幸せな雨夜のひとときから、五日が経った。
 バスを降りると、柔らかな爽風が私の頬を撫でた。久しぶりの快晴は眩しく思わず目を細めると、陽光を横切る一羽の鳥が見えた。

「いやー晴れて良かったな」

 遅れてバスから降りてきた高坂くんも、私と同じように空を仰ぐ。木漏れ日に照らされた彼の顔を見上げると、頬を一筋の汗が伝って落ちていった。たったそれだけでトクンと心臓が大きく跳ねるのは相変わらずだ。

「ほんとに。木曜日は結局雨で行けなかったもんね」

「ああ。それに、親ともう一度話してとりあえずの決着もつけたかったしな」

 あのあと、高坂くんは帰ってから再度両親と話し合いをしたらしい。その場だけでは足りず木曜日までかかったが、ようやく大学で学ぶことは認めてもらえたのだそうだ。

「でもなあ。在学中になにかしらの結果を出せ。どんな結果なら俺が満足するかも考えてみろって、相変わらず頭の固い親父だよ」

「確かに、それは言えてるかも」

 なかなか辛辣な条件に苦笑する。在学中に結果を出すのは映画やドラマみたいだとは思うけど、その見せる結果そのものも自分で決めさせるというのは見たことがない。なんとも難しい要求だ。

「まあいいや。とりあえずは納得してくれたみたいだからな。ノートは破られちまったけど、新しいノートおろしたし、これからまた埋めていくか」

「うん、そうだね!」

 高坂くんの前向きな言葉に嬉しくなる。初夏の太陽みたいな屈託のない彼の表情に私の頬も緩む。すると、いきなり高坂くんはポンと私の頭に手を置いた。

「それとさ、親に没収されてたスマホ返してもらったんだけど、たくさん連絡くれてたんだな。心配させて、返せなくてごめんな」

「え、そんなのぜんぜん大丈夫! そもそも没収されてたなら仕方ないし」

「それでもやっぱり心配かけちまったし、公園でもいろいろ迷惑かけたし。紫音にあんな格好悪いところ見せるつもりなかったんだけどな」

「高坂くん……」

 ポンポンと私の頭を撫でながら、高坂くんは視線を逸らした。ほんとにもう。私は堪えきれずに、彼の両頬を両手で思いっきり挟み込んだ。

「むぐっ!?」

 予想通り、高坂くんは驚いた顔で私を見た。いつもは爽やかで整っている表情が崩れて、私はつい吹き出してしまう。

「ふはっ。面白い顔〜。あははっ」

「ひや、らってそれはひおんが」

「だってもなんでもありません。少しは反省してください」

「はんへい?」

 私の手に顔を挟まれたまま、高坂くんは首を傾げる。

「そうだよ。私は迷惑だなんて思ってないし、格好悪いとも思ってないよ。むしろ強がって素っ気なくされたほうが嫌だし心配になるの。高坂くんだって、私の立場だったらそう思わない?」

「ほ、ほれは……」

「それに、ぜんぶ私がしたくてしたんだし謝らないでよ。普通にお礼を言ってくれたほうが私は嬉しいけどな」

 そっと私は手を離した。温かくて快い感触が遠ざかり、少しだけ名残惜しい。

「だから、高坂くんは反省してください」

 さっきまでの彼を見習って、私も顔いっぱいを綻ばせて笑った。言いたかったこと言えて、心はすっきりとしていた。
 それに、たまには高坂くんに教えを説いてもいいよね。
 いつも大事故レベルとか言われながら勉強を教えてもらっているのだから、これは私からのせめてものお返しだ。ありがたく受け取ってほしい。

「ははっ、まったく。紫音の言うとおりだな」

 照れたように高坂くんは首の後ろをかくと、離したばかりの私の左手をとった。

「紫音、ありがとな。そのお礼も兼ねて、絶対いい絵にするから、ほら行こうぜ」

「うん!」

 小さな寂しさを抱えていた手がまた愛しい温度に包まれる。心地の良い心音を聞きながら、私は大きく頷いた。
 水たまりの多い丘陵公園を、彼と手を繋いで登っていく。太陽の光をキラキラと反射させ、空の青さを映したその模様はまさに天然の鏡のようだった。

