扉を叩く音がする。手櫛(てぐし)で髪を整え、『彼女』は『彼』へと切り替わる。硬い木製の床を歩けば、(かかと)の音が高く鳴る。ギィ、と重たく(きし)む扉を開けて、『彼』になった『彼女』は来客を迎え入れる――。

「ようこそ、男装喫茶ベラドンナへ」



『男装喫茶ベラドンナの親密な関係』


 セーラー襟の黒い制服姿の来客は、不慣れな様子で金髪の彼を見上げた。

「えっと、はじめまして……」

 金髪の彼――男装喫茶の一員たる人物は、白いジャケットの首元を窮屈そうに触りながら微笑みを浮かべる。当然そこに喉仏はない。

「予約してくれていた松田香織さん。合ってる?」
「は、はい。松田です。今日はよろしくお願いします」

 香織は緊張した面持ちで金髪の彼にぺこぺことお辞儀をした。

「俺はミカ。香織ちゃんって呼んでもいい?」
「はい」
「では香織ちゃん。お手をどうぞ」

 ミカが手を差し伸べると、香織は恐る恐る彼の手をとった。
 香織は改めて周囲を見渡す。ここは私立山手清花(やまてせいか)女子学院の敷地内にある、旧聖堂だ。数年前に保護者から莫大な寄付金を受け取った学園は老朽化した聖堂――つまりこの場所を見かねて新たな聖堂を建てた。お役御免となったここ旧聖堂が取り壊しになる日も近い。

「あの、ミカくん。ここって生徒の立ち入りが……」
「特別な許可を得ているから、大丈夫」

 香織が言い終わるより前に、ミカはそう答えた。

「あ……そうなんですね」
「香織ちゃん、ここに入って」

 ミカに促されるまま、香織は小さな部屋へ入る。普通の教会であれば懺悔室と呼ばれる場所だ。
 懺悔室かと思われたその場所は、オレンジ色を帯びたシャンデリアの光で明るく彩られており、中央には上質な白いクロスの掛かったテーブルが配置されていた。部屋の中でゆったりとしたジャズのレコードが回っており、香織の緊張を和らげてくれる。

「あ、あとこれ。お菓子、持ってきました」

 香織はミカに菓子折りを差し出す。直接の金銭のやり取りを避けるため、この男装喫茶でのお代は菓子の差し入れというルールになっていた。ミカは菓子のパッケージを見るなり目を輝かせる。

「ありがとう! 俺の好きなお菓子屋さんのじゃん、よく分かったね?」
「そんな、たまたまです。デパ地下で一番人気のものを持ってきました」
「なるほどね。今紅茶を入れるから待ってて」

 アンティークの椅子に腰掛けて香織が待つこと数分、ミカは白磁のティーセットを持って戻ってきた。差し入れの焼き菓子は綺麗に皿に盛り付けられている。

「本日の紅茶はキームンだよ。バターがたっぷり入った焼き菓子によく合うんだ」
「そうなんだ……ミカくんはさすがに詳しいですね」
「二杯目はミルクティーにしよう。二度楽しめるいい茶葉だよ」

 ミカのやわらかい語り口は香織を安心させ、徐々に会話が弾んでいった。日常のとりとめのない話をしていくうち、香織はふと疑問を投げかけていた。

「ミカくんって、モテるんじゃないですか?」
「ん? どうしたの急に」
「や、普段から目立つから……はとばせんぱ、」
「香織ちゃん」

 ミカは香織の唇に人差し指を押し当てて話を止めさせる。

「それは今は言っちゃいけないんだ。ごめんね?」
「あ……すみません。……えっと。つまり、ミカくんはお付き合いしている人とか居るのかなって……」
「ああ、そういうこと」

