桜が散り、新緑の木々が立ち並ぶ季節になった。
高坂くんと付き合うようになってから一ヶ月あまりが過ぎ、不幸の青い糸で繋がれた私たちの関係は……意外にも順風満帆だった。
「紫音〜、もう少しだけ左向いて!」
「こう?」
「そそ! おーいい感じー!」
いつの間にやら呼ばれ方が変わり、休日である今日も今日とて河川敷まで足を伸ばして高坂くんの描く絵のモデルをしている。陸上部は月曜と木曜がお休みなので、最近はもっぱら木曜と休日に絵、月曜に勉強、という感じで一緒の時間を過ごしていた。
ちなみに、告白された日に下書きを終えた絵は、GWに追い込みをかけて完成させ既に応募している。結果が出るのは六月ごろらしく、それまでは夏にある大きなコンクールに出す絵の構図を練ろうということになった。高坂くんが今描いている絵もその一環なんだけど……
「うーん、やっぱり紫音の横顔って絵になるよなあ。いつまで見てても飽きない」
「ねえ、恥ずかしいんだけど。それにさっきからずっと手が止まってる」
「良い絵を描くにはまず観察からなんだよ」
得意げにそう語る高坂くんだけど、三十分以上見つめられているこっちの身にもなってほしい。仄かに熱くて緩みそうになる頬と、いくばくか速い鼓動を心地良く感じながら、私は彼方に広がる青空を眺める。
「そういやさ、藤村と野々村のやつ聞いたんだよな?」
ようやく鉛筆を滑らせながら、高坂くんが訊いてきた。
「ああ、うん。付き合ったんだってね」
視線はそのままに私は答える。
昨日の朝のホームルーム前、美菜は教室に入るや否や満面の笑みを浮かべて、「ねねねっ! 聞いてー! 私、藤村と付き合うことになったんだ〜!」と私に突撃してきたのだ。
「俺らはその時ちょうど教室にいなかったけど、なんかすごかったらしいな」
「ああ、うん。確かにすごかった」
そこにはちょうど結花も来ていて、二人して「ええっ!」とハモった。さらには近くにいたたまに話すクラスメイトの女の子たちにも聞こえたようで、私たちの周りは朝から大盛り上がりだった。
「いやーでも、あの映画見た時からわりとかかったよな。一ヶ月くらい経ってるっけ?」
「うん。詳しいことはあんまり聞いてないけど、少しすれ違いとかもあったみたいで」
映画を見た後は私も自分のことでいっぱいいっぱいだったけど、どうやら美菜のほうもいろいろあったらしかった。なんでも、会話が学校の時よりギクシャクしててあまり楽しくなかったり、あれやこれやと気を遣いすぎて空回りしてしまったりしたらしい。これまでの美菜の恋バナではそんな話を聞いたことがなかったので、結構心配していたのだ。
「藤村は優柔不断なところあるからなー。まあ、野々村ならその辺もわかってて付き合ってそうだし、たぶん大丈夫だとは思うけど」
「まあ、そうだね。今はほとんどすれ違いもなくなったって言ってたから、私も大丈夫だと思ってる」
「そうか、なら良かった……あ!」
そこで、なにやら思いついたように高坂くんはポンと手を叩いた。
「どうしたの?」
その仕草がいかにも「良いこと思いついた!」という感じだったので、私は興味深げに首を傾げる。すると、高坂くんはいやに顔を輝かせて笑った。
「今度さ! 藤村と野々村連れてダブルデートいかね!?」
高坂くんの言葉に、思わず私は指定されたポーズを崩して立ち上がった。
「ええっ!? なんで!」
「めっちゃ楽しそうだし! それに前はなんだかんだ作戦のこと気にしてたから、今度は気兼ねなく遊びたいじゃん!」
「んー」
一理ある。ほかのクラスメイトとは違って美菜には高坂くんと付き合い始めたことを報告してあるから問題はないし、確かに楽しそうだ。ただ……
「ただちょっと、なんというかその、恥ずかしいというか……」
ここ一ヶ月、異性と付き合うということに不慣れすぎて、私は終始あたふたとしていた。付き合ってから初めてした美術館デートで唐突に手を繋がれ、「ひょわ!」などと奇声を発して跳び上がったときなんか顔から火が出るかと思ったくらいだ。
そんなことを思い出しモジモジしながら伝えると、あろうことか高坂くんは私に抱きついてきた。
「紫音、お前マジで可愛いな!」
「ななな、なににゃに!?」
黒歴史はこうして生成されていくらしい。
*
ひと通り絵を描き終えると、私たちは並んで土手に腰を下ろした。用意周到にも高坂くんはレジャーシートを持ってきており、すぐ隣で仰向けに寝転がっている。私も勧められたけど、さすがに恥ずかしいので大人しく体育座りだ。
「いやーのどかだなあ」
青空を仰いで高坂くんがつぶやく。
「ふふっ、そうだね」
ちょうど同じことを思っていたので、私は小さく笑って頷いた。
川から吹いてくる涼風は心地良く、土手や河原に生えている草花をなびかせている。四月には花が満開だった桜並木はすっかり緑に衣替えをし、うららかな陽気に隠れた夏の気配がひしひしと感じとれた。
また日曜日ということもあって、河原にはまばらに人がいた。水切りをしている小学生に、川釣りを楽しんでいるおじさんたち、私たちと同じようにレジャーシートを敷いている家族に、川沿いに置かれたベンチで寄り添い合っているカップル……。
私たちも、そういうふうに見えているのかな。
自覚すると途端に熱くなる頬は、一ヶ月経っても相変わらずだ。いい加減慣れろよと思わなくもないが、この気持ちを大切にしたいと思う自分もいる。慣れてしまうとなんだかもったいない感じがして、もう少しこの気恥ずかしさや幸福感を味わっていたいのだ。
それに、今のところなんともないが、不幸の青い糸のこともある。チラリと左手に目をやれば毛糸ほどの青い糸が変わらず絡みついており、その先は寝転がる彼の手のほうへと伸びている。なるべく気にしないようにはしているけれど、やっぱり不幸の予感が身近にあるというのはどうにも落ち着かなかった。
「また明日から学校だしなー。ちょっとダルいなーこれは五月病かなー」
「そのわりには絵も勉強も陸上も頑張ってるよね」
「ふふん、今は彼女もいるからな〜。やる気に満ち溢れてる」
「またそういうこと言うー。というか、どこが五月病なの」
ただ、それでも。
ずっとこんな時間が続けばいいなと思う。
たとえ不幸の予感があったとしても、今は高坂くんと離れたいとは思わない。
未来のことはわからないし、起きていないことを考えても仕方がない。
さらりと小っ恥ずかしいセリフを吐く高坂くんの隣で、私は頬を赤く染めながら笑っていたい。
「まあでも、ほんとやる気のあるうちにやらないとだよな」
人のことは言えないほど私も小っ恥ずかしいことを考えながら笑っていると、高坂くんが勢いよく跳ね起きた。近くに留まっていた蝶々が、驚いたように飛び立つ。
「なにかするの?」
「ああ。俺さ、進路を決めるためにもそろそろ親に絵のこと言おうと思ってるんだ」
一陣の風が、彼の短い髪を微かに揺らした。
