みじめさ、寂しさ、悔しさ、納得のいかなさ。
そういうものがぎゅっと凝り固まったものに、体の中心を貫かれたような気持ちだった。
そんな出来事を思い出した後、私は慌てて頭を振り、顔を上げた。
自分のことは今は良い。それよりも、テラス席の紳士だ。
彼がこのカフェに来たのは、私の知る限り、これで三度目。
前回、前々回も外を眺めて、秋の色になった往来の景色を、柔らかくなった日差しと空気を、ゆっくりと味わっているように見えた。
それをホールスタッフが邪魔することは、許されることか否か。
しかも過去二回の来店の際、紳士は店内の席が埋まり始めたのを察すると、会計を済ませてみずから店を出て行ったりなどもしていた。
私はその時、いちスタッフとしてすごく申し訳ない気持ちになった。
そして、声を大にして言いたいことが、一つある。
──このカフェ「ジャルダン・ドゥ・ティガ」は回転率を重視するタイプの店ではないし、経営者の判断で方針が変わったという話もない。
けれどそれを店長に言うことを、私はいまだに出来ずにいる。
「『ご注文の品はすべておそろいでしょうか』って言えばいいんだからさ」
「はいっ……」
しおれつつ、必死に返事をした私の様子が面白かったのか、店長は短く鼻で笑った。
「じゃよろしくー。ドリンクのお代わりは聞かないでね?」
「えぇっ……!?」
お代わりのオーダーが取れれば、退席を促さずに済む。そう思っていたのを、店長に見破られて、ドキリとする。
──気乗りしない。まったく気乗りしない。
それでも仕方なく、私はテラス席へと向かい──とりあえず、紳士の隣のテーブルのところへ立った。テーブルの上に落ちた葉をとりはらい、テーブル全体にスプレーを吹きかけ、ダスターで拭き清める。
出来るだけ、ゆったりとした動作で。
きっと今、店の中から店長が、私がむなしい時間稼ぎをしているのを見抜いて、腹を立てているだろう。
けれどこんな秋晴れの心地よい空気のなか、ゆっくりと休んでいる人に向かって、しかもその人だけに退席を促すなんて、難易度の高過ぎる話で。
でもこのまま紳士を放って戻れば、また店長や他のスタッフ達に、何を言われるかわかったものではない。
だから、困る。どうしたら良いんだろう──最近、いつもこうだ。
店長や他のスタッフ達のことを考えると、パニックといえば大げさだけど、身動きが取れなくなって、しっかり考えて判断することが難しくなる。
それでもとりあえず、私は決めた。
やっぱり、飲み物のお代わりを聞く。
覚悟を決めて振り返った先、老紳士のテーブルにいたのは、とある同僚スタッフだった。
「っ!」
「──お飲み物のお代わりをお持ちしましょうか?」
同僚──佐倉伶は、微笑を浮かべて紳士に問いかけている。
背が高く目鼻立ちが整っているうえに、立ち居振る舞いが静かで美しい彼は、初日から女性スタッフとお客様の視線を集めていたのだけれど。
今もまた、佐倉の登場に、周囲の女性客が色めき立っていた。スマ―トフォンを操作して、佐倉に向かって構える人が出始めたところで、私は我に返った。
──このままでは、佐倉が店長に怒られる!
