***
離縁という通常ならば祝されぬようなことを行うその日は、清々しいほどに晴れ渡っていた。
厳しい父の元を離れ、新たな家へと旅立つと考えれば良いことなのかもしれないが……。
(少し、複雑な気分ね)
外の明るさを眩しく思いながら苦笑した琴子は、【離縁の儀】のための着物に袖を通した。
真っ白な絹の着物には、金糸と銀糸で悪趣味にならない程度に蓮の刺繍が施されている。
白、金、銀は風水の観点から縁切りに良いとされる色で、蓮の花言葉は『離れゆく愛』なのだそうだ。
いくら【離縁の儀】とはいえ、ここまで徹底的に別れを意識した衣裳でなくとも良いのではないだろうかと呆れる。
まあ、縁を切り新たな縁をという意味もあるので悪いものばかりではないが。
女中の手を借りしっかりと着付けてもらうと、最後に父から貰った白い桔梗の髪飾りをいつもの下げ髪に添えた。
記憶にある限りでは、はじめての父からの贈り物だ。
地味な装いしか許されなかった身としては、華やかで可愛らしい桔梗の髪飾りは嬉しいものだった。
だが、白い桔梗の花言葉は【従順】。
桐矢家でも従順に、母のように付き従えという意味が込められているのだろう。
この贈り物を持ってきた母の言葉からもそれは現れている。
『桐矢家でも、家長に逆らうようなことはしてはいけませんよ。従順にお役目を全うしなさい。それが旦那様の願いでもあります』
どこまでも従順に付き従う母らしい言葉ではある。
だが、母と自分は違うのだ。
家長に逆らうことは家を出されても仕方のないこと。だから不満を呑み込み逆らわずに生きてきた。
それでも不満をなくすことなど出来はしない。
(綺麗だけれど、意味を知ると嬉しさも半減ね)
いつものように、不満は心の内だけに留め琴子は支度を終えた。
***
守護鬼・朱縁の屋敷へはいつものように鬼花専用の馬車で向かう。
異性との距離が近いだけで気分が悪くなる鬼花は、他の移動手段ではまともに外へ出られないのだ。
徒歩や人力車は勿論、最近増えてきた自動車などは運転手が同じ車内にいるのだからもってのほか。
通常の馬車も御者が近くにいるが、この鬼花専用の馬車は特殊らしく中に異性がいなければ距離が近くとも大丈夫らしい。
いつもより長めの距離を馬車に揺られ着いた朱縁の屋敷は、立派な門構えの邸宅だった。
帝が遷都した頃からある屋敷だと聞いているが、少なくとも何度か建て替えられたのだろう。和風建築ではあるが、鎧戸など所々洋風を思わせる様式があった。
出迎えてくれたのは黒い髪を耳隠しにした糸目の女中だ。
(女中……女中よね? あまり見ない服装だけれど)
その女中はカフェーなどで見かける女給が身につけているようなエプロンを着けていた。
ただ、着物ではなく黒い裾の長いワンピース姿だ。
(こ、これって……洋館で働く女中であるメイドの制服ではないかしら?)
話に聞く程度の知識しかないが、聞いたままの格好をしている。
古来から都を守っていた鬼の邸宅だと言うからさぞ古めかしい場所だろうと思っていたが、真新しいものがあることにとても驚いた。
華やかなものに憧れのある琴子にとって、心惹かれてしまう装いだった。
とはいえ今日は【離縁の儀】のために訪れたのだ。感情のまま行動するわけにはいかない。
躍るような心持ちを何とか抑え、その女中――メイドの案内するままに屋敷に足を踏み入れる。
少し遅れてやってくる兄の藤也は別室にて待機する予定だ。
【離縁の儀】などと大層なことを言っても結局のところはいつも身につけていた数珠を返すだけ。それほど待たせることにはならないだろう。
「こちらです。朱縁様はすでに中でお待ちになっております」
そう声を掛けたメイドは、襖を開け琴子を促した。
緊張の面持ちでゆっくりと畳を踏みしめながら進んだ琴子だが、その歩みは途中で一瞬止まってしまう。
なぜなら、上座に座している銀髪の男は人を出迎えるような格好をしていなかったのだ。
唐紅の着流しを着崩し、気怠げに肘掛けへ体を預けている。
儀式のためにしっかりと身だしなみを整えてきた琴子とは真逆な様子に、思わず頬が引きつった。
しかも琴子が部屋に入ってきたというのにその瞼は軽く伏せられたまま。
琴子の存在など気にも留めていないということだろう。
(確かに、会ったこともない相手と別れの挨拶をするためだけなのだから、やる気もなにもないでしょうけれど……)
だが、花嫁を求めているのは朱縁の方だったはずではないだろうか?
別れるとはいえ、求めていた相手とはじめて顔を合わせるのだ。
いくら何でもこの態度はないだろう。
(いっそ数珠を叩き返してやろうかしら)
怒りにも似た心地に右手を拳にするが、流石にそれは不味いだろうと理性が歯止めを掛ける。
ゆるゆると息を吐き出し、不満を押さえ込んだ琴子は再び歩みを進めた。
下座に座り、改めて正面から朱縁を見上げる。
一段高い上座に座る美しき守護鬼。
気怠げな様子でもその存在感は圧倒的であった。
滑らかな白磁の肌は清らかな乙女のようにシミ一つなく、細身だがしっかりと筋肉のついた体は紛れもない男のもの。
絹糸のように繊細な美しさを持つ銀の髪は瞳の赤をとても良く引き立てた。
異性をここまでしっかり見たことのない琴子は、ついまじまじと見てしまう。
だが、男の色香を醸し出す朱縁に徐々に気恥ずかしさが増し、そっと視線をそらす。
そんな状況でも微動だにしない朱縁に、また不満が湧き上がる。
(この方は私に興味などないのね。早く儀式が終われば良いとでも思っているのかしら? まったく、ならばはじめから花嫁など求めなければ良いのに!)
不満は怒りとなり、琴子はもはや感情を抑えることなく朱縁をキッと睨んだ。
(お望み通り、さっさと離縁して差し上げましょう)
「お初にお目にかかります。櫻井琴子と申します。本日は【離縁の儀】を取り行うために参りました」
棘を含ませた声音で淡々と告げると、琴子は座して礼をする。
頭を上げると、朱縁はやっとこちらに顔を向けていた。
その血のような赤い瞳に琴子の姿を映した人ならざる鬼は、そのまま息を呑み目を見開く。
驚きを表した顔が何かを呟くと、気怠げだった様子が嘘のように俊敏に動いた。
素早く側へ来た朱縁は、そのまま琴子の右手を掴み驚く彼女をじっと見る。
紅玉を思わせる瞳に自身の顔が映っていることを確認した琴子は、掴まれた右手がとても熱いと感じた。
女とは違う硬い手。
女には持ち得ない力強さ。
触れたことのない男という存在に、琴子は強い戸惑いを覚える。
そして何より男が側に在り、触れているというのに怖気が湧き上がるどころか気分が悪くなることもない。
そのことにとても困惑していた。
「……これだけ妖力を流してもなんともないのか?」
「え?」
静かに驚く朱縁の言葉に、自分は今何かされていたのだろうかと首を傾げる。
朱縁の言葉通りであるならば妖力を流されていたのだろうが、よくわからない。
戸惑い困惑する琴子を朱縁は改めてその目に映す。
無機質だった紅玉の中に光が差し、煌めき赤が濃く色づいた。
そして、薄い唇の端を軽く上げ笑みを浮かべた朱縁は、低くよく通る声で琴子に告げる。
「琴子といったな? お前は私の唯一の伴侶だ」
「え?」
ふわりと柔らかに笑った朱縁の続く言葉に、琴子の頭の中は真っ白になる。
「私はお前と離縁などしない」
「…………え?」
【なんとしてでも離縁してくるのだ!】
翌日、朝早くに届いた父からの手紙には書き殴ったような文字が一文だけ書かれていた。
住み込みの書生に頼むことなくこのような手紙を出すなど、よほどお怒りのようだ。
帝都の守護鬼・朱縁の屋敷の一室に用意された自室にて、琴子は大きくため息を吐きながら天を仰ぐ。
なんとしてでも離縁してこいと言うが、なんとか出来るのだろうか?
