 喜びのあまり、言葉だけが先走った。慌てて口を噤む。

「……ぜひ、ご一緒したかったのですが。今日は生け花のお稽古で……」
「そっか、残念」



 淑乃は送迎の車の中、ぼんやりと窓の外を眺めていた。下校中の清花の生徒たちも多く、彼女らは友人同士で楽しそうにおしゃべりをしながら歩いている。

(せっかくクラスの方が誘ってくださったのに、残念ですわ……)

「お嬢様、お疲れですか?」

 不意に運転手から声をかけられる。憂鬱が顔に出ていただろうか、と淑乃は微笑みを作った。

「少しだけ。テスト前の学校は慌ただしいですから」
「左様でございますか。ご帰宅されたら紅茶を入れさせましょう。ご希望があればお伺いいたしますよ」
「では、ヌワラエリヤで」

 家族や使用人に不満があるわけではない。彼らは淑乃を尊重してくれている。だからこそ我儘は言い出せなかった。今日は、お友達と勉強会をしてきますから遅くなりますの――たったそれだけのことが言えない。

(わたくしのために予定を用意してくださるお稽古事の先生にも悪いですし……仕方のないことだったのですわ)

 帰宅すればすぐに希望の紅茶が出てくる。飲み慣れたそれを味わいながら、淑乃は考え事をしていた。

(磐井さんはどんな茶葉がお好きなのでしょう。ミーティングの日にさりげなく聞いておけばよかったですわ)

 初恋に浮かれる淑乃の頭の中は、気がつくとれおなのことでいっぱいだった。
 淑乃が自分の気持ちに気づくとき、れおなは「女の子が女の子を好きだと思うことは変なことじゃない」と言っていた。だから、女性である自分が女性であるれおなに対して恋心を抱くことに、これといった疑問や引け目はない。

(ですが、わたくしが分かっているからといって、周囲の人も理解を示してくれるわけではありませんわ……)

 少子化や種の保存、法律といった要素を振りかざしてはなにかと頭ごなしに否定してくる人は居る。

(法で決められたからといって、同性の人を愛する方は「じゃあ諦めて異性と結婚して子供を作ります」とはなりませんわ。隠れてひっそり暮らすか、太陽の下を笑って歩けるかが変わるだけで……それならば、差別のない世界で幸せに生きられる人が増える方がよろしいのではなくて?)

 そうは思っても、他人は簡単には変えられない。

(わたくしが無力だからいけないのでしょうか。磐井さんなら、世の中の価値観をひっくり返せるのかしら……)

 事実、淑乃はれおなによって変えられた。価値観を、生き方を。淑乃なりに多様性について調べたし、れおなに憧れて自己研鑽に励んだ。

(人生には重要な出会いが三度ある、と言いますけれど。わたくしにとってそのうちの一つは、磐井さんと出会えたことなのでしょう)

 無知だった頃の淑乃は、少数者とはどこか遠慮がちで常に世の中に対して罪悪感を抱いているものだと思い込んでいた。実際の彼らはそうではなくて、ただ日々を生きているだけの等身大の普通の人々だった。今の淑乃がれおなを愛することに後ろめたさを感じることなどないように、自身がおかしな存在だと思って生きているわけではなかった。そういうものなのだと、もっと多くの人に伝えたかった。

(わたくしも、世界を変えられたら……)

 考え事の途中で、ノックの音が響いた。

「どうぞ」

 淑乃が許可すると、使用人が入ってきた。

「お嬢様、時間でございます」
「ええ、今行きます」

 和室へ赴くと、華道の先生は既に到着していた。和服に身を包む老齢の彼女は、淑乃と目が合うとにこりと微笑む。

「淑乃さん、こんにちは」
「ごきげんよう、先生。本日もよろしくお願いいたします」

 淑乃も慣れた様子で支度をする。不意に、先生の方から切り出した。

「聞きましたよ、淑乃さん。珍しいことになりましたね」
「え? なんのことでしょうか」
「婚約の件ですよ。淑乃さんも16歳でしたね」
「ええ……そうですね」

 苦手な話題に、淑乃は緊張した声色で答える。

「以前から決まっていたことなのに、変わったことになったんだなと思ったんです。――人望を集めた生徒が務める、学内演劇の主演。それは自立への第一歩だと。淑乃さんが主演を勝ち取ったら、婚約の件は延期になるのでしょう?」
「――はい。そういう約束なのですわ」

 淑乃は、曇った顔で肯定した。