 ミカは香織の頭を撫でて優しく答える。

「お付き合いしてる人は居ないよ。それに、この時間は香織ちゃんが俺を独り占めする時間」
「あわ……」

 香織の頬はたちまち真っ赤になる。

「そ、そうですよね! 変なこと訊いてすみません!」

 照れ隠しに二杯目の紅茶を口に含むと、スモーキーな味わいが広がる。

「ほんとに美味しい紅茶……」
「あはは、それはよかった」

 その後は時間いっぱいまで歓談を楽しみ、名残惜しい気持ちで終了のベルの音を聞いた。

「香織ちゃん、今日は来てくれてありがとう。楽しかったよ」
「はい、こちらこそ……! 憧れのミカくんとこんなにゆっくり、それも一対一でお話しできるなんて夢みたいでした」
「またおいで。待ってるからね」

 別れ際にミカは香織の額にキスをして、悪戯っぽく笑う。

「……! は、はいっ……!」

 香織は半ば熱に浮かされた様子で頭を下げつつ、その場所を後にした。

***

 翌日。昼時の込み合う学生食堂の片隅で、二人の少女が雑談を交わしていた。片方は金髪のショートカットがよく目立つ、ボーイッシュな風貌の少女だ。その向かいに座っているのは、銀色のロングヘアが印象的な美少女で、金髪の彼女とは正反対にフェミニンな雰囲気を(まと)っていた。
 彼女らが座る窓際のテーブル席は貸し切り状態になっている。二人は学園の生徒にとって憧れの的であり、気安く近づくことはタブーであるかのような暗黙の了解があった。
 遠巻きに眺める下級生たちは、ひそひそと噂話をする。

波止場(はとば)先輩と夜半月(よわづき)先輩って、絵になるよねぇ」
「金髪の波止場先輩と銀髪の夜半月先輩って対になるというか、太陽と月って感じ」
「夜半月先輩って子役時代から髪染めてるんだっけ?」
「そうそう。波止場先輩は地毛。どっかの国との……なんだっけ。クォーターの更に少ないやつ」
「ワンエイスっていうらしいよ。ねえ、ぶっちゃけ波止場先輩と夜半月先輩って付き合ってると思う?」
「え⁉ それってあの……レ……」
「ガールズラブ?」
「そう。ガールズラブ的な意味で?」
「私はそうじゃないかなって思ってるけど」
「そうなのかな……ちょっとショックかも」
「え? 付き合いたかったの? どっちと?」
「つ、付き合いたいとかじゃないけど! 波止場先輩には憧れてたから……ラブじゃなくて、ライクね⁉」
「まあ波止場先輩のファンって多いよねぇ」
「目立つし、かっこいいし……。王子様みたいだもん」

 下級生は羨望の眼差しで『絵になる二人』を見つめた。当の本人たちはというと――。

「……って感じだったんだよ、昨日は」
「ほーん」

 カレーと麻婆豆腐丼の湯気を挟んで、他愛のない『内緒話』が展開されていた。周囲の生徒たちが勝手に距離をとってくれるので、二人は衆人の中でも堂々と話せる。

七夏(ななか)、俺の話ちゃんと聞いてる?」
「麻婆豆腐おいしい」
「聞いてないじゃん。ていうか、栄養偏るぞ。野菜も食べなさい」
水景(みかげ)ってほんとにお節介だよね~」

 水景が差し出したサラダの器を突き返しながら七夏はため息をつく。

「ツンデレ乙。俺は七夏の健康のことを思って言ってるんだよ」
「昔は刺激物を食べるの禁止されてたからさ~、学食が人生の楽しみなんだよねぇ」
「そう言えば許されると思って……」
「で? ミカくんの自慢話はおしまい?」
「自慢話ってなんだよ」
「事実じゃん。でこちゅーサービスとかあざといな~」
「それでリピーターになってくれるなら安いもんだよ」
「そんなに安売りされたらありがたみがない」
「お? 妬いてるの?」
「ウザ」
「はは、七夏のツンデレも大特価だな」
「……」

 会話を切って水を飲む七夏を眺め、水景は自然と笑みを浮かべる。

(七夏ってほんとかわいいなぁ)