私の焦りをよそに、紳士は朗らかに答えた。
「ああいや、結構です。十分いただきました」
「何か御用の際は、お申し付けくださいませ」
「うん、ありがとう」
「失礼いたします」
店内に戻って行った佐倉を見送って、私が考えたのは、彼が店長に怒られる前にかばった方が良い、ということだった。
踵を返そうとすると、背中に声がかかる。
「──椿さん」
「! はい」
振り向くと、紳士が微笑んでいた。
ネームプレートはつけているから、自分の名前を知られていることは何も不思議ではない。
でもお客様に名前を呼ばれたことはこれまでほとんどなかったから、反応が遅れた。
「君は間違っていないよ」
紳士はテーブルの上に指を組んで、優しいまなざしをこちらに向けていた。
「……え」
どうして彼は、そんなことを言うのだろう。
どう返せばいいかわからないでいると、紳士が立ち上がる。綺麗に撫でつけられたグレーヘアに木漏れ日が当たって、柔らかく揺れていた。
「じゃあ、またね」
片手を挙げて去って行った紳士を、私は戸惑いながら見送った。
そういうものがぎゅっと凝り固まったものに、体の中心を貫かれたような気持ちだった。
そんな出来事を思い出した後、私は慌てて頭を振り、顔を上げた。
自分のことは今は良い。それよりも、テラス席の紳士だ。
彼がこのカフェに来たのは、私の知る限り、これで三度目。
前回、前々回も外を眺めて、秋の色になった往来の景色を、柔らかくなった日差しと空気を、ゆっくりと味わっているように見えた。
それをホールスタッフが邪魔することは、許されることか否か。
しかも過去二回の来店の際、紳士は店内の席が埋まり始めたのを察すると、会計を済ませてみずから店を出て行ったりなどもしていた。
私はその時、いちスタッフとしてすごく申し訳ない気持ちになった。
そして、声を大にして言いたいことが、一つある。
──このカフェ「ジャルダン・ドゥ・ティガ」は回転率を重視するタイプの店ではないし、経営者の判断で方針が変わったという話もない。
けれどそれを店長に言うことを、私はいまだに出来ずにいる。
「『ご注文の品はすべておそろいでしょうか』って言えばいいんだからさ」
「はいっ……」
しおれつつ、必死に返事をした私の様子が面白かったのか、店長は短く鼻で笑った。
「じゃよろしくー。ドリンクのお代わりは聞かないでね?」
「えぇっ……!?」
お代わりのオーダーが取れれば、退席を促さずに済む。そう思っていたのを、店長に見破られて、ドキリとする。
──気乗りしない。まったく気乗りしない。
それでも仕方なく、私はテラス席へと向かい──とりあえず、紳士の隣のテーブルのところへ立った。テーブルの上に落ちた葉をとりはらい、テーブル全体にスプレーを吹きかけ、ダスターで拭き清める。
出来るだけ、ゆったりとした動作で。
きっと今、店の中から店長が、私がむなしい時間稼ぎをしているのを見抜いて、腹を立てているだろう。
けれどこんな秋晴れの心地よい空気のなか、ゆっくりと休んでいる人に向かって、しかもその人だけに退席を促すなんて、難易度の高過ぎる話で。
でもこのまま紳士を放って戻れば、また店長や他のスタッフ達に、何を言われるかわかったものではない。
だから、困る。どうしたら良いんだろう──最近、いつもこうだ。
店長や他のスタッフ達のことを考えると、パニックといえば大げさだけど、身動きが取れなくなって、しっかり考えて判断することが難しくなる。
それでもとりあえず、私は決めた。
やっぱり、飲み物のお代わりを聞く。
覚悟を決めて振り返った先、老紳士のテーブルにいたのは、とある同僚スタッフだった。
「っ!」
「──お飲み物のお代わりをお持ちしましょうか?」
同僚──佐倉伶は、微笑を浮かべて紳士に問いかけている。
背が高く目鼻立ちが整っているうえに、立ち居振る舞いが静かで美しい彼は、初日から女性スタッフとお客様の視線を集めていたのだけれど。
今もまた、佐倉の登場に、周囲の女性客が色めき立っていた。スマ―トフォンを操作して、佐倉に向かって構える人が出始めたところで、私は我に返った。
──このままでは、佐倉が店長に怒られる!
私の焦りをよそに、紳士は朗らかに答えた。
「ああいや、結構です。十分いただきました」
「何か御用の際は、お申し付けくださいませ」
「うん、ありがとう」
「失礼いたします」
店内に戻って行った佐倉を見送って、私が考えたのは、彼が店長に怒られる前にかばった方が良い、ということだった。
踵を返そうとすると、背中に声がかかる。
「──椿さん」
「! はい」
振り向くと、紳士が微笑んでいた。
ネームプレートはつけているから、自分の名前を知られていることは何も不思議ではない。
でもお客様に名前を呼ばれたことはこれまでほとんどなかったから、反応が遅れた。
「君は間違っていないよ」
紳士はテーブルの上に指を組んで、優しいまなざしをこちらに向けていた。
「……え」
どうして彼は、そんなことを言うのだろう。
どう返せばいいかわからないでいると、紳士が立ち上がる。綺麗に撫でつけられたグレーヘアに木漏れ日が当たって、柔らかく揺れていた。
「じゃあ、またね」
片手を挙げて去って行った紳士を、私は戸惑いながら見送った。