思わず眉を八の字にした琴子は、手紙に目を戻しながら昨日の出来事を思い出した。
***
離縁しないと告げた朱縁は、すぐにメイドを呼びつけた。
「利津、利津はいるか?」
「はい、ここに」
中廊下にて待機していたのだろうか。
琴子を案内したメイド姿の女中がすぐに返事をし襖を開けた。
「伴侶が見つかった。【離縁の儀】は中止だ」
「まあ」
落ち着いた雰囲気のメイド――利津だったが、朱縁の言葉には喜色を帯びた驚きの声を上げる。
黒い目がキラキラと輝き、主人より喜んでいるように見えた。
「おめでとうございます。心より、お喜び申し上げます」
座したまま深々と礼を取る利津に、朱縁もしみじみとした笑みを浮かべ「ああ」と頷く。
そしてすぐに利津へと命じた。
「見届け人の身内には儀式中止の旨と今までの大儀へのねぎらいを。必要ならば褒美も与えると告げ、今日のところは帰って貰え」
「はい」
「は……え? な、なにを」
想定外のことに固まってしまっていた琴子は、目を瞬かせながらも声を上げる。
驚き固まっているうちに何やら色々と決められてしまっていた。
まずはどういうことなのか説明が欲しい。
だが、なにやら盛り上がっている主人とメイドは琴子の戸惑いを他所に次々とことを進めていった。
「そうだ、確か琴子の婚約者も迎えに来るのだったな。婚約は解消せよと伝えて追い返せ。琴子はやらぬ」
「はい!」
「え? ええ!? 困ります!」
嫁ぎ先の迎えまで追い返せという言葉に流石に抗議の声を上げた。
だが、抗議する琴子を見た朱縁は不思議そうな顔をする。
「何故だ? 琴子は私の花嫁だ。唯一の伴侶と分かったからには離縁する必要もない」
「いえ、ですが……」
唯一の伴侶というのが何なのか分からないが、確かに離縁しないのならば新たな婚約者など不要だろう。
理屈は通っていたので少々押し黙ってしまう。
(いえ、でも長年鬼花は離縁して婚約者の元に嫁いで行ったのではないの? 私だけ違うということ?)
長い年月繰り返されてきた儀式が破綻してしまい、どうすれば良いのか分からない。
困惑する琴子に朱縁は柔らかに笑う。
「そうとなればその縁起の悪い着物も早く脱いで貰わねば。いつから着るようになったかは覚えていないが、縁を切り新たな縁を見つけるという意味があるのだろう? 縁を切られてはたまらない」
そう言い、琴子の右手を掴んでいた手が襟元へと移る。
もう片方の手が帯の方に向かい、朱縁のはだけた胸元が近付き悲鳴を上げそうになった。
殿方の側にすらいられなかった琴子には刺激が強すぎる。
(ち、近すぎる! しかもまさか、今ここで脱げというの?)
帯に手をかけようとする朱縁をどうすれば良いのか分からない。
このまま脱がされることだけは遠慮したいが、突き飛ばしても良いのだろうか?
様々な意味で早くなる鼓動に息苦しさを覚えながら、琴子はどう対処すべきか考えていた。
そこに、利津のコホンという咳払いが届く。
「朱縁様、落ち着いて下さいませ。いきなり状況が変わったとなれば琴子様も戸惑ってしまわれます。初夜はお時間を置いてからの方がよろしいのではないでしょうか?」
「は……」
(しょ、初夜ぁー!?)
思わず心の中で悲鳴を上げた。
考えてもいなかった言葉にとにかく驚く。
確かに朱縁の行動は着物を脱がそうとしているようにも見えるが……。
(縁起が悪いから脱げということでしょう? 別にそのようなことをする意図は――)
「ああ、それもそうだな。少々浮かれすぎた」
あるはずがない、と断じようとしたのに、朱縁は否定もせず頷き琴子から離れた。
はじめて身近に感じた男の存在が離れホッとしたが、心の面ではまったく安堵出来ない事態に琴子の顔に熱が集まる。
(否定しないなんて……そ、そのつもりだったということ!?)
ただでさえ状況が掴めないというのに、会ってすぐにそのようなことをしようとするなど理解に苦しむ。
あまりのことにクラクラしてきた琴子は、そのまま畳に手をつき項垂れた。
「どうした琴子? 疲れたか? やはり休んだ方が良さそうだな」
琴子に優しく心配の声を掛けた朱縁は、利津に部屋を用意するように指示する。
その後用意された部屋で琴子は利津により着替えさせられた。
「申し訳ありません、女物の着物は私のものしかなく……ですがその縁起の悪い着物をずっと着ていただくわけにもいきませんので」
そう言った利津は自分の持っている着物の中でも比較的新しいものを持ってきたと何点か見せてくれる。
それらは主に銘仙で、人気の夢二がデザインしたものやアール・デコ感覚の訪問着もあった。
今まで着てみたくとも許されなかった流行りの柄ばかりで、琴子はそれどころではないと思いつつも胸がときめくのを抑えられない。
目を輝かせ、わくわくとアール・デコ感覚の大柄牡丹を選ぶ。
そんな自分の心が透けて見えてしまったのだろうか。
利津はクスリと笑いながらも、御髪も整えましょうと耳隠しの髪型にしてくれた。
女学校やちまたで見かける若い娘らしい装いに、頬が紅潮するのを抑えられない。
「あの、ありがとうございます」
訪問着もだが、髪を結って貰ったことの礼を口にすると「いいえ」とニッコリ微笑まれた。
「どんどん現世への執着が無くなっていく朱縁様のためにと新しいものを率先して集めて参りましたが……琴子様のお好みに合ったのでしたら嬉しいことですわ」
「現世への執着?」
嬉しいと口にしながらも寂しそうに語る利津に、その原因と思われる言葉を問い返す。
現世とはいわゆるこの世、皆が生きているこの世界のことだろう。
執着が無いとはどういうことだろうか?
「はい。朱縁様は少なくとも二千年は生きておられる最強の鬼です。ですが最強ゆえ、共にその生を歩めるものはなく……帝と契約し花嫁を求めたのも共に生きる存在を探すためだと聞きしました」
「え?」
唐突に知った朱縁が花嫁を求める理由に、思わず驚きの声が漏れる。
(守護鬼の花嫁――鬼花とは、長く生きる朱縁と共に生きる存在を探すためのもの? でも、共に過ごすどころか今まで一度も会ったことがないのだけど……)
しかも、人の生は鬼に比べると短い。
だというのに共に生きるとはどういうことなのか。
探していた、とは?