 陽光に照らされたやわらかなウェーブのロングヘア。色白のすべらかな肌。何度見てもお人形さんのような佇まいだ、と水景は向かい側に座る少女を飽きずに鑑賞する。数年前まで天才子役と持て囃されていた夜半月七夏(よわづきななか)その人は、波止場水景(はとばみかげ)の幼馴染であり、男装喫茶の仲間同士でもある。

(俺が学園中の女子にモテ散らかしたくて始めた男装喫茶だけど、なんかもう他の女子にモテるのとかどうだっていいや。お菓子とおしゃべりは好きだから廃部にするつもりはないけど。俺は七夏にモテればそれでいい)

「そういえば今日は部内会議の日だけど、七夏は覚えてた?」
「忘れてた」
「ちょっとは悪びれてよ。放課後だから、すっぽかさないように」
「はいはい」

 食事を終え、水景と七夏は席を立つ。返却口でトレイの上の食器を片付けながら、水景は思案した。

(七夏にはもっと栄養のあるものを食べてほしいなぁ。明日は俺と同じものを注文させてみたいな。七夏に俺と同じ成分になってほしい)

「なに水景、ジロジロ見て」

 訝しげに振り向く七夏を見つめ返し、水景は笑ってごまかした。

「なんでもない」

***

 水景と七夏が放課後の部室へ(おもむ)くと、そこには既に一人の部員が到着していた。さらさらなストレートの黒髪をツーサイドアップに仕上げた彼女は、焦って立ち上がり頭を下げる。

「お、お疲れ様ですっ、波止場先輩、夜半月先輩……!」

「おつかれー、樹里亜ちゃん。座ってて大丈夫だよ」

 水景が座るように促すと樹里亜――白砂樹里亜(しらさごじゅりあ)は座り直す。彼女は今年度待望にして唯一の新入部員である一年生だ。彼女らが初々しいやり取りをしていると、ぱたぱたと廊下を走る音が近づいてきた。ガラッと勢いよく部室のドアを開け放ち、四番目の入室者は照明のスイッチを押す。

「ふんふふんふーん♪ 光あれ♪ 神はその光を見て、良しとされたのであった!」

 軽やかな茶髪のボブカットを靡かせて彼女は自分の席――書記の指定席につく。

「れおなちゃんもおつー」
「はい、お疲れ様です波止場先輩! 磐井の登場です!」

 磐井(いわい)れおなはコミカルに敬礼をしてみせる。
 そこに五人目の部員がやってきて、全員集合となった。

「あら、わたくしが最後でしたの? 皆さんお早いですわね」
「あ、淑乃(よしの)ちゃんだ。やっほ」
「夜半月先輩。お疲れ様です。わたくし時間通りのつもりだったのですけれど」

 独特なお嬢様口調を操る川嶋淑乃(かわしまよしの)は会計の席につく。

「んーん、時間ぴったりだよ。じゃあ始めちゃってよ、部長さん」
「そうだね。皆さん本日はお集まりいただき誠にありがとう。部内会議を始めようと思います」

 水景がそう宣言すると、部室の中は静まり返る。

「ところで淑乃ちゃん、部室の鍵閉めてくれた?」

 最後に入ってきた淑乃に向かって確認をとる。

「当然ですわ。会議の内容が他人に盗み聞きされたらいけませんもの」



「ありがとう。ではいきなりだけど本題に入るね。お堅い校風の清花の先生方の目をかいくぐるために表向き『紅茶部』……ということになっている我が『男装喫茶部』ですが、今回集まっていただいたのは他でもありません。学内演劇で主役の座を勝ち取る計画について話し合うためです!」

 水景はそこまで一気に話してから言葉を切る。他の四人の部員たちも既に内容は把握しており、各々が頷いて話を聞いている。

「12月24日に行われるクリスマスミサの日の催し物として学内演劇があります。毎年恒例のこの演劇では、主役を勝ち取ると学校中から注目される……まあそこまではいいとして。部活存続の最低人数を記録している我が男装喫茶部が廃部を免れるために、部内の誰かに主役を勝ち取ってもらい、『紅茶部』の知名度を上げるチャンスをモノにしたい!」