その下には真っ直ぐに前を見据える、爽やかな笑顔が浮かんでいて。
やっぱり高坂くんは、すごい人だと思った。
*
「瞳さんってさ、進路っていつ決めた?」
高坂くんと解散したあと、私は瞳さんのところに来ていた。帰宅するや否や、待ち構えていたかのようにお母さんからタッパー入りの保冷バッグを渡されたからだ。ここ最近は特に多く、二日に一回のペースで来ている気がする。
「ん〜? 進路ぉ〜?」
私が麦茶を片手に辟易としている一方で、瞳さんは熱心にカップラーメンの物色をしながら曖昧に返事をした。いつも通りのマイペースっぷりは、見ていてなんだか安心する。
「確か〜、高二の時だったかなあー?」
「やっぱり私くらいの時期だよねー。あーあ、どうしようかなあ」
「どうしたどうした? あれか、最近できた噂の彼氏くんか?」
夕ご飯を食べたばかりだというのに、今から食べるらしいミニカップラーメンを手にした瞳さんは、意地の悪い笑みを浮かべてテーブルについた。ラベルには濃厚辛味噌唐辛子入りとある。
「んーーまあ、んー……そう」
少しだけ迷って、私はこくりと頷いた。
美菜と同様に、瞳さんにもずっと好きだった高坂くんと恋人になったことは大まかに話してある。もっとも付き合ってすぐのころ、瞳さんのところに来た時に「あれ? なんかいいことあったの〜?」と一発で見抜かれたのだが。
それからは青い糸とのことも相まって、私の悩みのほとんどを瞳さんに相談していた。
「なんか彼、やってみたいことがあって進路を固めようとしてて、すごいなあって思って。私は勉強苦手だし、スポーツもできないし、やりたいこともわからないしで中途半端だなあって」
「んーなるほどねぇ。ちなみにそれ、彼氏くんには言ったの?」
「ううん、言ってない。まずは自分で考えてみようかなって」
それに、やっぱりまだ高坂くんとの距離をこれ以上縮めていいものか迷ってもいた。彼との距離が近くなればなるほど、不幸も近づいてくるような気がして。そして、いざ不幸に見舞われた時の悲しみや悔しさも大きくなってしまうような気がして。その結果、未だに高坂くんのことを「実くん」と呼べていないし、じつは私から「好き」とは伝えられていない。本当に、悩みは尽きない。
「ねえ。瞳さんも高二の時に決めたって言ってたけど、なんかきっかけとかあったの?」
「私? んー、そうね~~」
私の問いに瞳さんは少し考えるような素振りをしつつ、電気ケトルから沸いたお湯をカップに注いだ。
「私はねー、お金を稼ぎたかったから」
「え?」
「お金持ちになって、美味しいものをたくさん食べて、買いたいものを好きなだけ買って、なに不自由なく暮らしたかったのよー、私。んで、理系で勉強得意だったから医者になったの」
いつの間にセットしたのか、キッチンタイマーの音が鳴った。どうやら三分経ったらしい。瞳さんはフタを開けると、スープ粉末を入れて美味しそうにラーメン頬張り始めた。
「私も高二で決めたって言ってもそんなもんよ。大それた理由なんてない。人にはそれぞれのペースがあるんだから、紫音ちゃんは紫音ちゃんのペースでいいんじゃない? あーうま〜〜ってか、辛っ!」
「私のペースねー。はい、お水」
ヒーーッと舌を出す瞳さんに水を勧めてから、私は今ほどの言葉を反芻する。確かに、クラスのほかの友達でやりたいことが決まっているなんてほとんど聞いたことがない。当然言ってない可能性もあるけど、高坂くんみたいに明確になっている人は少ないだろう。
けれど、私の選択する進路によっては高坂くんと離れてしまうかもしれない。もちろん彼の進路に合わせることもできるけど、高坂くんのことだからきっと喜んではくれない。むしろ悲しませる可能性すらある。やっぱり他の人がどうこうではなく、私は私の意志で、自分の進路を決める必要がある。
「はーっ、はーっ、あ~~辛かった。まあでも、まだ焦らなくていいと思うよ。受験まで一年以上あるし、選択肢や視野を広げるためにこの大学に行く、とかでもいいんだし。あとは愛しの彼氏くんに相談してみればいいんじゃない?」
「もう~っ! だから恥ずかしいからそういうの止めてー!」
続く瞳さんのいじり猛攻に反論しつつも、やっぱり高坂くんに相談してみようかなと思っている自分に気づいて、私の頬はさらに熱くなった。
*
翌日の月曜日。私と高坂くんはいつも通り図書館の奥にある自習スペースで勉強をしていた。
「紫音、ここの途中式間違ってるぞ」
「あれ、ほんとだ。また符号が逆になってる」
指摘されたところを消しゴムで消し、正しい答えを書く。高坂くんにもう一度見せると、「大正解」と花丸をもらえた。やった。
「紫音って意外と物覚えいいよな。あんなに壊滅的だった数学が、今や大事故レベルまできてるし」
「それでも大事故レベルですか……」
上げて落とされ、私は苦笑する。
まあ否定はできない。未だに小テストは赤点だし、この前あった復習テストにいたってはちょっと誰にも言えない点数を叩き出している。それでも、以前に比べれば断然いいほうだ。
「焦んなくていいよ。まだ受験まで一年以上あるし、数学の点を上げるには根気が必要だからな」
「根気かー」
その頃には私の行きたい大学も決まっているのかな、なんて思って、ふと昨日の瞳さんとのことを思い出した。
……うん。大丈夫。高坂くんと恋人になって頑張るって決めたんだし。
ノートに置いた左手から伸びる青い糸を無視して、私は口を開いた。
「ね、ねぇ。ちょっと聞きた」
「でもマジで俺も、根気よくいかないとだよなあー」
そこでタイミング悪く、私の小さな声に高坂くんの声が重なった。見れば、高坂くんは気づかなかったようで、考え事をしているような面持ちでペンを回している。
高坂くん……?
どこか憂いを帯びているようにも見えるその表情に、私は違和感を覚えた。とりあえず出かかった相談の言葉を飲み込んで、べつの言葉を口にする。
「高坂くん、もしかしてなにかあった?」
「え? あーいや」
ほとんど無意識の独り言だったようで、高坂くんは気まずそうに目を逸らした。訊いちゃいけなかったかなと思いつつも、私は次の言葉を待つ。
やがて、高坂くんはためらいがちに私のほうを見た。
「まあその、昨日帰ったあとにさ、両親に言ったんだ。絵のこととか、そっち関係のことが学べる大学に行きたいこととか。そうしたら、なんていうか、喧嘩になっちまって」
「喧嘩?」
困ったように笑う彼の表情に、胸がちくりと痛む。
「うん、そう。でも大丈夫。しっかり時間をかけて説得してみせるから。だから、そう心配すんな」
笑顔の性質をいつものそれに戻して、高坂くんはポンと私の頭に手を置いた。無理をしているようにも見えるけれど、高坂くんが大丈夫と言っているなら私にできることは見守ることだけだ。
……って、え? あ、頭、撫でられてる!?