「ほら、こっち。そこ大きな水たまりあるから気をつけてな」

 ぐいっと手を引かれる。どきりと心臓が跳ねる。ふわりと彼の匂いに包まれる。ぽかぽかと心が温かくなっていく。
 二回目となる小道に足を踏み入れれば、そこはひんやりと涼しかった。少し早い梅雨時期の湿気と初夏の暑さ、そして熱った身体を冷やすにはこれ以上はなかった。
 本当に、彼を初めて見かけた時は、こんな関係になるなんて思ってもいなかった。
 不幸の青い糸。繋がれた人同士が結ばれると不幸になる、運命じゃない人を表す青い糸。
 その糸は変わらず、今も私と彼を繋いでいる。
 私だけにしか見えない、彼が近くにいると急に視界に現れて私を戸惑わせる、最悪の糸。
 けれど、たまに思う。
 もしこの糸がなければ、きっと私は彼を意識することはなかった。かっこよくて爽やかで、私なんかとは接点も共通点もまるでないクラスメイト。きっと、ただそれだけで終わっていた。良くも悪くも私は彼のことを見ていたから、その人柄を遠目ながら感じていたから、今があるのかもしれない。
 そう思えば、意識するきっかけを作ってくれたこの青い糸も案外悪いものではないのかもしれないとさえ思ってしまう。それに、“結ばれると不幸になる"というのも私の経験則だし、本当はそうなのかわからないのだから。

「ほら、もうちょっとだ」

 愛しい声が、私の鼓膜を震わせる。涼しさのせいか、私の頬の熱さが際立つ。
 この林を抜けた先にある青の光景。大好きな人が描く、私の嫌いな色で染まった風景画は、果たしてどんな絵になるんだろうか。
 今に満たされた気持ちと先に期待する気持ちを確かに感じながら、私はさらに一歩を踏み出して、


「きゃ――っ!?」


 突然、視界が反転した。
 転んだのかと思って手をつこうとするも、手の先は空を切る。

「紫音っ!?」

 焦った彼の声が聞こえる。
 必死に伸ばす彼の手が見える。
 無我夢中で掴むと、視界の急転は止まった。
 けれど代わりに、自分の状況がただならない状態にあることを自覚する。

「え……」

 私は、崩れ落ちた斜面に仰向けで寝転がるようにしてぶら下がっていた。足元の先には滑り落ちたばかりの土砂が堆積しており、今もパラパラと音を立てて端が崩れている。
 これ、え、え……?
 混乱する脳内とは裏腹に、現状だけはすぐに理解できた。
 私は、土砂崩れに巻き込まれた。

「は……っ、つうっ、し、紫音……!」

「あっ! こ、高坂くんっ!?」

 声のほうを見ると、苦痛で顔を歪めた高坂くんが必死に私の左手を掴んでいた。摩擦の少ない土砂の上で私が止まっているのは、彼が引っ張ってくれているからで……。

「ま、待ってろ……。今、引き上げて、やっから」

「こ、高坂くん……」

 視線の先で、青い糸がふわりと私と彼の手に絡みつく。触れられないはずなのに、気持ちの悪い感触が肌を刺してくる。
 高坂くんは右手で木の根本を掴み、右の足先も引っ掛けてなんとかぶら下がっている形だ。このままだと、二人とも落ちてしまう。
 私もなんとか、自力で登らないと。
 ここは斜面であって崖じゃない。だったら、なんとか登れるはず。
 そう思って、身体を捻ったのがまずかった。

「あっ!」

「きゃっ!?」

 視界が一回転したかと思うと、私たちは一気に下まで転がり落ちた。
 そこで、私の意識は途絶えた。


 *


 夢を見ていた。
 あれは、今よりももっと昔。
 小学生に上がる直前の、まだ無邪気な子どもだったころだった。

「わーっ! これ、紫音のランドセル?」

 新品のランドセルを担いで、私はくるくると踊っていた。

「そうよー。来月からこれを背負って、小学校に行くんだよー」

 はしゃぐ私の様子を見て、お母さんが嬉しそうに微笑む。

「幼稚園からの友達も行くからな。みんなで仲良く楽しく勉強して遊んでくるんだぞー」

 大きな手で私の頭を撫でながら、お父さんが目を細める。

「うん! 紫音、とってもたのしみー!」

「わっ、ちょっと紫音〜」

「はははっ、紫音は元気だなあ」

 お母さんを右手に、お父さんを左手に抱えて、私は大好きな二人の間に挟まる。安心する温もりと匂いが私を優しく包み込んでいく。
 いつからだろう。
 お父さんやお母さんに甘えなくなったのは。
 本当の気持ちを言えずに、二人の顔色や機嫌をうかがうようになったのは。
 無意識のうちに糸の意味を知り、その日が来ないことを祈っていたのは。