分からないことばかりでなにから聞けば良いのかも分からず、問い返せないでいるうちに利津の話は続いた。
「ですが唯一の伴侶となられるお嬢様はずっと見つからず……もはや諦め、ただ生き、帝都の守護をするだけの人形のような状態になっておりました」
悲しげに目を伏せ視線を下に向けた利津だったが、「ですが!」と突然勢いよく顔を上げる。
「ついに見つかりました! 朱縁様の唯一の伴侶であらせられる方が!」
「それが私、と?」
「はい!」
外見は落ち着いた雰囲気なのに、子供のように喜ぶ利津。
そんな利津に伝えるのは心苦しかったが、言わねばならない。
「でも、私はやはり離縁しなければならないわ。離縁して、異能持ちの家に嫁ぎ子を産まねば……」
今までそう言い聞かせられてきたし、そうして強い異能持ちを世に送り出すのが櫻井の長女の役目だ。
自分だけがその役目を放り出す訳にはいかないだろう。
「は……?」
だが、利津は理解に苦しむといった様子で固まってしまった。
「……何やら、長い年月で色々と齟齬が出てしまっているようですね」
冷静に、淡々と告げた利津は「それでも」と念を押してくる。
「本来の目的が朱縁様の唯一の伴侶を探すためですので、離縁は出来ません」
「でも……」
「それでも離縁したいとおっしゃるのでしたら、明日直接朱縁様にお話下さいませ」
役目を放り出す訳にはいかないと訴えようとする琴子に、利津は有無を言わせぬ語調で告げた。
***
まずはゆっくりお休みくださいと言う利津により、昨日はそのまま一泊してしまったのだ。
突然状況が変わり混乱していたところもあるので、言われた通りゆっくり休み今日しっかりとお話しようと思っていたところにこの父からの手紙だ。
ちゃんとお役目を全う出来るように離縁するつもりではあるが、まずは話してみないことにはどうにも出来ない。
琴子は手紙をたたむと、よし、と気合いを入れて立ち上がった。
***
朝食後訪ねた朱縁は、昨日とは打って変わって落ち着いた装いをしていた。
唐紅の着流しは同じだが、着崩れてはおらず襟元もしっかり合わせられている。
上からは山吹茶色の羽織を着ていて、緩く結った銀糸の髪もほつれが無いため変な色香は出ていない。
だが、身だしなみを正している朱縁は雰囲気も整えられていて昨日とはまた違った魅力があった。
「琴子の方から訪ねてきてくれるとは、嬉しいかぎりだ」
薄い整った形の唇を緩め、赤い紅玉の目を幸せそうに細める朱縁に琴子はなんとも気まずい思いをしていた。
詳しい事情は分からずとも、利津から聞いた話だけで朱縁がずっと唯一の伴侶とやらを探していたことは理解できる。
それが琴子であり、やっと見つけた相手だと喜ぶ朱縁に離縁を望むとは言いづらい。
だが、言わねばならない。
「その……私が朱縁様の望んでいた花嫁だということはなんとなく理解しているのですが……それでも離縁していただけないでしょうか?」
「無理だ、離縁などしない」
ニコニコと笑顔で即答されてしまった。
「ですがその、私には強い異能持ちを産み育てるという役目が――」
「それは私が伴侶を得るために妖力を与えたことで派生した副産物としての役目であろう?」
「え?」
どういうことなのか。
すぐに理解できなかった琴子は目をぱちくりと瞬かせる。
「はじめから話した方が良いだろうな」
そう言った朱縁は、遙か遠くを眺めるような目をして昔語りをした。
太古の昔、いつかも忘れてしまう頃朱縁は生まれた。
最強の鬼としてあやかしの頂点に立ったこともあれば、気の良い友と遊び暮らしていたこともあったとか。
そうして過ごしていても、周囲の者は先にいなくなってしまう。
長き時を生きるあやかしですら、朱縁と共にはいられなかった。
寂寞の思いに耐えきれなくなった朱縁は、長き生を共に生きられる存在を探すことにした。
とはいえ同じ存在などそれまで生きてきた中でも聞いたことが無い。
だから作り出すことにした。朱縁の妖力を受けた者は寿命が延びると分かっていたから。
だが、同じあやかしでは妖力が反発し合いちゃんと受け取ることが出来ない。
だから人間から選ぶしか無かったが、長い時を生きることが出来るほどに妖力を受け続けるにはそれ相応の肉体が必要だった。
そのような肉体を持つ者がいるかどうかも分からない。
だが、一度自覚した寂しさは消えるどころか増すばかり。
それ故朱縁は賭けに出ることにした。
一人の人間に数年の時をかけて妖力を流し込み、その後も朱縁の妖力を受け続けることが出来るのか調べ、共に生きられる存在を探し出そうと。
そのために人の帝と契約し、花嫁を得ていたのだと。
「そして、長き時が経ってもそのような存在は見つからずほとんど諦めていたのだ……」
感情が抜け落ちた様な、昏い目をした朱縁が視線を下げる。
だが、その無機質な瞳に光が差し、喜びに溢れた紅玉が琴子を映した。
「だが、見つかった。琴子ならば私と共に生きることが出来る。ずっと、私の側にいてくれ」
優しく、愛おしむような微笑みに琴子は思わずドキリとする。
朱縁がどれほどの寂しさを抱え、長い時を生きてきたのかは分からない。
それでも、彼の喜びようからその寂寞の欠片くらいは理解出来た。
(なんだか……切なくて苦しい)
泣きたくなるような思いに、胸が締め付けられる。
だが、だからといって簡単には頷けない。
朱縁の話が全て事実なら、自分は朱縁と共にずっと生き続けなければならないということだ。
朱縁は自分を大事にしてくれそうではあるが、これから共に長い生を送るとなると想像もつかない。
琴子は畳を見つめ惑い、とりあえず疑問に思ったことを聞くことにした。
「その、一つ疑問なのですが……今までの鬼花が極端に長寿だったとは聞いたことがありません。本当に朱縁様の妖力を得れば寿命が延びるのですか?」
朱縁の妖力を受けた者の寿命が延びるのならば、今までの鬼花は皆長寿のはずだ。
だが、そのような話は聞いたことが無い。
琴子の問いに、朱縁は二度ほど瞬きしてから「ああ」と少々皮肉げな笑みを浮かべた。
「それは子を産んだからだろう。鬼花の持つ妖力が子へと受け継がれるから強い異能持ちとなって生まれるのだ」
「あ、だから副産物と……」
朱縁の答えに先ほどの話を思い出す。
守護鬼の花嫁となりかの鬼の妖力を得て、離縁の後強い異能持ちを産み育てるのが櫻井の長女の役目。
そう教えられてきたが、朱縁の本来の狙いを聞いた後では確かに副産物として出来たお役目なのだろうと分かる。
だが、朱縁の思いはともかく、人の世では長くそのお役目を続けてきたのだ。そう簡単には覆せない。
(どうしましょう……出来れば離縁したいのだけど、朱縁様はしてくれなさそうだし……)
「……琴子」
朱縁の顔も見れず悩む琴子に、彼はゆっくりと衣擦れの音を響かせて近付いた。
伸ばされた手が琴子の頬に触れ、視線を合わせられる。
「っ」
慣れぬ男の硬い指。女とは違う力強さ。何よりその近さに琴子は息を呑む。
朝の光を受けほのかに光る銀の髪。その隙間から覗く色の濃くなった紅玉の目。
生きた宝石のような存在に、琴子は自分を制御出来ない。
「あ、あのっ! 何故そのように近く!? というか、何故私はあなた様のような殿方が近くにいても気分が悪くならないのでしょうか!?」
今までは同じ部屋に異性がいるだけで気分が悪くなったのに、と訴える。
何故朱縁だけは平気なのだろう?