 女子校の学内演劇ということは当然、演者は全員女子である。毎年恒例行事の学内演劇の主役は男性キャラクターと決まっており、主演は男装で舞台に上がることになる。活動の実態が『男装喫茶部』である『紅茶部』にとってこれとない部員募集のチャンスだった。

「はーい」

 どこかやる気なさげに挙手したのは副部長である七夏だった。

「はい七夏」
「それってうちの部員だったら誰でもいいんでしょ~? どうぜ水景が選ばれるんだから、あたしは頑張らなくてもいいよね?」
「七夏はなぜそんなにやる気がないの……」

 水景は口先ではそう言いつつも満更ではなさそうな表情だった。

(俺が人気あるって七夏も思ってくれてるんだな。それも嬉しいし、俺がモテモテなことに妬いてるのもかわいいなぁ)

「まあ? やる気ない人に強要するつもりはないよ」
「部長、質問でーす!」

 次に挙手したのはれおなだった。

「はいれおなちゃん」
「学内演劇ってやっぱり、演劇部の人が強いんじゃないですか? 波止場先輩の勝率ってどのくらいなんでしょーか?」
「うーん……正直に言って、負ける気はしないかな」
「おやまぁ強気ですね! 磐井びっくりです!」
「い、磐井先輩、それは波止場先輩に失礼なんじゃ……」

 樹里亜がおずおずといった様子でれおなを咎めるが、水景は何も気にしていないといったふうに手をひらひらと振って止めた。

「いいのいいの。これいつものコミュニケーションだから。樹里亜ちゃんが俺の味方してくれるのは嬉しいけどね」

 そう言われて樹里亜は顔を赤くする。

「しかし、波止場先輩の自信にはなにか理由があるのでしょう?」

 淑乃が脱線しかけた会話の軌道を修正する。

「うん。俺自身がまず校内でも知名度があるっていうのがひとつ」

 無駄にキラキラとした笑顔で水景が答えるので、淑乃は呆れ顔になる。

「ただの根拠のない自信ならぶっ飛ばしますわよ」
「勿論それだけじゃないって! 俺が思うに、演劇部の黄金期って去年だったと思うんだよね」
「人気のある主演の先輩が居たからねぇ」

 水景の分析に七夏も補足する。

「人気の先輩? どなただったかしら。わたくし不勉強なもので、思い当たりませんわ」

 淑乃が首を傾げる。

「俺と七夏のひとつ上の学年に、超人気の先輩が居たんだよ! その人が居なくなったから、俺が勝てそうだなって読みなんだ」
「なるほど。そういうことでしたら、わたくしとしても波止場先輩に主演になっていただくのが妥当でよいと思いますわ」

 淑乃もまた七夏と同意見らしい。

「まー磐井も紅茶部が無事に存続してくれるならなんでもいいでーす。波止場先輩、ふぁいと~!」
「れおなちゃんもありがとうね」
「わ、わたしも波止場先輩のことっ、応援してます……!」

 負けじと樹里亜も水景に声援を送る。

「はは、樹里亜ちゃん張り合わないの。では本日の本題はこのくらいにしておいて、いつもの確認事項でもやっていこうか。先月の活動報告からお願いするよ」

 その後は毎月の会議で行われる事務的な情報の共有が行われていった。

(七夏が主演狙いに参加しないのはちょっと残念だな。俺と競い合ってほしかったのに。せっかく演技も上手なのにもったいない)

 部員たちが順番に報告をしていく様子を聞き流しながら、水景は隣の七夏を見つめる。

(そうだ、俺と七夏のダブル主演とかどうだろう。きっとすごく素敵な劇になる)

 水景は七夏の横顔を見つめながら、理想の未来に思いを馳せた。
 そして、部員全員に主演の座を望まれる水景は、想像さえもしていなかった。この後彼女たちがそれぞれの理由を胸に主演を志し、互いにたったひとつの栄光の座を巡って争うことになる未来を――。

輝かしい主演の座を手にするのは誰?