「え! ちょっ! あ、頭!」
「頭? なんかついてる?」
ポンポンポンと私の頭を優しく撫で続けながら、反対の手で自分の頭を確認する高坂くん。その顔はいつの間にかニヤけている。
「これ! この手だよ! は、恥ずかしいんだけど!」
「えーいいじゃん。今は誰もいないんだし」
高坂くんは笑みを深めて、さらにわざとらしく撫で回してくる。しかも、髪が乱れないように気を遣ってくれてるのが伝わる撫で方で、これがまたずるい。
どうすればいいかわからず、ついにはなされるがままになっていると、満足したのかようやく手を離してくれた。
「とまあ、俺のことは置いておいて。紫音のほうも、なにか言いたそうな顔してるけど?」
「え?」
予想外の問いかけに、私は呆然とする。
もしかして、さっき口にしかけたことを言っているのだろうか。でも、今の口ぶりだとむしろ私の表情から読み取ったみたいな感じだ。なんてずるい。
少しだけ迷う。相談しようかなと思って口にしたのはいいけど、高坂くんだって進路は自分で決めて自分で行動していて、上手くいかなくても根気強くなんとかしようとしている。なら私も、もう少し自分で考えてみたい。
「んーえとね、夏のコンクールに出す絵って、いつごろから描き始めるのかなって」
結局、私はべつの疑問で誤魔化した。素直に話してくれた高坂くんには申し訳ないけれど、ご愛嬌ということにしてほしい。
高坂くんは私の問いかけに、今度はニヤリと得意げに笑った。
「あーそれね。紫音が構図の練習に付き合ってくれたおかげで、一応俺の中で描きたい絵が決まった」
「えっ、そうなんだ。どんな絵を描くの?」
確か、高坂くんが今年の夏に出す予定のコンクールでは、特にテーマは決まっていなかった。なにを題材にするんだろうとワクワクしていると、彼は人差し指を立ててチッチッチと左右に振る。
「まだ秘密! 行ってからのお楽しみってことで!」
「えー、なにそれ」
ここまで期待させておいてそれはない、と抗議するも、なぜか高坂くんは笑って教えてくれなかった。
*
図書館で勉強をした日から三日後の木曜日。
私たちは六限後のホームルームを終えるや否や、そそくさと教室をあとにした。二人して早足で廊下を駆けて階段を降り生徒玄関を抜けると、ダッシュで少し離れたところにあるバス停に向かい、ちょうど来たバスに乗り込んだところだ。
「はーっ、なんとか間に合ったな」
「はぁ、はぁ……もう、私帰宅部なんだけど」
後部座席に座り、私はパタパタと首元をあおぐ。こんなに全力で走ったのはいつぶりだろうか。
「まあまあ。久しぶりにいい運動になったろ?」
「それはそう……って、なんか年寄りくさい!」
昔、お父さんが言っていた言葉を思い出し、反射的にツッコむ。すると、「社会人全員を敵に回すぞー」と高坂くんに笑われた。
それから今日の授業の話や美菜と藤村くんの話なんかをしていると、間もなく私たちを乗せたバスは山道に差し掛かった。カーブするたびに車が揺れ、隣に座る高坂くんと肩が触れ合う。付き合って一ヶ月経つけれど、やっぱり恥ずかしくて私の心臓は早鐘を打っていた。
「お、もうそろそろだな」
私が必死に心を落ち着けていると、窓の外を眺めていた高坂くんが言った。つられて外を見ると、青々と生い茂った樹木が連なる山肌に、僅かに白ずんだ春の青空が視界に広がった。幼いころに何度か家族で紅葉狩りに来たな、と思い出が蘇る。
「ここって確か、丘陵公園があるんだよね」
「お、やっぱ来たことあったか。俺も夏休みとかに部活でたまに来るんだ。坂道とか駆けずり回ってヘトヘトになるんだけどな」
「うわ、キツそう」
夏の炎天下の中、さっきバス停まで走った時みたいなダッシュを坂道で繰り返す練習を想像して私は顔をしかめた。いつも思うけれど、運動部の人はどうしてあそこまで自分を追い込めるのだろう。私なら絶対に途中でリタイアしているか、疲れ果てて重力のままに坂を転がり落ちている。
「まあ確かにキツいけど速くなるためだしな。それに今日は坂道ダッシュじゃなくて、最高の穴場で絵を描きに来たんだし」
「最高の穴場?」
私が首を傾げると、高坂くんは楽しげな笑みを浮かべて頷いた。
「ああ。きっと驚くと思う。時期的にそろそろだとは思うんだけど」
「時期? そろそろ?」
「おっと、着いたな。よっしゃ行くぞー」
私の疑問が氷解しきる前にバスは目的地に到着した。ICカードをタッチして下車すると、ふわりと潮の匂いが鼻腔をくすぐった。
「ここって、海にも近いの?」
「そうなんだよ。反対側は山があるんだけど、こっち側は海のほうに繋がってて、丘陵公園のさらに奥にある展望台からは両方の景色が見えるんだ」
「へぇー!」
ぜんぜん知らなかった。家族で紅葉狩りに来た時はもっと山間まで入って行ったし、丘陵公園に用事もないので来たことがなかった。そんなに綺麗な景色が見えるならもっと早くに来ておけば良かった。
私がひとり心中で悔やんでいると、顔に出ていたのか高坂くんは「あとでそっちも行ってみるか?」と言ってくれた。私が夢中で頷くと、なぜか失笑された。
バスを降りてからは、高坂くんに続いて木製の丸太階段を昇っていく。大きさや幅がまちまちで思わず転びそうになると、高坂くんがすんでで受け止めてくれた。山道を登る運動に加えて、さらに脈拍が速くなったのは言うまでもない。
そうして丘陵公園の遊歩道を登ること二十分程度。前を歩いていた高坂くんが、「ほら、ここだ」と前方を指差した。
「え?」
その先を見て、私は思わず呆けた声をあげた。
なぜなら、彼の指の先にあるのは、鬱蒼とした茂みと獣道みたいな僅かな通路だったから。
「この奥にさ、いい場所があるんだ。小さいころに見つけて、今もたまに来てるんだ」
「えーっと、この奥に行くの?」
「大丈夫大丈夫! そんなに長く続いてないから!」
本当にそうだろうか。なんだか虫とかが多そうだし暗いし狭いしで、私ひとりだったら絶対に入らないような道だ。堪らず私はもう一度疑念の目を高坂くんに向ける。
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
それでも変わらず明るく言う高坂くん。まあ、彼がそういうならそうなんだろうし、せっかくここまで来たんだからとことん行ってみるのがいいか。
「大丈夫。ほら、行こうぜ!」
「わっ」
ぐいっと前に引かれた。
途端に日差しが減り、新緑や潮の香りが濃くなる。日陰に入ったからかいやに涼しく、木漏れ日がちらちらと瞼を刺激して思わず目を細めた。
そして仄かに感じるのは、左手の温もり。
男の子らしい力強さと、硬い皮膚の感触。
トクン、と心臓が嬉しそうに跳ねる。
「意外とこういうとこに入るのも楽しいんだぞ」
私は手を繋がれてドキドキしている一方で、高坂くんは特に気に留める様子もなく前を進んでいる。声も普通で足取りもしっかりしている。やっぱり高坂くんはずるい人だ。私はこんなに緊張しているのに。
「あ、そこ少し足元へこんでるから気をつけて」
「は、はい」