「ごめんね、紫音。気を遣わせちゃって」

 深夜、私が夢見心地に微睡んでいる時に、そっと頬に触れられる。ささやくように、堪えるように謝罪の言葉を口にしてから、お母さんは部屋を出ていく。

「ごめんな、紫音。辛い思いをさせて」

 明け方、髪の毛を通して伝わる優しい感触に、私の意識はゆっくりと浮上する。押し殺すような声が近くで聞こえたかと思うと、お父さんは仕事に向かう。
 二人の気持ちは、同じだった。
 それなのに、すれ違っていた。
 なんでなんだろう。
 毎日見ていた青い糸は、二人が仲良く笑っていた時も、無言で朝食を食べていた時も、扉の隙間から見た言い合いをしていた時も、変わらず真っ直ぐに二人の小指を繋いでいた。

 ふいに、夢が切り替わる。
 昼休みが終わって、一日の中で一番眠い五限の時間。
 教科書を読む間延びした先生の声と、チョークが黒板を叩く音が規則的に響いている。
 襲い来る睡魔と必死に戦うクラスメイトたちの隙間から、私はひとりの男の子を見つめている。
 彼も例外なく眠そうで、時節あくびをしては目元を擦っている。かと思えば、机の中から一冊のノートを取り出して、ぼんやりと眺めている。
 なにを見ているんだろう。
 心なしか彼の口元は緩み、眠そうだった目には生き生きとした輝きが戻っている。
 青い糸が絡まった左手で、彼は夢中になってノートをめくっている。

 また、場面が変わる。
 ここは、体育館横の階段?

「よう。春見、おはよ」

 唐突に声をかけられる。すぐ隣、手の届くところに、私と青い糸で繋がれた彼が座っていた。
 おはよ、高坂くん。
 どうしてここにいるの?
 というか、なんで私がここにいるってわかったの?
 私の中で自然と言葉が湧き上がってくる。けれど、そのどれもが声にはならない。パクパクと音にならない息が漏れるばかりだ。

「俺も寝坊しちまってさ。一限の数学、浜センだろ? 今から行っても怒られるだけだから、もうぶっちしようと思って」

 秋風が彼の髪を揺らす。大好きな彼の笑顔が私の胸を打つ。
 やっぱり好きだなあ。
 心地良くて少し苦しい。そんな仄かな恋心が私の中で広がっていく。

「べつに、私は寝坊したんじゃないけど」

 けれど、そんな私の気持ちとは関係なく口が動く。素っ気なくて、とても冷たい言い方。

「あれ、そうなのか。じゃあなんでここに?」

「まあ、なんとなく」

 違う、私はそんなふうに言いたくない。そんなことは言いたくない。
 そう思っても、口は勝手に言葉を発する。そう言うことが、最初から決まっているみたいに。

「そっか。じゃあ一緒になんとなくサボろうぜ」

 それでも彼は笑った。まったく気にする様子もなく、柔和な笑みを浮かべていた。
 そこで気づく。
 これは記憶で、既に過ぎ去った過去なのだということを。

 ――サボるにしても、ひとりだと寂しいじゃんか。サボり仲間ってことでいいだろ。

 高坂くんが笑う。
 近づきたいと思う。
 けれど、彼との距離は離れていく。

 ――まあなんでもいいけど、どうせ今から一限出る気もないだろ? じゃあ俺のサボりに付き合ってくれよ。

 声が遠のく。背景が、景色が、大好きな人が、白く塗りつぶされていく。
 待って。
 私の想いは、声にならず零れ落ちる。

 ――ほら。

「……っ!」

 目を開けると、蛍光灯が見えた。
 白く点々とした模様が特徴的な天井に、清潔感溢れるカーテン。介護用の手すりがついたベッドに、お腹の辺りで伏せっているのは、お母さん……?