「私の妻に私が近付けるのは当然だろう? それに、私の妖力を込めたこの数珠には呪いがかけてある。他の男が近付かないように、とな」
頬に触れているのとは逆の手が、琴子の右手に触れる。その長い指先で紅玉の数珠を撫でた。
「私の唯一の伴侶になるかもしれない娘がつけるものだ。他の男に近付かれるのは癪に障る。……こう見えて、私はかなり独占欲が強いのでな」
「あ、の……」
優しい笑みの中に、僅かな毒が垣間見えて言葉に詰まる。
だが、その毒を覆い隠すような甘さが赤い瞳に宿った。
「琴子……幾星霜の年月、お前をずっと待っていた。……だから、手放すことは出来ない」
「っ」
有無を言わせぬ言葉に琴子は懊悩する。
こちらの要望を聞き入れてくれない朱縁。
人である自分に、長き生を強いる無情な鬼。
だが、朱縁の妖力を受け続けてきたからだろうか?
彼の纏う雰囲気は心地よく、はじめて感じる大きな手に身を預けたくなってしまう。
優しくも強引な鬼だが、琴子は嫌うことが出来なかった。
「だが、だからこそ私は琴子の望むことは叶えてやりたいと思っている。勿論、離縁以外でな?」
最後の言葉をおどけて口にする朱縁に、知らずしていた緊張が解ける。
触れていた手が頬を撫で離れると、そのおどけた調子のままで朱縁はひとつ提案をした。
「とにかく、私たちは互いのことをよく知らない。まずは知るために明日にでも買い物に出かけてみないか?」
「え?」
「琴子の着物や生活用品を購入せねばならぬしな。丁度良いだろう」
ご機嫌に話す朱縁に、琴子は力が抜けるような心持ちになる。
ずっと大事なお役目だと思っていたことが実は人間が勝手に作ったお役目でしか無いと判明したこともあり、どうするのが最良なのかすぐには判別出来ない。
琴子自身、考える時間が必要だと思った。
お互いのことを知ろうというならば、すぐに手を出すなどということもないだろう……多分。
どう結論を出すにしても、時間が欲しかった琴子は数拍考えてから頷いた。
***
その日は父に【時間がかかりそうだ】という旨の手紙をしたため、ゆったりと過ごした。
朱縁はやるべきことがあるのか、屋敷を空けていて朝会ったきりだ。
琴子は手持ち無沙汰になり、利津から借りた裁縫道具で刺繍をして過ごした。
そうして翌朝起きたときにふと思いつく。
「……まずはお互いのことを知ろうということなのだから、嫌われてしまえば離縁出来るのではないかしら?」
最良の答えが何かなどまだ分からないし、結論を出すには時間がかかる。
だが、父からの手紙のこともあるしやはり離縁出来るならばした方が良いだろうと思う。
気に入られてしまってからでは嫌われるのも一苦労となってしまうだろうから。
ちゃんと嫌われることが出来るのか、嫌われたとして、朱縁が自分を手放してくれるのか。
それは分からなかったが、試してみようと思った。
……思った、のだが。
「まあ! これが外国のフルーツ!? 変わった味だけれど美味しいのね!?」
流行りのフルーツパーラーでは初めての味に驚き。
「あ、あの方が着ている着物は華宵の柄かしら?」
街を歩けば周囲の人々を興味津々で観察し。
「素敵! このお店の外観はアールヌーヴォー様式なのね!?」
真新しい店に立ち寄れば胸をときめかせた。
今までまともに外出など出来なかった所為もあるだろう。
琴子は嫌われようなどと思っていたことも忘れ、始めて触れる流行の数々に瞳を輝かせてしまう。
ハッとしてそのことに気がついたのは、昼も過ぎ小物の店を見ているときだった。
(あ……私ったら好きなものばかりに気を取られて……)
だが、このようにはしたなくはしゃぐ姿を見れば少なくとも呆れられているかもしれない。
「気に入ったものはあったか? 琴子」
「あ、いえ……どれも素敵すぎて」
声を掛けられ見上げた美しき鬼は、柔らかに微笑み琴子を見つめている。
その表情からは嫌悪どころか呆れなどもまったく感じられなかった。
(嫌われる作戦は失敗ね……朱縁様ったらずっと嬉しそうに微笑むばかりなんですもの。こんなにはしゃいでいる姿を見れば普通は呆れるくらいはするでしょうに)
これでは嫌われることなど到底出来るわけがない。
元々嫌われるような行動というのもよく分からなかった琴子は、嫌われる作戦自体を諦めた。
「あまり悩むのなら、私が決めてもいいだろうか?」
「え? あ、はい」
「白い桔梗の髪飾りも似合ってはいるが、琴子は赤の方が似合うのではないか?」
そう言って赤い色を中心に巾着などの小物を決めてくれる朱縁。
これはどうだ? と聞かれたことに答えながら、琴子は本日の朱縁の装いを改めて見た。
黒いインパネスに、同じく黒の中折れ帽。右手には象牙の持ち手のステッキを持つという洋装だ。
サラリと揺れる銀髪が映えて、琴子は素直に格好良いと見とれてしまう。
「あとは……この山茶花の髪飾りを購入しよう」
朱縁は鮮やかな赤い山茶花の髪飾りを手に取り、琴子の髪に合わせると似た色の瞳を優しく細める。
「ああ、やはり赤が似合う。……私の目の色と同じ赤が」
「っ! そ、そういうおつもりだったのですか!?」
先ほどから赤を推していると思っていたが、朱縁は自分の色を琴子に身につけさせようとしていたらしい。
「言っただろう? 私は独占欲が強いのだ。それに……」
と、山茶花の髪飾りを見つめ微笑む。
「山茶花の花言葉は『ひたむきな愛』。唯一の伴侶に贈るものとしてもふさわしいだろう」
「……」
幸せそうに微笑む朱縁に、何故かほんの少しだけ胸が痛んだ。
(その愛は、私が朱縁様と共に生きられる存在だから向けられているもの? それとも、私だからこそ向けてくれているもの?)
前者に決まっている。
だというのに、それを悲しく思ってしまうのは何故なのだろう。
二日前にはじめて会った相手だ。どう思われても気にする必要は無いはずなのに……。
(私、早くも絆されてしまっているのかしら?)
少なくとも朱縁のことを嫌だとは思っていないことを自覚しながら、琴子は軽く目を伏せた。
***
「そういえば今更なのですが……何故私、お店の中にいても大丈夫だったのでしょう?」
買い物を終え、荷物は後ほど屋敷へ運ぶようにして貰い歩いて帰っている途中だった。
本当に今更なのだが、疑問に思い朱縁に問い掛ける。
鬼花は朱縁以外の異性が近付いたり同じ部屋にいると気分が悪くなる。
鬼花の証でもある紅玉の数珠は琴子の右手首にまだあるため、その呪いは効果を発しているはずだ。
なのに他の異性も闊歩している街中を歩いたり、異性もいる店の中にいても具合が悪くならなかった。
何故だろう、と疑問に思うのは当然だろう。
「本当に今更だな」
クスリと笑われ琴子は恥ずかしくなったが、朱縁は「それだけ楽しかったのだな」と微笑み答えた。
「それは私が側にいるからだ。他の誰でも無い私が近くにいるのだ。他の男を警戒する必要も無いだろう?」
「ということは、朱縁様と共にならばどこへでも行けるということでしょうか?」
「そういうことになるな」
頷く朱縁に琴子は喜びが沸くのを抑えられなかった。
今まで好きなように外出することもままならなかったのだ。
朱縁が共にという制約はあれど、好きな場所にも行けるというのは心躍った。
だが、ふと冷静になる。
(でもそれって、朱縁様と離縁出来れば済む話では無いかしら?)
