幻のような告白をされてから、一週間が経った。
今でも、あの高坂くんから告白されたなんて信じられないでいた。
――春見、好きだ。
あの時、私に向けられた言葉がずっと頭から離れてくれない。耳の奥で余韻みたいに響いていて、寝る前には必ずといっていいほど思い出してしまっている。もはや病気なんじゃないかなどと思い始めて、そういえば恋は病なんだったかと納得して悶えるくらいには、病状が進行してしまっている。
「ふう……」
今日も今日とて、教室のドアの前で小さく深呼吸。学校にいる間は想像の中だけでなく、実際に同じ教室で授業を受けているわけで、私の心への負担も桁違いなのだ。しかもそれだけじゃなくて……
「春見! おはよ!」
「ひょわ!」
唐突にかけられた声に、びくりと肩が跳ね上がる。おまけに変な声まで出た。恥ずかしすぎる。ひょわってなんだ、ひょわって。
「あははっ。やっぱさすがだわ、春見は」
「あのね、いったい誰のせいだと……」
言いかけてハッとする。なんで私は、また真面目にやりとりしてるんだ。
あの日の翌日から、高坂くんは私にあいさつをしてくるようになった。
おはようと言われるたび、私の心臓は飛び跳ねる。
またなと言われるたび、私の頬は熱を帯びる。
すれ違うたび、目が合うたび、移動教室で近くに座るたび、心はざわつき、視線は泳ぎ、なにもかもが落ち着かない。
――でも俺、諦めないから。
あの日の去り際の言葉は、本気なんだと思った。
正直、嬉しい。すごく嬉しい。
私も高坂くんのことが好きだから。
好きな人に求めてもらえるなんて、これほど幸せなことはない。
けれど、私は高坂くんと付き合うわけにはいかない。高坂くんを、不幸な境遇に遭わせたくない。青い糸が見える私が、そうならないように行動しなければいけない。
だから、私は今まで以上に高坂くんを避けることにした。話しかけられても素っ気なく突き放し、必要最低限のやりとりだけをして、あとは遠巻きに時々眺めているつもりだった。
それなのに、どうも私は意志が弱いのか、今みたいに話しかけられるとついまともに反応してしまう。叶うはずもない恋心が、心の中で静かに暴れてしまう。
「…………いや、なんでもない」
「ははっ、ごめんごめん。次からは驚かさないよう気をつけるからさ」
さらりと謝罪の言葉を口にすると、高坂くんは私を追い抜かして教室に入って行った。私にしたのと同じあいさつを、すれ違うクラスメイトみんなと交わしていく。当然、私みたいに「ひょわ!」なんて言葉を返す人はひとりもおらず、理想的な朝のあいさつが飛び交うばかりだ。
バカみたい。
声にならない気持ちを口の中で転がして、私も教室に入って席につく。
「しーおーん! おはよ!」
すると、今度は美菜が話しかけてきた。気を取り直して、私は笑顔を向ける。
「あ、うん。美菜、おはよ!」
「およ? なんか元気ないけど、高坂となにかあった?」
さすがに鋭い。ほかの人には見えない青い糸と、ずっと持ってきた仄かな好意だけを隠すなら慣れたものだが、急な取り繕いは中学からの悪友には通じない。こういう時は、嘘でもほんとでもない少しズレたことを答えるようにしている。
「いや、まあ、単に高坂くんに急にあいさつされて、びっくりして変な声出ちゃったのが恥ずかしかっただけ」
「あーなるほど。あの、ひょわだかひょえだかの可愛い叫び声の主は紫音だったのか」
「今すぐ忘れて」
やはり聞かれていたらしい。冷めかけていた羞恥心が再燃する。
「えーいいじゃん。でも本当になにがあったの? 今まであいさつなんてしてなかったでしょ」
「んーまあ……」
一瞬だけ言おうか迷ったが、すぐに考えを掻き消した。告白されたなんて言おうものなら拉致軟禁は必至、鬼もやや恐れる怒涛の質問攻めは免れない。しかもそこに至るまでの過程も説明しないとだし、高坂くんは絵を描いていることを秘密にしているから私が言うわけにはいかない。さらにいえば告白を断った理由は不幸の青い糸だし説明のしようがなく、私は嘘が下手なのでこれらを誤魔化しながら美菜に説明できる自信もない。
ということで、私はお約束の言葉を口にすることにした。
「よくわかんないけど、ほんとなにもないよ。たまたま私が教室に入るのと被ったからじゃないかな」
私の知らぬ存ぜぬに美菜は不満そうな顔をした。まったく信じていない顔だ。
「ふーんふーん。ソウナンダー」
「いや言い方。棒読みすぎでしょ」
「いいもんいいもん。藤村になんか知らないか聞いてみるもん」
「え? 藤村くん?」
唐突に出た名前に私は首を傾げる。
藤村くんは高坂くんと仲の良い男子のひとりだ。色白で細身な文化系の好青年という印象の男子だけど、高坂くんと同じ陸上部に所属している。同じクラスでわりと人当たりの良いお茶目なイメージだけど、あまり女子と話しているところは見たことがない。もちろん、藤村くんと美菜が話してるところも一度も目にしたことがない。
そんな藤村くんに、どうして?
ちらりと藤村くんのほうへ目を向けると、ちょうど話題の高坂くんと話をしていた。不幸の青い糸は見えない。
「あーうん。えっと、好きまではいかないんだけど、ちょっと気になってて。話題づくりも兼ねて訊いてみよっかなって」
「えー立ち直り早」
山本先輩と別れてからまだ一週間だ。つい数日前までどこか元気なさそうだったのに。羨ましいほどの切り替えの早さだ。
「ずっと引きずってても仕方ないからねー。私をフったことを後悔させてやるの」
「ほえー。やっぱすごいなあ、美菜は」
「ふふん。どやあ」
鼻高々といったふうに美菜は胸をそらせる。私もそのくらいの早さで切り替えていかないとなのにな。前を向いて、話題を仕入れて、次の恋にまっしぐらかー。
「って待てい。なに勝手に私のことをダシにしてるの」
「だから今許可とったじゃーん。褒めてくれたってことは、訊いてもいいってことでしょ」
「言ってない言ってない。拡大解釈しすぎ」
「じゃあ藤村くんに訊いてもいい?」
「え。まあ……なにもないし、べつにいいけど」
相変わらずすぎる美菜に私は苦笑する。仮に訊かれたとしても高坂くんが絵のことや告白のことを話しているとは考えにくいし、実害はないだろう。
「よしっ。じゃあ行こっ!」
「え? 私も!? ちょちょちょ! ストップ! ストーップ!」
今から!? 私を連れて!? てか今藤村くんと高坂くん話してるんだけど!!?
私の手を引いて歩き出そうとする美菜を全力で止めていると、予鈴がのんびりと鳴り響いた。
*
なんとか乗り切ったー。
六限後のホームルームを終え、私は全身の体重を背もたれに預けた。
「紫音〜また明日ね!」
「はいはい、またねー」
ひらひらと手を振って部活に向かう美菜を適当に見送る。
今日は本当に疲れた。朝の美菜の行動はさすがに冗談だったけれど、昼休みに美菜と藤村くんと高坂くんが楽しそうに喋っているのを見かけたときは背筋に変な汗が流れた。そして少しだけ心がモヤっとした。もっとも、あとで美菜に確かめたら全然関係ない話だと言ってたから良しとしよう。
あ、でも。さらに勘繰られたんだっけ。
美菜がニマニマと楽しそうに「やっぱり高坂くんのことは気になってるんだねー」とつついてきたのを思い出す。完全にもてあそばれている。
ただ、ひとつ安心したのは美菜と藤村くんが不幸の青い糸で繋がれていなかったことだ。中学から美菜の恋愛をそばで見守ってきたが、すべて不幸の青い糸で繋がれていた。そのたびに心が締め付けられたけれど、ようやく大丈夫そうだ。
今度は私が美菜を遠慮なくからかい倒してやろうと心に決め、とりあえず今日は図書館で勉強しようと席を立った。
「よっ、春見」
「え、高坂くん!?」
いつの間にか、高坂くんが近くに立っていた。驚きのあまり口を開けたまま、頭ひとつ分以上違う高さを見上げる。
「今日このあと予定ある?」
「う、え、えと、予定……」
柔らかな微笑みを向けられ、一気に顔の温度が上がる。胸のあたりもうるさい。いい加減慣れろ私。で、えと。なんだっけ。予定、だったっけ。
「ない、けど……」
「よっしゃ! じゃあちょっと付き合って」
「え?」
なにかに誘われてハッと我に返る。
なんで今予定ないって言ったんだ私。高坂くんを避けるなら、どう考えても最悪手の返しだ。知能まで下がったんだろうか。
「あ、や……じゃなくて、予定は」
「ほら。クラスのやつらに気づかれる前に早く行くぞー」
「ちょ、ちょっと」
私がまごまごしている間に、高坂くんはさっさと教室を出て行った。私は慌てて青い糸が伸びる彼のあとを追った。
*
まだ陽の高い歩道に、二つの影が並んで伸びていた。
「いやー春見が今日予定なくてよかったー」
長いほうの影が楽しそうに揺れる。ちょっとだけ近づいた気がして、私は一歩分外へ寄った。それにつれて短いほうの影も横にずれる。
「……それで、どこに行くの?」
俯いたまま、私は素っ気なく尋ねる。
予定はないけど、私だって暇じゃないんだから。
そんなところまで口にできるほどの勇気が私にあればと思う。もちろん今の私に言えるはずもなく、言葉は声にならず飲み込むだけだ。
「行くのは前の公園。この前の続き」
「うぇっ!?」
高坂くんの返答に、声が裏返った。
この前の続きって、告白の!?