声が上擦った。これはもうダメだ。完全に当てられてしまっている。
引かれる左手に目を向ける。
固く握られた手の先からは、不幸の青い糸が伸びている。
そこはずっと変わらない。付き合う前も、付き合ってからも変わらない。
不幸に見舞われたくないし、不幸に見舞われる高坂くんも見たくない。彼と仲違いとかしたくないし、病気とか怪我とかしたりするのも嫌だ。
そんな気持ちもずっと変わっていないのに、私たちの関係は刻々と変化していっている。
去年の今ごろは話したこともないただのクラスメイト。
その半年後には初めて喋って、今思えばそこから恋に落ちていた。
それからたまに話すようになって、高二に進級してからも同じクラスになって、それから一ヶ月経った今ではまさかの恋人同士になっている。
「ここ曲がったらあと少しだ。驚くなよ〜?」
「えーそんなに期待させちゃって大丈夫なの?」
笑みが溢れる。楽しい。幸せだ。
こんな気持ちになるなんて、思ってもいなかった。
形になっていない辛いことばかりに気を揉んで、私は当たり前のことをすっかり見落としていた。
「着いた!」
垂れ下がった木の枝を避けて潜ると、視界が開けた。
「わ、あ……っ」
感嘆の声がもれた。
最初に目に飛び込んできたのは、あたり一面に広がる青い花畑。SNSの投稿とかで見たことがある。これは確か。
「ここ、ネモフィラの群生地なんだ。そして俺が絵を描こうと思い立った場所でもある」
誇らしげに高坂くんが教えてくれる。そうだ、ネモフィラだ。私がいつも目にしている不幸の糸と同じ色で、つい流し見してしまう花だ。
でも不思議と、今は嫌な感じはしなかった。左手に感じるのは不幸の予感じゃなくて、幸せの感触だ。
その感触にひかれて、私は一歩ずつ花畑に近づいていく。
「それとほら、ネモフィラの向こうに見えるか?」
「わっ、海だ」
ネモフィラに気を取られて気づかなかったが、ここは高台だ。陽の光を反射してキラキラと光った海面を臨むことができ、遥か彼方、白から茜色へと変わりかけている空との境界線まではっきりと見える。
丸太で囲われた手すりの近くまで歩いて行き、私たちは歩みを止めた。
「どう? 気に入ってくれた?」
ネモフィラと海を臨める高台の花畑。
ここが、高坂くんが絵を描こうと思い立った始まりの場所。
私の苦手な青で溢れていて、私の好きな人が連れてきてくれた「最高の穴場」。
「うん。とっても気に入った!」
堪らず、私は彼に笑いかけた。
嘘偽りのない、正直な気持ちだった。
私は青く開けたこの場所を、好きになっていた。
「よっしゃ! じゃあ早速、絵の下書きを描きたいんだけど」
「え〜もう?」
「放課後だから時間があんまりないの。今週の土日は記録会があって無理だけど、ほら来週とかさ。また何度も来るから、な?」
「はーい」
楽しく笑い合いながら、私は彼の指定するポーズをしていく。
彼の言うように、きっとまた何度も来ることになるだろう。コンクールに出す絵が完成するまで、公園の時みたいに、何度も。
けれど。
この時の約束は、結局果たされなかった。
*
「うーん……」
白紙の紙の前で、私は小さく唸る。周囲ではカリカリと黒鉛が擦れる音が響いている。けれど焦らず、私はシャーペンをくるりと一回転させた。
あっ……そうだ! そうだった! こっちはあの公式だ!
私と同じようにクルクルとシャーペンを回していた彼の姿と同時に、その時に教えられた公式が唐突に降ってきた。私は早々にシャーペンを走らせ、真っ白なプリントの空欄を黒く染めていく。そして、
「はーい、やめ。そこまで。後ろから用紙流してー」
数学教師、浜センの野太い声が聞こえた。パタパタとペンを机に転がす音のほか、椅子を引く音や「あー終わった〜っ!」と開放感に溢れた声も一緒に響く。「ほら、そこ。まだ喋るな」と注意されるまでがお約束だったりする。
私もプリントを前に流してから、ぐいーっと大きく伸びをした。
「紫音〜! 抜き打ちテスト終わったねー! できた?」
「う、うん……。たぶん?」
「えー! すごい! 私なんて最後までいかなかったよー」
つい五分ほど前。教室に入ってきた浜センがプリントの束を小脇に抱えてきた時は教室が慌ただしくなった。急いで教科書を確認する者、直近でやったワークの問題を見直す者、諦めて天を仰ぐ者。
ちなみに私は高坂くんと一緒に勉強した時のノートを見返していた。たくさんの赤ペンに、最後には必ず付けられた花丸が勇気を与えてくれる。そして幸運にも、その時に見ていた問題の類題が出ていたのだ。本当に高坂くん様々だ。
「なんかあれだね、紫音最近頑張ってるよね」
「え? そうかな?」
「そうだよー。私、紫音の前の席だからわかるけど、数学の課題とか以前よりめっちゃ埋まってるし、今回のテストだっていつもなら『全然ダメだった……』って落ち込んでるのにそうじゃないし。これはあれか、校内随一の優秀な彼氏のおかげかな」
「もうー茶化さないでよー。というか勝手に私のプリント見るな〜」
「こら、そこ。まだ授業は終わってないぞ! 私語は慎め!」
先生の注意に、そういえばそうだったと私と美菜は急いで教科書に向かった。
でも確かに、高坂くんと一緒に勉強しているからか最近は数学がわかるようになってきている。課題のプリントに向かうのも苦じゃなくなったし、むしろちょっとだけ楽しみになっている自分もいる。
あとで、高坂くんにもできたよーって伝えに行こう。
窓際前方で真剣に黒板に向かっている彼の横顔を見つめながら、私はそんなことを考えていた。
*
しかし結局、高坂くんと話すタイミングもないまま、放課後まで来てしまった。
美菜のほかに数人話せる友達がいる程度の私とは違い、高坂くんはとにかく友達が多い。同じクラスでも半分程度はよく遊ぶレベルの友達みたいだし、しかも他のクラスからも高坂くんを誘いに来ている友達がいるほどだ。以前、社交性の高さも強みだと言っていたが、本当にその通りだと思う。
それに、私と高坂くんが付き合っていることは、同じクラスでは本人以外のほかには美菜と藤村くんしかいない。なので、普段学校でほとんど彼と喋らない私が話しかけにいくと変に目立ってしまいそうというのもある。
ただ、なにより気になるのは……
「実〜! 競技場まで行くぞー! おーい、実?」
「……あ、ああ。悪い。なんだっけ?」
「競技場! 今日は記録会前のインターバル練だろ? なんだ、体調でも悪いのか?」
「あーいや、大丈夫。ちょっと先生に呼ばれてっから、悪いけど先行っててくれ」
なんだか、今日は彼の様子が変だ。
授業中は真剣に聞いているみたいだけど、休み時間になると近くに来た友達と話している時以外はぼーっと窓の外を見ていたり、机に突っ伏して寝ていたりする。いつもならせっせと課題をしていたり、自分から友達のところに話しかけに行くのに、どうしたんだろうか。
今だって、誘いにきた部員に先生に呼ばれてると言って断ったのに一向に席を立つ気配がない。ぼんやりと、窓の外を眺めている。
……よしっ。