「ん……は、紫音っ!」

 声をかけようと手を伸ばしたところで、お母さんは跳ね起きた。

「紫音っ! 身体は大丈夫? 痛いところない? 土砂崩れに巻き込まれたって連絡受けて、私急いで仕事切り上げてきて、すごく心配したのよ!」

「うん。ありがとう、お母さん。私は大丈夫」

「そっか……本当に、良かった。待ってて、すぐに先生呼んでくるから」

「あ、ちょっ」

 続く私の声は聞こえなかったようで、お母さんはそそくさと病室から出て行った。行きどころを失った声はため息に変わり、伸ばした手は力無く布団の上に落ちた。
 ただ。私の声がお母さんに聞こえていたとしても、私はきっとそのあとの言葉を次げなかった。
 訊くのが怖かった。
 視線を落として、私はぼんやりとお母さんが先生を連れてくるまで待った。
 窓の外は、うんざりするほどに晴れていた。


 *


「じゃあ、また明日来るからね。今日はしっかり休むのよ」

「うん、わかった。じゃあね、お母さん」

 先生からの説明が終わると、お母さんは仕事が残っているらしくすぐに帰ってしまった。まあ、事実として私は軽い打撲と擦り傷程度で、あとは異常がなかったからだろう。あの高いところから転がり落ちてこの程度で済んだ私はかなり幸運だったと、担当してくれた先生が言っていた。私は今日一日病院で過ごし、翌日の午前中に退院することになった。その時にはお父さんも来て、なにやら久しぶりに三人でご飯に行くらしい。私は意外にも早く、日常生活に戻ることができそうだった。
 そう。あくまで、私は。
 窓のほうに目を向ける。眩しいほどの夕陽が差し込み、室内を淡くオレンジ色で染め上げている。ふっと息を吐いたところで、間仕切りのカーテンが翻った。

「やっ、紫音ちゃん。調子はどう?」

「瞳、さん……」

 カーテンの隙間から現れたのは、瞳さんだった。いつものだらしない下着姿でも、ダボっとした部屋着のTシャツ姿でもない。白衣を身にまとい、凛とした表情で佇む外科医の姿だった。

「私は、大丈夫。明日には退院だって」

「そうか、なら良かった。紫音ちゃんは軽傷だったと聞いてたけど、一応ね」

 それでも、瞳さんはホッとしたように短く笑った。心配してくれたのは嬉しかったけれど、私の気持ちは穏やかではなかった。

「あの、瞳さん。彼は……高坂くんは、大丈夫なの?」

 結局、さっきは担当の先生にもお母さんにも訊けなかった。二人も、あえてなのか話題には挙げなかった。けれど、やっぱり私は知らないといけない。一緒にいた彼の、私の恋人の状態を。

「本当のことを教えて。お願い」

「一命はとりとめたよ」

 私の問いに、瞳さんは顔色ひとつ変えずに即答した。その物言いに、私の心臓がヒュッと締め上げられる。

「一命は、って……」

「ただし、重症だよ。尺骨茎状突起(しゃっこつけいじょうとっき)及び橈骨遠位端骨折(とうこつえんいたんこっせつ)にTFCC損傷……まあ、簡単に言うと両手の骨折に手関節の捻挫が見られるの。おそらく、落下の際に手に衝撃が加わったんだろうね」