驚きのあまり当の本人を見ると、なぜか楽しそうに笑っている。私にとってはちっとも笑い事じゃない。というか、ここで笑えるってどんなメンタルしてるんだろうか。
「時間かかったけど、なんとか家で全体の大まかな下書きはできたから、あとは細部をしっかり描きたくて」
「え?」
「ほら、絵だよ、絵」
高坂くんはくしゃりと笑ってから、今度はどこか困ったように頬をかく。
「その、まあ、あんなことがあったから正直頼みづらいんだけど、やっぱり春見のこと描きたくてさ。俺、筆遅いからもう何回かじっくり見て描きたくて。だから頼む! 俺にできることだったらなんでもするから!」
「あ……」
なんだ、そういうことか。合点がいった。そりゃそうだよね。なぜか少しだけ残念に思いつつも、私はホッと胸を撫で下ろす。
「あーでも、なんでもと言ってもエロいことはなしだぞ」
「なっ!? た、頼まないよ!」
撫で下ろしたはずの胸が跳び上がる。また高坂くんが笑った。やっぱり高坂くんは少し……いやかなり意地悪みたいだ。
でも、絵のモデルかー。
確かに私はモデルになってほしいという高坂くんの頼みを引き受けた。ただそれは、あくまでも告白される前の話だ。告白され、断った今となっては改めて考え直さないといけない。希望の光だと言ってくれたけれどフってる時点で絶望に叩き落とした張本人だし、普通に気まずいし、青い糸で繋がっているからこれ以上一緒にいるのもはばかられるし、なにより私の心臓や心がもたないし……。
ただそれでも、ひとつだけ。
「まあ……でも、うん。モデルだけならいいよ。高坂くんの描いた絵、見てみたいし」
高坂くんが描こうとしている絵は、いったいどんな絵なんだろう。
高坂くんは、私の言葉を希望の光と言ってくれた。そしてテーマが「黄色」である次のコンクールに出すために、私をモデルに絵を描きたいのだとも。
私は今まで、不幸の予兆である青い糸ばかりを見てきた。希望なんてものは微塵もなかった。だから、高坂くんが描こうしている希望の光は、いったいどんなものなのか興味があった。高坂くんが感じた希望を、私も見てみたかった。
私が小さく頷くと、高坂くんはそれと見てわかるほどに目を輝かせた。
「うわーありがとう! むっちゃありがとうっ!」
「お、大げさだなあ。それに一度約束もしたし、破りたくないだけだから」
「それでもありがとう! はーっ、良かった〜〜」
大仰にはしゃぐ高坂くんに私は苦笑いする。そこまで喜んでくれると私も嬉しい。ちょっと恥ずかしいけれど。
「それで、お礼に俺はなにをすればいい?」
「え? いいよ、べつになにもしなくても」
「そういうわけにはいかないって。俺の気が収まらない」
「って言われてもな」
ぼんやりと空を仰いで考える。
高坂くんにしてほしいこと。なにがあるだろう。青い糸のことを除けばふわふわとあれこれ出てくるけど、それはもちろん頼まない。ジュースを奢ってもらうとか? いやでもダイエット中だしな。あとはなんだろ。高坂くんの気が済むような、頼めそうなこと。
「あ、じゃあ。勉強教えてよ」
「え? 勉強?」
私の思いつきに、高坂くんは首を傾げた。
「そうー。高坂くんが今手に持ってるノートの科目なんだけど、今日の小テストやばかったんだよね。ほら、来年受験だし、そろそろ頑張りたいなって」
まさについさっき、六限目にあった数学。抜き打ち開催された小テストで、私は致命的な点を取ったのだ。二倍しても赤点ラインにすら届かない点を。
一番の理由は美菜のいじりに疲れ果てていて集中できなかったからだが、抜き打ちだったから一ミリも復習してなかったこと、そもそも数学が全面的に理解不能であることも一応の理由にある。断じて実力不足が一番の理由ではないが、やはり来年に控えた受験のためにも対策をしておく必要はある。
「あ、でも手が空いた時でいいからね。高坂くんも忙しいだろうし」
テスト前とかにちょこちょこと教えてくれたら本当にありがたい。そんなふうに思って、何気なく私は提案した。のに。
「そんなことでいいなら喜んで! 部活は月曜と木曜が休みだから、そのどっちか春見の都合のいいほうの放課後とかどう? 数学なら定期的にやったほうが点も上がるしさ」
高坂くんは得意げに大きく頷いてきた。私は「ほえ?」と間抜けな聞き返しをしたが、当然まったく聞こえていない。
「自習室は人多くて話せないけど、図書館の奥のほうにある小スペースは人も少ないし小声なら喋ってもわかんないから、やる時はそこにしよう」
「あ、あの」
「目標はとりあえず次の定期試験かなー。早いほうがいいだろうし、いつからする?」
怒涛のごとく決まっていく勉強スケジュールに、私は声にならない息をパクパクともらす。なにかを決めるのが苦手な私にとってはありがたいけれど、そこまでしてもらうことは想定していない。そもそもそんなに勉強を教えてもらうことになったら、一緒にいる時間も長くなって私の心がいろいろと危なくなる。
頭をフル回転させた末に、私はようやく首を横に振った。
「えっと、さすがにそんなにしてもらうのは悪いよ。ほんとテスト前とかにちょっと教えてもらえれば十分だから」
「でも春見、点上げたいんだろ? あの小テストは基礎ばっかりだったから、あれでやばいなら基礎からやらないといけないと思う。テスト前だけじゃ、たぶん上がらない」
ぐさり。
「もちろん無理にはとは言わないけど、受験も見据えるならしっかりやったほうがいいと思う。特にせめて基礎くらいは」
ぐさぐさ。
「あとそれくらいやらせてくれたほうが、俺も気にせずこの絵のモデル頼めるし、むしろありがたいんだけどな」
そう言って、高坂くんは朗らかに笑った。
ほんとに敵わないなと思う。そんなふうに言われたら、私も気兼ねなく絵を描いてほしいし、嫌とは言えないじゃんか。
「ていうか、マジで今日の小テストできないのはまずいぞ」
「うっ」
それでも、これ以上私の心を針山にしないでほしいんだけど。
若干の反論も交えて話しているうちに、私たちは公園に着いた。
そこはあの日と変わらない夕陽に満ちており、私たち以外には誰もいなかった。淡いオレンジ色がベンチやブランコを浮かび上がらせていて、無意識のうちにこの前のことを思い出して頬が熱くなる。
「よし、じゃあ早速やろっか」
そんな私に対して、高坂くんは変わらない爽やかな雰囲気のままノートを広げた。さすがすぎるメンタルだと思った。
「姿勢とかは、この前と同じでいいの?」
「うん。今日は細部だから、あとで多少は変えるかもしれないけれど、とりあえず同じ感じでお願い」
「はーい」
前と同じように鞄をベンチに置いてからブランコに腰掛け、夕陽のほうへと視線を向ける。緊張は変わらずあるけれど、心なしか前よりも少しだけ気持ちは軽い気がした。
「おっ。まさか春見、二回目にしてもうモデルに慣れた?」
「へ? なんで?」
「なんか、表情が前より柔らかいから」
嬉しそうに高坂くんが笑う。どうやら気持ちが軽いのは気のせいではないらしい。やった。
「でも、気を抜くと頭がこっち向いちゃってるから、そこは気をつけてね」
「うっ、はい……」
上げて落とされシュンとしてしまう。どうも高坂くんといると気持ちの浮き沈みが激しい。
恋って、難しいな。
そんなやりとりも繰り返しながら、私は一心に落ちていく夕陽を見つめていた。話していないととても静かで、鉛筆がノートを擦る音ばかりが聞こえてきていた。
そしてふいに、青い糸がちらりと視界を横切っている。