帰ろうと持ち上げかけていた鞄を、私は再び机の横にかけた。グッと拳を握り、深呼吸をして心を落ち着けてから、私は窓際のほうへと歩いていく。教室の対角線ほどまで伸びていた青い糸が短くなりほとんど見えなくなるような距離まで近づいてから、私は彼に話しかけた。
「ね、ねぇ……!」
「え!?」
緊張のあまり、思ったより声が大きくなってしまった。私も彼も驚いたように目を見開く。
「あ、ご、ごめん。えーと、その」
バクバクと心臓が情けない音を立てる。
いつもは話しかけない場所。いつもなら話しかけないタイミング。誤魔化してしまいたくなる気持ちを抑えて、私は口を開く。
「なんか、今日変だなって思って。もしかして、何かあったのかなって」
「え? あー、あぁ」
高坂くんはどこか気の抜けた返事をした。やっぱり、彼らしくない。
「その、体調悪いとかだったら帰ったほうがいいよ。違うなら、話くらいならぜんぜん聞くし」
背中に感じる視線に逃げ出したくなるけれど、私はグッと堪えた。青い糸も関係ない。ただ純粋に、彼のことが心配だった。
私の言葉にポカンとしていた高坂くんだったけど、やがて口元を小さく緩ませた。
「ありがとう。俺なら、大丈夫だ」
ポン、と私の頭に手が乗せられた。
でもそれはほんの僅かな時間で、それから彼は指定鞄と小さなボストンバッグを担ぎ、足早に教室を出て行ってしまった。
高坂くん……。
再び伸びていく青い糸が、私の心をざわつかせていた。
*
あの日から、高坂くんはどことなく元気がなくなった。
ぼんやりと窓の外を眺めていることが多くなったし、授業中もあてられて戸惑ったり、うつらうつらと首が傾いていたりすることも増えていた。対して、友達と一緒にいる時間や朗らかに笑う回数は減っている気がする。
もちろん、授業中に戸惑ったり居眠りをしたりといったことはこれまでもあったし、友達といる時間や笑う回数だって気のせいかもしれない。土日は高校総体前の最終調整となる記録会があるって言ってたし、大会前の緊張とか練習疲れとかそういう理由かもしれない。それに不幸の青い糸のこともあって、そういう目で見ればなんでもそういうふうに見えてくる。思い込みはよくない。だけど……。
「高坂くん、大丈夫かな……」
小さく伸びをしながら、私はシャーペンを机に転がした。
週明けの月曜日の放課後。私はひと足先に家に帰り、今日の数学の授業で出た課題プリントを解いている。でも、いつもなら四苦八苦しつつも埋まっていく空欄が、今日は一ミリも先に進んでいなかった。
本来なら月曜日は陸上部が休みなので、基本的にいつも高坂くんと一緒に勉強をしている。しかし今日は記録会後の反省会があるからということで、勉強会は無しになった。それ自体はぜんぜん構わないのだが、他の陸上部員が笑顔でカラオケに向かったのを見てしまった身としては、どうも心は落ち着かなかった。
「メッセージ、送ってみようかな」
私ひとりであれこれ考えてても仕方ない。やっぱり話してみないことにはわからない。
なんとなく見つめていた時計の秒針が二周したころ、私はおもむろに鞄からスマホを取り出した。美菜や結花たちが入ったグループがなにやら動いているけどとりあえず無視して、陸上のユニフォームを着て走っている高坂くんのアイコンをタップする。
「なんて送ろう……。なにしてる、は反省会って返ってくるよね。どうかした、は朝と同じ返事してきそうだし……」
それにしつこいとか重いとか思われるのも嫌だ。ひとまずべつの話題から入って、様子を見てみるのがいいだろうか。
「んーそれじゃあ……」
文面に悩みつつ画面のキーパッドをフリックしていく。書いては消し書いては消し、一文書き終わるごとに読み返しては変なところがないか見直す。最後に頭から見直してようやく私は送信ボタンを押した。
『反省会、お疲れさま! 記録会の疲れも残ってるだろうし、今日はゆっくり休んでね! それと、次の木曜だけど、前と同じ高台で絵描く??』
シュポンッという効果音とともに、吹き出しが画面に現れる。そこで、私はスマホを閉じた。
これでよし。今日のことは気にしてないと暗に伝えつつ、表向きはただの予定確認だ。返信にも悩まないだろうし、様子見としては上々だろう。ただやっぱりちょっとしつこくないか心配ではあるけど。え、大丈夫だよね。これ、メンヘラとか思われないよね……。
彼と付き合ってから時々メッセージでやりとりはしているけれど、ほとんど私から送ったことはなかった。青い糸のこともあって自分から距離を縮めていくのは抵抗があったし、そもそも誰かと付き合ったのはこれが初めてだったからだ。
そんな経緯もあって、送ってから急に心配になってくるも、もはやどうしようもない。行動は起こしたし、課題でも進めて待とうかと思ったところで、閉じていたスマホが唐突に振動した。
「ひょえっ!」
情けない声が自室に響き、私は思わず苦笑する。ここに高坂くんや美菜がいなくてよかった。いようものなら絶対笑われるかからかわれるかされるだろうし……
「え……?」
スマホを起動して、それは真っ先に目に飛び込んできた。
通知欄に浮かぶ彼の名前と、送られたメッセージの冒頭……いや、たった一文の短い文字が。
『ごめん、絵はしばらく描かない』
左手の小指が、締め付けられるような錯覚に陥った。
*
「はぁ……」
翌朝。私の気はとんでもなく重かった。鉛のような足を引きずり、寝不足の目を擦ってどうにか生徒玄関まで辿り着いたころには一日の体力のほとんどを使い果たしていた。
昨日は結局、あれ以降高坂くんから返信はなかった。あんなに訊くまいと思っていたのに、そんなことは構わず「どうしたの?」「なにがあったの?」と連投してしまった。けれど、高坂くんから反応はなく、既読もつかなかった。
やってしまったという罪悪感と、なにがあったんだろうという心配が心の中に混在していた。
「はぁ……」
ため息が止まらない。吐いても吐いても胸の重みは軽くならず、ずっとつっかえている。息苦しくて、頭がぼーっとしてて、肩からかけた鞄のベルトを握ってないと不安が爆発しそうだった。
もしかしたら、これが不幸のきっかけなのかな。
高坂くんへの心配に加えて、もうひとつの懸念。
今は高坂くんが近くにいないから見えないけれど、私と高坂くんを繋いでいるのは不幸の青い糸だ。なにかを誤れば、この出来事をきっかけに不幸へまっしぐらということにもなりかねない。
教室に行ったら、高坂くんとどう接したらいいんだろ。
昨日のことを訊いていいんだろうか。
それとも何事もなかったかのように挨拶をすればいいんだろうか。
あるいは少し距離をおいたほうがいいんだろうか。
私は、どうしたらいいんだろうか。
「はぁ……」
心の重さに加えてなんだかお腹まで痛くなってきたころ、ポンと肩を叩かれた。
「やっ、紫音! おはよー!」
美菜だった。明るくて元気に満ち溢れた笑顔が視界に広がる。部活の朝練終わりなのか、制汗剤の匂いがふわりと香った。
そこで私は、慌てていつもの表情を作った。
「わっと、びっくりしたー。美菜、おはよー」
頑張って笑う。余計な心配はかけたくないから。
