眩しい春の日差しが、教室に降り注いでいた。
 開け放たれた窓からは爽やかな風が吹き込み、黒板に貼られた座席表を小さく揺らしている。
 その前では「やったー! 俺一番後ろの席〜!」だとか、「ええ〜! 去年に続いてまた私教卓前なんだけど〜!」だとか、「二年でも席隣だね! よろしく!」だとか、色とりどりの賑やかな声が響いている。
 それもそのはず。今日は高校二年生になった新学期の初日だ。制服も指定鞄も一年生の時と同じだけれど、心も同じというわけにはいかない。一年を経て高校生活に慣れ、かわいい後輩の入学に胸を躍らせ、少しずつ迫る受験の気配からは目を逸らす。そんな期待と不安が入り混じるのも無理はない。

「はぁ……」

 けれど、私は違った。
 一年生の時から変わらず、周囲に気づかれないようため息をこぼす。新しい自席に座り、薄い指定鞄から筆箱だけを机の中に入れ、あとはスマホに目を落とす。
 今年度のクラスは、五本か。結構多いなあ。
 先ほど見えた教室内を縦横に伸びる青い糸の数に、私は辟易とした。
 去年、高校一年生の教室で見えたのは二本だけだった。そのうちの一本は、勉強もできてスポーツも得意な男子と、明るくて笑顔の可愛い女子の小指同士が青い糸で繋がっていた。二人は秋ごろに付き合い、冬の初めに別れた。聞いた話では、なんでも趣味の考え方がまるで合わず、大喧嘩をしたらしい。それだけなら当人同士の話なのでなんの関係もないのだが、別れてからしばらくはどこか教室の空気が張り詰めていた。スクールカーストでも上位の二人が大喧嘩をして別れ、互いに敵意をむき出しにしていたのだから当然といえば当然だが、正直いい迷惑だった。
 二本だけでもそんな感じで大変だったのに、二年生のクラスでは五本ときた。勘弁してほしい。
 憂うつで沈む心を紛らわせようとSNSアプリを開き、なんてことはない投稿を流し見する。けれど、流れてきた写真にどこぞのカップルを繋ぐ青い糸が映っていて、私はすぐアプリを閉じた。

「やっほー! 紫音、おはよー!」

 そこへ、唐突に明るい声が割り込んできた。聞き慣れた透明感溢れる声に救いを感じながら、私は顔を上げる。

「美菜、おはよ!」

 沈んでいたことがわからないよう、私はできる限りの笑顔をつくった。目は細めて、口角をしっかり上げる。周囲を心配させないように練習してきた成果もあってか、これまで見破られたことはない。
 案の定、中学から友達の美菜も特に気にした様子はなく、私の前にある自分の席について話を続けた。

「いや〜二年でも紫音と同じクラスでほんと良かったー! 結花とはべつのクラスになっちゃったから、あとで茶化しに行こうね!」

「結花は理系だもんねー。てか、茶化しにってなに」

「あれ、知らない? 結花、春休みに告白されて恋人できたんだって! しかも二年から同じクラス!」

「ええー! そうなの! 知らなかった! 昼休みにでもいろいろインタビューしないと」

 私たちはいつものように、会話に花を咲かせていく。いつの間にか、心は随分と軽くなっていた。本当に美菜には感謝だ。
 美菜は中学一年生の時にクラスが一緒になり、そこから仲良くなった。地味でパッとしなくてコミュ力が平均よりやや下の私とは違い、可愛くてオシャレで優しくて天真爛漫なハイスペック女子だ。友達も私とは比べものにならないほど多く、高校での私の友達のほとんどが美菜経由でできた友達だ。もちろん、結花も例外ではない。
 そしてそれほどのハイスペ女子をハイスペ男子たちが放っておくはずもなく、美菜は定期的に誰かから告白されていた。もっとも、美菜は優しいけれど自分の好みもしっかりと持っており、流されて付き合うといったことはない。断るところは曖昧にせず断り、本当に好きだと思った人とだけ付き合っている。ただ……。

「それで、美菜のほうは彼氏と最近どうなの?」

「ああ、そう! 聞いてよ〜紫音〜! 修二がさ、ぜんっぜん連絡くれないの! 遠距離恋愛って疎遠になりがちだからなんでも話そうねって言ってたのに!」

「あらー。でも、山本先輩の行ってる大学って、関東で結構頭のいいところだよね? 勉強で忙しいんじゃない?」

「と、思うでしょ? 修二本人もそう言ってきたんだけど、ほら、これ見てよ!」

 美菜が見せてきたスマホの画面には、一枚の写真が映し出されていた。どうやら私がさっきまで見ていたSNSアプリの投稿らしく、「#友達と、#遊園地、#マジ最高!」などのタグ付けがずらりと並んでいる。さらにその下には、川釣りやキャンプ、海でバーベキューなどいかにも大学生といった投稿が続いていた。

「……山本先輩、すごくキャンパスライフをエンジョイしてるね」

「もう最悪! ぜーったい私のこと飽きてきてるよ! もう~っ!」

 美菜は早口で愚痴こぼしながら私の机の上に突っ伏す。その拍子に、美菜のスマホの後ろに貼られた小さなプリクラが見えた。

 ……やっぱりか。

 フィルターやら落書きやらといった加工がなされたプリクラ。しかし、そこには加工とは違う一本の青い糸がくっきりと映っていた。

「もう~~っ、なんで私ってこうも恋愛運ないんだろ。もしかして私ってダメダメなのかなーー……。ううう~~~~」

 美菜が嘆くのも無理はない。美菜は頼りがいのある積極的な年上が好みなのだが、これまで付き合ってきたほぼすべての人と半年もしないうちに別れていた。理由は様々だが、今の山本先輩のように遠距離になったことをきっかけに離れたものもあれば、浮気をされたり、少しハードなものだと喧嘩から暴力に発展しそうになって別れたものもある。そしてその相手はすべて、美菜と青い糸で繋がっている人たちだった。

「だ、大丈夫だよ、美菜。美菜はすっごく可愛いし、優しいし、ぜったい幸せな恋愛できるよ!」

「えーー……ほんと? ほんとにそう思う?」

「うん、すっごく思う!」

「うう~~ありがと~~紫音。少しだけ元気出たよう~~」

 ひしっ、と大仰に抱きついてきた美菜の背中をさする。少しあざといところもあるけれど、それは暗い話が深刻になりすぎないようにとの彼女なりの配慮でもあり、本当に優しくていい子なのだ。そんな美菜が青い糸と繋がれた人とばかり付き合って悩んでいるのは私としても悲しいけれど、最悪な不幸に見舞われていないだけまだ良かった。私もずっと助けられているし、やっぱり美菜には幸せな恋愛をしてほしい。

「……はい。私の話はこれでおしまーい。……と、いうことで! 今度は紫音の番ね!」

「ええっ!? 私?」

 中学からの親友の幸せを願っているさなか、突然の背信行為をされた。私の声が裏返る。

「もちろんでしょ~! ほら、春休みになにか進展はなかったの?」

「し、進展って、私は特になにもないよ。特定の誰かと仲いいわけでもないし、付き合っている人もいなければ好きな人もいないし」

「へぇ〜?」

 意地悪っぽい笑みを浮かべ、美菜はちらりと視線を教室の前方へ送った。そして戻ってきた視線の意味を理解しつつも、私は素知らぬ顔で首を横に振る。

「なんにもないってば」

「ふ〜ん? まぁいいけど、なにか手伝ってほしいこととかあったら言ってね! 茶化しながら全力で応援しますから〜」

「だ、だから……!」

 頬の熱を感じつつ、わちゃわちゃとじゃれ合う。
 本当に私たち……いや、私は一年生の時から変わっていなかった。
 黒板の前で私たち以上に笑いながらじゃれ合う男子の集団に、私はこっそりともう一度視線を向ける。
 高坂実(こうさかみのる)くん。
 一年生の時から想いを募らせている、私の好きな人が友達と笑い合っていた。
 教室に伸びる五本のうちの一本を、私の小指に絡ませながら。


