***

 その日は父に【時間がかかりそうだ】という旨の手紙をしたため、ゆったりと過ごした。
 朱縁はやるべきことがあるのか、屋敷を空けていて朝会ったきりだ。
 琴子は手持ち無沙汰になり、利津から借りた裁縫道具で刺繍をして過ごした。
 そうして翌朝起きたときにふと思いつく。

「……まずはお互いのことを知ろうということなのだから、嫌われてしまえば離縁出来るのではないかしら?」

 最良の答えが何かなどまだ分からないし、結論を出すには時間がかかる。
 だが、父からの手紙のこともあるしやはり離縁出来るならばした方が良いだろうと思う。
 気に入られてしまってからでは嫌われるのも一苦労となってしまうだろうから。
 ちゃんと嫌われることが出来るのか、嫌われたとして、朱縁が自分を手放してくれるのか。
 それは分からなかったが、試してみようと思った。


 ……思った、のだが。

「まあ! これが外国のフルーツ!? 変わった味だけれど美味しいのね!?」

 流行りのフルーツパーラーでは初めての味に驚き。

「あ、あの方が着ている着物は華宵の柄かしら?」

 街を歩けば周囲の人々を興味津々で観察し。

「素敵! このお店の外観はアールヌーヴォー様式なのね!?」

 真新しい店に立ち寄れば胸をときめかせた。

 今までまともに外出など出来なかった所為もあるだろう。
 琴子は嫌われようなどと思っていたことも忘れ、始めて触れる流行の数々に瞳を輝かせてしまう。
 ハッとしてそのことに気がついたのは、昼も過ぎ小物の店を見ているときだった。

(あ……私ったら好きなものばかりに気を取られて……)

 だが、このようにはしたなくはしゃぐ姿を見れば少なくとも呆れられているかもしれない。

「気に入ったものはあったか? 琴子」
「あ、いえ……どれも素敵すぎて」

 声を掛けられ見上げた美しき鬼は、柔らかに微笑み琴子を見つめている。
 その表情からは嫌悪どころか呆れなどもまったく感じられなかった。

(嫌われる作戦は失敗ね……朱縁様ったらずっと嬉しそうに微笑むばかりなんですもの。こんなにはしゃいでいる姿を見れば普通は呆れるくらいはするでしょうに)

 これでは嫌われることなど到底出来るわけがない。
 元々嫌われるような行動というのもよく分からなかった琴子は、嫌われる作戦自体を諦めた。

「あまり悩むのなら、私が決めてもいいだろうか?」
「え? あ、はい」
「白い桔梗の髪飾りも似合ってはいるが、琴子は赤の方が似合うのではないか?」

 そう言って赤い色を中心に巾着などの小物を決めてくれる朱縁。
 これはどうだ? と聞かれたことに答えながら、琴子は本日の朱縁の装いを改めて見た。
 黒いインパネスに、同じく黒の中折れ帽。右手には象牙の持ち手のステッキを持つという洋装だ。
 サラリと揺れる銀髪が映えて、琴子は素直に格好良いと見とれてしまう。

「あとは……この山茶花(さざんか)の髪飾りを購入しよう」

 朱縁は鮮やかな赤い山茶花の髪飾りを手に取り、琴子の髪に合わせると似た色の瞳を優しく細める。

「ああ、やはり赤が似合う。……私の目の色と同じ赤が」
「っ! そ、そういうおつもりだったのですか!?」

 先ほどから赤を推していると思っていたが、朱縁は自分の色を琴子に身につけさせようとしていたらしい。

「言っただろう? 私は独占欲が強いのだ。それに……」

 と、山茶花の髪飾りを見つめ微笑む。

「山茶花の花言葉は『ひたむきな愛』。唯一の伴侶に贈るものとしてもふさわしいだろう」
「……」

 幸せそうに微笑む朱縁に、何故かほんの少しだけ胸が痛んだ。

(その愛は、私が朱縁様と共に生きられる存在だから向けられているもの? それとも、私だからこそ向けてくれているもの?)

 前者に決まっている。
 だというのに、それを悲しく思ってしまうのは何故なのだろう。
 二日前にはじめて会った相手だ。どう思われても気にする必要は無いはずなのに……。

(私、早くも絆されてしまっているのかしら?)

 少なくとも朱縁のことを嫌だとは思っていないことを自覚しながら、琴子は軽く目を伏せた。

***

「そういえば今更なのですが……何故私、お店の中にいても大丈夫だったのでしょう?」

 買い物を終え、荷物は後ほど屋敷へ運ぶようにして貰い歩いて帰っている途中だった。
 本当に今更なのだが、疑問に思い朱縁に問い掛ける。

 鬼花は朱縁以外の異性が近付いたり同じ部屋にいると気分が悪くなる。
 鬼花の証でもある紅玉の数珠は琴子の右手首にまだあるため、その呪いは効果を発しているはずだ。
 なのに他の異性も闊歩している街中を歩いたり、異性もいる店の中にいても具合が悪くならなかった。
 何故だろう、と疑問に思うのは当然だろう。

「本当に今更だな」

 クスリと笑われ琴子は恥ずかしくなったが、朱縁は「それだけ楽しかったのだな」と微笑み答えた。

「それは私が側にいるからだ。他の誰でも無い私が近くにいるのだ。他の男を警戒する必要も無いだろう?」
「ということは、朱縁様と共にならばどこへでも行けるということでしょうか?」
「そういうことになるな」

 頷く朱縁に琴子は喜びが沸くのを抑えられなかった。
 今まで好きなように外出することもままならなかったのだ。
 朱縁が共にという制約はあれど、好きな場所にも行けるというのは心躍った。
 だが、ふと冷静になる。

(でもそれって、朱縁様と離縁出来れば済む話では無いかしら?)