けれど、そんな努力も虚しく、美菜は怪訝そうに眉をひそめた。
「紫音、なにかあった?」
「あ、えと」
次の言葉が出てこない。
なんて言おう。
なんでもないよ。大丈夫。なにもないよ。昨日の数学の課題忘れちゃってさ……
「……みなぁ……」
ぐるぐるぐると取り繕う言い回しが頭を巡っていたのに、口をついて出たのは震えた涙声だった。
「え、ええっ!? 紫音!? ど、どうしたの?」
「わ、私……どうしたらいいんだろ……」
「ちょ、ちょっととりあえず! ここだとあれだから! ほら、場所変えよ?」
「うん……」
慌てふためく美菜に手を引かれ、私たちは体育館横の階段まで移動した。そこは偶然にも、高坂くんと初めてまともに話した場所だった。
美菜は周囲を見渡してから、そっと私の隣に腰を下ろした。
「ここなら誰もいないから大丈夫。それで、どうしたの?」
「う、うん……えとね」
私も階段に腰掛け、ぽつぽつと事の顛末を美菜に話した。高坂くんと丘陵公園に行ったこと。その翌日から高坂くんの様子が変だったこと。毎週一緒にしている勉強会やお出かけを今週は断られ、心配になってメッセージ連投してしまったこと。そのメッセージもすべて既読がつかず、嫌われてしまったかもしれないこと。
青い糸や絵のことには触れず、大まかに私は悩みを説明した。そのせいもあって後半には予鈴が鳴ってしまったけれど、美菜は構わずに最後まで聞いてくれた。
「なるほどねー。あの高坂がねー」
すべての話を終えて、美菜は考えるように首を傾げた。
「私、余計なことしちゃったかな……。なんかもう、どうしたらいいかわかんなくて……」
「んーとりあえず聞いた感じだけど、紫音はそこまで深刻にならなくていいよ。べつに間違ったことをしてるわけじゃないし」
「ほ、ほんと?」
「うん。てか、あーたはいつも深刻に捉えすぎ。高坂だってそんくらいで紫音のこと嫌いにならないから」
「う、うん」
美菜は優しい笑顔を浮かべて、私の頭をポンポンと撫でてくれた。それだけで気持ちが少し楽になる。
「ただねー、あのコミュ力おばけの高坂が紫音にそんな心配させるほど余裕ないのは珍しいかもね。わりと本気でなにかに悩んでるんだと思う」
「そ、そうだよね……」
それはなんとなくわかる。好きだったことと青い糸のこともあってよく高坂くんのことは見ていたけれど、ここまであからさまに様子が変だったことはなかった気がする。
でもそうだとするなら、私はどうしたらいいんだろうか。
曲がりなりにも私は高坂くんの恋人だし、高坂くんが悩んでいるならやっぱり力になりたい。このまますれ違って青い糸が示すままに不幸まっしぐらなんて絶対に嫌だ。
昨日に引き続き私が頭を悩ませていると、美菜が顔をのぞきこんできた。
「ふふ」
「え?」
なぜか、美菜の顔には笑顔があった。わけがわからず、私はバカみたいにポカンと口を開ける。
「あ、ごめんね。でも、もう大丈夫かなって思ってさ」
からかっているふうはなく、美菜は優しく言った。それから、視線の先を前のほうへと向ける。
「私もね、昔元彼と似たようなことがあったんだ。最初は心配してたのに何も言ってくれないし構ってくれないしで、段々腹立ってきちゃってさ。しばらく経って会った時に爆発して、大喧嘩しちゃったんだよね。それで別れて、結局それっきり」
美菜はどこか遠くを見ていた。過ぎてしまった過去を懐かしむように、クスリと微笑む。
「でもね、あの時もうちょっと歩み寄れたらなって思う時もあるんだ。そのあと何人かの人と付き合ったけど、男子ってみんな強がりでさ。自分の弱みとか悩みとかコンプレックスみたいなこととか隠そうとするんだよね。それでよく、なんで言ってくれないのって衝突することもあって、あとから考えたらなんでもないことだったりもして。別れ話になっちゃうような喧嘩も、じつは些細なことの積み重ねだったのかなって思う時がたまにあるんだ」
それから美菜は、また私のほうを見た。ポスン、と私の頭に感触があり、そのまま撫でられる。
「だから、高坂がなにも言わずにメッセージもスルーしてるのにそれでもなにかできないかって考えてる紫音を見てたら、ああ大丈夫だろうなって思うの。高坂だって、ちょっと八方美人なところあるけど悪いやつじゃないし」
自分勝手なやつだったらぶん殴ってやるけどね、と美菜はあけすけに笑いながら付け足した。私はいつもみたいに愛想笑いもできずに、ただ一心に彼女の話を聞いていた。
やがて、一限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。それに合わせて、グイーッと伸びをしながら美菜が立ち上がる。
「さぁーて、そろそろ教室に戻りますかぁー。一限ブッチしちゃったねっ」
「なんでそんなに嬉しそうなの」
嬉々として顔を綻ばせる美菜に私はツッコミを入れた。すると美菜はさらに笑みを深めて言う。
「だって、なーんかこういうの青春じゃない?」
眩しい笑顔だった。
私たちがサボった一限目の授業は英語で、とにかくしつこいオバサン教師が担当だ。これからネチネチと怒られるのは目に見えているけれど、美菜はそんなことを一ミリも気にしていなかった。美菜は今を心から楽しんで、大事にしていた。
なんとなく思う。
もし美菜が不幸の青い糸を見ることができたとしても、これまで付き合ってきた人は変わらないだろう。高坂くんと同じように自分の気持ちを大切にして、「今の私は彼と付き合いたい。だから付き合うの!」なんて言って、目の前の青春を謳歌していただろう。
本当に二人は強い。けれど、美菜の見解ではどうやら今の高坂くんは必要以上に強がっているらしい。
「さっ、戻ろ!」
「うん……!」
だったら、私にできることは彼に寄り添い続けることだ。
不幸の青い糸が示す未来にならないように。
*
家に帰ると、私は重力が引き寄せるままにベッドに倒れ込んだ。
「ふぅー……」
細く長く息を吐く。同時に、昨日からの疲れがどっと押し寄せてきた。つい目を閉じて眠りたくなってくるが、グッと堪えて私はすぐ起き上がる。
なんと今日、高坂くんはお休みだった。あのあと教室に戻るとほかの友達から散々に心配され、「高坂みたいに体調不良で休みかと思ったよ」と言われたのだ。驚きつつもチラリと彼の席に目をやれば、確かにそこには誰もおらず、いつもより寂しげな雰囲気が漂っていた。
ただなんとなく、きっと彼は普通の体調不良ではないんだろうなと思った。今日休んでいるのも、ここ数日彼の元気がなかったことと関係しているような気がした。
「メッセージは……変化なし、か」
スマホでメッセージアプリを起動してみるも、変わらず私の送ったメッセージは未読のままだった。美菜によると、ほかの友達からのメッセージにも既読はついていないらしいので、本当にスマホを見ていないのかもしれない。
でもそうなると、高坂くんとの連絡のしようがない。一応、体調不良と聞いているので電話をするのはどうかと思うし、あとは高坂くんの中で整理がつくまで待つしかないのだろうか。