私たちの関係はどこに向かっているんだろう。
夕陽に向かって飛び去っていく鳥の群れを眺めながら、私はそんなことを思ったりしていた。
*
モデルをする代わりに勉強を教えてもらう約束をしてから数日後。その言葉通り、私は高坂くんと図書館にいた。
「ほら、ここはこっちじゃなくてこの公式を使うんだ」
「え、なんで?」
「符号を確認してみ。三角関数の合成は符号の勘違いがよくあるんだ」
「んー……あ、ほんとだ。ここプラスじゃなくてマイナスじゃん」
高坂くんの説明はとても丁寧でわかりやすかった。たまに瞳さんにも勉強を教えてもらうことはあるが、頭の回転が早すぎてなにをどう考えてるのかさっぱりわからないのだ。ああいうのを天才というのだろうが、私は天才ではないので高坂くんのようにひとつひとつ教えてくれるほうがありがたかった。ごめんね瞳さん。
「ていうか、春見ってマジで数学苦手なんだな。これは壊滅的すぎる」
「壊滅的いうな」
まあ、ときどき一言余計なのが玉にキズなんだけど。あと私が反論したらなんで笑うの。
微妙に不貞腐れつつ、私は高坂大先生のご指導のもと問題を解き続ける。
「そういえば、この前描いてた絵の細部の進捗はどう?」
大問三の問題文を流し読みしながら私は尋ねた。どうやらまた三角関数の合成らしい。
「ん? ああ、春見のおかげでだいぶ鮮明になってるよ。ただ、時間見つけて家で描いてるんだけど、進みはあんまり良くない」
くるり、と高坂くんは右手で赤ペンを回した。
「ふーん。やっぱり結構かかりそう?」
教科書に載っている公式通りに、私はシャーペンをノートに走らせる。
「うん。わりーけど、もう二、三回は頼むかもしれない」
高坂くんはまた赤ペンを二回、三回と回転させた。
「それは全然構わないけど……っと、よし。できたよ」
縦にいくつも並んだ一番下のイコールのあとに、私は求めた答えを書いた。
「お、できたか」
高坂くんはペン回しをやめて、その先を私の途中式に丁寧に当てていく。そして一番下まで特になにも書くことなく進み、そして。
「おーいいじゃん。正解だ」
大きな赤マルをひとつ、さらりと描いた。
「わっ、やった!」
小さな達成感に心が満たされる。そんな私を見てか、高坂くんは柔らかな笑みを浮かべた。
「この調子で基礎をつけていけば、来年受験する頃には結構いい線まで行くと思うぞ」
「ほんと?」
「うそなんか言わないって」
まぐれじゃない、確かな正解の感触を味わいつつ、それじゃあ早速と私は次の問題に視線を移した。
「ちなみに、春見は行きたい大学とかあるのか?」
「え?」
ペン先が一行目で止まる。代わりに、私は問われたことへの答えを考え始めた。けれど。
「んーまだ決まってないかな。私、勉強苦手だし」
出てきたのは真っ白な感覚だけだった。いやむしろ、これはなにも出てこなかった結果か。
私は高坂くんと違って特にやりたいことはない。不幸の青い糸が見えるからといってそれを活かそうなんてとても思えないし、勉強も嫌いだしきっと無難な大学に進むんだろう。
「そういう高坂くんは? やっぱり絵に関することを学べる大学に行くの?」
私は視線をノートから外して訊いた。
曖昧な私と違って高坂くんは絵が好きだし、芸術方面はもちろんデザインとかそういう方向性もいいと思う。高坂くんのデザインしたお菓子のパッケージとか絶対惹かれそうだ。
そんな呑気なことを考えながら彼を見ると、なぜか高坂くんは驚いた表情をしていた。
「なんで? なんでそう思うんだ?」
「え? 違うの? 高坂くん、絵描くの好きだし、芸術方面のハードルが高くてもデザインとかそういう方向性もアリかなって思ったんだけど」
もしかして、私は余計なことを言ったんだろうか。意外にも微妙な高坂くんの反応に一抹の不安を抱いていると……
「ふふ、あははは!」
唐突に高坂くんが笑い出した。
「え、ええ? なんで笑うの?」
「いや、はははっ!」
私が戸惑っても、高坂くんは笑うのをやめない。意味不明すぎる。てかここ一応図書館なんだけど。
そうこうしているうちに司書の先生に注意され、ようやく高坂くんは笑うのをやめた。
「いやー笑った笑った」
「怒られたじゃん。というか、なんで笑ったの」
「いや、ははっ、なんていうかやっぱ春見だなって思ってさ」
「はあ?」
この男は本当になんなんだろうか。私のことをバカにしているんだろうか。
私が訝しげな視線を送ると、高坂くんは「ごめんごめん」と謝ってから口を開いた。
「俺今まで、親からも先生からも偏差値のいい学校に行ったほうがいいって言われてきてたんだ。選択肢を広げるためにさ。もしくは、陸上の強い学校とか。友達も当然みたいにそう思ってるし、俺自身もそれでいいのかなーって思ってたんだけど、春見は違うんだなって思ってさ」
「いや、まあ……」
確かにそう言われればその通りだ。高坂くんは学年でもトップクラスに入る実力を持っているし、陸上でも指折りの実力者だし、どっちをとっても引く手数多だろう。普通に考えれば絵は趣味で、頭の良い学校か陸上の強い学校が妥当だ。
ちょっと喋りすぎたかな、と反省しつつ私は視線をノートに戻した。大問三は終わったから、次は大問四で……
「ありがとな。俺、やっぱり春見のこと好きだわ」
「なっ!?」
突然かけられた言葉に、私は全力で断り倒した。けれど、公園の時とは違い、高坂くんは陽気に笑っていた。
そしてまた司書の先生に怒られて、その日はそのまま解散となった。
「じゃあな! また明日学校で!」
教室で友達に向けていた優しい笑顔を、彼は私にも向ける。私だけに、向けてくれた。
「うん。またね」
喜びの熱はあるし、ついさっきまで隣に高坂くんが座って勉強を教えてくれていたことへの充実感もある。
だけど、どうしても逃れられないものがこの世にはある。
少し近づきすぎてしまったかな。
別れ際に振られた左手の先には、変わらず青い糸が光っていた。
*
図書館から帰宅したあと、私は私服に着替えてすぐ瞳さんの家に転がり込んでいた。
「紫音ちゃん、どーしたの? なんかあった?」
春雨サラダを豪快にすすりながら、瞳さんは上目遣いに訊いてきた。こんなに色気のない上目遣いも珍しいが、茶化す元気もなかった。
「んーまあ、いろいろとねー」
私はフォークの先でくるくると春雨を巻き取り、口に放り込んだ。小さいころは好きだった味が広がった。けれど、あまり美味しくはない。
「なんか、お母さんたちいつまでああしてるのかなーって」
家に帰った時、自室に入ろうとしたところでお母さんとばったり出会した。相変わらずの仕事着に身を包み、二言三言会話をしてからタッパーの入った保冷バッグを私に手渡してきたのだ。
私は聞き分け良く返事を口にしてバッグを受け取ってから、足早に自室に入った。閉まった扉の向こうから、微かにお母さんのため息が聞こえた。ため息をつきたいのはこっちだと思った。
いったいいつまでこんなことを続けるんだろう。これまでは月一回程度だったのに、最近は週一回から三日に一回のペースになっている。私がいない間にどんな話をしているのかわからないけど、いつか二人は離れてしまうんだろうか。もしそうなったら、私はどうなるんだろうか。
疑問や疑念は尽きないけれど、子どもの私にはどうすることもできない。たとえ不幸の青い糸が見えているからといって、なにかができるわけでもない。
「まあ、なんかもうどうでもいいんだけどね」
それに、今の私の悩みはお母さんたちの問題だけじゃない。
――じゃあな! また明日学校で!