「そ、んな……」

「意識はまだ戻ってないけど、頭部への外傷や脳への損傷は見られなかった。だから、じきに目は覚ますと思うよ」

 めまいがした。冷や汗が背中を伝い、ドクドクと気持ちの悪い心音が響く。けれど、私は必死に自分を叱咤して瞳さんを見据えた。

「……こ、高坂くんは、絵を描くのが、好きなんだ……だから、また……絵を描ける、よね?」

 揺れる視界の端に、ぼんやりと高坂くんの笑顔が浮かんだ。

 ――じつは俺、絵を描くのが好きなんだ。
 
 声も聞こえる。私に告白してくれた時の、優しい声が響いている。

「……」

 瞳さんは答えない。私は業を煮やして叫んだ。

「お願い、答えて!」

「……わからない。ただ、後遺症が残る可能性はある」

「……っっ!」

 声にならない苦痛が全身を駆け巡った。ぐわんぐわんと視界が揺れる。

「でも大丈夫。彼の担当は私だから。私生活は頼りないけど、こっちの分野ではわりと名が通ってるんだよ。任せておいて」

 瞳さんが、なにか言っている。いつもののんびりとした口調じゃないし、元気付けてくれているのはわかった。けれど、上手く言葉が頭に入ってこない。

「……ごめん、瞳さん。ちょっと休みたい」

 それだけ言うと、シーツを被って布団に潜り込んだ。瞳さんがまたなにか言っていたけれど、すべて無視をした。ありがとうのお礼も言えずに、耳をギュッと塞いで丸まった。視覚も聴覚も触覚もすべてシャットアウトしたかった。
 すべてが嘘で、これは夢だと思いたかった。
 目を覚ませば教室で、なにうたた寝してんだよって高坂くんが笑いかけてきて、紫音の顔に跡ついてるよって美菜にいじってきてほしかった。
 でも。
 気がつくと、そこは窓のブラインドが締め切られ、蛍光灯のみの光に照らされた病室だった。瞳さんはいなくなっていて、代わりにサイドボードに一枚のメモ用紙が置かれていた。

 高坂実くんの病室は、B棟の602号室

 すぐにメモ用紙を掴んで、私は病室から飛び出した。


 *


 看護師さんに注意され、早足と駆け足を繰り返しながらも、私はどうにか彼の病室に辿り着いた。

「っ、はぁ、はぁ……」

 息が上がる。たいした距離は移動していないし、それこそ高坂くんと一緒にいた時のほうが歩いたり走ったりしているのに一番息が切れている。意味がわからない。
 肩で息を整えながら、私はチラリとネームプレートに目をやった。
 602号室 高坂 実
 名前を見ただけで、肋骨の下がうずく。手には嫌な汗が流れ、ズキズキと頭が痛んだ。
 高坂くん、高坂くん、高坂くん……!
 けれど、引き返すつもりはない。私は祈るような気持ちで、重く閉まり切ったドアを開けた。

「あ……」

 そこは静寂に満ちていた。
 私のいた複数人の患者さんが入院している部屋ではない個室の病室で、室内はかなり薄暗い。上方の小窓からは月明かりが差し込み、彼が横たわるベッドを淡く浮かび上がらせていた。

「あ、あぁ……」

 そして無慈悲にも、それはふわりと波打った。
 胸の前で震える左手の小指に絡みつき、緩やかな螺旋(らせん)を描いて彼の左手へと伸びている。毛糸ほどの太さの糸は、ぼんやりとした輝きを放って眼前でその青を主張していた。
 ふらつく足で病室に入ると、ドアはゆっくりと閉まった。遠くで聞こえていた看護師さんたちの話し声やリノリウムの床を歩く音は遠ざかり、さらに静かさが増していく。
 どうにかベッド脇まで辿り着くと、私はその場にへたり込んだ。
 
「高坂、くん……」

 寝ている彼の両腕には、分厚いギプスが巻かれていた。台の上に置かれ固定された手は痛々しく、私はそのまま直視できなかった。

「高坂くん、高坂くん……っ」

 ひんやりとしたリノリウムの床に涙が次々と落ちていく。喉の奥から彼の名前を呼ぼうとするも消え入るような声しか出ない。彼の反応はなく、微かな寝息が聞こえるばかりだった。

 どうして、こうなってしまったんだろう。

 涙で濡れた床を見つめながら自分に問いかける。
 でも、そんなのは分かりきっている。
 私と彼が、恋人同士だからだ。
 私が、彼の告白を受けたからだ。
 私が、彼に近づいたからだ。
 私と彼が恋人同士でなければ、あの丘陵公園に一緒に行くこともなかった。彼もきっと土砂崩れに巻き込まれずに済んだ。
 私が彼の告白を受けなければ、恋人同士になることもなかった。最初の絵のモデルが終われば、あとはそのままフェードアウトしていればよかった。
 私がずっと避けてさえいれば、告白されることもなかった。私が余計なことを言わなければ、そもそも絵のモデルなんて話にもならなかった。
 せっかく不幸の青い糸が教えてくれていたのに。
 好きな人が不幸に遭うのを回避する手段があったのに。
 その手段は私の気持ちさえ我慢すれば難なく達成できるものだったのに。
 ぜんぶ、私のせいだ。
 