再びベッドに寝転がり息をついたところで、階下からそれは聞こえてきた。
「またそれかよ! もう聞き飽きたって!」
「だったらちゃんとしてよ! いつまでそうしてんの!」
「うるさい! もうお前には関係ないだろ! 口出しするな!」
階の違う壁越しにでもはっきりとわかる怒鳴り声。私はさらに大きくため息をついた。
「はぁーあ。もう、またか」
小さく愚痴をこぼしてみる。というか、こぼさずにはいられなかった。
今月に入ってから、両親の喧嘩の頻度は多くなった。最初のうちは保冷バッグを渡され瞳さんのところに行っていたけれど、最近では唐突に喧嘩が始まっていた。かと思えば、急に静かになったりもするので、気軽にリビングにも行けない。しかも、この前は離婚というワードも出ていたし、もしかしたらそういうことなのだろうか。
「もう……嫌だな」
両親が離婚ということになれば、私はどうなるのだろう。少しネットで調べたけれど、片親に親権がわたってそっちと暮らすことになるのだろうか。そうなると、高校はどうなるんだろう。元々、お父さんの前の勤め先が近くにあるからと移り住んだ街だ。お母さんの実家は遠く、もしお母さんと一緒に住むとなれば引っ越しは免れない。そうなれば必然的に転校という可能性も出てくる。そんなの、嫌なのに。それになにより、自分のことでいっぱいいっぱいのこの時期に余計な問題を増やさないでほしい。
「あーダメだ」
頭の中がぐちゃぐちゃだった。これは一度頭を冷やしたほうがいいかもしれない。私は無言で起き上がると、クローゼットから適当なボーダーシャツとベージュのワイドパンツを取り出して手早く着替えた。髪を縛って軽く身支度を整えると、なにも言わずに玄関から外へ出る。
空は群青色に染まっていた。黄昏時は過ぎ、これから夜の時間が始まろうとしている。風は生温かくどこか湿気を含んでいて、雨の匂いもする。念のため傘を持ってから、私は人の気配が少ない住宅街をトボトボと歩いていく。
なんだか、私の人生は不幸の青い糸に振り回されてばかりだと思った。両親のことしかり、自分の恋愛しかり。不幸の予兆を感じてどうせどうにもならないと両親の喧嘩は放置し、自分の恋愛も悪い方向へと考えてしまっていた。
でも、今にして思えば、両親の喧嘩もお父さんが解雇された時からの小さな積み重ねが原因でもあるような気がする。最初はぎこちなくも互いを思いやり仲良くやっていたのに、お母さんが本格的に勤め出し、お父さんの次の勤め先がなかなか決まらなくなったあたりから歪みは溜まり始めた。忙しさや疲れから小さなことでイライラしていて、よく物に当たるようになっていた。その頃から、私もいよいよ距離を置き始めた。
小さな衝突を繰り返し、言葉を選ぶ余裕もなくなり、聞きたくない罵詈雑言が飛び交うようになった。一応私は気づかないフリをしていたけれど、なにか思うところがあったのか、お母さんは私に瞳さんのところで夜ご飯を食べてくるよう言うようになった。
そうして今、二人の仲は修復不可能なんじゃないかと思ってしまうような段階まで来ている。私自身、もうどう接していいのかわからない。青い糸が指し示すままに、着実に不幸な未来へと近づいていっている。
けれど、もしお母さんやお父さんが今もお互いのことを思いやっていたら?
もし、あの時私が距離を置かずに二人の異変に向き合っていたら?
もしかすると、こうはならなかったのだろうか。
コツン、と道端の小石を蹴り上げる。小石は道路の段差で右へ左へ跳ねたあと、ちょうど口を開けていた側溝の穴へと落ちていった。
気がつけば、いつの間にかいつもの公園に来ていた。ほとんど無意識のうちに向かっていたのだと自覚して、思わず自嘲するように笑う。
「ふーっ……まあ、今は考えたところでどうしようもないか」
私は誰もいない公園に入り、ブランコに腰掛けた。
親の喧嘩もそうだけど、今優先すべきは恋人である高坂くんのことだ。丘陵公園に行った日の翌日から元気がなかったのだから、私に関すること以外でなにかあったとすれば帰る途中や帰ったあとになるけど……
「あ……」
ブランコを軽くこぎながら、ふと思い出した。
丘陵公園に行く前、ちょうど先週の月曜日に彼が言っていたこと。
――昨日帰ったあとにさ、両親に言ったんだ。絵のこととか、そっち関係のことが学べる大学に行きたいこととか。そうしたら、なんていうか、喧嘩になっちまって。
困ったように笑う彼の顔がチラついた。
――でも大丈夫。しっかり時間をかけて説得してみせるから。だから、そう心配すんな。
頭を撫でられて誤魔化されたけど、そういえばあの時の彼もどこか変だった。あんなふうに笑った彼を見るのは初めてで、「親との喧嘩」というワードにも心が痛んだ。
私が、高坂くんの絵を褒めて、後押しをしたから。
私が、デザインとかを学べる大学の話をしたから。
そんな私との関わりのせいで、もし高坂くんと高坂くんの両親との間に溝ができていたら……。
そこから、不幸へ発展してしまったら……。
「ははっ……」
ひとり小さく首を振る。
我ながら考えすぎだとは思う。進路のことで親とぶつかるなんて高坂くんに限った話じゃない。私たちの年代ではよくあることだ。
「でも、悩みの可能性としてはあるよね……」
不幸の青い糸とは関係ないとしても、私は彼の力になりたい。
話を聞くだけでも、そばでどうでもいい話をするだけでも、きっと助けにはなるはずだ。
あの日、初めて高坂くんからまともに話しかけられ、涙を拭ってくれた日のように、私にもできることがあるはずだ。
とにかくもう一度、どこかで高坂くんと会って話をしよう。
そう心に決めて、今日は帰ろうと私はブランコから立ち上がった。
「――え? 紫音?」
唐突に呼ばれた自分の名前に、驚いて声のほうを見る。
「こ、高坂くん……?」
すぐ近くにある公園の外縁路。薄暗い街灯の近くで、汗だくになったジャージ姿の高坂くんが立っていた。
一粒の水滴が顔に当たったのは、そのすぐ後だった。
*
「紫音、こんな時間になにしてんの?」
ポツポツと雨が降り始める中、滴り落ちる汗を手の甲で拭いながら、高坂くんは近づいてきた。ジョギングの途中なのか、かなり息を切らしている。
驚きと緊張で高鳴る胸を押さえながら、私は口を開く。
「私は、その、散歩だけど。高坂くんは?」
「俺は、ジョグ」
素っ気なく言って、彼は目を逸らした。やっぱりどこかおかしい。なんだかイラついてるみたいだし、目も泳いでいて高坂くんらしくない。それに少し顔も青白い気がする。
「あ……」
「高坂くん!?」
その時、ふらりと高坂くんの身体が傾いた。私は慌てて彼に駆け寄り、抱き止める。
「わ、悪い。ちょっと、走り過ぎたかな」
息も絶え絶えに、彼はにへらと口元を歪めた。また見たことのない表情に胸が苦しくなる。
「そ、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。雨も降ってきたし、ほら、とりあえず座ろ?」