図書館の前でかけられた言葉と、彼の手から伸びる青い糸が脳裏に蘇る。
今になって、私は後悔していた。
私は高坂くんに好きに絵を描いてほしくて、そして私も彼の絵を見たくてモデルを引き受けたけれど、本当に良かったんだろうか。
お礼になにかしてあげると言われて勉強を教えてもらうことになったけど、本当に良かったんだろうか。
私と高坂くんは、不幸の青い糸で繋がれている。彼を不幸な目に遭わせないためにも、決して結ばれてはいけない。
それなのに、高坂くんから告白されてしまった。私の余計な言葉が原因だ。必死で心を押さえつけて、なんとか断ったけれど辛かった。
辛かったのなら、結ばれてはいけないとわかっているのなら、モデルも勉強もするべきではなかったんじゃないだろうか。
高坂くんの絵が見たいなんて気持ちも押さえつけて突き放せば、彼はこれ以上かかわってこなかったんじゃないだろうか。
勉強を教えてもらうのだって、ダイエットとか関係なくジュースを奢ってもらうことにしておくべきだったんじゃないだろうか。そうすれば、高坂くんと過ごす時間だってずっと少なくなるんだから。
なにもないフォークの先を見つめながら、思う。
きっと私は、心のどこかで高坂くんのことを諦めきれていないのだ。
高坂くんのことが好きで、なるべく一緒にいたいと思ってしまっているんだ。
「あーあ。失敗したなー」
今さらモデルも勉強も取り下げることはできない。気持ちを伝えるのが苦手な私にできるはずがない。
だったら、これからの私にはなにができるだろう。高坂くんが不幸にならないように、私はどうしたらいいんだろう。
「――ちゃん? しーおーんちゃん?」
「あ、はい!」
呼ばれてハッと我に返った。しまった。思考の沼にはまっていた。
「大丈夫? なんか、失敗したーとかどうしたら好きな人が不幸にならないだろーとかぶつぶつ言ってたけど」
「え。ほんと?」
「マジマジ」
瞳さんは大きく頷く。私の顔がひと息にボッと熱くなった。
「えーと、その、なんというか。あんまり気にしないでほしいというか」
「えー。そこまで言っておいて?」
「いやまあ、そのう……」
迷った末に、私はかいつまんで高坂くんとのことを説明した。ひとりで悩んでいても仕方ないし、誰かに話を聞いてほしい気持ちもあったから。
ひと通り話し終えると、瞳さんはふっと息をついて考え込む。
「なるほどねー。確かに悩ましいねー」
「だよね。私もどうしたらいいかわかんなくて」
「まあひとつ言えるのは、紫音ちゃんも考えてる通り、高坂くんの告白を受けない限りは大丈夫だろうね。これまで紫音ちゃんから聞いた不幸の事例は、全部カップルか夫婦だったし」
「そう、だよね」
やはりそこは瞳さんも同じ見解らしい。つまり、私がこのままなにがあっても高坂くんからの告白を拒否し続ければ、少なくとも彼に不幸が降りかかることはないだろう。
「でも、紫音ちゃんは大丈夫なの?」
「それは……」
大丈夫、といえば嘘になる。告白を断る心苦しさはもちろんのこと、私自身も彼のことが好きなのだ。悲しいし辛いししんどいし、もうこれでもかと泣きたくなる。
でも、けれど。
「私は、大丈夫だよ」
私が耐えるだけで不幸にならないのであれば、それでいい。
恋はいっときの感情だし、小説や映画みたいな純愛なんて現実にはそうそうあるものじゃない。心変わりや移り気なんて珍しくもないし、結婚までしてるのに価値観の違いやらすれ違いやらで呆気なく離れてしまうことも多い。だから、お互いの恋心が薄れてくるまで我慢して、そのあとに不幸の青い糸で繋がれていないほかの誰かと一緒になれば、それはきっと幸せで、紛れもないハッピーエンドなんだ。
「……本当に?」
私が心の中で飲み込んだ言葉を、瞳さんがすくい上げた。思わず息をのむ。
「ごめんね。でも、紫音ちゃんの話を聞いても、やっぱり私が言うことはこの前と変わらないかな。紫音ちゃんには、もっと自分の気持ちにわがままになってほしい」
「瞳さん……」
「私は不幸とか悪いことは起きてから考えようってたちだから。不幸っていってもいつ起こるかわからないし、もしかしたら乗り越えられる不幸かもしれない。今はない未来の不幸のために、今ある自分や相手の気持ちから目を背けたくないから」
瞳さんは真剣だった。真剣な眼差しで、真っ直ぐ私のことを見ていた。
「不幸が、いつか必ずやってくるものだとしても?」
「うん」
「その不幸が、お母さんたちのように人生を大きく変えてしまうようなものだとしても?」
「ああ、もちろん」
瞳さんの目は揺るがなかった。声にも芯が通っていて、素直にかっこいいと思った。
「……素敵な考えだね」
しばらく考えてから、私はやっとそれだけを口にした。
心からそう思った。でもなぜか、少し皮肉っぽい言い方になってしまった。
「ちょっと、考えてみるね」
春雨サラダは、すっかりふやけてしまっていた。
*
翌日。
相変わらず険悪な両親の空気に辟易としつつ、私はいつもより三十分早く家を出た。
「……はふっ」
あくびが出た。
正直、眠い。
重いまぶたを擦り、続けて押し寄せるあくびを今度はかみ殺す。昨日は両親の喧嘩もそうだが、結局どうにも考えがまとまらなかった。優柔不断で物事を決めきれない己の性格が恨めしい。
でも、早く決めないと。
あとになればなるほど、断るのが難しくなる。どんなに遅くても、高坂くんの次の部活休みまでにははっきりさせないといけない。
「はぁ……」
家を出た時とはべつの理由に頭を悩ませながら生徒玄関をくぐると、奥にある角で見覚えのある後ろ姿が見えた。
「あれは、美菜?」
首を傾げる。あんなところでなにをしてるんだろうか。
確かあの先は、体育祭や文化祭などのイベント用具がしまわれている倉庫と通用口くらいしかなかったはずだ。普段は立ち寄らない場所で、なにやら体が右に左に揺れている。
角に、隠れている……?
後ろでひとつにまとめられた髪が左に垂れており、どうやらなにかをのぞき見しているようだった。私はそっと近づくと、その背中を軽くたたいた。
「美菜?」
「……ぇっ!? ……っと、なんだ紫音か。しーーっ!」
「え、なにが……もごっ」
口を塞がれた。そしてささやき声の美菜に手招きされ、私も彼女の陰から顔をのぞかせる。
廊下の角を曲がった先。奥まったところにある人目のつかない場所には、二人の生徒が向かい合って立っていた。
え、うそ……。
驚きのあまり声が出そうになり、慌てて今度は自分で口を塞ぐ。
そこにいたのは、高坂くんとひとりの女子生徒だった。名前は忘れたけど、確か同じ陸上部の子でマネージャーをしていたはずだ。清潔感のある綺麗な子で、かなり人気もあった気がする。
「え? なに? これ、どんな状況?」
ただならぬ雰囲気を察知し、私は小声で美菜に訊く。
「見てわかるでしょ。告白だよ。こ、く、は、く」
美菜も声をひそめて答えた。
「私も今さっき来たとこなの。高坂と村瀬さんがなんか二人でこっちに歩いて行って、ピーンときたんだ」
「そ、そうなんだ」
さすがのアンテナだ。そして思い出した、そうだ村瀬さんだ。クラスの男子たちもたまに名前を出していた。
「あ、見て!」
ちょんちょんと肩をたたかれる。それに呼応して、悪いとは思いつつも私は再度向かい合う二人に視線を向けた。
「あのね……あたし、高坂のこと好きなんだ。いつも一生懸命に走ってる高坂のこと、ずっと見てて、かっこいいなって」
村瀬さんはたどたどしく、けれどはっきりとした声で話す。見ているこっちまで緊張してきた。ってなんで私までのぞき見しているんだろうか。
「そんな高坂のこと、あたし、もっと知りたい。高坂にも、あたしのこと、もっと知ってほしい。だから、あたしと……恋人になってください!」
わっ……言った!
また危うく声が漏れそうになった。
そのくらい、気持ちが真っ直ぐに伝わってくる告白だった。
高坂くん、なんて答えるんだろ。
いつもとは違ったドキドキが、私の中で大きくなっていく。それと同時に、得体の知れないモヤモヤとした感情も膨れ上がった。
緊張と、嫉妬。
さすがに、自分でもわかった。
「ありがとう、村瀬。その気持ちは、すごく嬉しい」
高坂くんの爽やかな声が響いた。どくんと一際大きく心臓が跳ねる。
「でも、ごめん。俺、ほかに好きな人がいるんだ」
あ……。
なにかが、私の中で剥がれ落ちた。
「だから、悪いけど村瀬の気持ちには応えられない。本当にごめん。でも、ありがとう」
憑き物が落ちたような感覚。
心の重石が取り除かれたような感覚。
息苦しさがとれたような感覚。
なんで表現すればいいのかわからないけれど、とにかく私は、ホッとしていた。
「……そっか。わかった」
村瀬さんはそれだけ言うと、通用口から外へ駆け出した。泣いているのが、遠目から見てもわかった。
「……」
「……」
私と美菜は無言のまま、ほとんど同時に角に隠れた。顔を見合わせると、そろそろとその場から退散する。そして生徒玄関近くまで戻ってきてから、大きく息をついた。
「はぁーーっ、どきどきしたー!」
「ほんとだよ〜〜。心臓の音で気づかれるんじゃないかって思った」
胸のあたりでは、まだ高鳴りが続いている。いつの間にか頬は熱を帯び、手にもじんわりと汗をかいていた。それは美菜も同じようで、パタパタと首元をあおいでいる。
「でも村瀬さん、高坂のこと好きだったのかー。てっきり私は藤村のこと好きなんだと思ってた」
「え、そうなの?」
「だって村瀬さん、よく藤村と話してたみたいだから。今にして思えば、高坂のこと訊いてたんだろうけど」
そうだったのか。全然知らなかった。
改めて、先ほどの告白を思い出してみる。
村瀬さんは、真剣に自分の気持ちと向き合っていた。だからこそ、高坂くんと仲の良い藤村くんと話して情報を集め、きっと私の知らないところで何度もアプローチをし、満を持して告白をしたんだろう。
それなのに私は、いつまでも中途半端だ。
「それで、どうするの?」
「え?」
私が自分の中に巣食う葛藤と戦っていると、ふいに美菜が私の顔をのぞきこんできた。
「高坂のことだよ。ほかに好きな人がいるって言ってたけど、まさかそれだけで諦めたりしないよね?」
「いや、ええと」
ごめんなさい。たぶんそれ、私です。
なんて言えるはずもない。事実告白されたとはいえ、何様なセリフだ。それに私はまだ高坂くんのことを美菜には言っていない。
どう答えようか考えていると、続けて美菜が口を開いた。
「私が訊いてこようか? 村瀬さんじゃないけど、高坂の好きな人の情報を掴めたらなにか変わるかもしれないし。それに私も、藤村と話せるし」
「いやいや、待って。さすがにそれは」
「――俺と藤村が、なんだって?」
美菜に詮索されないよう釘を刺そうしたところで、突然後ろから声をかけられた。私と美菜は二人して「ひょわっ!?」と情けない声をあげる。
「え、高坂くん!?」
「よっ。おはよ、春見。野々村も」
振り返ると、先ほどの深刻そうな表情を微塵も感じさせない柔らかな笑顔の高坂くんが立っていた。思ったよりも近くにいたせいか、私はほとんど無意識のうちにひと一人分ほど距離をとる。
今の話、もしかして聞かれてた?