 *


 赤い糸で繋がれた運命の人がいるなら、運命じゃない、一緒になってはいけない人もいる。
 もし一緒になれば大きな事故に遭ったり、厄介な病気を患ってしまったり、昼ドラのようなドロドロの関係に発展してしまったりと不幸が二人に降りかかる。そんな二人は赤い糸ならぬ青い糸で繋がれており、私は普通なら見えないはずのその青い糸が見える。つまり、事前にそういう「運命じゃない人」がわかるのだ。
 青い糸が見えるようになった時期については覚えていない。ただ、物心ついたころには既に見えていて、お母さんに無邪気にも訊いたところ本気で心配されて大嫌いだった病院に連れて行かれた。最低最悪の注射を刺された血液検査はもちろんのこと、当時はわからなかったがMRI検査やらCT検査やらを受けさせられ、異常なしの幼子の戯れ事と結論づけられたことは今でも覚えている。もちろん戯れ事などではなく、それから私は青い糸が見せる不幸の数々を目の当たりにしてきた。
 小学三年生の時、超有名人夫婦が誕生したかと思えば、一年と経たないうちに電撃離婚した。週刊誌による執拗な取材や報道が原因らしかった。さらにそのうちの一人は精神を病み、休業という名の事実上引退を余儀なくされた。
 小学五年生の時には、農業を営んでいた叔父さんが難病を患った。婿入りして何十年と続けてきた仕事が原因だと聞いた。
 中学生に上がってすぐのころには、近所でよく見かけるカップルが交通事故に遭うところを目撃した。しばらくしてまたすれ違った時には、男性のほうが車椅子に座っていた。
 その一年後には、以前からよく喧嘩していたお隣さんが離婚した。お母さんの話では、夫の単身赴任が何度も重なり、遠距離状態が長期間続いてすれ違いが生じてしまったらしい。しばらくして裁判にまで発展し、夫のほうが家を出ていったと聞いた。
 そして、さらにその一年後。私が中学三年生の時に、お父さんがリストラにあった。リストラされてすぐのころは明るく振る舞い、ほかの仕事を一生懸命探していた。お母さんもパートから正社員になり、必死に家庭を支えていた。でもなかなか仕事が見つからず、見つかっても環境が合わずにすぐ辞め、段々と夫婦喧嘩が増えていった。

「私だって疲れてるの! なのにあなたは家の事なんにもしないで、いつもいつもお酒ばっかり飲んで! もういい加減にして!」

「うるせー! 俺だって一生懸命やってんだ! 晩酌くらい好きにさせろ!」

 深夜、私が自室に入ってしばらくしたころに始まる夫婦会議からの口喧嘩は、本当に嫌だった。頭から布団を被ってイヤホンをつけ、寝る直前なのに音楽を大音量で鳴らした。あんなに仲の良かった二人の怒鳴り合う声なんて、一言足りとも聞きたくなかった。
 ほかにも、たくさんあった。
 たくさん、たくさんあった。
 そして全員の手には、漏れなく青い糸が絡みついていた。
 記者会見で幸せそうに左手の指輪を見せていた時も。
 叔父さんから送られてきた年賀状の写真の中でも。
 腕を組んで楽しそうにお喋りをしていたカップル二人とすれ違った時も。
 お隣さんの単身赴任のお見送りを見かけた時も。
 お母さんとお父さんが食卓であんなに仲良く笑い合っていた時も……。
 度重なるカップルや夫婦の不幸を見聞きするうちに、私はこの青い糸が「結ばれると不幸になることを示すもの」なのだと理解した。
 そして、なぜこんな能力があるのか考えた末に、これは自分の身を守るために事前に不幸を察知するための能力、つまるところ危機回避能力の一種だと結論づけた。親の喧嘩にも随分と慣れた、中学三年生の終わりごろだった。
 最初は便利な能力だと思った。要は青い糸で繋がれた相手以外となら、少なくとも不幸にはならないわけだ。幸せになれるかはわからないけれど、あんな目に遭うより百倍マシだ。恋人になる前に無用な不幸を回避できるのは、幸せに生きていくうえでひとつのアドバンテージになりうる。
 ……けれど。そんな考えは高校一年生で呆気なく崩れ去った。
 あの日、私は恋をしてしまった。

「――よう。春見、おはよ」

 事務連絡以外ほとんど話したことのないクラスメイト、高坂実くん。私と青い糸で繋がれた、運命じゃない人。
 意識的に避け続けていたのに、私はどうしようもなく恋に落ちてしまった。恋は落ちるものなのだと、この時に知ってしまった。
 そこから先は、ただただ苦しかった。
 教室で彼と話すたびに、胸に温かさと痛みを感じた。
 彼の笑顔を見るたびに、心がときめき切なくなった。
 彼と目が合うたびに、頬が熱くなり、視界が潤みそうになった。
 青い糸が、いついかなる時も私と彼を繋いでいた。
 どうして彼なんだろうと、何度も思った。
 どうして彼に恋をしてしまったんだろうか。
 どうして彼と青い糸で繋がっているのだろうか。
 どうして、どうして……。
 自問自答しても、当然答えなんか出やしない。それなのに、考えてしまう。
 そうして気がつけば、高校二年生になっていた。そして不運にも、私と高坂くんは今年も同じクラスになってしまった。
 世界は、どこまでも理不尽だ。


 *


 新学期初日は、早めに授業が終わった。
 始業式で校長先生のありがたいお話に耐え、その後は教室に戻って春休みの宿題を提出し、明日以降のスケジュールや配布物、委員決めなどをして授業は終了。いつもこうだったらいいのにね、と美菜と笑い合った。
 部活に行く美菜とわかれると、私はさっさと帰宅した。ちなみに、美菜はテニス部に入っている。今にして思えば、私もなにかしらの部活に入っていれば良かった。そうすれば、青い糸ばかりに悩まず気も紛れただろうに。かといって、高校二年生からでも始めたい得意なスポーツとかがあるわけでもないんだけど。
 
「ただいま〜」

「あら、紫音。今日は早いのね」

 いつもよりやや陽が高い時間に玄関の扉を開けると、ちょうど出掛けのお母さんとばったり会った。白ニットに薄いピンクのカーディガンという服装は、お母さんが仕事に出かける時によく着ているものだ。

「うん、初日だし。本格的な授業は明日からなの」

「そっか。高校二年生からはまた授業も難しくなるだろうし、大変だろうけど頑張んなさい。あ、そうだ! 紫音が頑張れるように、お弁当のおかず増やしてあげよっか? 紫音の好きなやつ」

「いいよ、べつに。太っちゃうから。それより、お母さん仕事大丈夫なの?」

「あ、いっけない! 電車ギリギリなんだった! じゃあ紫音、お母さん行くからあとはよろしくね!」

「うん」

 お母さんはバタバタと慌ただしくパンプスを履き、私と入れ違いに玄関から出て行く。どうやら今日は大丈夫みたいだと胸を撫で下ろそうとしたところへ、閉じかけていた扉が再び開いた。

「……あーっと、言い忘れるとこだった。今日は私もお父さんも遅いだろうから、夜は瞳のとこで食べてね。冷蔵庫にいつものタッパー入れてあるから」

「……うん。わかった」

 ほとんど私の目を見ずに要件だけを伝えて、今度こそお母さんは玄関の扉を閉めた。

「……またか」

 結局こうなるのか。
 静寂に満ちた玄関で、私はひとりため息をついた。


 *


 私服に着替え、タッパーを入れた保冷バッグと勉強道具を鞄にしまうと、私は早々に家を出た。

「あっつー」

 外はすっかりと春の陽気に満ちており、先週まで微かに残っていた冬の気配は微塵もない。時刻はとっくに午後四時を回っているが空は明るく、肌寒さもまったく感じられなかった。なんとなくコートを羽織ってきたが、どうやらいらなかったらしい。
 瞳さん、いるかなあ。
 瞳さんはお母さんの姉で、お医者さんをしている。今日は確かお休みで家にいるはずだが、外科で休日にも急きょ執刀医として呼ばれることが多々あるらしい。一応メッセージは飛ばしているが、瞳さんはほとんど見ないらしく今も未読だ。まあ、よく知った仲で合鍵も持っているのでいなかったら勝手にあがらせてもらうだけなのだが、やっぱりどうせなら一緒にご飯を食べてお話もしたい。
 おかずを持参し、瞳さんのところで時々ご飯を食べるようになったのは去年からだ。
 お母さんは、ズボラでだらしない瞳さんの食生活を正すためだとか、お母さんもお父さんも仕事で遅くなるからだとかいろいろ言っていたが、それは建前だと思っている。一度だけ瞳さんのところから早めに帰った時、家の中から言い合いをする両親の声が聞こえたからだ。その日はすぐには家に入らず、町内を少しぶらついてから帰宅した。そのころには、昂った二人の声はすっかり止んでいた。
 私の予想では、おおかた子どもに聞かせたくない話をするためだと考えている。特に最近は多いのだが、もうあまり気にしすぎないようにしている。私に聞かせたくない話なら、私にできることは聞かないようにするだけだ。
 そんな思索に悶々と耽っていると、いつの間にか駅に着いていた。陽もだいぶ傾いている。

「って、あれ」

 駅構内に入り、いつも通り改札をくぐろうとして、ふと傍らに立つ看板が目についた。電車の遅延なんかを知らせる看板だ。見れば、動物と電車が接触事故を起こしたらしい。なんとも田舎らしい事故だ。

「三十分遅れか〜」

 微妙な時間だった。長いといえば長いが、駅を出て買い物なんかをするには時間が足りない。駅自体はべつに広くないし、小さなコンビニ以外お店はなにもない。SNSはさっきチェックしたばかりだし、一応英単語帳を持ってきているから、やりたくはないがこれを眺めているしか時間は潰せそうになかった。
 まあ仕方ないか。
 どこか隅のほうで適当にめくっていようと辺りを見渡すと、ふいに奥まったところにある特設コーナーに目が留まった。