私は高坂くんの左手を自分の首の後ろに回し、両手で彼の身体を支えながら近くの東屋まで連れて行った。それから持っていたハンカチを濡らして彼の首の後ろに当て、近くの自販機で冷たいスポーツドリンクを買ってきた。
「これ、飲める?」
「ああ、ごめん」
座ると楽になったのか、高坂くんの声は少し落ち着いていた。背もたれに体重を預けたまま、私から受け取ったスポーツドリンクを喉へ流し込む。
「はぁー、生き返った」
「そっか。それなら良かったけど、どうしてそんな……」
「ごめん。ジョギングってのは、うそ」
高坂くんは半分ほどまで飲んだスポーツドリンクを額に当てて自嘲気味に笑う。雨音が急に強くなった。
「親と大喧嘩して、家飛び出してきたんだ。フラッときたのも、反抗して朝から栄養バーしか食ってなかったからだと思う」
「え、大喧嘩って……?」
「……あの頑固親父、俺が紫音と一緒に描き上げてきたノートを破り捨てやがったんだ」
高坂くんは分厚い雲が広がる空に向かって忌々しげに吐き捨てた。予想外の言葉に私は絶句する。
「絵やデザインで飯が食えるか。そんな甘い世界じゃないんだ。今のうちからしっかりと堅実に将来を見据えた進路を目指さないでどうする。そんなんで充実した人生が送れるか。わがままも大概にしろ、だってさ。マジでムカついたから、なにも言わずにそのまま飛び出してきちまった」
ハハハッと乾いた笑い声が聞こえた。そのまま高坂くんは首をもたげると、残ったスポーツドリンクをさらに半分ひと息に飲む。
「マジでムカついた。ムカついたんだけど、心のどこかでもっともだと思ってる自分もいてさ」
「え?」
「頑固親父の言うとおり、俺には絵で食っていけるだけの才能はない。下手だとは思ってないけど、突出してるわけでもないんだ。この道は茨の道で、やり方によっては親父の言うとおり苦労だらけかもしれない」
視線を地面に落として、彼は続ける。
「んなことは、俺が一番よくわかってる。わかってるんだ。だけど、俺はやっぱり諦めたくない」
スポーツドリンクの入ったペットボトルが音を立ててへこむ。高坂くんの手が小さく震えている。
「たとえ茨の道だとわかっていても、俺は進んでみたい。舗装された、レールの敷かれた道は確かに進みやすいかもしれないけど、俺は俺が進みたい道を歩いていきたい。計画性のないわがままかもしれないけど、それでも俺はやりたいんだ」
そこまで言って、彼は言葉を区切った。へこんだペットボトルをじっと見つめている。言うか言わないか、迷っているみたいだった。私は、次の言葉を待った。
「やってみたい、はずなんだけどな。なんかちょっと、自信なくなってて」
しばらくの沈黙のあと、高坂くんはまた、困ったように笑った。
「……っ、大丈夫だよ! 高坂くんなら!」
その笑顔を見た瞬間に、私は思わず叫んでいた。高坂くんは驚いたようにポカンと口を開けている。
「私、高坂くんの絵好きだよ! 高坂くんが一生懸命描いてて、絵を描くのが好きなんだなってすごく真摯に伝わってくるから!」
初めて見た高坂くんの絵、『春心』を思い出す。澄み渡った青空に舞う二枚の桜の花弁。勢いのある色使いは本当に真っ直ぐで、じつに高坂くんらしかった。
「上手とか下手とか、そういう技術的なところも大事かもだけど、私は今の高坂くんの絵に惹かれたの。それこそノートの下書きを見てすぐに『春心』だと気づくくらいには、私の心に残ったの!」
そしてさらに、私をモデルに描いてくれた『希望と初恋』が脳裏に浮かび上がる。夕陽の中で朗らかに笑う私が素敵すぎて、脚色が入りすぎていると訴えたのに「そんなことない」と一蹴された直近の応募作品。ノートの下書きだけで心を打たれたのに、キャンバスに描かれた完成形を見たときは思わず涙が出そうになった。
「私は『春心』に、高坂くんの絵に惹かれた。そして『希望と初恋』を見て、高坂くんと恋人になれた。高坂くんの絵は、とっても素敵だよ。高坂くんは、絵を描くのが好きなんでしょ。だったら、大丈夫だよ。きっとそれが、一番大切なことだから」
私はずっと、好きな人を避けていた。どうしようもなく好きなのに、その気持ちを押し殺して高坂くんのことを避けていた。
不幸の青い糸で繋がれているから。高坂くんに不幸になってほしくないから、避けていた。
その気持ちは今も変わらない。高坂くんには不幸になってほしくない。
けれど、今はそれだけじゃない。
私の気持ちも、高坂くんのことが好きだという気持ちも、大切にしたい。
瞳さんの言うように、私の青春を大切にしたい。
美菜のように、今の自分に素直になりたい。
高坂くんのように、強くなりたい。
「だから、高坂くんなら大丈夫。私も一緒に、頑張るから!」
強まる雨音に負けないように、私はしっかりと声を張って言った。意外にも自然と声は出ていて、思った以上に語気が強くなってしまった。でも、構わない。今だけは、私の気持ちの強さも伝えたかった。
対して、高坂くんは呆然としていた。小さく口を開けたまま固まっている。
沈黙が流れる。降り頻る雨ばかりが東屋に響く。
あれ。私、もしかしてまた余計なこと言っちゃったかな。
段々と頭が冷えてきて、高坂くんの反応のなさに不安が募ってきたところで、「ふはっ」と彼が吹き出した。
「ははっ、はははっ!」
「え、え? なんで笑うの?」
「だって、紫音お前、赤い糸の映画見た時は、ひとにキザとか言っておいて、自分も結構キザなこと、言ってるじゃん!」
さっきまで青くしていた表情はどこへやら、けらけらとあけすけに彼は笑い転げる。
「だだだって! 高坂くんが! あまりにも自信なさそうに! するから!」
羞恥が一気に込み上げてきて、顔がカッと熱くなる。本当にもう、なんなのこの男は。ひとがせっかく元気づけてあげようと柄にもないこと言ったのに。
「ふははっ、ご、ごめんごめん」
「もう、いいよべつに。意地悪して笑う元気が出たならそれで」
恥ずかしさと不満から顔を背ける。元気になってくれたのは嬉しいけど、こんなことを言うのはこれっきりにしよう。だってあまりにも、私が損をしすぎてて割に合わな――
「マジで、ありがとな」
なにか、温かい感触が唇にあった。
柔らかくて、優しい感触だった。
目を見張る。高坂くんの顔が、今までで一番近くにあった。
息が頬にかかり、汗と石鹸が入り混じったみたいな匂いが私を包み込んで、心臓の音を加速させていく。それなのに、身体はまったく動かない。時間が止まってしまったかのように、いうことをきかない。きいてくれない。頭の中もぼーっとしていて、真っ白で、ぜんぜん機能していない。私の心臓は、いったいどこに血液を送っているんだろう。
そうこうしているうちに感触は一度離れ、そしてまた触れる。今度は少し強引で、びくりと肩が震えた。でも決して嫌な感じじゃなくて、私はなされるがままに力を抜き、目を閉じた。
雨音が響いていた。どこか遠くで、車が水たまりを切って走る音も鳴っていた。
それ以外は静かで、ただただ優しい感触と温もりだけがあった。
私はとても幸せだった。
本当に、本当に幸せで。
不幸の気配なんて、まったくなかった。