やはり離縁を目指した方が良いかもしれない、と考え始めたとき。
「……あら? もしかして、琴子さん?」
「え? あ、千歳さん?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、そこには三日ぶりに会う友の姿があった。
いつものラジオ巻きに流行りの柄の着物という華やかな格好の千歳は、おそらく婚約者なのだろう、見知らぬ殿方と共にいた。
「まあ、華やかな格好をしていたから一瞬気付かなかったわ。琴子さん、そのような装いもお似合いですのね」
「あ、ありがとう」
ニコニコと花開くような笑みを向けられ琴子は照れながらも礼を口にした。
本日の装いは夢二柄の椿の着物で、髪も利津の手で外巻きという流行りの髪型にして貰っている。
女学校時代は厳しい父の目もあり出来なかった装いだ。
褒められて素直に嬉しい。
「ではそちらの方は桐矢の?」
千歳は戸惑い気味に朱縁へと視線を向けた。
桐矢の? と聞きながらも違うと分かっているのだろう。
人の身で銀髪赤眼など見たことは無いだろうから。
「あ、いえ、こちらの方は……」
「失礼、元婚約者殿と間違われたくはないな。私は琴子の夫の朱縁という。……守護鬼と言った方が分かるだろうか」
どう説明すれば、と言葉を選んでいるうちに朱縁は中折れ帽を軽く上げて自ら挨拶をした。
少々声が低く聞こえたのは、怒っているのだろうか。
その怒りを僅かでも感じた様子の千歳は言葉を詰まらせる。
千歳の婚約者らしい男性が、彼女を守るように引き寄せた。
「琴子は私の妻だ。今後間違えないでいただきたい」
釘を刺すような言葉を残すと、朱縁は琴子の手を取り足早にその場を立ち去る。
何か言わなくてはと思い琴子は顔だけ振り向くが、呆然とした千歳が「どういうこと?」と呟くのが見えただけだった。
***
手を引かれ、走るようについて行く琴子。
革靴であるため下駄などよりは走りやすいが、朱縁の歩幅について行こうと思うと息が切れた。
「しゅ、朱縁、様っ」
「あ……すまない」
屋敷にも近くなり、そろそろ走るのが辛くなってきた琴子に朱縁はハッとし足を止める。
止まれたことにホッとし、呼吸を整えていると朱縁の腕が琴子を抱き締めた。
「えっ!?」
整えようとしていた息が一瞬止まる。
なんとか呼吸はするも、ドキドキと早まる鼓動は治まらなかった。
(ど、どどどどうしてこんな!?)
ひたすら戸惑う琴子の背を朱縁の大きな手が優しく撫でる。
何かを溜め込んだような深いため息が降りてくると、朱縁はもう一度「すまない」と口にした。
「【離縁の儀】を終えた場合、琴子が他の男の妻になっていたかもしれないと思うと腸が煮えくり返りそうになったのだ」
「朱縁様……?」
背にあった手を肩に置き、少し離れた朱縁は悲しげな眼差しで琴子を見下ろす。
「今日共に外出し、分かったことがある。私は唯一の伴侶としてふさわしい相手というだけでなく、琴子という娘に惹かれているのだ」
「え……?」
「くるくると変わる表情が愛おしい。好きなものを語る琴子はキラキラと眩しく、私まで楽しくなってくるのだ」
目映い星を見るような、憧れを伴った光が赤い目に宿っていた。
「琴子が来てから私の世界は彩り始めた。世界は、こんなにも美しいのだなと思えた。……だから琴子、離縁したいなどと言わないでくれ」
すがるような懇願。
切なる想い。
朱縁の目を見ただけでも伝わってくるその想いに、琴子は身動きが取れなくなる。
離縁しなければ父が黙っていないだろう。おそらく、桐矢家の方々も。
だが、目の前の美しい鬼の願いを無碍には出来なかった。
それに……。
(何故? どうして私は、こんなにもドキドキしているの?)
朱縁の妖力を長く流し込まれても平気な体を持つ娘――唯一の伴侶。
それだけではなく、琴子自身に惹かれているという言葉がとても嬉しく感じた。
琴子自身を求めるその血のような瞳から目が離せない。
近付いてくるその顔から逃げることは出来なかった。
気付けば、優しく触れる唇を琴子はただ受け入れていた。
ちくちくと、途中だったハンケチーフへの刺繍を進めていく。
無心で針を刺していたが、ふとした瞬間記憶が甦る。
日の光が反射し煌めく銀糸。
その隙間から見える血のように赤い紅玉。
通った鼻筋に、白磁のように滑らかな肌。
そして薄い唇が近付いて……。
「っっっ!」
朱縁に口づけされたときのことを鮮明に思い出してしまった琴子は、刺繍針を別の場所に刺してしまいハッとした。
「ああ、もう……これではまったく進まないわ……」
愚痴を呟きながら針を抜き生地をならす。
すでに夫婦ではあるが、屋敷のことは少しずつ慣れていけば良いということで特に何かをすることの無い琴子。
メイドの利津もいるので、実際にしなくとも屋敷のことは回る。
来客でもあれば別だろうが、そもそも人とあまり交流のないらしい朱縁を訪ねてくる者はいなかった。
なので一先ず手がけていた刺繍をしているのだが……。
刺繍を再開しようとした針を止め、ふぅ……と罪悪感のような心持ちでため息を吐く。
本来ならば率先して料理などをすれば良いのだが、それをしてしまうと本当に夫婦になろうとしている気がして出来なかった。
視線を上げて見た文机の上には、毎日届く父からの手紙。
『しばらくかかると言うがいつになるのか』
『桐矢家からもどういうことだと苦言があったぞ。早くするんだ』
早く離縁しろと催促する手紙の数々。
父の言い分も、お役目としての桐矢との婚姻も理解出来る。
だが、朱縁は離縁を許してはくれない。
(それに……)
琴子自身、朱縁や利津と共に過ごすこの屋敷での生活がとても心地よく感じ始めていた。
厳しい父に意見を押さえつけられることもなく、異能持ちを産み育てるお役目を望まれている訳でもない。
ただ、朱縁の側にいて欲しいと願われるだけ。
それはとても穏やかで、心地の良い時間だった。
そのため、この二日ほど父への手紙の返事を出せていない。
せめてもう少し、この穏やかなときを過ごしていたかった。
……だが、このままの状態であの父が何もしないということはあり得なかったのだ。
数日後、琴子はそれを思い知ることとなった。
***
その日は、帝に呼ばれたとのことで午後から朱縁は留守にしていた。
刺繍もなんとか形になり、利津に手伝って貰いながら仕上げのアイロンをしようとしていたときだった。
「さ、そろそろ温まってきたようです」
真新しい電気アイロンの様子を見ていた利津に勧められ、琴子は火傷しないよう気をつけながら刺繍したハンケチーフにアイロンをさっとかけた。
「これくらいで良いかしら……でも本当に便利ね? 炭を用意しなくていいなんて」
使用したアイロンを立て置きながら、琴子は感心する。
電気アイロンが出回り始めたのは本当に最近で、今もほとんどの家では炭を入れる炭火式アイロンが主流のはずだ。
どんどん現世に興味を無くしていく朱縁のために、少しでも興味を持ってもらえるよう新しいものを率先して取り入れたという利津。
それはメイド服や着物に留まらなかったらしい。この電気アイロンしかり、この屋敷には他にも様々な新しいもので溢れかえっていた。
流行や新しいものにとても興味のある琴子にとって、この屋敷での生活は心躍るものだ。
穏やかで、楽しい驚きのある日々。
朱縁の望む通り離縁しなければ、この生活がずっと続くのだろうか。
長い時を共に生きなければならないという不安はあれど、存外悪くないのかもしれない、と琴子は思い始めていた。
「本当に、特にこの数十年は目まぐるしいです。黒船来航の折も慌ただしかったですが」
「は?」
しみじみといった様子の利津に琴子は思わず目を瞬かせる。
黒船来航といえば六十年以上前の出来事だ。
その時代をまるで見てきたかのように語る利津に、琴子は思考が追いつかない。
七十にもなる老人ならば分かるが、利津はどう見ても二十代といったところだろう。少なくとも老女には見えない。