ようやく落ち着きかけていた鼓動が再び早くなる。
もし聞かれていたなら……かなり問題だ。あれだけ聞くとまるで私が高坂くんに片想いをしているみたいだ。いや事実として好きは好きなんだけど、問題はそこじゃない。もし高坂くんが今の美菜との話を聞いていたとしたら、私が高坂くんの告白を断った理由が説明できなくなる。不幸の青い糸の話なんてしても信じてもらえないだろうし、なんて説明すれば……。
「高坂、はよ〜。最初に謝っておくけど、私と紫音は偶然にも今しがたの現場を目撃しちゃいましたー。ごめんね」
私が脳内会議を急ピッチで進めていると、美菜はいつの間にか体勢を立て直し、しれっと驚愕の言葉を投げかけた。慌てて美菜のほうに視線を向けると、なにやら目配せをされた。え、なに。
「あ、その、ご、ごめんなさい。高坂くん」
わけもわからず、とりあえず私も謝る。すると、しばらく固まっていた高坂くんが途端にあたふたと慌て始めた。
「え、マジで? 二人とも、見ちゃったの?」
「うん、マジで見ちゃった。誰にも言わないから、そこは安心して」
安心して、と言うわりには全く安心できない意地の悪い笑みをたたえて、美菜はずいっと高坂くんとの距離を詰める。むむ。
「それで? ぶっちゃけ高坂は誰が好きなの?」
「ちょっ、美菜!?」
小さな小さな嫉妬が生まれそうになった矢先、美菜はさらに追撃をしかけた。ほとんど美菜の問いかけをかき消すようにして私は高坂くんから美菜を引き剥がす。
「えーいいじゃん。紫音だって気になるでしょー?」
「き、訊いていいことと悪いことがあるでしょ!」
「これはダメなことなの?」
「ダメなことです!」
「ははっ、まあその辺は秘密ってことで」
空気を読んでくれたのか、高坂くんは小さく笑って誤魔化した。美菜は不満そうにしていたが、私はこっそりと胸を撫で下ろす。
ここにいたら心臓がいくつあっても足りない……。
早々にこの場から離れようと決め、教室に向かうべく私は美菜に声をかけようと口を開いた。
「じゃあさー。好きな人教えてもらわなくていいから、私の恋を応援してよ。ね、二人とも」
開いただけで、私の口から言葉は発せられなかった。
「「え?」」
代わりに戸惑いの声が二人分。
私と高坂くんはほとんど同時に聞き返した。
私たちの視線の先には、勝ち誇った美菜の表情があるばかりだった。
*
「ど、どうしてこうなったの……」
春の日差しが降り注ぐ三連休最終日の午後一時。
駅前は、多くの人で賑わっていた。ベビーカーを押した家族連れや、腕を組むカップル、大学のサークルと思しき集団などその様相は多種多様だった。ときどき青い糸も視界をちらつくが、群衆だとあまり目立たないこともあって無視を決め込んでいる。
そして、そのどれにも属さない今の私の状態は、友達との待ち合わせ中。
相手はもちろん美菜なのだが、なんと今日は他にもいる。
今日の私、心臓もつかな……。
心の大多数を占める緊張を紛らわそうとスマホを取り出すと、ちょうど通知が表示された。
『もう着くよー!』
美菜だ。いつものテンションに少しホッとしかけるも、続く通知で心がざわついた。
『俺ももう着く! 寝坊魔の藤村は起きてっか?』
『よゆー! あと十五分くらいで到着する』
『ふつうに遅刻じゃんw』
『いやー寝坊してw』
連続して流れていく通知の嵐に私は慌てた。急いでメッセージアプリを開き、とりあえず既読にする。さらになにか打たねばと思い、『私は着いてるよー!』とフリック入力したところで、ポンと肩をたたかれた。
「よっ。春見、早いな」
「あ……高坂くん」
通常運転の柔らかな笑顔が私の視界に広がる。それだけで周囲の気温が十度くらい上がった気がするのに、今日はそれに留まらない。
高坂くん……私服だ。
当たり前すぎる感想を私は抱いた。
今日は休日なのだから、そりゃ私服に決まっている。私も私服だし、こんなところに制服で来ようものなら笑い者だ。
高坂くんは、オーバーサイズのカーキニットに、黒のスキニーパンツという春らしい格好をしていた。細身で身長の高い高坂くんにとても似合っている。かっこいい。隣に立つのがはばかられるくらいだ。
「春見の私服って初めて見た。意外と可愛いやつ着るんだな」
「え、えと」
反応に困る。てか意外とってなんだ意外とって。
「あー悪い。変な意味じゃなくて、似合ってるよ。すげー可愛い」
「あ、あ……」
さらに反応に困った。頭の中が大混乱で、お礼の言葉が喉につかえて出てこない。そもそもそんな恋人にかけるような言葉をいとも簡単に口にするなんて、さすがに手慣れすぎてはいないか。
「二人ともお待たせー!」
我ながら気難しい心の内と葛藤していると、さらに明るい声が飛び込んできた。
「あ、美菜」
「よーっす、野々村」
今回のお出かけの提案者、美菜が大きく手を振っていた。
白のカーディガンに赤のフレアミニスカートという気合いの入ったコーディネートで、いつもよりも丁寧なナチュラルメイクや軽く編まれたハーフアップはその意気込みがうかがえる。
けれど、今だけはそんなことは関係ない。私は素早く彼女に駆け寄ると、そっと耳打ちをする。
「ねぇ、遅い! 十分前に二人で高坂くんたちを待ってようって言ってたじゃん!」
「えー? そうだっけー?」
「そうだよ! 高坂くんと二人っきりになると気まずいからってお願いしたじゃん!」
「あーごめんごめん。すっかりはったりてっきり忘れてたー」
ニヤリと悪戯っぽく笑う美菜。これは完全に確信犯だ。なんてやつだ。
いつもなら軽く仕返しでもしてやりたいところだが、今日ばかりはここで勘弁しておこうと思った。なんせ、今日のお出かけのメインは美菜にあるのだから。
「よし。予定通り藤村は遅れてやってくるから、それまでに段取りを確認しとこうぜ」
「オッケー」
私たちは念のため、待ち合わせ場所から少し離れたところにある街路樹の下に移動した。ここからなら待ち合わせ場所が見えるし、藤村くんが来てもわかる。
美菜はポーチからスマホを取り出すと、メモ帳アプリを起動させた。
「改めて、高坂に紫音、今日は私のアプローチ作戦に協力してくれてありがとね。前に話した通り、今日はこれから映画を観て、そのあとにはぐれたフリをして二手にわかれようと思う」
いつものふざけた感じとは異なる直向きな眼差しに、その本気さが見てとれた。
そう、今日のお出かけの目的は、美菜と藤村くんの距離を縮めることだ。
あの日。高坂くんが告白されているのを見てしまった日に、美菜はなにを思ったのか、その場にいた私と高坂くんに向かって唐突に言い出したのだ。
「私、藤村のこと好きだからデートしたいんだ」
思いもよらない言葉に、私も高坂くんも目を丸くした。あまりにも正直な物言いに、私に至っては心を射抜かれたかのように思えたほどだ。
美菜はやや恥ずかしそうに顔を赤らめつつも、ずっと考えていたという計画を話してくれた。
なんでも、藤村くんは最近青春恋愛映画にハマっているらしい。明日公開される「運命の赤い糸」をテーマにした恋愛映画が気になっているが、周囲の友達はみんな恋愛ジャンルにはあまり興味がなく、恋人もいないのでひとりで観に行こうとしているとのことだ。
「それでね、私と紫音と高坂くんを入れた四人で観に行こうってすれば、きっと来てくれると思うんだ」
「あー来るだろうな。あいつのことだから飛びついてくると思う」
「でしょ? それで、来週月曜の祝日にべつの映画で舞台挨拶があって、ちょうど終わる時間が被る回があるの。きっと出入り口は混雑するだろうから、ここではぐれたことにして、二手にわかれたいんだ」
「な、なるほど……」
ミステリー作家も舌を巻きそうなほどの綿密な計画だと思った。完璧に調べ尽くしている。
「そのあとは、高坂くんから藤村くんにメッセージを飛ばしてほしいの。内容は任せるけど、行きたいところがあるとか用事ができたとかなんでもいいから、しばらく二人っきりにしてほしいんだ」
「よっしゃ。その辺は任せとけ」
「紫音も、私に適当なメッセージお願い」
「う、うん」
なんていう感じで、数日前の朝に急きょみんなで出かけることが決まったわけだが、よくよく考えてみると二手にわかれたあとは私と高坂くんも二人っきりになってしまうことになる。あとで美菜に抗議すると、そこも含めて織り込み済みだと言われた。うそでしょ。
はあー……ほんと、どうしよう。
美菜のメモ帳アプリに書かれたスケジュールと照らし合わせて段取り確認をしている間も、私の心中は憂うつだった。二手にわかれたあとはそのまま解散にしてしまおうか。
