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 少し時は遡り、朱縁は皇居にて帝に拝謁していた。
 とは言っても仰々しいものではなく、客間にて共に紅茶を飲み話をしているだけだ。

「朱縁殿。先の件、申し訳ないが公表にはもうしばしかかりそうだ」
「そうか……」

 洋装に身を包み、断髪した髪を七三分けにしている帝・成平(なりひら)は眉を下げ謝罪の言葉を口にした。
 今年三十二の成平は、皇位に就いてまだ二年というところだ。
 帝国にとって無くてはならない国の象徴とはいえ、周囲との繋がりを十分に発揮するには時が足りないのだろう。
 情勢も昔とはまた様変わりしている。
 世を乱すつもりもない朱縁は、急かすようなことは言わず紅茶を飲んだ。

「何分当主の勝正が納得しなくてな。『鬼花は強い異能持ちを生み出す存在として国にとっても重要なはずです』と言って聞かないのだ」

 朱縁の向かいにあるアールヌーヴォーの椅子に座る成平は、少し疲れたようにため息を吐いた。

「朱縁の伴侶となる者が現れたことで櫻井家の役割が無くなってしまうことに関しては、今までの報償として確かな地位を約束すると伝えた。強い異能持ちを輩出することに関しても、今後話し合うと言っているのに聞かぬ」
「それは困ったな」
「あまりにしつこい場合は代替わりも命じなければならないかもしれない。後継の藤也はまだ話が分かりそうだったからな」

 ひとしきり経緯を告げた成平は、紅茶を飲むと今度はまじまじと朱縁を見る。

「……なんだ?」

 不躾な視線に、朱縁は形の良い眉を僅かに上げ問う。

「ああ、すまない。……いや、あなたとこうして普通に話すことが出来る日が来るとは思わなかったのでな」
「……」

 成平の言葉に朱縁はスッと視線をティーカップに戻す。
 少し前まで自我など無い抜け殻のようになっていた自覚はある。
 何にも興味を持てず、ただ契約があるため帝都を守っていた。
 目の前の成平とも、彼が成人した折と皇位に就いたときに報告として会っただけの状態だった。

「十日ほど前か? あなたが私を訪ねてきたときは本気で驚いたのだぞ? 淡々とした話し方ではあっても、ちゃんと会話が出来たのだからな」
「……それは琴子のおかげだ。琴子の存在が私に光をくれたのだ」

 小さく微笑み、朱縁は目を閉じる。
 眼裏に映るのは琴子のキラキラとした光溢れるような笑顔。
 はじめはただ長き時を共に生きてくれる存在を離すものかという思いが強かったが、すぐに彼女の明るさに惹かれた。
 琴子という娘を手放したくない、他の男の元になど嫁がせたくないという独占欲が止めどなく湧き上がってくる。
 ……だが、同時にその欲のせいで琴子に嫌われてしまわないだろうかと不安にもなってしまうのだ。

(この間も、了承もなく口づけてしまったしな……)

 思い返し、反省する。
 だが、抵抗もなく受け入れてくれたということは多少なりとも自分への恋情なるものがあるのではないかと期待してしまう。
 琴子の唇の柔らかさも思い返し、朱縁は思わず口元を緩めた。

「ほうほう、早速惚気か?」

 成平がニヤリと笑う。
 その顔を見て真顔に戻った朱縁は「悪いか?」と淡々と返した。

「いや、悪くはない。むしろこの間のように仲の良い様子を周囲に見せつけてくれれば、こちらとしても守護鬼の伴侶を公表するときに反発が少なくなるので助かる」

 この間とは琴子とデヱトしたときのことだろう。
 あの日の翌日にも成平に呼び出され、『守護鬼と鬼花が共に街にいた。夫婦を名乗り仲良さげであった』と問い合わせがあったと話をされたのだ。
 あのときの琴子の友だろうか。少々強引に引き離してしまい後から反省したのだが、周囲に見せつけても良いというならばこれからもデヱトしてみようと朱縁は思った。

(帰ったら、今度は人気のカフェーにでも行かないかと誘ってみるか)

 流行りのものを好む琴子ならば、またあの笑顔を見せて頷いてくれるかもしれない。
 心躍りそうな気分で紅茶を飲んでいると、家令が「失礼致します」と近付き成平に何事かを耳打ちした。
 途端に焦げ茶の目に真剣さが宿る。
 その目を朱縁に向け、成平は良くない知らせを朱縁へと告げた。

「朱縁殿、今すぐ帰った方が良い。あなたの屋敷に勝正と桐矢の若君――琴子の元婚約者が向かったそうだ」

***

 ガキン、と音を立てて軍刀が止まる。
 その刃は琴子の腕にある紅玉の数珠に当てられていた。

「な……」
「……やはり無理か。守護鬼殿にしか外せないと聞いたから切ってしまえば良いかとも思ったが」

 鋭い目を数珠に向けたまま、真継は淡々と告げる。
 その言葉で(まじな)いのかかった数珠を切ろうとしただけなのは分かったが、何の説明もなく切りつけてくるその無情さに恐怖を感じた。
 異性が近くにいるという状況以上に、少しの躊躇いもない真継へ感じる気分の悪さに琴子はその場にへたり込んだ。

「こと、こ……さま。お逃げ下さい」

 利津の苦しげな声にハッとし顔を上げると、廊下の端で床に這いながらこちらに来ようとしている利津の姿が見えた。
 その額には封邪師が使う封じ札と思われる紙が貼られている。

