「お初にお目にかかります、旦那様。どうかわたくしと離縁してくださいませ」
突然の政略結婚から三年目――。
初めて足を踏み入れることを許されたこの屋敷の主人の執務室で、下座に正座をした寧々は、畳に折り目正しく両手をつき深々と頭を下げた。
嫁いで来た当初はどこもかしこも青々とした萌黄色であった畳は、今や少し色褪せてしまっている。
それと同じように、三年前にただならぬ決心をしてあやかしの花嫁となった寧々の心も、今や色褪せて摩耗していた。
この三年間……婚儀の日取りの知らせとともに届いた、流麗だが神経質そうな文字が並んだ墨の匂いが残る書状の内容を、忘れたことは一度もない。
【壱、私の許可なく外出する行為を生涯禁ずる】
【弐、私の許可なく文を交わす行為を生涯禁ずる】
【参、私の許可なく会話する行為を生涯禁ずる】
破れば命をも奪うとされる妖紋の施されたその契約書は、ただただ冷酷無慈悲で。
その書状をくれたっきり婚儀にも姿を現さなかった旦那様のことが、最初は本当に恐ろしかった。
今でもそれは変わらないが、少しだけ、変わったこともある。
それは使用人たちとの関係性と、この屋敷での自分の生き方だった。
屋敷に来た当初は、息を吸い込むたびに『いつ殺されてしまうのだろう』と考えてしまって、ビクビクしながら生きるしかなかった。
けれど次第に、少しずつ少しずつ周囲を見渡せるようになって……。
食事の時間や湯浴みの時間にやってくる使用人たちが、想像していたような憎しみのこもった視線ではなく、どこか孫や娘を見るかのようなあたたかな視線を寧々へ向けていたことに気がついたのだ。
それがあまりにも、優しく心配気なものだから。少しだけ、信じてみようと思った。
そしたら不思議と、冷酷無慈悲な制約のもとでも自由に生きられるようになった。
屋敷の中だけで過ごすのは実家にいた頃から慣れている。それどころか、ここでは実家よりも自由に動くことができて。
おかしな話だが実家にいる頃よりも体力や気力も湧いてきて、健康になれた気もした。
親切に対する恩返しもしたいしせっかく元気も出たのだからと、使用人たちの仕事を手伝いながら使用人まがいのことをして細々と過ごす日々は、名ばかりの花嫁である自分を守ってくれるようだった。
目を合わせるだけで、微笑みを交わすだけで、使用人たちと仲良く過ごせるようになったのは救いだった。
そうやって……――この政略結婚が二階堂家を救うのだと信じて、ひいてはあやかしと人間の架け橋となるのだと信じて必死に頑張った日々は、少しずつ少しずつ、確かに、心穏やかなものになっていたのだ。
それでも、『かわいそうな寧々ちゃん』と笑うやわらかな声が、自分が感じていたものとは違う本当の現実を突きつけてくる。
深々と頭を下げ、額を畳につけた寧々の真っ暗な視界に浮かぶのは、ここひと月ほどこの屋敷に出入りしている姉の姿だ。
いつも笑顔で優しく、頼り甲斐のある、たおやかな八重桜の花のように美人な姉、桜子。
幼い頃から身体が弱かった寧々の病床でぎゅっと手を握ってくれたのは、いつだって姉だった。
そんな姉が、三年のあいだ一度もこの屋敷に帰ってこなかった旦那様の帰郷の知らせが國から届いた翌日に来て、いつものように美しく微笑み――いや、これまで完璧に被っていた善良そうな仮面を剥ぎ取り、寧々を心底見下しながら言ったのだ。
『これを機に、二階堂家の恥を晒すのはやめにしなくちゃね』
と。
寧々は思わずヒュウっと息を吸い込み、言葉を失った。
『たった数年で時代は完全に変わったわ。今や人間よりもあやかしの方が地位が高い。そんな中、あなたは〝四凶〟の次期公爵夫人なのに、どんな式典にも姿を現さないから……。社交界では〝捨てられた花嫁〟なんて呼ばれて噂になってるのよ。ご存知ないかしら?』