「――ってことで、わかれたあとは私たちはこの辺りのお店回ろうかなって思ってるから、鉢合わせしないようにしてほしいんだ」
「りょーかい。なんなら俺たちはさっさと出て別のところに行っとくわ。な、春見?」
「え……あ、うん」
早くも退路を絶たれた。
今回の美菜の恋は不幸の青い糸に繋がれていない恋だし、本人にも全力で応援すると言った手前、「いや私はそのあと帰るよ」なんて言って空気を壊すわけにはいかない。
「紫音も、頑張ってね」
追い打ちをかけるように美菜がささやきかけてきた。
もうどうにでもなれと、私は投げやり気味に頷いた。
*
「いやー面白かったなー!」
藤村くんと合流してから映画を観終わり、予定通りはぐれたところで、高坂くんは大きく伸びをした。
「うん、すごく良かったね」
私も真似て小さく背伸びをする。映画で凝り固まった身体がほぐれていくのがわかった。予定通りスムーズにはぐれられたし、メッセージも送って違和感なく二手にわかれられたし、開放感は結構大きい。
私たちが今いるのは、映画館から出てしばらく行ったところにあるショッピングモールだ。なんでも高坂くんが画材を買いたいらしく、四階にある専門店に向かっている。
「にしても、あいつ大丈夫かなー」
上に向かうエスカレーターに寄りかかりながら、高坂くんがつぶやいた。
「美菜のこと? たぶん大丈夫だと思うけど」
「じゃなくて、藤村のほう。あいつ、女子への耐性ほとんどないから」
「あ、そうなんだ」
高坂くんの言葉に、藤村くんと合流した時のことを思い出した。そういえば藤村くん、美菜とも私とも目を合わせないし、ほとんど高坂くんと喋ってたっけ。
「まあ野々村はアプローチする側のくせして余裕ありそうだし、たぶん大丈夫だろ」
「ふふっ、確かに」
言われてみれば、美菜はアプローチ作戦を説明するときから終始落ち着いていた。時々顔を赤らめたり恥ずかしがったりすることはあっても、私なんかと違ってテンパることはなかった。経験の差というやつだろうか。
「でもそう考えると、野々村ってすげえよな。自分の気持ちに正直になって、それを叶えるために周りにも協力をお願いして、とことん真っ直ぐに努力してるんだもんな」
「うん。ほんと、美菜はすごいよ」
私は頷く。
美菜は可愛くてオシャレで優しくて、なにより芯が通っている。けれど、美菜は元々そうだったわけじゃない。
中学で仲良くなったあと、一度だけ喧嘩をしたことがあった。きっかけはなんだったか忘れたけど、その喧嘩で私は、「美菜みたいにキラキラしてる人には私の気持ちなんてわかんないよ!」と叫んでしまった。
絶交されてもおかしくないのに、美菜は少しだけ考えてから「ごめん」と謝った。そして、好きな人に見合う自分になるために努力をしたことや、昔は地味で人見知りのあがり症でとにかく挙動不審だったことを話してくれた。スマホで写真まで見せてくれて、そこに映っていたのは今の美菜とは比べ物にならないほど目立たない格好の女の子だった。
――私の好きだった人が、今の私みたいな女の子を好きだったから変わってみたの。そしたら思いのほか楽しくなってさ。結局恋は叶わなかったけど、今の私を見つけられた。だからさ、紫音も紫音のままでいいんだよ。
どこまでも自分勝手な私をなだめて、そんな言葉を笑顔とともにくれた。あれ以来、美菜の言葉は私の宝物になっている。
けれど、未だに私は迷っている。
私は私のままでいい。でも、本当にそうなんだろうか。
「あーあ。俺も頑張らないとなー。そのためにも画材補充して、また描かないと」
「うん。高坂くんならきっと、もっと上手になれるよ」
美菜だけじゃない。高坂くんだって、すごい。絵を描くことを秘密にしているけれど、自分の気持ちに正直に、素直に行動している。
じゃあ、私は?
不幸の青い糸なんて訳のわからないものが見えるせいで、恋愛に臆病になった。これまでほとんど恋愛なんてしたことなくて、本当に好きだと思った人とはその青い糸で繋がれている。不幸になる彼を見たくなくて、彼からしてくれた告白まで断ったのに、立場に甘えて今もこうして隣に並んでいる。
自分の気持ちに正直でも、素直でもない。どこまでも曖昧で、軸なんてなくて、成り行きに任せて日々を過ごしている。どっちつかずで、気持ちを決めることも努力することもしていない。
私は、そんな自分が大嫌いだ。
「お、着いたな。ここが春見の言ってた店か」
「うん、そう。結構口コミ評価も高かったよ」
エスカレーターを降りると、すぐ目の前に目当ての専門店があった。ネットで調べた通り画材の種類は豊富にあり、これならきっと高坂くんの欲しいものもあるだろう。
見れば、高坂くんは目を輝かせてあちこちを見渡している。つい数時間前まであった爽やかな雰囲気は既になく、純朴で少年のような幼さが前面に出ていた。私たちは連れ立って店内に入り、多様な絵の具が並ぶ棚の前へと移動する。
「あーちなみに言っとくけど、野々村も確かにすごいけど、俺的には春見もすごいと思ってるからな?」
「え?」
私にはわからない画材を見比べながら、ふいに高坂くんが言った。彼の横顔を見つめていた私は、つい驚いた声をもらす。
「いやさ、春見は優しすぎるというか、よく人の応援してるじゃん。俺の時もそうだし、今回の野々村の件についてもそうだ」
「そ、そりゃあ、クラスメイトに友達だし、自分にできることなら応援するでしょ」
なにを当たり前のことを、と視線を向ければ、高坂くんはゆっくりとかぶりを振った。
「いやーそれがなかなか難しいんだって。フった相手の趣味を応援するとか、その相手と偶然とはいえ映画に行くとか、なかなかできることじゃないと思うぞ」
「うっ……なんか、ごめん」
「あははっ、ぜんぜん。むしろ俺にとってはそっちのほうがいろいろ知ってもらえるし都合いいからな」
なにも気にしていないというふうに彼は笑った。きゅっと胸が苦しくなる。
確かに、高坂くんからしてみれば今の私の行動はかなり不思議なはずだ。でもそれは、相手が高坂くんだからこそなわけで……。
「ちなみに、今の俺はどう?」
「え、えっと……」
ただそれでも。
私が小さく首を横に振ると、高坂くんはあからさまにがっくりとうなだれた。ちょっとわざとらしい。
案の定、高坂くんはすぐに立ち直って画材選びを再開する。
「まあ今はいいや。それよりさ、オレンジ色の絵の具なんだけど、こっちとこっちだったらどっちが好き?」
高坂くんは今度は絵の具を二つ手にとると、私の前に差し出してきた。
「え……ごめん、なにが違うのかわかんないんだけど」
私よりも大きな手のひらに乗る二種類の絵の具。よーく見れば微妙に色の濃淡に違いはあるが、正直どっちでもいい気がした。
「透明度が違うんだよ。まっ、小難しいことはおいといて、直感でいいから選んでよ」
「んー、じゃあ……こっちかな」
私は高坂くんの右手に乗った色の薄いほうを選んだ。本当にただの直感で、青い糸が伸びる左手を敬遠したというのはあるけれど、色の薄いオレンジ色の絵の具のほうがなんとなくいいような気がした。
「おーサンキュ。なるほどね、春見はこっちのほうが好きなんだ」
「ほんとにただの直感だよ?」
「それがいいんだ。そのほうが、春見のことをもっとしっかり知れるからな」
ちなみに俺も薄い色のほうが好みだ、などと言って高坂くんは笑った。なんてずるい笑顔なんだろう。反則すぎる。
そこでふと思った。
もし高坂くんだったら……高坂くんが不幸の青い糸を見えていたとしたら、どんな判断をするんだろう。
こんなにも真っ直ぐに気持ちを向けてくれる彼は、もし好きな人と結ばれたら不幸になるとわかったとしても、同じように気持ちを向けてくれるんだろうか。
「ねぇ……高坂くん」
少し迷ってから、私はおもむろに口を開く。彼は絵の具の色選びを中断し、「なに?」と優しい口調で訊いてきた。
きゅっと下唇を噛む。
幸いにも、今日見た映画は「運命の赤い糸」をテーマにした映画だ。さすがに直接不幸の青い糸については訊けないけど、赤い糸なら……。
「もし、なんだけど……もし高坂くんが、運命の赤い糸を見ることができたとして、高坂くんの好きな人と赤い糸で繋がれてなかったとしたら、高坂くんは……どうする?」
ちょっと意味合いは違うけれど、「運命の赤い糸」に関する映画を観た今だからこそ訊ける質問。「運命の赤い糸」で繋がれた人同士は結ばれると幸せになれる。
しかし、もし自分の好きな人と繋がれていなかったら、高坂くんはどうするのか。