「えっと……失礼かもしれないけれど、利津さんはおいくつなのかしら?」
「え? そうですね、百を超えた辺りから数えるのは止めましたが……百三十くらいだと思います」
澄ました顔で告げる利津に、琴子はやっと理解する。
「……利津さんは、あやかしなのですね?」
「ええ、妖狐です。朱縁様には百年ほど前からお仕えしておりますね」
妖狐であるという証拠のように、利津は人差し指を立てるとその上に青い炎――狐火を出現させた。
「申し訳ありません。驚かれましたか?」
「少し……でも逆に納得しました。鬼である朱縁様に、只人が仕えていられるのか疑問もありましたから」
普段の生活であやかしと関わることなど無いため人だと思い込んでいたが、確かに人ならざる者に人が仕えるには限界があるだろう。
利津があやかしであることはむしろ理に適っていると思えた。
「――御免! 御主人はおられるか!?」
そのとき、玄関の方から野太い男の声が響く。
「珍しいですね、誰かが訪ねてきたようです」
不思議そうに立ち上がった利津は琴子に部屋で待つように告げ、玄関へと向かった。
「確かに珍しいこと」
琴子がこの朱縁の屋敷で世話になってからまだ十日ほどしか経っていないが、その間も誰かが訪ねてくるということはなかった。
一体どのような客だろう? と思いながらアイロン台などを片していると、玄関の方からドンッと大きな音が聞こえてきた。
続いて利津の叫ぶような声が聞こえ、尋常ではなさそうな様子に鼓動が早まった。
「なに? どうしたというの……?」
ドクドクと心臓の鳴り響く音を鼓膜でも感じながら、琴子は自室の襖をそろりと開ける。
「琴子! どこにいる!? 帰るぞ!」
「っ!」
聞き覚えのある声に、琴子は思わず身を固めた。
何故? と疑問に思うが、同時に納得もする。
手紙の返事が無ければ、あの父は強硬手段に出ると予測出来たはずなのだから。
父への返事も、朱縁に対しての答えも先延ばしにしたいがために考えないようにしてしまっていたのだ。
だが、そのことに今気付いても遅い。父は来てしまったのだから。
「勝手をされては困ります! ここは守護鬼・朱縁様のお屋敷ですよ!?――あうっ!」
「あやかし風情が口やかましい! それくらい承知の上だ。私は自分の花嫁を迎えに来たのだ、返していただく!」
父の声の後に、利津ともう一人男の声がした。
知らぬ声に警戒心が沸く。
これは一体どういう状況なのか。
「琴子!」
父の前に出て行けば良いのか、隠れれば良いのか。迷っているうちに見つかってしまった。
「あ……お父様」
久方ぶりに対面した父に、琴子は金縛りにでも遭ったかのように動けなくなる。
父の厳しい眼差しは、琴子の中に恐怖として植え付けられていたようだ。
「まったく、手紙も返さずにどうしているのかと思えば元気にしているではないか。さあ帰るぞ、そして桐矢家へ嫁ぐ準備をするのだ」
「で、ですが……朱縁様は離縁しないと……」
手を伸ばす父に、琴子は行けぬ理由を口にする。
鬼花の本当の役目のことは一通り手紙で伝えていたはずだ。
毎日来ていた手紙にそれに関しての言葉は無かったが、知らないということはないだろう。
だが、父はどうでも良いというように鼻を鳴らした。
「鬼のもくろみなぞ知ったことか。櫻井の娘は異能持ちの家に嫁ぎ強い異能持ちを産み育てることが勤め。その勤め以上に大事なことなど無い」
「なっ……」
あくまでも人が作り出したお役目が大事だと口にする父に、琴子は絶句する。
そのお役目は朱縁が妖力を分け与えているからこそ成立するものだと分かっているのだろうか?
その朱縁の望みを『知ったことか』などと口にするなど、理解に苦しむ。
「何にせよ、あなたは私の妻になるのだ。それを覆すことは許されぬ」
父の背後から、軍服を身に纏うたくましい体つきの男が現れる。
父以外の異性の存在に気分が悪くなった琴子は思わず眉を寄せた。
「お前の婚約者、桐矢真継殿だ。若君自ら迎えに来て下さったのだぞ? 行けぬとは言うまい?」
「む、無理です。この数珠が外せない以上、お父様以外の殿方の側にはいられません」
未だ右手首にある紅玉の数珠を見せながら訴えると、真継がスラリと帯剣していた軍刀を抜く。
何をするのかと思った瞬間、その刃が琴子へと振り下ろされた。
***
少し時は遡り、朱縁は皇居にて帝に拝謁していた。
とは言っても仰々しいものではなく、客間にて共に紅茶を飲み話をしているだけだ。
「朱縁殿。先の件、申し訳ないが公表にはもうしばしかかりそうだ」
「そうか……」
洋装に身を包み、断髪した髪を七三分けにしている帝・成平は眉を下げ謝罪の言葉を口にした。
今年三十二の成平は、皇位に就いてまだ二年というところだ。
帝国にとって無くてはならない国の象徴とはいえ、周囲との繋がりを十分に発揮するには時が足りないのだろう。
情勢も昔とはまた様変わりしている。
世を乱すつもりもない朱縁は、急かすようなことは言わず紅茶を飲んだ。
「何分当主の勝正が納得しなくてな。『鬼花は強い異能持ちを生み出す存在として国にとっても重要なはずです』と言って聞かないのだ」
朱縁の向かいにあるアールヌーヴォーの椅子に座る成平は、少し疲れたようにため息を吐いた。
「朱縁の伴侶となる者が現れたことで櫻井家の役割が無くなってしまうことに関しては、今までの報償として確かな地位を約束すると伝えた。強い異能持ちを輩出することに関しても、今後話し合うと言っているのに聞かぬ」
「それは困ったな」
「あまりにしつこい場合は代替わりも命じなければならないかもしれない。後継の藤也はまだ話が分かりそうだったからな」
ひとしきり経緯を告げた成平は、紅茶を飲むと今度はまじまじと朱縁を見る。
「……なんだ?」
不躾な視線に、朱縁は形の良い眉を僅かに上げ問う。
「ああ、すまない。……いや、あなたとこうして普通に話すことが出来る日が来るとは思わなかったのでな」
「……」
成平の言葉に朱縁はスッと視線をティーカップに戻す。
少し前まで自我など無い抜け殻のようになっていた自覚はある。
何にも興味を持てず、ただ契約があるため帝都を守っていた。
目の前の成平とも、彼が成人した折と皇位に就いたときに報告として会っただけの状態だった。
「十日ほど前か? あなたが私を訪ねてきたときは本気で驚いたのだぞ? 淡々とした話し方ではあっても、ちゃんと会話が出来たのだからな」
「……それは琴子のおかげだ。琴子の存在が私に光をくれたのだ」
小さく微笑み、朱縁は目を閉じる。
眼裏に映るのは琴子のキラキラとした光溢れるような笑顔。
はじめはただ長き時を共に生きてくれる存在を離すものかという思いが強かったが、すぐに彼女の明るさに惹かれた。
琴子という娘を手放したくない、他の男の元になど嫁がせたくないという独占欲が止めどなく湧き上がってくる。
……だが、同時にその欲のせいで琴子に嫌われてしまわないだろうかと不安にもなってしまうのだ。
(この間も、了承もなく口づけてしまったしな……)
思い返し、反省する。
だが、抵抗もなく受け入れてくれたということは多少なりとも自分への恋情なるものがあるのではないかと期待してしまう。
琴子の唇の柔らかさも思い返し、朱縁は思わず口元を緩めた。
「ほうほう、早速惚気か?」
成平がニヤリと笑う。
その顔を見て真顔に戻った朱縁は「悪いか?」と淡々と返した。
「いや、悪くはない。むしろこの間のように仲の良い様子を周囲に見せつけてくれれば、こちらとしても守護鬼の伴侶を公表するときに反発が少なくなるので助かる」
この間とは琴子とデヱトしたときのことだろう。
あの日の翌日にも成平に呼び出され、『守護鬼と鬼花が共に街にいた。夫婦を名乗り仲良さげであった』と問い合わせがあったと話をされたのだ。
あのときの琴子の友だろうか。少々強引に引き離してしまい後から反省したのだが、周囲に見せつけても良いというならばこれからもデヱトしてみようと朱縁は思った。