まさか、そんな噂が流れているなんて知らなかった。
ここでは誰もかれもが優しいから、寧々がこれ以上怯えないようにと言わないでいてくれたのだろう。
けれど〝捨てられた花嫁〟という蔑称は、まるで寧々自身の生活を誰かに覗かれているかのように、ぴったりだった。
『間違っても、二階堂家の令嬢が呼ばれてもいい蔑称じゃないわ。そのせいでお父様はカンカンよ? お前の取り柄はその異能しかないのに、たった一度でさえ、あやかしを誑かすこともできないなんて、なんのための異能なのか! って……。たいそう嘆かれていたわ』
姉は額に手を当て、『はあ〜っ』とあからさまにため息をつく。
そして困ったように眉を下げ、まるで出来損ないの妹へ仕方なく手を差し伸べるかのように、渋々のていで言ったのだ。
『あなたの代わりに、わたくしが彼の妻になるわ。旦那様が戻ったら、あなたから離縁を申し出なさい。可愛い妹の尻拭いは、しっかり者の姉がしなくちゃね』
背筋に冷たいものがつたう。
(――ああ。わたしが役立たずだから、また見捨てられたのだ)
そう思った瞬間、ぷつんと、三年間ずっと張り詰めていた決意の糸が切れた音がした。
あの日から随分と考えた。
だが、辿り着く答えはいつも同じだった。
(政略結婚で自分がここへ来た意味すらもうないのだとしたら、役立たずの〝捨てられた花嫁〟がこの屋敷にいたって、仕方ないもの)
次期公爵である旦那様の隣には、彼が式典や社交界に連れ出したくなるような立派な妻が立つのが相応しいだろう。
(わたしなんかより、もっと良い人がいるはず。そう、先ほどまでこの屋敷にいたお姉様のような……)
危険な異能を持つ自分は女学校にも通えなかったが、姉は帝都でも有名な女学校を出ている。
誰が見ても美人で、貴族の令嬢としてのマナーも完璧。
そして将来の公爵夫人となるにふさわしい学歴もあるあの姉を前にして、自分が離縁しない理由を見つける方が難しかった。
だから寧々は、夫である青年を――長年続いていた隣国との戦が終戦し、突如として帰還することになった初めて見る夫をほとんど目に映すことなく深く頭をさげながら、小さく震える。
「…………それは自分の意思か?」
広間に染み入るように響いたのは、思わず背筋が凍りついてしまうほど冷たく、無感情な声だった。
はっと、寧々は弾かれたように思わず顔を上げる。
すると、美しい青年の冷たい眼差しと、視線がかちあった。
黒檀の執務机を挟んで上座に座っていたこの屋敷の主人は、華やかな徽章や勲章が掲げられた詰襟の軍服姿で、寧々を見下ろしている。
艶やかに整えられた墨を溢したような黒髪に、吸い込まれそうなほど透き通った真紅の瞳。
魔性の瞳とはまさに彼の双眸のことを言うのだろう。
寧々が見たことのない色をした真紅の瞳は、彼があやかしであると如実に表している。
最たるはその絶世の美貌だろう。
長いまつげに縁取られた二重瞼の目元は鋭く、すっと通った高い鼻梁に形のいい唇という端麗な美貌は、威圧的ながらも、老若男女を惑わせる色気を放っていた。
「四凶と呼ばれる俺に怖気づいたか?」
氷のごとき無表情だった彼の唇がわずかに弧を描く。
「………い、いいえ……………」
「取り繕わなくていい。震えているのはわかっている。……だが」
そう前置きを口にすると……――彼は睦言でも紡ぐかのように、至極甘やかに目を細めて、寧々を見下ろす。
そして告げた。
「離縁は認めない。君が泣いて許しを乞おうとも」
結婚してから初めて顔を合わせた、三年目の春――。
冷酷無慈悲な旦那様は、寧々の申し出に頑なに頷こうとはしなかった。