「ごめん、ごめんなさい……っ」

 私はどうすればいいんだろう。
 これからどうしたらいいんだろう。
 漏れ聞こえた声で看護師さんになだめられるまで、私は彼の傍で泣き続けた。


 *


 翌日も、高坂くんは目を覚まさなかった。
 それなのに、私は先生や看護師さんのぎこちない笑顔に見送られ病院をあとにした。

「紫音、一緒にいた男の子のこと、瞳から聞いたのね」

 車の中で、お母さんは心配そうに言った。きっと、瞳さんかほかの看護師さんから昨夜のことを聞いたんだろう。
 私は流れ行く窓の外を眺めながら口を開く。

「うん。でも、教えてって無理にお願いしたのは私だから」

「だけど」

「まあまあ。確かに大きな怪我で気の毒だったけど、命を拾っただけでも良しとせにゃ」

 運転をしているお父さんがなんでもないふうにたしなめてくる。イライラした。でも、八つ当たりなのは目に見えていたから我慢した。
 一夜を過ぎても、私はどうしたらいいのかわからなかった。
 未来の不幸より、今の気持ちを大切にする。
 高坂くんや美菜や瞳さんたちと話して、過ごして、ようやくそう思えるようになった。
 でも、いざその不幸を眼前に突きつけられると、想像の何倍もしんどかった。よく、「この人となら不幸になってもいいと思える人と一緒になりなさい」なんて言う人がいるけれど、そんなのはただの綺麗事だと思った。こんなふうに傷つくくらいなら、初めから恋人になんかならなければよかった。そんな後悔ばかりが浮かんで、昨夜はまったく寝られなかった。

「さあ、着いたぞ。とりあえず、美味いもんでも食べて気分を変えよう」

 車窓からの景色が住宅街を抜け、大通りに入ってしばらく経ったころ、私たちの車はとあるお店の駐車場に入った。
 見たことがある外観に看板だった。窓際に置いてある占いのゲームで、小さいころに家族でよく行ったレストランだと思い出した。

「今日は遠慮なくなんでも食べていいからね。やっぱり私たちにとっては紫音、あなたが無事だったことはなにより嬉しいんだから」

 涙ぐみながら、お母さんが抱きしめてくる。
 嬉しくなかった。恋人があんな大怪我をしているのに、私が無事で良かったと言われてもぜんぜん喜べなかった。むしろ苛立ちすら覚えてきて、それからそういえばお母さんたちには彼のことを話してなかったなと思った。彼が恋人だと言ってもなければ、言おうという気持ちすら起きなかった。というか、一ヶ月経つのに恋人ができたと報告したこともない。私は、二人の言葉に小さく頷くしかなかった。
 車を降りて、懐かしいレンガ造りの店内に入った。オシャレな内装や手の込んだ木組みの天井、そして厨房からの香ばしい匂いが懐かしい。私たちは、案内されるがまま奥のテーブル席についた。

「さっ、紫音。どうする? なに食べたい?」

「遠慮しなくていいからな。お父さんも久しぶりにデラックスダブルステーキセット頼んじゃおうかな」

「もう、お父さん。若くないんだから、明日胃もたれしても知らないわよ?」

「はははっ! 違いない!」

 和やかな雰囲気が流れる。落ち着いたジャズの音楽にお昼時の喧騒も合わさって、そこは確かに日常だった。
 時々向けられる二人の問いに生返事をしながら、メニューを上から順に眺める。小学生の時はワクワクしながらページをめくっていたっけ、なんて過去を思い出す。でも、その先はぜんぜん記憶がない。チラリと二人に目をやれば、それぞれの左手の小指から青い糸がだらりと垂れ下がっている。
 そこで、はたと気づいた。

「ほら、紫音決まった? お父さんはステーキセットで、お母さんはきつねうどんにするんだけど」

「私は……オムライスで」

「はははっ、紫音は昔から野菜炒めとオムライスが好きだよなあ」

 ほとんど無意識に口にした食べ物は、ここ最近まったく食べていないもの。
 お母さんの得意料理で、お父さんも好きなはずの料理。
 二人が喧嘩をするようになってからは、食卓に出なくなった料理。
 そして……きっとこれからも、みんなで笑いながら食べることはない料理。