「水彩画の展示?」

 そこにあったのは、どこかの団体が企画した水彩画コンクールの受賞作鑑賞コーナーだった。春の空をテーマに、描き手が独自の解釈で自由に表現した作品を審査し、その結果受賞した四作品が飾られていた。手前から順に、最優秀賞、審査員賞、優秀賞、佳作と並んでいる。プレートには作品名と講評が書かれているばかりで、水彩画そのものの評価を重視するコンクールの趣旨から、作者名や作者からのコメントなどはなかった。
 ずっと低空飛行気味だった心が湧き上がるのを感じた。
 私は絵を見るのが結構好きで、たまに美術館にも行っている。絵は写真と違って青い糸が見えないし、純粋に楽しめるからだ。かといって絵心は幼稚園児に勝るとも劣らない斬新さなので、自分で描こうとは思わない。見る専門だ。
 ちょっと見てみようかな。
 思いがけない出会いに、私は展示された水彩画を鑑賞することにした。幸いにも四枚の絵を味わうには十分な時間がある。災い転じてなんとやらだ。

「わぁ……すごい」

 最優秀賞、審査員賞と順に見ていくが、最優秀賞の技巧は明らかに群を抜いていた。夜明けの空を彩る淡紅色はじつに鮮やかで、そこに細雲や桜吹雪が緻密な線と濃淡で描かれている。見るもの全てを惹き込むかのような迫力は、まさに天才のそれだと思った。
 しかし、審査員賞も決して負けてはいない。なんといっても構図が大胆だ。春の空がテーマだというのに、肝心の空自体はほとんど描かれていない。その代わり、絵の下半分以上に広がる湖面に透き通った青空が映っている。微かな雪の舞う湖面内の空に、湖岸に光る残雪という対比も面白い。きっと、春の空が鏡のように湖面に映っていることから、反対の意味で捉えて冬の空を湖水に描いたのだろう。
 審査員の講評に書かれた感想も読みつつ感心して眺めていると、ふと足が一枚の絵の前で止まった。

「これ……」

 四枚かけられているうちの、一番右側。佳作の作品だった。
 光り輝く太陽に、澄み渡る青空と薄くたなびく細長い雲。単純な構図で少しムラはあるけれど大胆な色使いで描かれており、作者の勢いが見てとれる。
 なにより目を惹くのは、左下に描かれた青空に舞う二枚の桜の花弁だ。太陽や雲、青空と違い、こちらはすごく丁寧に描き込まれていた。きっと相当な時間をかけたんだろう。

「きれい……題は『春心』、か」

 なぜか心が惹かれた。
 確かに水彩画そのものの技巧では他の三作品とは比べようもなかった。ド素人の私では上手く言葉にできないが、プロとアマチュアにおける次元の差みたいなものがあると思った。
 けれど、私はこの絵が一番好きだった。
 深くて広い青空に舞い上がる、二枚の桜の花弁。
 いったいこれは、なにを表しているんだろう。
 講評に視線を落とすと、春の訪れと好色を示唆しての恋だろうかとあった。なるほど。もしそうなら、私がこの絵に心を奪われるのも無理はない。私の見える青も、この絵の青空のように澄み渡ったものであれば良かったのに。
 少しばかりの感傷を覚えたが、やはり絵については心の底から楽しめた。食い入るように『春心』を鑑賞し、堪能してから、私はその場を後にした。
 なお、三十分の予定が五十分も時間が過ぎていたのはご愛嬌だ。ぐすん。


 *
 

 一本遅れの電車に乗り込み、三駅分の車窓を眺め、さらに降車した駅から歩くこと数十分。私はどうにか瞳さんが住むアパートまで辿り着いた。高校は徒歩圏内にあるが瞳さんの家はそれなりに遠く、すっかりと日は暮れていた。
 見れば、瞳さんの部屋からは煌々と明かりが漏れている。どうやら今日は部屋にいるらしく、私はホッと息をついた。軋む外階段を昇り、一番奥にある部屋の呼び鈴を押す。

「はいはーい。ただいま出ますよ〜っと」

 軽快な声が室内から聞こえ、一分としないうちに扉が開く。いつものように呑気でぽやんとした笑顔に迎えられ、私は促されるがまま部屋の中に……。

「……って、瞳さん! なにその格好!」

 まだ部屋の外だというのに、思わず私は声を張り上げていた。慌てて瞳さんを部屋に押し込み、玄関戸を閉める。
 これは仕方ない。だって今の瞳さんは、薄いタンクトップにパンツ一枚という出迎えには到底ありえない格好だったから。

「いや〜ごめんごめん。ついうっかりしちゃって〜」

「うっかりしちゃって〜じゃないよ! もし私じゃなくて宅配便の人とかだったらどうするの!」

「もちろんその時も、うっかりしちゃって〜って謝るよ」

「洒落になってないから! とりあえずほら、せめてTシャツ着て短パン履いて!」

「ほーい」

 倍以上歳の違う子どもに怒鳴られるも、瞳さんはまるで気にした様子はなかった。のれんに腕押しといったふうに、変わらずぽわぽわとした笑みを浮かべている。このだらしなさに反して外科医としては若手ながらかなりの腕前らしいので、本当に人は見た目で判断できない。
 そして服をとりに奥の部屋へ入ると、そこも期待に違わずしっかりと散らかっていた。

「瞳さん、私が前に来たのっていつだっけ?」

「んー、三十日前くらい?」

「桁がひとつ多いよ。三日前だよ、三日前!」

 ソファや床はもちろんのこと、テレビの端にも衣服が引っかかっている。ローテーブルの上には化粧品が散らばっており、シンクにはおそらく三日分の食器が積み上がっていた。僅か三日でこの散らかりようはすごい。一種の才能とすら思えてくる。

「まずは掃除からだね。はい、瞳さんは服をこのカゴに集めて洗濯をお願い。私はゴミの分別と食器を洗うから」

「りょーかい。いや〜紫音ちゃんが来てくれてほんと助かるよー。紫音ちゃんは将来いいお嫁さんになるわー」

「おばちゃんくさいよ。ていうか、私のことはいいとして、瞳さんはどうなの?」

 あちこちに散乱したゴミをゴミ袋に入れながら私は尋ねる。瞳さんは確かにだらしないが、見た目はかなり綺麗な人だ。身長は高く、スタイルもいい。私生活を知らなければ、仕事のできる綺麗なお姉さんなのだ。男性ウケは良さそうな気がするが、一緒に夜ご飯を食べるようになったこの一年間、瞳さんの口から色恋についてはまったく聞いたことがない。
 ちらりと目をやると、瞳さんは洗濯洗剤を片手に「ん〜」と思案に暮れていた。

「そうねー、私はひとりのほうが気楽だからいいかなー。今のところは」

「ふーん。瞳さんは結婚したほうがシャンとしそうでいいと思うけど」

「だからこそなのよ」

 ぽぽいっと雑に粉末洗剤を入れ、瞳さんは洗濯機のスイッチを押す。水が流れ出すさなか、私は横からサッと柔軟剤を投入した。
 ここ三日間の近況も含めてあれやこれやと話しながら、瞳さんは部屋を片付け、私は夜ご飯の用意を進める。瞳さんの家でご飯を食べるときの役割分担もだいぶ慣れてきた。瞳さんはあまり料理をしないからか、キッチンの食器や調味料はすっかり私の使いやすい配置に収まっている。
 家から持ってきたタッパーを開けると、そこには煮物や酢の物といった小鉢料理のほか、野菜炒めが入っていた。私は酢の物をお皿に盛り付け、煮物と野菜炒めはレンジで温める。すると、みるみるお腹のすく香ばしいにおいがしてきた。
 そういえば、小さい頃はよくお母さんの野菜炒めをせがんでいたっけ。
 なんてことはない思い出に少しばかり寂しく思っていると、隣にいた瞳さんのお腹がぐうと鳴った。

「いやー、さっすがお姉ちゃん。相変わらず料理上手だなー。私には到底真似できない。包丁よりメス握ってるほうがしっくりくる」

「え、なにそのパワーワード。瞳さんらしいといえばらしいけど、ちょっと怖い」

 私のやや引いた反応に瞳さんはあけすけに笑う。
 少しだけ心が軽くなったのを感じつつ、私たちは温かくなった料理をテーブルに運んで席についた。

「「いただきます」」

 ひとりで食べる時にはしないあいさつを口にしてから、私たちは料理を食べ始めた。
 やっぱり、誰かと食べるご飯は美味しい。
 同じ煮物なのに、同じ野菜炒めなのに、こんなにも味が違う。当たり前といえば当たり前だけど、やっぱり不思議だ。