(帰ったら、今度は人気のカフェーにでも行かないかと誘ってみるか)
流行りのものを好む琴子ならば、またあの笑顔を見せて頷いてくれるかもしれない。
心躍りそうな気分で紅茶を飲んでいると、家令が「失礼致します」と近付き成平に何事かを耳打ちした。
途端に焦げ茶の目に真剣さが宿る。
その目を朱縁に向け、成平は良くない知らせを朱縁へと告げた。
「朱縁殿、今すぐ帰った方が良い。あなたの屋敷に勝正と桐矢の若君――琴子の元婚約者が向かったそうだ」
***
ガキン、と音を立てて軍刀が止まる。
その刃は琴子の腕にある紅玉の数珠に当てられていた。
「な……」
「……やはり無理か。守護鬼殿にしか外せないと聞いたから切ってしまえば良いかとも思ったが」
鋭い目を数珠に向けたまま、真継は淡々と告げる。
その言葉で呪いのかかった数珠を切ろうとしただけなのは分かったが、何の説明もなく切りつけてくるその無情さに恐怖を感じた。
異性が近くにいるという状況以上に、少しの躊躇いもない真継へ感じる気分の悪さに琴子はその場にへたり込んだ。
「こと、こ……さま。お逃げ下さい」
利津の苦しげな声にハッとし顔を上げると、廊下の端で床に這いながらこちらに来ようとしている利津の姿が見えた。
その額には封邪師が使う封じ札と思われる紙が貼られている。
「流石に邪気とは勝手が違うか。だが、本質は似たようなもの。札は効いているようだな」
利津を軽く顧みた真継は、すぐに琴子へと視線を戻す。
「数珠を外せない以上仕方あるまい。触れれば正気を失いかねないというが、死ぬ訳ではないだろう」
「っ! ぃやっ!」
腕を掴まれ、すでに吐き気をもよおすほどに不快であった琴子は必死に振りほどこうと暴れる。
だが、男の――しかも軍人でもある真継の力になど敵うわけが無く無理矢理立ち上がらせられてしまった。
それでも抗おうとする琴子に、父の叱責が飛ぶ。
「大人しくせい、琴子。離縁出来ぬお前が悪いのだ、子作りの間くらい耐えて見せろ」
「お、とうさま……?」
「子が出来さえすれば良いのだ。お前の価値など、強い異能持ちを産むことだけであろう」
「なっ……」
あまりの言いように胃の腑が喉元にせり上がるような気持ち悪さを感じた。
異性に触れれば正気を失うというのに、それほどのことを耐えろと言うのか。
子を産むことだけが自分の価値だと言う父に、怖気が走る。
厳しくはあっても親子の情はあると思っていたのに、産む道具としか見ていない父の言動に涙が零れた。
(気持ちが悪い。怖い……助けて)
声もろくに出せぬほどの琴子は、自力ではどうにも出来ない状況にただ助けを求める。
脳裏に浮かぶのは銀糸の髪と紅玉の瞳を持つ美しい鬼。
誰よりも優しく自分に触れる、孤独なひと。
「朱縁、さま……」
「琴子!」
かすかな、零れ落ちるような声でその名を呼ぶと、応えるように呼び返された。
幻聴だろうかと思うが、次いで触れる優しく大きな手。
すぅ……と、途端に軽くなる気分の悪さ。
吸い込んだ香りは、口づけをされたときと同じもので。
(ああ……帰って来て、下さったのね)
喜びに、先ほどとは違う涙が零れる。
急いで来てくれたのだろう。
肩で息をしている朱縁は琴子の肩を抱き、その腕を掴んでいる真継の手をギリリと握りしめていた。
「ぐ、ぐあっ!」
痛みに琴子の腕を離した真継は、そのまま朱縁によって突き飛ばされる。
父の元まで飛ばされた真継は、掴まれていた腕に手を当て痛みに歪んだ顔を朱縁に向け睨み付けていた。
その様子を見ていた父は焦りを抑えたような笑みを浮かべる。
「朱縁様、琴子を返していただきたい。その子はこの真継殿に嫁がねばならぬのです」
「返す? 何を言うか。琴子は私の妻だ」
「で、ですが今までも鬼花となった櫻井の娘は朱縁様と離縁して他の家に嫁いでいきました。琴子だけ違うようにとは――」
「帝都を守護するという契約は琴子という存在を見つけるためのものだ。その説明は帝からもされているはずであろう?」
父の言葉を遮り淡々と話す朱縁は、「それに」と続ける。
「櫻井家当主のお前がその契約の詳細を知らぬということはないはずだが?」
朱縁の紅玉の瞳が、今まで見たことのないほどに血の色となっている。
冷静に見えるが、その内では怒りの炎が燃え盛っているようだ。
「で、すが! 琴子でなくても良いはずだ! あなた様の妖力を受け続けることが出来る娘ならばまた探せば良い!」
「お父様、なんてことを……」
あまりに自分本位な言葉に流石に嫌気が差す。
事情を知っていながらまた探せば良いなど、朱縁の孤独を知ろうともしていないのだろうか。
先ほどの自分への言葉といい、そのような男が自分の父なのかと思うと悔しくて唇を噛んだ。
「琴子、そのようなことをしては傷がつく」
父達への怒りを一度収め、朱縁は琴子の唇を撫でた。
与えられた感触に、このようなときだというのに以前の口づけを思い出し琴子はドキリと心臓を跳ねさせる。
「少し待っていてくれ」
頬に紅葉を散らす琴子に優しく声を掛けた朱縁は、そっと離れ収めていた怒りを放出した。
それだけでも圧があるのだろう。
対峙した父と真継は「ぐっ」と呻き項垂れてしまう。
「私がいつから守護鬼として契約していたと思っているのか……それから今まで見つからなかったというのに、よくもまあまた探せなどと言えるものだな?」
怒りで燃え盛っている様子なのに、淡々とした物言いは氷のようだ。
冷徹な怒りに晒された二人は、もはや戦意など皆無だろう。
「それに私は琴子を好いている。想う娘が他の男に嫁ぐなど、許せるわけがなかろうが!」
最後の言葉だけは声を荒げ、朱縁は二人の頭を床に叩き付けた。
ゴッと音がして床がへこみ、流石に父達を少々心配してしまう。
だが手加減はしたのだろう。おそらく朱縁の本気の力であれば床など割れていただろうから。
気を失ったのか父と真継はそのまま動かず、静かになったことで場は収まった。
シンとした屋敷の廊下に、今まで床に這いながら一部始終を見ていた利津の声が響く。
「床、修繕しなければなりませんね」
***
琴子の父・勝正と、桐矢の若君・真継の守護鬼屋敷への不法侵入は大々的に報じられた。
その記事の中には守護鬼の伴侶が見つかったこと、櫻井の鬼花の本来の役割などが事細かに記されており、財界人のみならず平民にも琴子の存在が知れ渡ることとなった。
とはいえ鬼の屋敷に群がるような奇特な者はおらず、琴子は今まで通り穏やかに過ごしていた。
だが、渦中の櫻井と桐矢の家はそうも行かなかったらしい。
真継は一先ず蟄居を命じられ今後の昇進は怪しいだろうと噂され、父に関しては後継に代替わりせよとの勅令を頂いたのだという。
それらの騒動も多少落ち着いてきた頃、櫻井家の新当主として琴子の兄・藤也が挨拶に訪れた。
朱縁の屋敷にて対面した兄は、朱縁の側にいれば異性と同じ部屋にいても琴子の気分が悪くならないと知り安堵していた。
「良かった。これからは朱縁様がいらっしゃれば普通の兄妹として接することが出来るのだな」
柔らかな笑みを浮かべた藤也は、どうやら昔琴子に触れてしまったことで怖がらせてしまったことをずっと気に病んでいたらしい。
琴子にとっては何を考えているか分からない兄だったが、存外妹思いだったらしい。
父に娘として見られていなかったことに衝撃を受けていた琴子は、兄からの家族の情に救われる思いがした。
お互いに笑みを交わした後、藤也は改まって朱縁に向き直り頭を下げた。
「この度の騒ぎを受けて、私、藤也が櫻井家当主へと就任致しました。今後、父が朱縁様や琴子に手を出すことは無いとお約束致しましょう」
「そうか。藤也は琴子の兄だ、今後も付き合いはあるだろう。よろしく頼む」
淡々と、だが目元を和らげて朱縁は告げた。
だが、琴子は不安が拭いきれない。
「本当に大丈夫なのでしょうか? お父様なら、代替わりしたとしてもお兄様の目を掻い潜って手を出して来そうですが……」
あの父が、代替わりしたからと何もせずにいてくれるのだろうか?
