藤原忯子の死により、彼女の父である藤原為光も花山天皇と同様に深い悲しみを抱いた。彼にとって、彼女はただの出世の道具ではなく、彼の栄華を支える大切な娘であった。忯子が花山天皇の子を身籠った際も、彼は娘の父として孫の誕生を大いに喜び、何よりも無事に生まれてくることを願っていた。しかし、その願いは叶わず、身籠った孫と共に大切な娘を失ってしまった。この出来事以降、藤原為光は出世の野心を失い、ただ娘を弔うための生活を送ることとなった。
 ――そして、それはかの藤原兼家にとっては、あまりに醜いことであるが何よりの喜びであった。
 兼家の屋敷の一室で、当の兼家は心底嬉しそうにほくそ笑む。

「ふふふ……、もはや抜け殻になった為光は敵ではなく、すでに権力を失いつつある関白・頼忠の地位も風前の灯。あとは上手く帝を出家させることができれば……」

 この時、藤原兼家はさらなる巧妙な策略を巡らしていた。兼家は自身と親交の深い僧侶に接触し、花山天皇が出家を望むように働きかけたのである。その結果、花山天皇はこの世を儚むようになり、兼家の思惑通り出家を望むようになった。多くの人々が彼の決断を止めようとしたが、花山天皇はそれを無視し、出家を常に言葉に出すようになり、彼のその思いは日増しに高くなっていったのである。そして、その後の一連の流れは、すべてが藤原兼家の望む通りに進展していくのである。

「さて……、未だ帝様は完全な結論には達していない様子。それを後押しするべく……息子を差し向けるか? 確か道兼が蔵人であったな……」

 平安京の地にはまだ焔病が猛威を振るい、その厳しい現実に人々は苦しみと恐怖を抱いていた。しかし、その光景を目の当たりにしても、兼家は一人で喜びに打ち震え、自身の野望に心を奪われていた。
 彼の心の中には、苦しむ人々の姿など微塵も映っておらず、ただ自身が一刻も早くこの世の全てを手中に収め、頂点に立つことだけを強く望んでいた。そのためにはどんな手段も厭わない、そんな彼の強烈な欲望が、彼自身を突き動かしていたのである。

「――」

 兼家が笑っているその姿を、一つの目が静かに見つめていた。それは兼家自身には感じられないが、それは恨めしそうな深い闇を秘めた瞳であった。
 その瞳は、まるで何かを訴えかけるかのように兼家を見つめ続ける。明らかに生きていないその存在の瞳は、彼の全ての行動を見透かすかのように感じられた。

【兼家様――】

 そのモノがそっと呟いた言葉は、兼家の耳には届かなかった。それはまるで、音が風に運ばれて消えていったかのようだった。しかし、その言葉が届かなかったとしても、そのモノの怨念のこもった瞳は確かに兼家を見つめている。そして、それは明確に兼家の心にまで届き、その心を腐敗させていたのである。


◆◇◆


「……師よ、先の藤原忯子様の事だが……」
「何か?」

 道満のその言葉に晴明が聞き返す。

「やはりなにか不信な点が多い――」
「ほう? どういうことですか?」

 道満は少し思案しながら答える。

「それまで――、そしてそれ以降、かの焔病の呪詛に変化した兆しはない。ただ、この藤原忯子様の病だけが、明らかな異物として存在している」
「ふむ……確かに。その病い以降に起こった全ての焔病で、平癒法が効果があったことは証明されています。それなのに……」
「その通りだ師よ、かの藤原忯子様の病気だけが、平癒法の効果を受け付けなかった」

 その言葉に何かを思いついてハッとした顔になる晴明。

「それでは、まさかその病は……」
「そうだ、その病は焔病ではない可能性がある」

 その考えに至った時、晴明も道満と同じく嫌な予感に囚われる。

「焔病に似た病を藤原忯子様が患って――、そうとはしらず勝手に焔病と思い込んで、誤った治療を施して死なせてしまった? あるいは――」
「はじめから焔病に似せて……藤原忯子様を”暗殺”した……」
「まさか……そのような話――」

 さすがの晴明も困惑の表情を浮かべる。道満は顔を歪めて晴明に質問する。

「藤原忯子様は誰かに恨まれていた?」
「いや……穏やかで優しいお方であったゆえにありえぬ話――。まあ、帝様の寵愛を一身に受けていたがゆえに、それで嫉妬されることはあったかもしれませんが」

 晴明と道満はお互い顔を見合わえて考え込む。そして二人は一つの結論に至った。

「藤原忯子様の件が別の呪詛……、あるいは毒物などによる暗殺と仮定した場合。この状況を利用して人を殺める事を良しとするものが居ることになる」
「師よ……誰がそれかを行ったかは分からぬが、同じことが繰り返される可能性は大いに有り得る。これは焔病とは別に警戒すべきだ」
「そうですね……。焔病の調査と並行して、そちらの調査も進めましょう」

 そう言う晴明の宣言に、道満は深く頷いた。

(――藤原忯子様に恨みを持つものの仕業……、あるいはその死によって利益を得るものの仕業……か?)

 そう考える道満の思考の片隅に、ふと一人の男の顔が浮かぶ。
 その時の道満は、根拠も証拠もないその予感が、明確な正解であった事に気付いてはいなかったのである。

◆◇◆

【――ああ、兼家様……】

「ククク……、なんとも恨めしそうな声であるな」

 平安京の端にあって、黒い毛並みの狐が空を漂う光を見つめる。

【兼家様……私は】

 その漂う光からは、恨めしそうな声が途絶えることなく溢れ、そして月下の空へと消えてゆく。

「その恨めしい気持ちを、もっと吐き出すが良い。わしはそのために貴様をここまで連れてきたのだ」

【あ……】

 黒い狐は亀裂のような笑顔を光に向けて呟く。

「お前の恨みは果てしなく……、彼の地を汚染しておったからな。わしとしては彼の地の人々を救うためにもお前をここに連れてきた」

 ――そして……、

「この平安京が此奴に呪われるのは自業自得……、此奴の恨みの根源がこの都にはあるのだから。だからこそわしはもはや貴様を滅する気もなく……」

【ああ……安倍晴明……蘆屋道満……】

「――勝手に呪い……勝手に殺すが良い。それで貴様が滅せられることになっても、わしにとってはどうでも良いことよ」

 黒い狐にとっては恨めしく漂う光も――そして、それに呪われて嘆く人々も、この世を蝕む害悪な小蟲にしか見えない。ただ害虫同士が殺し合う姿にしか見えない。
 だから笑う――、嘲笑う。かつて人に懐いた想いはすでに枯れ果て、ただ絶望と憎悪のみがこの狐の心には残されている。

「さあ……その恨みを存分に吐き出せ。そのために貴様はその姿となったのであろう?」

【ああ……兼家様――、なぜ】

 その狐の言葉に反応するように光はその輝きを増した。

【なぜ……私を見捨てたのか――。兼家様……。憎い――。許さぬぞ――、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ――】

 その輝きは周囲の闇を照らし出し、それを眺める黒い狐を白く染め上げた。

「カカ……、恨み持つ魂――、怨霊……、乾重延(いぬいしげのぶ)よ……、その恨みの果てを自身の目で見届けるが良い」

 そうして煌々と輝く光は、ある時から一つの形を取り始める。そうして現れたのは、古びた狩衣を着た乾重延だった。彼の身体は炎のように燃えていたが、その姿は人間そのものだった。彼はその人間の姿を保ったまま、平安京の闇の中へと静かに進んでいった。
 それを見つめるのは、闇夜を身に纏った黒い狐と、静かに夜空に輝く月だけであった。