「そーいえば、紫音ちゃん今日から新学期だったよね。どう? 今年は大丈夫そう?」

 酢の物をつつきながら、瞳さんが訊いてきた。

「うん、まぁ……」

 私も酢の物に手を伸ばし、なるべくいつもの調子で答える。

「二年生のクラスじゃ私のも入れて五本見えた、かな」

 私の返答に、瞳さんも調子を変えず「五本かあー」となんの気はなしに相槌を打った。
 いつも、どこまで話そうかなと思う。
 瞳さんは、私が不幸の青い糸なるものが見えることを知っている。いや正確には、不幸の青い糸が見えると言う私の言葉を信じてくれている。
 幼いころ、青い糸が見えると初めて両親に言ったときは信じてもらえず病院に連れていかれたが、その前に瞳さんにも相談していた。瞳さんは私の言葉を最初から最後まで信じてくれた。けれど、外科医である瞳さんは専門外ということで、代わりに病院を紹介してくれたのだ。もっとも、その病院では小さい子どもの妄想癖という結論を出されてしまったんだけど。
 ただそれ以降も、瞳さんは私のことを気にしてくれた。お盆やお正月に会うたびに体調や青い糸のことについて訊いてくれた。小学校高学年になり、自分の見ているものの異常さを自覚して青い糸なんて見えないと嘘をついても、瞳さんにはお見通しのようで変わらずに気にかけてくれた。
 それから、私も瞳さんだけには青い糸のことについていろいろと相談するようになった。でも、詳しいことについてはあまり話していない。話しているのは、青い糸で繋がっている人が結ばれると不幸になるということ、その不幸は人生を左右するような大きなものになる可能性があるということ、両親も繋がっていること、そして私にも繋がっている人がいるということ。
 瞳さんはいつも話を遮ることなく、最後まで真剣に聞いてくれている。さらには深刻になりすぎないよう、まるで日常会話の一部みたいなテンションで返事をしてくれる。今の相槌も、そのひとつだ。おかげで私は心に不安を溜め込みすぎることなく、毎日を送れていた。
 ただそれでも、どうしても気は遣ってしまう。必要以上に心配はかけたくないし、ここまでくると私自身がこの能力とどう付き合っていくか次第な気がしているから。だから、瞳さんには私の話を適当に聞くだけにして、お母さんや他の先生にはなにも言わないでほしいとお願いしていた。カウンセリングや追加の検査はいらない。ただこうして私のことを考えてくれるだけで、私にとっては充分だった。
 
「五本ねー。そりゃまた多いね」

「うん、そうなの。ほんとうんざりしちゃう」

「去年大変だったって言ってたもんねー。紫音ちゃんも含めて、みんな平穏に過ごせたらいいんだけど」

「私は大丈夫だよ。見えてるんだから、そうならないよう回避するのだって簡単だし」

 高坂くんの笑顔が脳裏にちらつく。けれど無視して、私は強がった。

「まあ確かに、そうかもしれないね」

 瞳さんは頷き、煮物をひょいと口に入れた。私も真似るようにして、こんにゃくをつまむ。

「でも紫音ちゃん、その青い糸で繋がってる子のこと、好きなんじゃないの?」

「え?」

 優しい口調での突然の指摘に、私の箸の先からこんにゃくが滑り落ちた。

「まあこれは、私の勝手な想像なんだけどねー。その青い糸が繋がる相手って、聞いてる感じだと恋仲に発展しやすい相手みたいだから。もしかしたら、紫音ちゃんもそうなのかなーって」

「そ、それは……」

 さすが瞳さんだ。完全に見透かされている。瞳さんはさらに続けた。

「これは僅かな歳と煮物を食ったお姉さんのお節介なんだけど、紫音ちゃんはもうちょっと自分の気持ちにわがままになってもいいと思うよ。確かに青い糸のことは気をつけないとかもだけど、紫音ちゃんの青い春だって大切なんだからねー」

「瞳さん……」

 瞳さんはそれ以上は続けず、パクリパクッと野菜炒めを口に放り込んだ。あんまり気にしすぎるなという、彼女なりのエールなんだろう。だから私も、思った言葉を投げる。

「瞳さん、キザだよ」

「むごっほぉ!?」

 瞳さんは盛大にむせた。私は笑いながら、水を差し出す。

「うわーめっちゃキザだったなー」

「こら! 年上の綺麗なお姉さんを茶化すなー!」

「いやーここまで歳の差あるとお姉さんというより……」

「ああん?」

 昨日と違って、今日の食卓は彩りに溢れていた。


 *


 瞳さんの家からの帰り道。
 私は、瞳さんの言葉を口の中で転がしていた。

 ――紫音ちゃんはもうちょっと自分の気持ちにわがままになってもいいと思うよ。

 心の中がモヤモヤとする。

 ――確かに青い糸のことは気をつけないとかもだけど、紫音ちゃんの青い春だって大切なんだからねー。

「はぁーーあ」

 胸のなかに滞留するもやを吐き出すように、長く息をついた。
 瞳さんがかけてくれた言葉は、私の心にはあまり響いていなかった。むしろ少しイラッとさえした。

「それができたら、苦労しないよ」

 結ばれたら不幸になるとわかっているのに、素直になれるはずがない。自分の気持ちにわがままになれるはずがない。
 私と青い糸で繋がれている男子、高坂実くんを初めて見た時は、正直少しホッとしていた。だって、どう足掻いても私なんかが釣り合うような人じゃなかったからだ。
 短く切り揃えられた黒髪に、人懐っこそうな大きな瞳。鼻筋や輪郭はシュッとしていて身長も高く、いわゆるイケメンに入る男子だ。爽やかで柔らかな笑顔に惚れている女子も少なくない。学業成績も常に学年上位十名に食い込んでいるし、所属している陸上部ではエースだと聞いたことがある。確か、高校一年生にしてインターハイに出場していたはずだ。
 しかも、完璧超人かと思えば、ちょっと抜けているところもある。古文の教科書と間違えて美術の教科書を持ってきたり、たまにちょこんと後ろ髪が跳ねていたりといった隙は、さらに彼の人気に拍車をかけていた。
 対して私は、地味でコミュ力も仲の良い人とだけ打ち解ける程度の中途半端なパッとしない女子。美菜のおかげで昔よりも随分身だしなみは垢抜けたと思うが、キラキラしているスクールカースト上位の女の子たちを見ているとそんな僅かな自負もすぐに地に落ちる。成績も真ん中程度だし、部活にも入っていなければ誇れるような実績もない。ないないづくしの微妙ちゃんなのだ。
 そんな私と高坂くんが横に並んで親しそうに笑っているシーンなんか想像できるはずもない。現実感がまるでない。だから、私と高坂くんは不幸の青い糸で繋がっているけれど、そもそも結ばれることのない人同士なので安心しきっていた。手が届かない高嶺の花に一目惚れするような性格でもなかったので、何事もなく終わるだろうと思っていた。
 それが一転したのは、高校一年生の秋だった。
 夏休みが明けてしばらくしたころ、私の両親は過去に類を見ないほどの大喧嘩をした。一時別居にまで発展し、離婚も時間の問題だと思うほどだった。
 青い糸で繋がっていたのを見ているので、おおよそ予想していたことではあったけれど、やっぱり子供心にショックだった。そのころの私は学校でも家でも気丈に振る舞い、布団に入って寝る時の僅かな時間だけ素に戻ってこっそり泣くという生活をしていた。
 心が疲れていた。疲れ切っていた。
 ある日、なにかが切れたように、すべてのやる気が行方不明になった。授業に出るのも面倒くさく、私は初めて一限目を無断欠席した。誰もいない体育館横の階段に腰掛け、呆然と野花を眺めていた。
 その時に、ふいに横に座ってきたのが、高坂くんだった。青い糸は、相手が近くにいると見えるようになるのだが、ぼんやりと地面を見つめていた時に唐突に青い糸が視界を横切ったのには驚いた。そしてハッと隣を見ると高坂くんが座っていたのだから、さらに驚いた。

「よう。春見、おはよ」

 ほとんど話したこともなければクラスで目立ちもしない私の苗字を覚えていたことに、また驚く。私もあいさつを返さねばと口開いたけれど、なぜか言葉は出てこなかった。

「俺も寝坊しちまってさ。一限の数学、浜センだろ? 今から行っても怒られるだけだから、もうぶっちしようと思って」

 秋風が彼の短い髪を揺らし、爽やかな笑顔がさらに引き立つ。心なしか、私の心臓の早さが増した気がした。
 でも、私は高坂くんとただのクラスメイト以上に近づくつもりはない。だから、素っ気なく接しようと思った。

「べつに、私は寝坊したんじゃないけど」

「あれ、そうなのか。じゃあなんでここに?」

「まあ、なんとなく」

 苦手な女子だなと思ってほしかった。そうして遠ざけてくれれば、私と彼が結ばれる可能性は万が一から億が一くらいにさらに下がるはずだ。

「そっか。じゃあ一緒になんとなくサボろうぜ」

 それなのに、なぜか彼は私の隣に居続けた。

「なんで?」

「サボるにしても、ひとりだと寂しいじゃんか。サボり仲間ってことでいいだろ」

「べつに示し合わせてサボってるわけじゃないし。私はただ、なんかやる気が出なくてサボってるだけだし」

「そうなんだ」

 彼の反応を見てハッとした。言わないつもりだったのに、つい口に出してしまっていた。
 
「今のは、違うから」

「違うってなにが?」

「理由……いや、なんでもない」

 うまく言葉が出てこなかった。これ以上、彼の真っ直ぐな顔を見ていられなくて、目を逸らす。

「まあなんでもいいけど、どうせ今から一限出る気もないだろ? じゃあ俺のサボりに付き合ってくれよ」

「……」

 無視をしてみても、彼は嫌味のひとつも言わなかった。ただなにも言わずに、私と同じようにぼんやり地面を見つめていた。
 爽やかな風が吹いていた。
 のどかでちょうどいい気候だった。
 あんなに無気力で荒んでいた心が、少しだけ回復していた。
 そこで、ぽたりと私の握り締めた手に水滴が落ちてきた。秋の空は変わりやすいという。雨かなと思って空を見ても、そこには透き通った青色しかなかった。