「流石に邪気とは勝手が違うか。だが、本質は似たようなもの。札は効いているようだな」

 利津を軽く顧みた真継は、すぐに琴子へと視線を戻す。

「数珠を外せない以上仕方あるまい。触れれば正気を失いかねないというが、死ぬ訳ではないだろう」
「っ! ぃやっ!」

 腕を掴まれ、すでに吐き気をもよおすほどに不快であった琴子は必死に振りほどこうと暴れる。
 だが、男の――しかも軍人でもある真継の力になど敵うわけが無く無理矢理立ち上がらせられてしまった。
 それでも抗おうとする琴子に、父の叱責が飛ぶ。

「大人しくせい、琴子。離縁出来ぬお前が悪いのだ、子作りの間くらい耐えて見せろ」
「お、とうさま……?」
「子が出来さえすれば良いのだ。お前の価値など、強い異能持ちを産むことだけであろう」
「なっ……」

 あまりの言いように胃の腑が喉元にせり上がるような気持ち悪さを感じた。
 異性に触れれば正気を失うというのに、それほどのことを耐えろと言うのか。
 子を産むことだけが自分の価値だと言う父に、怖気が走る。
 厳しくはあっても親子の情はあると思っていたのに、産む道具としか見ていない父の言動に涙が零れた。

(気持ちが悪い。怖い……助けて)

 声もろくに出せぬほどの琴子は、自力ではどうにも出来ない状況にただ助けを求める。
 脳裏に浮かぶのは銀糸の髪と紅玉の瞳を持つ美しい鬼。
 誰よりも優しく自分に触れる、孤独なひと。

「朱縁、さま……」
「琴子!」

 かすかな、零れ落ちるような声でその名を呼ぶと、応えるように呼び返された。
 幻聴だろうかと思うが、次いで触れる優しく大きな手。
 すぅ……と、途端に軽くなる気分の悪さ。
 吸い込んだ香りは、口づけをされたときと同じもので。

(ああ……帰って来て、下さったのね)

 喜びに、先ほどとは違う涙が零れる。
 急いで来てくれたのだろう。
 肩で息をしている朱縁は琴子の肩を抱き、その腕を掴んでいる真継の手をギリリと握りしめていた。

「ぐ、ぐあっ!」

 痛みに琴子の腕を離した真継は、そのまま朱縁によって突き飛ばされる。
 父の元まで飛ばされた真継は、掴まれていた腕に手を当て痛みに歪んだ顔を朱縁に向け睨み付けていた。
 その様子を見ていた父は焦りを抑えたような笑みを浮かべる。

「朱縁様、琴子を返していただきたい。その子はこの真継殿に嫁がねばならぬのです」
「返す? 何を言うか。琴子は私の妻だ」
「で、ですが今までも鬼花となった櫻井の娘は朱縁様と離縁して他の家に嫁いでいきました。琴子だけ違うようにとは――」
「帝都を守護するという契約は琴子という存在を見つけるためのものだ。その説明は帝からもされているはずであろう?」

 父の言葉を遮り淡々と話す朱縁は、「それに」と続ける。

「櫻井家当主のお前がその契約の詳細を知らぬということはないはずだが?」

 朱縁の紅玉の瞳が、今まで見たことのないほどに血の色となっている。
 冷静に見えるが、その内では怒りの炎が燃え盛っているようだ。

「で、すが! 琴子でなくても良いはずだ! あなた様の妖力を受け続けることが出来る娘ならばまた探せば良い!」
「お父様、なんてことを……」

 あまりに自分本位な言葉に流石に嫌気が差す。
 事情を知っていながらまた探せば良いなど、朱縁の孤独を知ろうともしていないのだろうか。
 先ほどの自分への言葉といい、そのような男が自分の父なのかと思うと悔しくて唇を噛んだ。

「琴子、そのようなことをしては傷がつく」

 父達への怒りを一度収め、朱縁は琴子の唇を撫でた。
 与えられた感触に、このようなときだというのに以前の口づけを思い出し琴子はドキリと心臓を跳ねさせる。

「少し待っていてくれ」

 頬に紅葉を散らす琴子に優しく声を掛けた朱縁は、そっと離れ収めていた怒りを放出した。
 それだけでも圧があるのだろう。
 対峙した父と真継は「ぐっ」と呻き項垂れてしまう。

「私がいつから守護鬼として契約していたと思っているのか……それから今まで見つからなかったというのに、よくもまあまた探せなどと言えるものだな?」

 怒りで燃え盛っている様子なのに、淡々とした物言いは氷のようだ。
 冷徹な怒りに晒された二人は、もはや戦意など皆無だろう。

「それに私は琴子を好いている。想う娘が他の男に嫁ぐなど、許せるわけがなかろうが!」

 最後の言葉だけは声を荒げ、朱縁は二人の頭を床に叩き付けた。
 ゴッと音がして床がへこみ、流石に父達を少々心配してしまう。
 だが手加減はしたのだろう。おそらく朱縁の本気の力であれば床など割れていただろうから。

 気を失ったのか父と真継はそのまま動かず、静かになったことで場は収まった。
 シンとした屋敷の廊下に、今まで床に這いながら一部始終を見ていた利津の声が響く。

「床、修繕しなければなりませんね」