◇◇◇
國は桜和、時を明正。
華々しく西欧の文明が生活を彩り、街には浪漫の花が咲く時代。
そんな帝都の街並みを、美しいあやかしたちが闊歩する姿に誰もが見惚れている。
國の人口の大多数を占める人間達、そして姿形は同じであれどあやかしと呼ばれる彼ら。
決して交わらぬと思われた両者の時間だったが、〝怪異〟という両者の命を脅かす存在が生まれたことによって、平安時代より続く國を巡る争いの戦況は大きく変わった。
人間とあやかしは互いに手を取り、和平のために和睦の道を選択した。
そうして、あやかしの皇太子と人間の姫君が婚姻を結ぶことにより、初代皇帝陛下と皇后陛下が納める桜和國が建国されたのだ。
それから、約半世紀が過ぎた。
未だ仄暗い憎しみが燻る年嵩の者たちが存在する中、しかしこれまでの戦を知らぬ若人たちは、人の数倍も優れているあやかし達の地位や財産、そして美貌に、男女関係なく強烈な羨望を抱かずにはいられない。
(旦那様になる方は、特級と呼ばれる最上位のあやかし、饕餮……。きっと、誰よりも人の子を憎んでいるに決まってる。そしたらわたしは、わたしは…………)
両親の予言通り、殺されるのかもしれない。
子爵の位を有する二階堂家の令嬢――二階堂寧々は絢爛な花嫁衣装を身に纏い、巫女に差し出された大きな朱色の野点傘の下で俯きながら、ひっそりと涙を零す。
ここは帝都の北東にある、大和神社。
その参道に綻ぶ桜の花弁が寂しげにらはらと零れる中、凛然と張りつめられた神聖な霊力に満たされた境内では、玲瓏な雅楽の音が響いている。
けれども、この身は天にさえ拒絶されているのだろう。
春の空からはしとしとと小雨が降り注いでおり、お世辞にも婚礼日和とは言い難い。
それはまるで、これからの未来を示唆しているようだった。
長い黒髪を彩る桔梗の花簪や髪飾りがしゃなりと揺れ、つうと頬を伝った涙は金銀糸で刺繍が施された豪奢な色打掛に吸い込まれていく。
盛大に着飾られて嫁がされる先は、帝都の街外れにある、人の子の営みとは断絶された山奥の屋敷だという。
(お姉様…………)
この政略結婚が決まった日。姉である桜子だけが、布団に伏せる寧々の隣で涙を流してくれた。
人の子の営みとは断絶された山奥の屋敷に住むことになれば、そんなかけがえのない大切な姉とも、再び他愛のないお喋りをすることは叶わないだろう。
一歩、また一歩と歩みを進めながら、寧々はただ、紅色の下駄の鼻緒だけを見つめる。
本来ならば賑やかなはずの花嫁行列に、婚儀を執り行う神職の者たち以外の参列者はいない。
花嫁側である二階堂子爵家側の理由は、当主である父と子爵夫人である母が、あやかしを恐れて参列を拒んだせいだ。
けれど、この婚儀を経て寧々の旦那様となるはずの男性――華嶺紫苑様の姿さえ無いだなんて。想像もしていなかった。
本日の婚儀が行われる大和神社は、帝都で最も歴史のある神社である。
下級のあやかしでは足を踏み入れることすらできないと言われているが、桜和國のあやかしが属する軍隊――破軍を率いる筆頭公爵家の次期当主であれば、問題は微塵もないだろう。
だとしたら、なぜ。
(やっぱり、人の子がお嫌いなんだわ……)
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ご無沙汰しております。碧水です。
『龍の贄嫁』の続き&書籍化を楽しみにしてくださっている方もいらっしゃるかと思います。
現在はもろもろ作業中ですのので、お待ちいただけましたら幸いです。(その関係上、なかなか第二部を公開できずすみません)
コメント返信の方も遅くなっていて申し訳ないです。必ず返信いたしますのでお待ち下さい。