「ほら」

 隣から、優しい声とともにハンカチが差し出された。
 そこではたと気づいた。
 私は、泣いていた。
 たった一滴だけだった。声を出したわけでも、目元を拭ったわけでもなかった。
 それなのに高坂くんは気づいて、なにも訊かずに、ただ柔らかな笑顔を浮かべてハンカチを貸してくれた。

 きっとあの日から、私は高坂くんを好きになってしまった。
 そんな気持ちを自覚してからは早かった。
 彼のことを今まで以上に目で追うようになった。
 彼の声に過敏に反応してしまうようになった。
 彼の近くを通るたびに、友達の話が入ってこなくなって、心臓が情けない高鳴りをあげた。
 彼と話す時は、平静を保つだけで精一杯だった。
 それと同時に、心の中は言いようのないほど苦しくなった。
 元々見込みのない恋だ。どれだけ頑張ってみても叶うことはないだろう。そして万が一に叶ったとしても、私は彼と恋人にはなれない。正確には、なるつもりはない。
 だって……私と高坂くんは、不幸の青い糸で繋がっているのだから。高坂くんの人生を変えてしまうような不幸なんて、絶対に嫌だから。

「はぁーー……」

 だったら、私のすることはひとつだ。
 なにもしない。
 現状を変える可能性のある行動はいっさいしない。
 この恋心は胸に秘めて、本人は当然のこと誰にも言わずに高校を卒業する。そうすれば、すべてが万事解決だ。
 だから、瞳さんの言っていることは受け入れられない。
 青い春なんて、私には謳歌できない。
 わがままになんて、なれるはずもない。
 ふと、行きしなに見た絵のことを思い出す。
 確か、『春心』だったか。
 深くて広い青空に舞う、ふたひらの花びら。
 春の訪れと恋を示す、まさに春の心。

「あーあ。いいなあー」

 私も、心の底から恋をしてみたかった。
 そんなことを、思ったりした。


 *


 翌日。昨日の考え事には蓋をして、普段通り登校して教室のドアを開けると、ふいに青い糸が視界で大きく波打った。

「わっ」

「おおっとぉ!」

 思わず出してしまった声に、誰かが驚いた。いや待て。この流れは……

「あ……」

「なーんだ、春見か。マジびっくりした。驚かすなよ」

 まるでなにかのフラグが立ったかのように、私の想い人である高坂くんがすぐそこにいた。リアクションのわりには、相変わらず爽やかな笑顔を浮かべている。
 ドキッと高鳴りかけた心音を誤魔化すように、私は慌てて首を横に振る。

「いや、ごめん。驚かすつもりはなかったんだけど」

「えーうそだ〜。春見、俺が教室から出ようとしたタイミングで『わっ』って声出しただろーに。完全に驚かすタイミングだったぞ」

「そ、それは……」

 ぐうの音も出ない。青い糸が見えてない人からすれば、確かにそう見えるだろう。

「いや〜意外と春見もお茶目なんだな。まぁおかげで目が覚めたわ」

「いや、その、違くて」

「あっ、やべ。顧問に呼ばれてたんだった。んじゃなー春見」

 私が弁解する間もなく、高坂くんは小走りで行ってしまった。行き先を失った言葉が、ただのため息となって口から漏れる。
 幸いにも、このやりとりは他のクラスメイトには見られていないようだった。仲の良いグループでお喋りしていたり、宿題を必死になってやっていたり、眠いのか机に突っ伏していたりしていた。もし変に注目されようものなら、あらぬ噂が立ってしまう可能性がある。それが高坂くんのことを好きな女子たちに伝わろうものなら、厄介なことこの上ない。本当に良かった。

「し〜お〜ん〜! かもーん!」

 するとそこへ、朗らかに私の名前を呼ぶ声がした。嫌な予感をしつつ目を向ける。

「美菜のやつ」

 珍しく眼鏡をかけた中学からの悪友が意地悪な笑みを浮かべ、ひらひらと手を振っていた。前言撤回。どうやら約一名、一番面倒くさいクラスメイトに見られていたらしい。私は軽く頭を押さえつつ、自席兼野次馬インタビュアー美菜の後ろの席についた。

「紫音〜! なになに、いつの間に高坂と仲良くなってたの!?」

「いや、なってないし。ほんとたまたま出会い頭にぶつかりそうになっただけで」

「え〜隠さなくたっていいのに〜。つい驚かしたくなったとか、そんな感じなんでしょ?」

「ないない」

 天地がひっくり返ってもあり得ない可能性に、私は苦笑する。そもそもつい驚かしたくなる時ってどんな時だ。

「でもほら、満更でもなさそうだったし。またやってみたら?」

「やらないってば。美菜みたいに付き合ってる人が相手ならともかく」

「え〜、私は仲良かったらクラスメイト相手でも結構ふざけるけどなー。修二と別れてフリーになったし、これからはもっと容赦なくやりたい!」

「……え? 別れた?」

 思わず聞き返していた。聞き間違いかと思った。
 私の反応に、「そういえば」と今思い出したように美菜はぽんと手を叩く。

「ごめん、まだ言ってなかったね。じつは昨日家に帰ってから、修二と電話で話したんだ。そしたら、やっぱりもう私に気はないみたいで、あっさり別れることになっちゃった。ほんと、遠距離って難しい!」

「美菜……」

「あ、でも勘違いしないでね! 私、もう引きずってないから。新しい恋を探して頑張るから大丈夫だよ!」

 美菜はふわりと笑った。
 今日、美菜はいつもと違って眼鏡をかけている。最初は花粉が結構飛んでいるからだと思っていたが、どうやら目元がやや赤いのはべつの理由らしかった。

「美菜。昨日も言ったけど、美菜はぜったい幸せな恋愛できるよ。なにかあったら全力で協力するからね!」

 美菜は私とは違う。
 私は青い糸が実際に見えてしまうとはいえ、抗うわけでもなくそれを理由に恋から逃げている。かといってほかの恋に切り替えるわけでもない。
 対して美菜は何度も青い糸で繋がれた相手と恋人になり、大小の差はあれど不幸に見舞われても前を向き、また新しい恋に向けて努力している。そんな美菜が、幸せになれないはずがない。

「うん、ありがと!」

 美菜は変わらない満面の笑顔で返事をした。本当に、美菜には幸せになってほしい。

「でもね、それは私も同じだからね」

「え?」

 友の幸せを願っていると、その友から思いがけない言葉が飛んできた。私の口から、間の抜けた声が漏れる。

「紫音っていつも私のこと元気づけてくれるし、応援もしてくれるけど、自分のことになると途端に遠慮し出すんだもん。私にも応援とか協力させてほしいの」

 美菜の表情はやっぱり変わらず笑顔だけど、目はいつになく真剣だった。心から言ってくれてるのがわかった。

「うん、ありがと」

 私は取り繕った笑顔を貼り付ける。ぎこちなくなっているのが見なくてもわかった。でも、今の私にはこれが精一杯だ。
 美菜の言葉は素直に嬉しい。でも、私はどうしたらいいのかわからない。
 美菜の協力で高坂くんと仲良くなってしまったり、万が一にも付き合うことになったりしようものならどんどん引き返せなくなる。きっと私の中にある恋心に囚われて、もっと先へと求めてしまう。けれどその先にあるのは幸せではなくて、いつ訪れるかわからない不幸と、そんな不幸への不安と、恐怖だ。

「……で! そんな紫音が好きな人を驚かせたくなったのはなんで!? なにかあったんでしょ!」

「もう、だからなにもないってば!」

 急旋回して話題を戻す美菜に苦笑いを浮かべつつ、
私はぼんやりと先ほどの出来事を思い出していた。


 *


 放課後、私はひとり図書館にこもって数学の課題に黙々と取り組んでいた。
 いつもならとっくに家に帰っている時間だ。けれど、今日は違った。

「はぁ……」

 意図せずしてため息がこぼれる。やっぱりどうにも集中できない。
 昨日の瞳さんの言葉に引き続き、朝に美菜から言われた一言で、私は今日の授業中も休み時間も悶々と悩んでしまっていた。そのせいで、いつもなら授業中にこっそりと終わらせる課題プリントがまったくと言っていいほど進んでいなかった。しかも今日は朝から両親の機嫌がすこぶる悪く、あまり顔を合わせたくなかった。
 結果、私は家に帰ることなく少しでも集中しようと図書館に出向いたわけだが、くだんの課題プリントは未だに五個ある問題のうちの半分程度までしか進んでいない。
 少しでも手を止めれば蘇ってくるのは瞳さんや美菜の言葉。あるいは今日の朝の両親の緊迫した空気と態度。自分の中にくすぶる想いとその後押し、そして青い糸がみせる不幸の現実に完全に挟まれていた。