私は、しっかりと彼を見据えた。
「あー今日の映画か? うーん、そうだなあ……俺なら……」
ちょっとだけ考える素振りを見せてから、高坂くんはすくっと立ち上がって私を正面から見つめ返してきた。
「幸せじゃなくていいから、好きな人に自分の想いを伝える」
目を見張った。
息が詰まりそうになり、思わず私は胸の前で手を握る。
「なんつーか、やっぱり行動しないのって後悔しそうじゃん? ぶっちゃけ俺は好きな人と恋人になれたらそれだけで幸せだし、矛盾するかもしれないけど、まあ、赤い糸とか関係なく、俺は俺の好きな人に好きだーーって気持ちを伝えたいかな」
続く彼の言葉にも、私は射抜かれた。
強かった。
高坂実くんは、私の想像以上に強い人だった。
「……そうなんだ。なんか、キザだね」
「うるせー。俺も言ってから思った」
「ふふっ」
なんだか肩の力が抜けた気がして、笑みがこぼれた。そんな私につられてか、高坂くんもクスリと短く笑う。
私も、高坂くんみたいになりたいな。
心臓は相変わらず高鳴っているし、手にはいつもと同じ変な汗をかいている。
けれど、不思議と心の中は安らかだった。
*
ショッピングモールをあとにし、高坂くんの提案でそのまま公園に向かってしばらく絵を描いてから、私たちは解散した。
「春見もモデルだいぶ板についてきたよな。すげー描きやすい」
別れ際にそんなふうに褒められたものだから、さらに私の心は舞い上がった。足取りはいつもより随分と軽い。こんなにも軽いのはいつぶりだろうか。
それに、ここまで私の心が明るくなれたのは、彼のあのひとことのおかげでもある。
「幸せじゃなくてもいい、か」
すっかり日の暮れた住宅街を歩きながら、私はゆっくりと噛み締めるようにつぶやく。
今まで、そんなふうに考えたことがなかった。
好きな人と一緒になるなら、やっぱり幸せになりたい。そんな考えが当たり前だったから、不幸に見舞われることが前提の交際なんて意味がないと思っていた。
けれど、どうやら私の好きな人は幸せじゃなくてもいいから自分の好きだという気持ちを大切にするタイプの人らしい。
「ふふっ」
口元が緩む。外だというのに、きっと今の私はとてもだらしのない顔をしているだろう。
私も、自分の気持ちに素直になっていいのかな。
ぽわぽわと頼りない気持ちの行く先をあれこれ想像しながら、私は勢いよく玄関の扉を開けた。
「――だーかーらー! お前のそういうところが嫌だって言ってんだよっ!」
バシンッとなにかが床に叩きつけられる音とともに、大きな怒号が響き渡った。あっと思う間もなく、心の中に満ちていた仄かな温もりが急速に冷えていく。
「なによ! 私だって家族のために頑張ってるのよ! あなたはなにもしてないじゃない!」
「なにもしてないってなんだ! 今日のゴルフだって次の仕事のために必要なんだよ!」
「じゃあなんでこんなに遅くなるの! そんなに顔を赤くして、いらないものまで買ってきて! これから紫音の大学の学費だってあるのよ! 節約して貯金しようって決めたじゃない!」
「そんなのわかってるよ! だから俺だって頑張ってるんだ! それなのにお前ときたら」
次々と飛び交う罵詈雑言に、私は急いで玄関の扉を閉めた。二人の怒鳴り声がくぐもって聞こえにくくなる。
頭の中は真っ白だった。一分前とは比べ物にならない冷め切った胸に手をあてて、私は浅くなった呼吸を整える。それから、ゆっくりと踵を返した。
群青色の空の下、私は元来た道を歩いていく。
不思議と涙は出てこなかった。昔は二人の喧嘩が始まるたびに必死で嗚咽を我慢していたのに、すっかりと慣れてしまった。
どうしよ。あの調子だと、まだ一時間以上はかかりそうだよね。
ちょうど今はヒートアップしているところみたいだった。そこから二人の気力が続く限り怒鳴り合って、疲れ果てたころに終わるのがいつものパターン。そこに合わせて何事もなかったかのように「ただいまー」と家に入れば、二人ともすぐに取り繕って「おかえり」「遅かったじゃないか」と笑いかけてくれるだろう。
それまで何をしていようか。瞳さんのところにでも行こうか。あーでも、今日は当直だったか。
ぐるぐると考えているうちに、いつの間にか私は先ほどまで高坂くんと一緒にいた公園まで戻ってきていた。すっかり夜の帳が下りており、辺りには誰もいない。
とりあえず公園の外縁を一周しようかと再び歩き始める。
「はあ……」
もう心がぐちゃぐちゃだった。
少し前まであんなにもすっきりしていたのに、またいつもみたく私の心には霧が立ち込めていた。
幸せじゃなくてもいい。そんなことは関係なく、自分の気持ちを大切にする。
私も確かにいいなと思ったはずだったのに、わからなくなっていた。
どっちが正解なんだろう。自分の気持ちとか、素直になるとか、それが大切なのはわかる。未来に起こるかもしれない不幸を懸念して足踏みしているよりも、今を大切にして前に進んでいくのが大事だというのもわかる。
けれど、それで一時的に満たされていたとしても、最終的に私の両親みたく互いを罵り合っていたら意味がないんじゃないだろうか。結局は、あの時に気持ちを伝えなければ……なんて後悔をしてしまうんじゃないだろうか。
「はあーあ……」
何度もため息をもらしつつ、私は心なしか重い足をどうにか動かす。無意識に辺りをうかがいながら、私は舗装された外縁路を歩いていく。そして半周ほどまで来ると、いつものブランコがすぐ近くにあった。
「さっきは、楽しかったのにな……」
ポツリと言葉がもれる。慌てて口元を押さえるけれど、もちろん周囲には誰もいない。
自分の行動に苦笑しながら、私はそっとブランコに座った。思いのほか、そこはひんやりとしていた。
足を振り上げ、そして振り下げる。
私の動きに合わせて、鎖が音を立てて揺れ始める。
昔から、私はブランコが好きだった。自分だけで楽しむことができるし、やり方次第でどんどん速く、高く、楽しくなるから。
久しぶりの感触。よくよく考えたら夜の公園でひとりブランコを漕いでいるというどう考えても危ないやつなんだけど、今の私にはそんなこと関係なかった。
「……」
でも。今はぜんぜん楽しくなかった。すぐに飽きてきて、私は漕ぐのを辞める。久しぶりに跳ぼうかなんて思って、慣性の法則で揺れるブランコの上で立ち上がり、私は勢いよく前方へジャンプした。
「あ」
その時、踏ん張った足がブランコの板から滑り落ちた。夜の空中へ跳び出すはずだった私の身体はバランスを崩し、顔から地面に落ちていく。
やばっ。
咄嗟に目を瞑り、受け身をとろうと手を前に出す。幼い頃に何度も経験した硬い衝撃が手のひらに走り、細かい砂が肌を擦った。どうにか顔面強打は免れたけれど、手や腕がジンジンと痛んだ。
「……ははっ。なにやってんだろ、私」
本当に笑えない。今日のお出かけのために着てきたお気に入りの服も汚れてしまった。暗くてわからないけれど、破けてないといいな。
手や服についた砂を無造作に払い、私は立ち上がった。心身ともに満身創痍の我が身を省みても、やはり涙は出てこなかった。泣きたいくらい悲しいはずなのに。
疲れた。少し早いけど帰ろ。
なんだかどうでもよくなって、私は足早に出口へと向かった。きっとまだ喧嘩しているだろうけど、もう無視してさっさとお風呂に入ってさっさと寝よう。
苛立ちや悲しさや葛藤や悔しさがないまぜになった気持ちを抱えて公園から出ようとしたところで、ふとベンチの上になにかが置かれているのに気がついた。
なんだろ、あれ。
つい夕方までは私と高坂くんの荷物が置かれていて、絵を描いたあとに片付けをして帰ったはずだ。時間はわりと遅かったけど、あのあとに誰か来たんだろうか。
不思議に思って近づき、私は思わず目を見開いた。
「これ……」
手のひらににじむ血がつかないよう気をつけて手にとると、それは一冊のノートだった。見慣れた色に既視感を覚えつつ表紙を見ると、案の定「数学」と書かれていた。
「ふ、ははっ……また、忘れてるじゃん」
笑いと、別のものが今さらになってこみ上げてきた。
なんでだろう。どうしてだろう。
夕方に確認したっけ。あれ、お喋りに夢中だったから覚えてないや。
ノートをギュッと抱き締める。にじまないよう、歪まないよう、必死に気を配りながら胸に抱える。
不幸の青い糸なんて、見えなければ良かったのに。
私はひとり、夜の公園で静かに泣いた。
*
翌日。私はかなり早めに登校し、公園から持って帰った高坂くんのノートを彼の机の中に入れた。直接手渡しても良かったけど、どうにも今は顔を合わせにくかった。