「ねぇ。お母さん、お父さん」

「ん?」

「なあに、紫音?」

「えと……」

 注文を終えてから、私は思わず二人を呼んだ。でも、言葉は喉の奥につかえてなかなか出てこない。

「……なんでも、ない。忘れちゃった」

 にへらと笑顔をつくる。二人は「なんだそれ」「ふふっ、思い出したら教えてね」と笑いかけてくる。
 訊いていいのかわからなかった。訊いちゃいけないことのような気もした。その先にある可能性に、未来に、私はまだ向き合う答えを見つけられていなかった。それに勘違いかもしれないし。
 それから学校のことや勉強のこと、美菜たち友達のことを話しているうちに注文した料理が運ばれてきた。

「おっ。このステーキセット、ソースの味変わったのか。結構美味いな」

「うどんは初めて食べたけど、麺のコシがあってとっても美味しいわ」

 しばらく来ていないと材料や調理の仕方が変わっているようで、私の食べたオムライスも卵の味が少し甘くなっていた。甘いオムライスは好きだ。ただ、昔食べたオムライスのほうが美味しかったように思えた。
 穏やかな時間が流れた。
 たわいない会話を三人でしたのは久しぶりだった。
 食後には三人ともケーキとコーヒーのセットを頼んだ。ほど良い甘さのケーキとコクのある引き立てコーヒーが絶妙にマッチすると書かれていて、二人とも気に入ったようだった。でも私には、少し苦かった。
 どうしようもない違和感が、そこにはあった。
 あんなに険悪な雰囲気だった二人が、笑いながら雑談に興じている。無理に明るく振る舞っているような、そんな気配すら感じられた。
 やっぱり、そういうことなんだろうと思った。

「ねぇ。お父さん、お母さん」
 
 二人を呼ぶ。今朝見たテレビ番組かなにかの話をしていた二人は同時に私を見た。

「どうした?」

「なに、紫音?」

「あのね」

 確かめないといけない。
 もしそうなら、またひとつ不幸が形になる。
 お父さんのリストラから始まった我が家の不幸の行く末が決まってしまう。けれど……

「なにか私に、話したいことがあるんじゃないの?」

 どうしても聞いておかなければいけなかった。
 娘としてだけじゃない。私がこれから高坂くんとどうしていくかを決めるためにも、身近にいる不幸の青い糸で繋がれた二人の決断を知りたかった。
 私の問いかけに、二人は気まずそうに目を伏せた。何度か探るように互いの顔を見合わせてから、おもむろにお母さんから口を開いた。

「えっと、ね。じつはお母さん、夏から遠くの地方に転勤することになっちゃって。引っ越さないといけないの」

「そのな、お父さんはこっちで仕事をしないとだから、別々に住むことになるんだ」

 二人は言葉を選ぶように、ポツポツと説明してくれた。お母さんは勤めている会社の新部署設立でマネージャーを任されることになったこと。それに伴う販路開拓でしばらく地方へ赴任することになったこと。お父さんは家もあるし就いたばかりの職を変えるつもりもないからそのまま住むことなど。
 でも、いつまでかは言ってくれなかった。

「ああ、それとね。紫音は通い慣れた高校がこっちにあるから、そのまま今の家に住んでね」

「ごめんな。お父さん夜勤ばっかりで家を空けることも多いと思うけど、もう少しの間だけ我慢してくれ」

 しかも、所々に含みのある言い方だった。
 私は、通い慣れた高校があるから今の家に住むのだろうか。しばらくの単身赴任だというなら、引っ越しの選択肢はないからそんなことまで言わなくていいのに。
 それに、もう少しの間ってどういう意味? お父さんは仕事を辞めるつもりがないのに、まるで私の我慢する期限が決まっているみたいだ。

「……本当に、それだけ?」

 青い糸がゆらりと揺れて、私は堪らず口にしていた。
 本当に二人の仲には問題がなくて、仕事の都合でしばらく別居するだけなら返事は即答してくれるはず。そんな微細な可能性を心に二人の顔を見やれば……案の定、黙ったままだった。

「もう、いいよ。私、ぜんぶ知ってるから」

 これが、不幸の青い糸で繋がれた人同士の結末だというのなら、私の選択肢もひとつだった。

 ごめんなさい、高坂くん。今までありがとう。

 私は、自分と繋がれた青い糸の結末は見たくない。


 *


 それから私は、一度も高坂くんのお見舞いに行くことなく、彼が目を覚ます前に一通だけ手紙を送って――転校した。