「……はぁ。ダメだ」

 どうにもこうにも気分が乗らない。校内をぐるっと一回りしようと、私は席を立って図書館をあとにした。
 授業が終わった後の校内は、部活動の喧騒に包まれていた。グラウンドから聞こえる掛け声に、上の階から響いてくる楽器の演奏。体育館から漏れ聞こえるボールのドリブル音、階段を駆け上がる運動部らしきアップテンポの足音。教室に残って勉強に勤しむ生徒たちのシャーペンの擦れる音……はさすがに聞こえないけれど。
 高坂くんも、今は部活中かな。
 高坂くんの所属している陸上部は、学校ではなく近くにある市営の陸上競技場で練習しているらしい。時間的にも練習の真っ最中だろうから、当然学校にはいない。今朝の一件からどうも話すのが恥ずかしかったし、鉢合わせの心配がなくて何よりだ。……って、なんで私はまた高坂くんのことを考えてるんだろ。
 小さく頭を振って思考を掻き消すと、ちょうど私のクラスの前まで来ていた。
 ちらりと教室の中を見るも、誰もいない。どうやら今日は居残りをしている人はいないみたいだ。
 滑りの悪いドアを開けて、私は中に入る。昼休みや放課後すぐはあんなに賑やかだったのに、今はすっかり静まり返っている。なんだか変な感じだ。
 夕陽が差し込む無人の教室を前から見渡すと、やっぱりというべきか、彼の席が目についた。窓際の真ん中、いつも騒がしい男子たちが集まっている席だ。彼の人気っぷりが容易に想像できた。
 普段は決して近づくことのできない席に、私は引き寄せられるように歩いていく。
 高校一年生の時もそうだが、私は青い糸で繋がれた高坂くんの近くに、なるべくいないようにしていた。なにかの弾みで接点なんかもたないように、可能な限り避けていた。そのおかげで、教室では事務連絡以外ほとんど話したことはない。教室の外では、偶然が重なった事故のごとく話してしまうことはあったけれど。
 高坂くんの机にそっと触れる。隅のほうに、小さな落書きがあるのを見つけた。

「ふふっ。なにこれ」

 タヌキをモチーフにした教師だ。きっと私たちのクラスの現代文を担当している田牧先生だろう。名前もさることながら、垂れ目で童顔というタヌキ顔なので、みんなからはタヌキ先生と呼ばれている。それにしてもそっくりだ。こういう落書きのセンスも、彼の魅力のひとつなんだろう。

「ん? これって」

 落書きの書いてある机の角の真下に、なにかが落ちていた。拾い上げてみると、青色のキャンパスノートだった。表には「数学」の文字と「高坂実」という名前があった。
 あーあ。今日数学の宿題出てたのに。高坂くんって、たまにおっちょこちょいなんだよね。
 普段は格好いいけれど、こういう抜けているところもある。高坂くんらしいなあなんて思いながら、私は何気なくノートをめくった。

「…………え?」

 最初のページを開いて、私は驚愕した。
 一ページ目にあったのは、数学の公式でも課題の解答でもなかった。
 ノート一ページをダイナミックに使った、教室の窓から見える風景のデッサンだった。

「これ……」

 そのデッサンは、とても丁寧に描き込まれていた。空を流れる雲に、遥か彼方に連なる山々の稜線。遠目に見える細かな街並みから、手前に広がるグラウンドに、その周囲を規則的に囲っている常緑樹の葉まで。とても落書きとは思えないほどの緻密さだった。
 もっとも、絵全体のバランスはそれほど良いとは言えない。微妙に大きさがおかしいところもあるし、線の太さもまちまちだ。もしかして、最近絵を習い始めたんだろうか。
 クラスメイトのノートの中身を勝手に見ることに罪悪感を覚えつつも、私はさらに一枚、もう一枚とキャンパスノートのページをめくっていく。表紙には「数学」と書かれているわりに、そのなかにはデッサンしか描かれていなかった。後ろから眺めた教室の光景に、これは四階、あるいは屋上から見た反対側の風景だろうか。ほかにも、最初のページと同じ構図のデッサンも何枚かあった。後半になるにつれ、崩れていたバランスが整ってきていた。明らかに、上達していた。
 でも、なにか違和感があった。
 言葉では言い表せない、けれど強烈に心を突く違和感だった。既視感、といってもいいのかもしれない。私は今はじめて目にしたデッサンを、どこかで見たような気がしていた。
 さらに、私はページをめくっていく。デッサンの数が減り、代わりに見たことのない風景の絵が増えた。画面構成は変化し、描きたいものなのだろう花や海、動物などを主体とした絵に変わった。さりげなく描かれた背景と、細部まで丁寧に仕上げられたモチーフの対比が印象的だった。丁寧にゆっくりと描いたはずなのにどこか勢いのある、そんな絵だった。素敵な絵だなあ、なんて単純な感想を持ちつつまた次のページを開いて、私の指先は止まった。

「あ……」

 そこに描かれたのは、画面いっぱいに広がる空に、二枚の花弁だった。
 認識する間もなく、鉛筆のみで描かれたはずのモノクロの絵が、鮮やかに色を帯び始める。
 深くて雄大な青。日光を表す勢いのある白。ムラのある薄いピンク。
 私が惹かれた、つい最近駅構内で目にした佳作が、目の前に浮かびあがる。


「――あれ? もしかして春見か?」


 私の中に『春心』が蘇ったのと、爽やかな声が聞こえたのは、ほぼ同時だった。


 *


「え、え……?」

 大混乱だった。
 声のほうを見ると、そこには紛れもなく私の手の中にあるノートの持ち主、高坂くんが立っていた。朝見た時と変わらない制服姿で、学校の指定鞄を無造作に肩に担ぎ、私と青い糸で繋がれ快活な笑顔を浮かべている。
 どうして彼がここにいるのだろうか。部活は? なんで制服姿? ていうか私がノート見ていたのを見られてた? え、ええ? これ、もしかして、嫌われる……?
 どんどんと思考がマイナスに落ちていくのを感じながら、私はパクパクと口を開閉させる。けれど、そこから思ったような声は出ない。

「えと、わり。その手に持ってるのって、もしかしなくても俺のノートだったりする?」

「あ、その……ごめんなさい」

 やっぱり見られていた。最悪のタイミングだ。
 自然に顔は下がり、なにを言われるのだろうと内心びくびくしていると、彼はゆっくりと近づいてきて言った。

「それ、授業中に暇だったから描いてみたんだ」

「え?」

 意外なほど優しい口調に、私は驚いて顔を上げる。

「ほら、数学の授業って退屈じゃん? 眠気覚ましになんか絵でも描くか~って思って、描いただけだから。下手だし、恥ずかしいから忘れてくれよ」

 彼は怒らず、本当に恥ずかしそうに頬をかいていた。初めて見る一面にドキリと心臓が跳ねる。
 ただ、彼の言葉にどう返せばいいかわからず、とりあえず私はノートを差し出した。

「えと、はい、これ……」

「おう、サンキュ」

 ひょいとノートが私の手から離れる。なんだか名残惜しくて、私は空いた手のひらを閉じてゆっくりと揉んだ。

「んじゃ俺、行くから。このノートの中身、マジで恥ずかしいから誰にも言うなよ~」

「あ、その……」

 言うべきか迷った。
 きっと正解は、言わないほうだ。
 青い糸が視界で揺れる。ひらひらと、彼の手の動きに合わせて右に左に。
 余計なことはしないほうがいい。そう理性が警鐘を鳴らしている。
 ただそれでも。

「私は……『春心』、すっごく素敵だと思ったよ」

 気づけば、言葉が口からこぼれていた。彼は驚いて目を見開いている。

「駅の絵、見たんだ」

「うん。佳作、だったね。でも私、あの絵の中で一番いいと思ったよ」

「いやいやいやいや、それはマジでないって!」

 風切り音が鳴るんじゃないかと思うくらい、高坂くんは手を横に振る。

「最優秀賞とか見た? レベルが違い過ぎるって。あれに比べたら俺の絵なんてただのお絵描き遊びみたいなもんだよ。一緒に飾られてるだけで恥ずかしいのに。てか、クラスメイトだからって気遣わなくていいって」

「ううん、ほんとに一番いいと思った。もちろん、絵の技術は他の絵のほうが上手だったけど、私的には高坂くんの絵に一番惹かれたの。こう、なんていうか、きっと絵を描くことが好きなんだろなっていうのが伝わる絵だった」

 それからも私は、あの時に感じた勢いの良さや細部の描きこみといったところを褒めた。上手く言葉にできずしどろもどろになりながらも、私は良いと思ったところをたくさん上げた。いつの間にか『春心』だけでなく、キャンパスノートに描かれたデッサンについても私は感想を述べていた。
 べつに高坂くんと親しくなるつもりはない。
 ただ、彼の「恥ずかしい」という言葉はすごく引っかかったのだ。
 あんなに素敵な絵を描くのに、それを「恥ずかしい」なんて思ってほしくなかった。
 せめて好きな人には、自分が好きなものくらい、好きのままでいてほしかった。
 私は彼のことを、好きのままでいてはいけないから。