 やはり離縁を目指した方が良いかもしれない、と考え始めたとき。

「……あら? もしかして、琴子さん?」
「え? あ、千歳さん?」

 聞き覚えのある声に顔を上げると、そこには三日ぶりに会う友の姿があった。
 いつものラジオ巻きに流行りの柄の着物という華やかな格好の千歳は、おそらく婚約者なのだろう、見知らぬ殿方と共にいた。

「まあ、華やかな格好をしていたから一瞬気付かなかったわ。琴子さん、そのような装いもお似合いですのね」
「あ、ありがとう」

 ニコニコと花開くような笑みを向けられ琴子は照れながらも礼を口にした。
 本日の装いは夢二柄の椿の着物で、髪も利津の手で外巻きという流行りの髪型にして貰っている。
 女学校時代は厳しい父の目もあり出来なかった装いだ。
 褒められて素直に嬉しい。

「ではそちらの方は桐矢の?」

 千歳は戸惑い気味に朱縁へと視線を向けた。
 桐矢の? と聞きながらも違うと分かっているのだろう。
 人の身で銀髪赤眼など見たことは無いだろうから。

「あ、いえ、こちらの方は……」
「失礼、元婚約者殿と間違われたくはないな。私は琴子の夫の朱縁という。……守護鬼と言った方が分かるだろうか」

 どう説明すれば、と言葉を選んでいるうちに朱縁は中折れ帽を軽く上げて自ら挨拶をした。
 少々声が低く聞こえたのは、怒っているのだろうか。
 その怒りを僅かでも感じた様子の千歳は言葉を詰まらせる。
 千歳の婚約者らしい男性が、彼女を守るように引き寄せた。

「琴子は私の妻だ。今後間違えないでいただきたい」

 釘を刺すような言葉を残すと、朱縁は琴子の手を取り足早にその場を立ち去る。
 何か言わなくてはと思い琴子は顔だけ振り向くが、呆然とした千歳が「どういうこと?」と呟くのが見えただけだった。

***

 手を引かれ、走るようについて行く琴子。
 革靴であるため下駄などよりは走りやすいが、朱縁の歩幅について行こうと思うと息が切れた。

「しゅ、朱縁、様っ」
「あ……すまない」

 屋敷にも近くなり、そろそろ走るのが辛くなってきた琴子に朱縁はハッとし足を止める。
 止まれたことにホッとし、呼吸を整えていると朱縁の腕が琴子を抱き締めた。

「えっ!?」

 整えようとしていた息が一瞬止まる。
 なんとか呼吸はするも、ドキドキと早まる鼓動は治まらなかった。

(ど、どどどどうしてこんな!?)

 ひたすら戸惑う琴子の背を朱縁の大きな手が優しく撫でる。
 何かを溜め込んだような深いため息が降りてくると、朱縁はもう一度「すまない」と口にした。

「【離縁の儀】を終えた場合、琴子が他の男の妻になっていたかもしれないと思うと腸が煮えくり返りそうになったのだ」
「朱縁様……?」

 背にあった手を肩に置き、少し離れた朱縁は悲しげな眼差しで琴子を見下ろす。

「今日共に外出し、分かったことがある。私は唯一の伴侶としてふさわしい相手というだけでなく、琴子という娘に惹かれているのだ」
「え……?」
「くるくると変わる表情が愛おしい。好きなものを語る琴子はキラキラと眩しく、私まで楽しくなってくるのだ」

 目映い星を見るような、憧れを伴った光が赤い目に宿っていた。

「琴子が来てから私の世界は彩り始めた。世界は、こんなにも美しいのだなと思えた。……だから琴子、離縁したいなどと言わないでくれ」

 すがるような懇願。
 切なる想い。

 朱縁の目を見ただけでも伝わってくるその想いに、琴子は身動きが取れなくなる。
 離縁しなければ父が黙っていないだろう。おそらく、桐矢家の方々も。
 だが、目の前の美しい鬼の願いを無碍には出来なかった。

 それに……。

(何故? どうして私は、こんなにもドキドキしているの?)

 朱縁の妖力を長く流し込まれても平気な体を持つ娘――唯一の伴侶。
 それだけではなく、琴子自身に惹かれているという言葉がとても嬉しく感じた。
 琴子自身を求めるその血のような瞳から目が離せない。
 近付いてくるその顔から逃げることは出来なかった。

 気付けば、優しく触れる唇を琴子はただ受け入れていた。