一応、メッセージだけは飛ばしておいた。高坂くん個人にメッセージを送るのは何気に初めてだったから結構緊張した。元々クラスのグループチャットがあったから連絡先は知っていたけど、絵や勉強をきっかけに話すようになったのは最近ということもあって、昨日の映画の時までやり取りをしたことはなかった。
そしてきっと、高坂くんとの個人的なやりとりは、これからもほとんどすることはないと思う。
昨日、私が帰宅すると、やはり両親はまだ喧嘩の真っ最中だった。うんざりしつつも、わざとらしく明るめに「ただいまー!」と玄関から叫んでやった。二人はなにやらリビングでバタバタと物音を立ててから、顔だけのぞかせて出迎えてくれた。薄暗い廊下で手だけ振り、私はそそくさと自室に引っ込んだ。
あんなふうに、私はなりたくない。
あんなふうに、高坂くんと言い合いなんてしたくない。
あんなふうになってまで、高坂くんと結ばれたいなんて思えない。
だから私は、この絵のモデルが終わったら、高坂くんと距離を置くことにした。その第一歩が、面と向かっての接触をなるべく避けること。このノートの返却だって、その一環だ。
「わっ……と」
早すぎて誰もいない教室でぼんやりしていると、スマホがポケットの中で振動した。見ると、高坂くんからのメッセージだ。ほとんど反射的に加速してしまう胸のあたりが落ち着くのを待ってから、私はアプリを開く。
『おはよ!』
『ノート持ってったの、春見だったんだ!』
『朝忘れたのに気がついて公園行ったけどなくて、マジ焦ったけど良かった〜!』
『ありがとな!』
立て続けにポコンポコンと送られてくるメッセージに、私の口元は緩んでしまう。そんなことに気がついて慌てて真一文字に引き締めてから、私は「どういたしまして」の吹き出しがついた猫のスタンプだけを送った。
「ふう……」
これでいい。本当はもっと話したいけれど、やりとりが始まってしまえば辞め時を見失ってしまう。少しずつ、少しずつ遠ざかっていかないと。
私は高坂くんのアイコンをタップして通知をオフ設定にしてから、既読も確認せずにアプリを落とした。机に突っ伏して、しばし視覚もシャットアウトする。
これでいい。これでいいのだと、何度も自分に言い聞かせた。
*
「おい、春見。ちょっといいか?」
それなのに。
昨日の夜に固めた決意を踏みにじるかのように高坂くんから声をかけられたのは、放課後のことだった。
「え、高坂、くん?」
私は驚いた。美菜も含めて、部活に所属している人はほとんど教室から出て行っている。当然、陸上競技場まで移動する必要のある高坂くんも同じだと思っていたのに、なぜか高坂くんは教室に残っていた。
彼は教室を見回し、残ったクラスメイトの注意がこちらに向いていないのを確認してから小声で話し始めた。
「メッセージ、見た?」
「いや、見てない、けど……」
なんだか、いつもの柔らかな印象とは違っていた。嫌な予感がしつつ、私はアプリを起動する。
『でもさ。俺がノート忘れたの解散したあとだったのに、公園に戻ってきてたの?』
『おーい』
『もしかして、なんかあった??』
三件、メッセージが来ていた。昨夜のことを思い出してついまた涙ぐみそうになり、必死に歯を食いしばった。
「俺、じつは春見とわかれたあとに公園に残って続き描いてたんだ。早めに完成させたくてさ。それで帰ったのが八時近かったんだけど、その後に春見は公園に来たってことだろ? そんな時間に、なんかあったのかなって」
表情は深刻そうなのに声は優しい。気遣ってくれてるのがひしひしと伝わってくる。
でも、昨夜のことは知られたくない。
「や、その……ノートは今朝、たまたま見つけて」
「ほんとに?」
「うん。登校途中に、ちょっと寄り道してさ」
「……机にノート入れたってメッセージくれたの、今朝の七時だけど」
「あ、その……」
誤魔化そうと嘘をついたけど、早速墓穴を掘った。私はバカか。
なにか言い訳はないかと頭をフル回転させるもなにも思い浮かばず、私は俯くしかなかった。
「まあ、べつに無理にとは言わないけど、話して楽になることもあるかなって」
「……」
「場所、変えるか?」
「……」
なにを言えばいいのだろう。
両親のこと? 青い糸のこと? 私の気持ち? それともすべて?
……言えるわけがなかった。
私の家庭事情なんてどうしようもない重い話だし、結ばれると不幸になる青い糸が見えるとかファンタジーすぎるし、私の気持ちに至っては論外だ。
肯定も否定もせずに私が目を彷徨わせていると、フッと息を吐く音が聞こえた。
「春見。今からちょっと時間ある?」
いつかの日のように誘われたのは、教室にいるのが私たちだけになったころだった。
*
高坂くんに連れられてきたのは、既にお約束となった公園だった。
「ほら、そこに座って」
いつものように鞄をベンチに置いてから、高坂くんはブランコのほうを指差す。
「いやでも……というか、高坂くん、今日火曜日だよ? 部活は……」
「サボった」
あっけらかんと言う高坂くんに、私は思わず呆然とする。確か陸上部顧問の先生は生活指導の先生だった気もするけど、大丈夫なんだろうか。
「とりあえず、ほら。ポーズとか気にせず座るだけでいいから」
「う、うん……」
私は促されるがまま、ブランコに腰掛ける。キイッと鎖が小さく軋んだ。
かと思えば、隣でも同じように鎖が音を立てて揺れた。
「え?」
つい声が出た。
隣のブランコに、高坂くんが座っていた。しかも手にはキャンパスノートと鉛筆があり、慣れた手つきで描線を引き始める。いつもはブランコの正面にある鉄棒に腰掛けているのに、どうして。
「俺さ、じつは絵を描くのが好きなんだ」
「え?」
さらに疑問の声が重なる。
それは知っている。本当になにを言っているんだろうか。
「昔から描いてるけど全然ダメダメで、ほとんどの人は見向きもしないような絵しか描けない」
それは違う。少なくともこの前のコンクールで佳作をとってるし、私は高坂くんの絵が好きだし。
「こんな絵を描き続けるくらいなら、得意な勉強頑張って医師か弁護士になってお金を稼ぐほうが人生は上手くいく。あるいは、陸上にさらに打ち込んでインターハイやその先まで登り詰めて注目を浴びれば人生が大きく華やかになる。コミュ力を活かして人脈を築いて興味のある業界で会社を興したっていい。どう考えても、俺にはこいつらのほうが向いている」
ひと息に話してから、一度高坂くんは言葉を区切った。でも、手は絵を描くのを止めていない。
「そんなふうに思っても、親や先生や友達の純粋な期待を受けても、俺はやっぱり絵を描きたかった。勉強をするより、陸上をするより、絵を描いていたかった。心の奥底でいつも、静かに叫んでいた」
線を引く速度が、加速する。
「その叫びを人知れず聞いて、そっと背中を押してくれたのが春見だった。本人は無意識っていうんだから困ったもんだよな。でも、それはそれで嬉しかった。本心から言ってくれてるんだってのがわかったから。しかも、絵を描くことからデザインを学べる大学っていう選択肢をくれたのも春見だ。お前、どんだけすげーんだよ」
夕陽に照らされ、彼の顔とキャンパスノートが色を帯びる。昨日選んだ、あのオレンジ色に似た色が満ちていく。
「だからこそ俺は、春見を好きになった。いきなり気持ちが口から漏れてしまったのは予想外だったけど、順番が違うだけで一番大切な気持ちは変わらない。これからもっともっと俺のことを知ってほしいし、好きになってほしい。そんな希望も込めて、もう一度言う」
くるりと、彼の手の中でノートが反転する。
完成するまでは秘密、などと言われて結局一度も見せてくれず、昨日拾った時にもなんとなく見なかったページが、上方に書かれた文字とともに視界に飛び込んできた。
――題名『希望と初恋』
「春見、好きだ。俺と恋人になってほしい」
夕陽の中で、ブランコに腰掛け朗らかに笑う一人の少女の絵とともに、彼の優しくて真っ直ぐな声が私の心を震わせた。
鉛筆のみで描かれた下書きのはずなのに、それは鮮明な質感を伴って胸の内へと響いてきて。
固めたばかりの悲壮な決意が溶けていく。
甘やかで、温かくて、とろけるような熱が、私の心から身体へと広がっていく。
視界の端に漂っている、私と高坂くんを繋ぐ青い糸すらも愛おしくなるほどに、私は高坂くんとその手にある絵に見惚れていた。
「はい」
トクトクと心地良いリズムで打ち鳴らす心音を感じながら、私はそう答えずにはいられなかった。
こうして私たちは、恋人同士になった。