「だからまあ、その、うん。いろいろ言ったけど、私は素敵な絵だなって思ったから、そんなに恥ずかしがること、ないと思う、よ?」

 ……とはいえ。
 心に浮かんだ感想をそのままに話し終えて、私は急に冷静になった。やばい。喋り過ぎた。ぼっと顔が熱くなる。

「あ、じゃ! わ、私は行くから! 勝手にノート見てごめんね!」

 勢いが完全にそがれる前に本当に言いたかった謝罪をもう一度口にして、私は足早に彼の横を通り抜けた。

「待って!」

 その時、グイっと肩を掴まれた。ひゅっと胸が締め付けられ、驚きとともに私はおそるおそる振り返る。

「今から、ちょっと時間ある?」

 笑顔が消え、いつになく真剣な表情の彼に、私はほとんど無意識に頷いていた。


 *


 高坂くんに連れられてやってきたのは、人気の少ない公園だった。

「この公園、学校から少し離れててほとんど人来ないわりに桜とかきれいでさ、結構穴場なんだよな」

 教室で見た真剣な表情は鳴りを潜め、今はいつもの爽やかな高坂くんに戻っていた。
 対して私は好きな人の隣に並んで十分以上も歩いた時点で既にいっぱいいっぱいになっていた。道中は高坂くんが気を遣ってなにか話してくれていたけど、ほとんど覚えていない。行き先や理由についても「着くまで秘密」とか言われてもうドキドキしっぱなしだ。

「さっ、ということで目的地に着いたことだし、言うんだけどさ」

「う、うん」

 いったい、なにを言われるんだろうか。
 真っ先に脳裏をよぎったのは告白だった。けれど、それならべつに場所を移す必要はないし、あれしきのことで高坂くんが私を好きになってくれるはずもない。恋愛経験は豊富だろうし、ちょっと元気づけられただけで落ちるちょろい私なんかとは違う。
 となると、やっぱりさっきの感想の件だろうか。絵を自分で描きもしない人が偉そうになにをいってるとか……いや、こんなとこまで連れてきてそれはないか。じゃあ、あれか。むしろもっと感想を聞きたいとかかな。SNSで創作をしている人の投稿をよく見るけれど、感想をくれたら飛び上がるほど嬉しいとか、もっと聞きたいしもっと頑張ろうって思えるとか書いてあった気がする。高坂くんは絵を描くことを恥ずかしがってるし、学校だと万が一誰かに聞かれたらということも考慮して場所を移したとか……。
 道中にも考えたことが脳内で再浮上しているところへ、高坂くんは一度言葉を区切ってから口を開いた。

「次に出すコンクールの、絵のモデルになってくれないか?」

「…………へ?」

 彼の口から出た答えは、私の想像のさらに斜め上を行っていた。コンクール? モデル? 聞き間違いだろうか。

「次のテーマがさ、『黄色』なんだ。今日言ってくれた言葉を聞いて、春見を描きたいって思ったんだ。だから、頼む!」

「え、ちょ、ちょっと待って! いったいどういうこと?」

 どうやら聞き間違いじゃないらしい。というか話の流れがまったくわからない。テーマが『黄色』? なんで『黄色』だったらモデルが私なの? そもそもさっきの言葉を聞いてって、どゆこと?
 戸惑う私に、高坂くんは慌てて説明を補足してくれた。

「あーえと、悪い。じつは俺、絵を描くのが好きなんだ」

「え? うん」

 それは知っている。あの素敵な絵を見ればすぐにわかる。

「でも、実力はぜんぜんでさ。小学生の時から描いてるのに入賞はおろか佳作にすら入ったことがなかったんだ。コンクールはもちろん、学校の美術の課題ですら選ばれない。十年近く描き続けて、この前やっと小さなコンクールの佳作に入れたんだ。それが、あの駅に飾ってあるやつなんだ」

「あ、そうだったんだ」

「うん、ほんとようやくって感じ。でも上の賞の絵見ただろ? もうレベル違いすぎてさ。さっきも言ったけど、俺ってまだまだなんだなって思い知らされた。ほんと、昔からそうだった。俺には絵の才能なんてない。絵なんかよりもむしろ勉強とか陸上、あるいは人付き合いとかそういう処世術みたいなもんが上手い人。親とか先生とか友達とか、周りが俺を見る目がそういう目だった。そういうイメージがついていたと思うし、事実俺は勉強も陸上も人付き合いも苦手じゃない。むしろ得意だし、楽しくもある。でも、本当は絵を描くほうが好きだった」

 自嘲気味に、高坂くんは笑った。なにかを我慢しているように見えた。

「俺は、周囲が期待する自分へのイメージを保つために、絵を描くのが好きだってことを隠してきた。絵を描くのが好きだって言って、見せて幻滅されたり微妙な反応をされるのが怖かった。だから、友達はもちろん、親だって俺が絵を描くのが好きなことは知らない。このノートもそうだ。これは数学のノートじゃないんだ。数学の時間に、こっそり絵を練習するためのノートなんだ」

 そこで、高坂くんはまた言葉を区切った。一度深呼吸をしてから、彼は真っ直ぐに私を見た。

「だから、このノートを春見に見られたとわかった時は正直焦った。どうにかいつもの自分を取り繕おうとしてた。そしてなんとか誤魔化して、その場から逃げようとしたら……春見が俺の絵を褒めてくれたんだ。すごく嬉しかった。ノートだけを見て褒めてくれたんならまだしも、まさか駅に飾ってある他の絵を見たうえで俺の絵を素敵だと言ってくれた。なんていうか、ちょっとクサいけど、希望の光が差し込んだような気がしたんだ」

「あ……」

 そこまで言われて、私の中で彼の言いたいことが繋がった。

「次回のコンクールのテーマは『黄色』だ。この『黄色』というのをどう解釈するかがひとつの審査基準になってくる。ストレートに黄色いものを描いてももちろんいいんだけど、俺はその『黄色』を『希望』と解釈して描きたいんだ」

「な、なるほど。だから、私にモデルを……」

「うん。言葉足らずでごめん。ちょっと先走ってというか、心が急いてた」

 高坂くんはくしゃりと相好を崩した。夕陽の光に反射してか、いやに眩しい。
 でも、そうか。
 私の言葉が、高坂くんの中で希望の光になってくれてたなんて、ちょっと嬉しい。ううん、すっごく嬉しい。やばい。顔がにやけそう。

「だから、頼む。俺、もっと上の賞に入ってみたいんだ。協力、してくれないか?」

 そう言って、高坂くんは頭を下げた。今度は私が慌てる番だった。

「ええっ!? ちょ、顔を上げて!」

「お願いだ。無理を承知で言ってるのはわかってる。ただ、どうしてもやりたいことなんだ」

 困る。困るよ。
 私はちらりと自分の左手に目をやった。そこには変わらず不幸の青い糸が絡みつき、その先は真っ直ぐに高坂くんの左手へと繋がっている。

「え、えと……」

 ぐるぐると私の中をいろんな考えが駆け巡る。
 純粋な気持ちとしては、協力したい。好きな人のお願いなんだから、私にできることはなんだってしたい。
 でも青い糸のことを考えるなら、私と高坂くんは近しい関係であってはいけない。なるべく遠い関係で、親しくならないほうがいい。それに絵のモデルというのはなんか恥ずかしいし、受賞して駅に飾られるなんてことになれば恥ずかしさの比は桁違いだ。
 ただそれでも、私は高坂くんの絵も好きだ。高坂くんがどんな『希望』を描くのか興味がある。しかも、青い糸ついてもべつに高坂くんと付き合うわけじゃない。高坂くんが言っているのは、あくまでも上の賞に入りたいという自分の夢に協力してほしいということだけだ。恋人関係とかになるわけじゃない。
 また、あんなに高坂くんの絵を褒めちぎっておいて、今さら絵に関する頼みを断るのもどうかと思う。やっぱりあれはお世辞だったのかとか思われて、絵を描くという好きなことを辞められるのも嫌だ。
 だからこれは、仕方のないことなのかもしれない。
 めまいのしそうな葛藤の末、私はふっと息を吐いてから言った。

「……うん。わかった。それで、私はどうすればいいの?」

「え! マジで!? ありがとうー!」

 パッと頭を上げたかと思うと、高坂くんは今日一番の笑顔で顔を綻ばせた。どきりとしたのは言わずもがな、ただでさえ早い私の心音がさらに早くなっていく。彼自身の言う通り、確かに高坂くんは人付き合いが格段に上手らしい。
 興奮気味の高坂くんが落ち着くのを待ってから、私は改めて次のコンクールに出す予定の絵について尋ねた。高坂くんはベンチに鞄を置いてしばし公園内を見渡すと、ブランコのほうへ私を誘導する。