屋敷に訪れた際の傲慢さを思うと、いくら藤也の言葉であっても信じ切れなかった。
だが、琴子の不安を聞いても藤也は「問題ない」と力強く頷く。
「大丈夫だ……なぜなら、母様が切れた」
「は? 切れた?」
(切れた、とはどういうことかしら?)
「どうやら母様は、ただ大人しく父に付き従っていたわけでは無かったらしい」
そう語り出した藤也の話は初めて耳にする内容ばかりで、琴子は驚きに何度も目をぱちくりさせてしまう。
父は、櫻井の鬼花という存在自体を嫌悪していたらしい。
琴子の前の鬼花――つまり琴子にとっては叔母に当たる人が大層我が儘だったらしく、祖父母も彼女ばかりを優遇していた所為だとか。
結果として父は女性全般に嫌気が差し、母はそんな父を哀れに思っていたのだそうだ。
女性不信ではあっても、従順であれば父は普通に接してくれていたため、琴子にもそのように振る舞えと言っていたらしい。
真継も噂で聞いた限りでは父と大差ない相手のようだったから、琴子が不要に傷つかぬようこれからも従順にしなさいと告げたのだそうだ。
(あ、それで桔梗の簪を持ってきたときにあんなことを……)
思い返し、今更ながら母の思いを知った琴子に藤也は続けて話す。
「だがな、いくら女性に嫌悪を抱いていると言っても実の娘へのあり得ない暴言。その詳細を聞いて堪忍袋の緒が切れたのだそうだ」
子を産むことだけがお前の価値だなどと、実の娘によく言えたものだな、と鬼の形相で詰め寄っていたらしい。
怒ったことなどない母に完膚なきまでに押し負け、父は大人しくなったのだとか。
「母様があのように怒るなど……女性は怖いな」
遠い目をする藤也に、兄も女性に対して変な不信感を持たねばいいがと琴子は少々心配になったのだった。
***
藤也が帰ると、朱縁は琴子を部屋まで送ってくれた。
そのまま共に過ごしても良かったのだが、午後には桐矢の現当主が詫びに来るらしくその場に琴子はいて欲しくないのだそうだ。
琴子自身も桐矢の現当主とは面識もないため、特段会う必要も無いと判断しいう通りにする。
「では、また夕餉のときに」
そう告げ去ろうとする朱縁を琴子は「お待ちください」と呼び止めた。
部屋の文机に付けられた引き出しから朱縁に渡すつもりだったものを取り出し、すぐに戻る。
「あの、よろしければこちらを……。その、刺繍は得意というほどではないので少々不格好かもしれませんが」
そうして差し出したのは手慰みにと刺していたハンケチーフだ。
どんな理由であれ屋敷に世話になっているのだからと、初めから朱縁に贈るつもりで刺していた。
図柄は、丸に五角菊花紋という朱縁の家紋だ。
横から見た形の菊花とそれを守るように囲む丸と五角形。
それを朱縁の色でもある赤と銀の糸で刺してみた。
「これは……」
「そ、その……手慰みに刺していたのですが……こっ、今後は……妻として刺す機会もあるかもしれませんしっ」
言葉にしながらどんどん顔に熱が集まっていく。
自分の口から朱縁の妻だという言葉を発したのが初めてでもあるため、純粋に気恥ずかしい。
朱縁はどういう反応をするだろうかと思いチラリと見上げると、無表情で固まってしまっていた。
美しい造形の顔が微動だにしない様は、まるで彫像のようにも思えて不安になる。
「あの……朱縁様?」
「っ! 琴子!」
呼び掛けると、途端に動き出しギュッと抱き締められた。
「きゃっ、しゅ、朱縁様!?」
「なんと可愛らしい……いや、それよりもその言葉。私の妻でいてくれると受け取っても良いのだな?」
力強い抱擁の中で聞かれた言葉に、琴子は照れながらもコクリと頷いた。
だが、まだ不安がないわけではない。
そのまま顔を上げ、申し訳なさそうに朱縁に告げた。
「私は、朱縁様に惹かれております。ですがそれは同情しているだけかもしれませんし、美しいあなたに魅了されているだけかもしれません。でも……お側にいたいと思うのです」
朱縁と同じ思いを返せないことに罪悪感が沸く。
でも、彼に惹かれているのは確かで、朱縁の側を離れたくないと思うのも確かな想いだった。
琴子は朱縁の山吹茶色の羽織をきゅっと掴み、正直な気持ちを伝える。
「まだ、あなた様と長い時を生きる覚悟は持てないのです。だから、いつかどうしても離縁したいと言い出すかもしれません。それでも、お側にいてもよろしいですか?」
それならば今のうちから側にはいないで欲しいと言われてしまったらどうしようかと僅かに震えてしまう。
朱縁が自分のことを強く求め手放すことはないだろうと分かっていても、不安になった。
「……琴子」
震える手に、朱縁の大きく硬い手が被さる。優しく包み込むように握られた。
「側にいてくれるという琴子を私が拒否するわけがないだろう? それに、離縁したいと言いたくならないように私が琴子を愛し慈しめば良いだけだ」
「朱縁様……」
「だから側にいてくれ。私が望むのは、琴子だけなのだから」
真綿に包むような優しい抱擁と、甘くとろける洋菓子のような囁きにただただ幸福を感じる。
朱縁への思いが、長き時を共に生きることを許容出来るほどに大きなものなのかは分からない。
でも、朱縁の側にいてもっと彼のことを知りたい。
答えは、その後でも良いのでは無いだろうか。
心穏やかな、安らぎをくれる朱縁の腕の中で、琴子はそう思った。
了