「ここにさ、普通に腰掛けてくれない? ちょっと眩しいかもだけど、夕陽側に顔を向けて」

「う、うん」

 私も鞄を置き、言われるがままにブランコに座る。それから細かな指示に従って鎖を持つ手の位置や顔の向きを変え、表情も頑張って作った。

「よし。早速で悪いんだけど、だいたいのイメージだけでも描きたいから、しばらくそのままでいてくれる?」

「は、はい……」

 高坂くんはブランコの前にある鉄棒に器用に腰掛け、先ほどのキャンパスノートを広げた。そしてしばらく私のほうを見つめてから、教室でも見たことがないほど真剣な顔つきで鉛筆を動かし始める。
 これが、高坂くんが絵を描く姿なんだ……。
 一際大きく、私の心臓が跳ねた。初めて見る好きな人の表情に頬も熱くなっていく。
 それだけじゃない。図らずも、私は今好きな人に唯一無二の真っ直ぐな眼差しを向けられているのだ。平静でいられるはずもなく、ドキドキしないほうが無理だ。

「あ、言い忘れてたけど、辛くなったらいつでも言ってね。それと、話くらいなら全然してもらって大丈夫だから」

「はーい……」

 といっても、いったいなにを話せばいいんだろうか。今日はそれなりによく話したけれど、私が避けていることもあって普段からお喋りをする仲ではない。どうしたものか。

「そういや春見ってさ、絵見るの好きなの?」

 指示通りの姿勢で固まったまま思案していると、ふいに高坂くんが話しかけてきた。驚きと緊張でビクッと肩が跳ねて笑われたけれど、私は取り繕って返事をする。

「うん、まあ結構好きだよ。でも、なんで?」

「ほら、駅にあった鑑賞コーナーってかなり奥のほうにあったじゃん? 通りからも外れてるし、あるのに気づいても絵を見るのが好きでもないとわざわざ奥まで行って見ないだろうなって思って」

「あー確かに。私も電車が遅れてなかったら気づかなかったかも。もっと手前にあればいいのにね」

 言われてみればそうだ。あんな場所にあってはなかなか目に留まらないだろう。高坂くんの絵はもちろん、他の絵も素晴らしかったし、なんだかもったいない。
 けれど、高坂くんは私の言葉にかぶりを振った。

「いや、俺はむしろあの位置で良かったけど。春見は褒めてくれたけど、やっぱりどうしても俺の下手さが際立つし」

「えー私は高坂くんの絵、もっといろんな人に見てもらいたいって思ったけどなあ」

 視線はそのままに、私は頭の中で『春心』を思い浮かべる。うん、やっぱり素敵な絵だと思う。

「また嬉しいことを言ってくれるね。春見は人を褒める思いやりの天才だな」

「未だかつて言われたことないけど」

「マジで? あーでも確かに、春見は驚かし癖があるからなー」

「ねー、そのネタいつまで引っ張るの」

「あははっ。ジョーダンだよ」

 むくれる私に、高坂くんは朗らかに笑った。
 会話が弾む。楽しい。そのおかげか、みるみる緊張も解けてきた気がした。
 もっと話したいななんて思って、次は私からと話題を探す。

「高坂くんは、風景画を描くのが好きなの?」

「ん? ああ、そうだよ。小さい頃に行った丘陵公園の高台の景色に感動してさ。その時からぼやっと風景画らしきものを描くようになった」

 手を止めずに高坂くんは答えた。
 ちらりと横目で様子をうかがうと目が合いそうになり、すぐさま視線の先を夕陽に戻した。心臓は、相変わらず情けない音を立てている。

「あの『春心』もさ、ここで自主練してた時に桜を見て思いついたんだ。そのままの風景でも良かったんだけど、俺パースが苦手だからちょっと構図変えようかなって」

「へぇ……! ここであの絵が!」

 興奮のあまり、今度は思わずキョロキョロと辺りを見回した。
 これまで私は、自分が好きだなと思った絵が生み出された場所に行ったことはなかった。だから、ここが好きな絵の生誕の地だと言われれば自然に心が弾む。入り口にある桜並木のそばか、少し離れたところのベンチか。『春心』は、いったいどこで描かれたんだろう。

「春見、視線は前で」

「あ、はい」

 そうだった。動いちゃいけないんだった。シュッと慌てて元の姿勢に戻すと、また高坂くんが笑った。

「ふははっ。いやー、春見ってやっぱ面白いわ」

「いやいやどこが」

「なんかもう、全体的に」

「なにそれ。意味わかんない」

 ついいつものくせで素っ気なく突き放すも、高坂くんは気にしたふうもなくまたあけすけに笑った。その笑顔はいつもの柔らかな笑みとは違う。好きなことをしているからか、少年のような純真さを感じた。

「ふふっ」

「え? なに?」

「いーや、なんでもない」

 我慢しようとしても、堪えきれず笑みが込み上げてくる。
 貰い泣きならぬ、貰い笑い。去年私の心を打った優しい笑顔も素敵だけれど、今の笑顔もとっても素敵だ。こっちにまで、楽しさが伝わってくる。

「ただね。高坂くんは本当に絵を描くのが好きなんだなあって、思っただけ」

 こんなふうに笑えるのは、やっぱり絵を描くのが好きだからだろう。
 好きなことをして、楽しくて、だからこんなふうに笑えるんだろう。
 その一端に、少しの間だけでも協力することができて本当に幸せだ。

「やっぱり高坂くんは、絵を描いてるほうが高坂くんらしいよ」

 好きな人が、好きなことをしていて、純粋に楽しく笑っている。しかも私は、そのモデルになっている。これだけで、私にとっては十分だ。
 私も踏ん切りをつけて、前に進まないと。
 左手から伸びる青い糸を一瞥し、私は密かに恋を諦める決意を固めた。


「――春見、好きだ」

 
 世界の音が止んだのは、その直後だった。


 *


「春見、好きだ」

 それは、唐突だった。
 なんの前触れもなく、私は告白された。

「え、えと……」

 え、え? 今私、告白された?
 驚きのあまり言葉が出てこない。思考が停止している。
 
「ごめん、よく聞こえなくて。もう一度、いい?」

「好きだ」

 聞き間違いかと思って尋ねてみたが、高坂くんは真剣な面持ちのまま、再度告白をしてきた。どうやら聞き間違いではないらしい。

「え、えっと……」

 言葉に詰まる。手汗がにじむ。胸が苦しい。心臓は過去一の速さで脈打っている。壊れちゃうんじゃないかってくらい。
 そして驚きもさることながら、心が躍る。踊らないはずがない。
 放課後。
 人気の少ない、夕暮れ時の公園。
 ベンチに置かれた高校の指定鞄は二つ。
 ブランコに座る私と、鉄棒に体重を預ける彼。
 シチュエーションは完璧で、夕陽に照らされた彼の横顔は赤く、とても愛おしい。
 私の顔も熱い。頬のあたりがまず間違いなく火照っている。触らずともわかる。本当に嬉しい。けれど……。

「ごめんなさい」

 視界の端で、不幸の青い糸がきらりと光った。
 どうして、と思う。
 どうして私と彼が、繋がれているのだろう。
 まったく関係のない、赤の他人とかだったら良かったのに。
 でもそれは、厳然たる事実だった。
 私は、その告白を受けるわけにはいかなかった。

「そう、か……」

 落胆した彼の表情に、胸がズキリと痛む。
 ごめん。ごめんなさい。
 心の中で何度も謝る。本当は私も好きなのだと、大きな声で叫びたい。
 でも、できない。そんなことをすれば、私たちは恋人関係になって、それから不幸に見舞われてしまう。
 私だけならまだいい。けれど、好きな人が不幸になるなんて、そんなのは嫌だ。絶対に嫌だ。
 だから私は、必死に歯を食いしばって口を閉じていた。フォローする余裕もなく、冷たく顔を背けた。もし逆の立場だったら、今ごろ私は泣いていただろう。
 けれど、彼は強い。悲しそうに、悔しそうに俯いていたかと思えば、すぐに面を上げて私を見据えた。

「悪いな、いきなり。あんまり話したことなくて、クラス一緒なだけでお互いのことほとんど知らねーのに、なに言ってんだって感じだよな」

「……」

「ただ、今日かけてくれた言葉を聞いて、笑った春見の顔を見て、気がついたら言葉が出てた。驚かしてごめん」

 高坂くんは恥ずかしそうに頭の後ろをかく。私は、なにも言わない。最低だ。

「でも俺、諦めないから」

 最低なのに。それなのに。
 高坂くんは朗らかに笑ってそんな言葉を口にした。
 意思のこもった、私には十年かかってもできない眼差しだった。私が惚れた、いつもの優しくて柔らかな眼差しとはまるで違う。そんなギャップも、とても素敵だと思った。

「今日はここまでにしよう。モデル、ありがとな。また今度お礼すっから」

「……」

「んじゃあな。気をつけて帰れよ」

 高坂くんはそれだけ言うと、荷物をまとめて公園から去っていった。
 終始、私は口を引き締め閉じていた。
 なにも言わなかった。
 なにも言えなかった。

「……ううっ、ぐすっ」

 だって、口を開いたら泣いてしまいそうだったから。

「ごめん、ごめんなさい……」

 黄昏を過ぎた群青色の空はぼやけ、よく見えなかった。